2020年01月27日:幻想美術選「夏秋渓流図屏風」鈴木其一 2020年01月28日:紙の手帳のアドバンテージ 2020年01月29日:飛蚊症の症状が変わった? 2020年01月30日:Yさん退職 2020年01月31日:発声練習について 2020年02月01日:手塚ファンの宴会@新宿 2020年02月02日:ブダペスト展/中野に寄る目次へ戻る 先週へ 次週へ
「幻想美術選」、第181回。ようやく、琳派の登場である。
鈴木其一(1795〜1858、Wikipedia)は、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、と続いた琳派の系譜の、4人目である。最初の3人は、互いに「100年」の時を隔てて出現した天才たちであって、当然、互いに会うこともなく、ただ先達の作品に魅せられて、その画風を自ら学んで「継承」してきた..日本美術に興味のある人なら誰もが知る「琳派」の“特異な”物語であるのだが、4人目の立て役者である鈴木其一は、違う。彼は、酒井抱一の直接の弟子であり、そして(始祖)宗達の作風からは大きく離れはしたが、しかし琳派の美意識を文字どおり現代にブリッジした、日本美術史上の最大のキーパーソンのひとりなのである。
(横に長い屏風絵を閲覧しづらい端末もあるであろうと慮って、右隻を上に、左を下に、重ねて表示しているのだが..)とにかく、この色! この色面! はたしてこれは現実か..金色(金箔)と緑(緑青)と青(群青)の三色による「単調なべた塗り」の、驚くべき躍動感とデザイン感覚! その上から散りばめられる、不気味な苔や虫、色鮮やかな紅葉や花が生み出す、悪夢のような世界観! まさに、この世ならぬ幻想世界である!
くすんだ色彩の寺社や水墨画のイメージ(先入観)からか、「日本画」といえば「地味」「ださい」「もこもこ..」、というイメージを持っている人が、まだまだ多いと思われるのだが..そういう連中の首根っこを掴まえて、この大きな屏風絵の前に引きずってきたいものである。[^.^](根津美術館の所蔵品であり、同美術館、あるいは貸出先の展覧会で観られる機会は、実はかなり多い作品なのだ。)この絵を観て(なんらかの意味で)溜息をつかない人を、私は想像しづらいのである。
山田五郎の数々の名セリフの中でも、とりわけ私が好きなひとつに、「日本人が何かをかっこいいと思ったとき、それは琳派である」..というものがある。卓見というほか、ない。あなたはこの「夏秋渓流図屏風」を見て、好悪はともかくとして、「かっこいい」と思わないだろうか?
永遠にポップ。永遠のカッティングエッジ..
目次へ戻る学生時代の最後の年から、手帳は「能率手帳」と決めている。1984年から毎年購入し、呆れたことに全部保存しているのである [;^J^]。既に36冊にもなり、倉田の人生を俯瞰する第一級の史料であるとはいえ、特に21世紀に入ってから、年々筆跡が酷くなる一方で、近年のものはほとんど解読困難な始末であるのだが、そんなことはおいといて。[;^.^]
昔はもちろん何よりもまずスケジュール管理に使っていたのだが、言うまでもなく、現在では(プライベートの)スケジュール管理は、グーグルカレンダー(と、それに連動する「さいすけ」)に完全に移行している。(仕事のスケジュール管理は、別のツールに切り離している。)現在では、この「能率手帳」は、ほぼ、備忘を記すためのツールと化しており、その意味では、「紙の束でありさえすればなんでもいい」とも言えるのではあるが。[;^J^]
もっとも典型的な使い方は、「小説を読みながら、登場人物の名前を、登場順に書いていく」というものである。若いころよりも遥かに読書速度が遅くなり、1冊読むのに数日間かかり、また、短期記憶も衰える一方なので、「登場人物表」を作りながら読まないと、「これ、誰だったっけ?」「既出だったっけ?」、と、何度も何度もページを遡ることになり、さらにいっそう、読み終わるのに時間がかかってしまうからである。[;_ _]
そして、この用途には、「紙とペン」の方が、向いているのだ。日常のメモには iPhone のメモ帳を使うことが多いのだが、「登場人物表」は、「あとからの書き換え/書き込み」が多いからである。読み進めるうちに役職が判明したり、あ、実はこいつとこいつは夫婦だったのか、とか、あれ、もう死んじゃった、とか、あ、死んでなかった [;^.^] とか、おぉ、なんとこの2人は同一人物ではないか、だとすると、彼らの係累の家系図は全面的に書き換えないと、とか、どんどん、手帳に書き込んだり線を引いたり打ち消し線を入れたりしながら、読んでいるのである。そしてこの作業は、iPhone のメモ帳では、とてもやりにくいのだ。(タブレットを「手書き」モードで使えば似たようなことはできるのだろうが、わざわざそんなものを持ち出すよりは、「手帳とペン」の方が早いでしょ。[^.^])
目次へ戻る白内障手術をしようが、網膜光凝固(網膜剥離しそうな箇所をレーザーで焼き固める施術)をしようが、飛蚊症が改善することは、ない。(もちろん、網膜剥離に由来する飛蚊症は軽減するはずだが、私の場合、まだそこまでは至っていませんでしたのでね。)これは経年劣化なので、緩やかに悪化していく一方である。慣れなければ仕方がないし、また(よほど酷くない限り)慣れることができるものである。
ただ、先日、網膜光凝固をした前後から、少し症状が変わったような気がする。「小さな黒点」が見えることがあるのである。1日に数回、同時に見えるのは5個程度。普通の「飛蚊」は、もやもやとした、ほぼ不定形のぼんやりしたものであるが、これはかなりはっきりとした「小さな点」である。それが、ゆらゆらしているとはいえ、さほど揺らがない。それを見つめていることもできる..やがて、消える。
悪化する(数が増える、頻度が高くなる)ようなら医者に相談するが、当分は、様子見かな..
目次へ戻る職場の大先輩のYさんの、退職の挨拶があった。私が入社したときからお世話になっており、今日で、定年後の延長雇用の嘱託勤務の期間が終わったのである。お疲れ様でした。[_ _][^J^]
私も、あと3年半と少し..それまでにやらねばならぬことが山積しているのだが..[;_ _]
目次へ戻る私は劇団員だったことは一度もないが、発声練習の基礎の基礎については (雑学として)知っている。「赤いな赤いな赤とんぼ〜」、である。まぁどうせ、「ガラスの仮面」あたりで仕入れた知識だろうが..[;^J^]
ところがどういうわけか、頭の中では知識として「赤とんぼ」だと知っているのに、口にだして唱えるときには、「アカイエカ」、と発してしまうのである [;_ _]。「赤いな赤いなアカイエカ〜」、と、なんらかの理由で刷り込まれてしまったのである。[;_ _]
確かに、「アカイエカ」の方が「ア行」の音を多く含んでおり、「ア」の発声練習としては「赤とんぼ」よりも優れているのではないかとも思うのだが、そんな御託はどうでもよくってだ。[;_ _]
困るのは、自動車通勤と自転車通勤とを問わず、「赤信号」に遭遇するたびに、「赤いな赤いなアカイエカ〜」、と呟いていることで..一生モノだぞ、おそらくこれは..誰か助けてくれ。[;_ _][;_ _][;_ _][;^.^]
目次へ戻る快晴。6:17に発ち、バスで浜松駅へ。すき家で朝食。今日は(旅費の節約のため)敢えて新幹線は使わない。7:25のJR。島田、熱海、大船で乗り換え、湘南新宿ラインで、12:07、新宿着。途中、12:01に渋谷に着いてビックリした [;^.^]。そうか、この経路は、渋谷に(廉価に)着くのにも使えるのか。そういうことなら、まんだらけも予定に入れておくんだった [;_ _]。まぁいいや、次の機会には織り込んでおこう。
それにしても、浜松から新宿までPASMOで来れないのは不便だ。浜松で1340円の切符を買ったのだが、精算機で処理できないし..窓口の係員も、計算に手間取っていた。なんとかならんか。[;_ _]凸
13:00、西口駅前のパレットビルの「魚民」。手塚治虫のコアなファンの宴会である。(真昼間から。[;^J^])ちなみに靴箱は、もちろん「への六番」を選んだ。私はこういう機会には、いつでも「への六番」を選ぶ。(わからない読者には、宿題とする。)
いいお酒と美味しい食事。今後の手塚治虫関連の出版物に関する、ディープな話題。まだここには書けないことばかりだが、長年捜し続けてきたもののどうしても見つけることができていなかった、ごく初期の作品、あるいはその存在すら知らなかった作品が、(容赦のない価格で [;^.^])出版される予定である。
Kさんは、ベルリオーズもシベリウスもいけることが判明 [^J^]。また今度、「深い」話をしなくては。[^.^]
この店のこの個室は、「鉄」の特等席らしい(左写真)。なるほど。当然、電車が通過するタイミングを狙って、ベストショットを撮るべく待ち続けるものなのだろうが、こちらは宴会の最中なのである [;^J^]。談笑しながら、ときどき振り向いてはパチリ、振り向いてはパチリ、だから、電車がタイミングよく写るわけがない。[;^.^]
それでも、先日購入したばかりの「Lensbaby Composer Pro II Sweet 80」に装着し直してみたら..あら面白いこと(中写真)[^.^]。「振り向いてはパチリ」の頻度が上がったことは当然であるが..この独特なボケを発生させるべく絞りを開放気味にすると、ピント合わせが難しくなる。本来は、ライブビューイングでじっくりと追い込むべきなのであって、「振り向いてはパチリ」、では、この程度にしかならない [;_ _]。相変わらず、電車は走ってないし。[;^.^]
それに、ピントを合わせる箇所を間違えると、えらいことになってしまう [;^J^]。右写真は失敗例(多分)である [;_ _]。新宿が爆発してるし..[;^.^]。しかし、これでは面白すぎて、やめることができないではないか..[;^.^][;^.^][;^.^] 邪道の極み 暗黒面
17:00にお開き。このあと、iPhone のメモ帳に、「17:20 バーミヤン 並ぶ」という謎の文字列が残されているのだが、これはなんだろね [;^.^]。とにかく、18:55に「ルノアール」を出た。ここまでの記憶が全てあるというわけではないが、些事である [;_ _][;^J^]。この時点で5人。自然解散。
東横線で相鉄・鶴ヶ峰へ。駅前の筑前屋という店に入ってみる。ビール1杯と、串2〜3本と、軟骨の唐揚げと、チャーハン。なるほど。このチャーハンは、いくらか野性的でなかなか美味いな。
(確か)21:39のバスで鶴ヶ峰の家へ。
目次へ戻る快晴。出かけるべく荷造りをしていて、「Sweet 80」のボディ側の蓋を紛失していることが判明 [;^.^]。仕方がないなぁ..ニコンFマウントであるから、カメラと一緒に携帯しているニコンの予備蓋が使えるかと思ったのだが、サイズは(当然)合うものの、ロックしない。しゃぁない、買うか。ここは(東京は)日本で一番便利な街。ここで見つからぬものなどなくここで叶わぬ夢(やめろ。[;^.^])
サクっと検索したところ、Lensbaby のレンズを取り扱っている「ケンコートキナー」のサービスショップが、中野にある。日曜日も11:00から開いている。今日の午前中は、六本木の国立新美術館に行く予定だから、その帰りに寄ればいい..ほら見ろ。なんと便利なことだろう。なんと至便なことだろう。[^.^]
鶴ヶ峰の家の前のバス停から、7:31のバスで発つ。鶴ヶ峰駅前の松屋で朝食..例によって、必要以上に動きが早すぎる。8:00に鶴ヶ峰駅を発つ相鉄線に間に合ってしまい、乃木坂駅に着いたのが9:07。ここから直結している 国立新美術館 の開館は10:00(美術館連絡口の扉が開くのが9:30)なのである [;^J^]。まったく、この病気、なんとかならんか。[;^.^]
「ブダペスト―ヨーロッパとハンガリーの美術400年」(〜3月16日(月)まで)である。これは大変素晴らしい展覧会! 実に収穫豊かであったのだが、おかげで、インプレをまとめるのに、時間がかかるかかる..[;_ _][;_ _][;_ _]
前半(第1章)は、「ルネサンスから18世紀まで」。ここは8つのセクションにわかれている。
「1.ドイツとネーデルラントの絵画」で、観客をお出迎えしてくれるのが、ルカス・クラーナハ(父)の「不釣り合いなカップル 老人と若い女」と「不釣り合いなカップル 老女と若い男」。左がキャバクラ、右がホストクラブである [^.^]。キャバクラの作例を観る機会は多いが、ホストクラブパターンは珍しい。ホストの表情がいいよね [^J^]。老女も「金で買うわよ」と割り切ってるし。[^.^]
右図は、ヨーゼフ・ハインツ(父)の「アリストテレスとフィリス」。仔細は略すが、アリストテレス(ともあろうもの)が、毒婦フィリスの色香に迷って、いいように弄ばれている [^.^]。男の夢である(のか? [;^.^])
「2.イタリア絵画」からは、宗教画を3点、ご紹介。ジローラモ・シチョランテ・ダ・セルモネータに帰属している「聖家族」の、マリアの近代的な美貌。[^J^](そういうところばかり見てるんですよこの不信心者は。[;^J^])フランチェスコ・ヴァンニの「聖家族」の、ソフトフォーカス風の雰囲気。ベルナルド・ストロッツィ(通称カプチン会修道士、またはジェノヴァの司祭)の「受胎告知」は、大天使ガブリエルのポーズの躍動感が、素晴らしい!
「3.黄金時代のオランダ絵画」のセクションでは、ヤン・ミーンセ・モレナールの「聖ペテロの否認」。新約聖書の中でも、私が特に好きなエピソードのひとつである(が、知らなければ適当に検索してください。[;^J^])
「4.スペイン絵画─黄金時代からゴヤまで」では、やはり、エル・グレコの「聖小ヤコブ(男性の頭部の習作)」が、見事である。別段、なんということもない小品に見えるだろうが、とにかく、掛け値なしにうまいスケッチである。
「5.ネーデルラントとイタリアの静物画」からは、マティアス・ウィトースに帰属している「風景のなかの花束」が素晴らしい。幻想的な背景と、前景の幻想的な花束が、異なる空間に存在していながら、ひとつのタブローの中で共鳴しあっている..私は、こういう写真を撮りたいのだ。
「6.17−18世紀のヨーロッパの都市と風景」では、左図、フランソワ・ド・ノメの「架空のゴシック教会の内部」を遠目に観た瞬間、「を、モンス・デジデリオが来ているのか!?」、と、誤解してしまったほど、よく似ているのだが、図録の解説を読むと、やはり、彼に帰属されていた時期があるらしい。そりゃそうだろう。[;^J^](モンス・デジデリオの作品を「幻想美術選」から引用しておこう。→「聖アウグスティヌスの伝説の廃墟」「聖堂の倒壊」)
その右の、ヤン・アブラハムスゾーン・ファン・ベールストラーテンの「冬のニューコープ村」と、さらに右隣、フランチェスコ・フォスキの「水車小屋の前に人物のいる冬の川の風景」は、私が特に愛好するタイプの風景画。こんな場所に暮らしてみたい..と、頭の中では思ってみたりするものの、なに、本当にこういう環境に住居をあてがわれたら、そのあまりの不便さや(おそらくは)不潔さに、尻尾を巻いて逃げ出してしまうに決まっているのだ、この、現代日本の快適な書斎でぬくぬくと暮らしているオタクは。[;_ _][;^.^]
フィリップ・ペーター・ロース(通称ローザ・ダ・ティヴォリ)とアレッサンドロ・マニャスコの共作の「羊飼いと漁師のいる岩窟」(右図)は、無駄に劇的で面白い。[;^.^]
「7.17−18世紀のハンガリー王国の絵画芸術」からは、紹介をスキップさせていただきまして [;_ _](感銘を受けた作品がなかったのではなく、どこかで少しはリストラしないと、今日の日記を書き終えられないのである [;_ _])、「8.彫刻」から、フランツ・クサーヴァー・メッサーシュミットの「性格表現の頭像 子どもじみた泣き顔」(左図)と、同じく、「性格表現の頭像 あくびをする人」(右図)。この作者の「性格表現の頭像」のシリーズは、おそらく2〜3年以内に、なにかの展覧会で観ているのだが、思い出せない [;_ _]。これが「18世紀末」の作品なのだから、驚く [;*.*]。現代彫刻だと言われても、疑う人はいないのではあるまいか。
後半(第2章)は、「19世紀・20世紀初頭」。ここは7つのセクションにわかれている。
「1.ビーダーマイアー」では、まず、フェリーチェ・スキアヴォーニの「お茶を入れる召使い」。「召使い」が主役とはいえ、周囲の家具や文物の描写にも(少しは)感心すべきところ、それらがろくに目が入らずに、可愛い召使の白い肌にばかり目が行くという..[;_ _](男子ならみんなそうだよね。[;^.^])
ヨハン・バプティスト・ライターの「小さな宝石商」も、素敵な絵 [^J^]。ただし、図録の解説と私の解釈は、異なる。図録によると、これらの宝石は「本物」であり、つまり、それらを無造作にいじっているこの少女は、本当の宝石商の娘であるか、あるいは極めて富裕な家柄の子息ということになる。確かに、よい身なりをしているのだが..それに対して、私は、これらの「宝石」は(直観的に)「ガラス玉」つまり「おもちゃ」だと思った。本物の宝石を、これほど無造作に机の上にぶちまけるだろうか。また、彼女が手にしている「宝石」(ダイヤモンド? 水晶?)は、もしも本物ならばあまりに大きくないだろうか(それこそ、子どもに触らせることなどできない、途轍もなく高価な「宝石」ということになるのではなかろうか)、と..貧乏ではないだろうが特別に富裕でもない、普通の家の普通の子どもが、自分の大切なおもちゃ(ガラス玉)で「宝石商」を気取って遊んでいる絵なのではなかろうか、と..
無論、いずれの解釈を採るにせよ、実に魅力的な絵画である。この、少女の瞳の輝き! 私がこの展覧会で発見した、もっとも素敵な作品のトップ5に入る傑作!
そして、右図、マルコー・カーロイ(父)の「漁師たち」! うわぁ..である [;^J^]。1851年の作品なのだが、200年前のクロード・ロランの作品だと言われても、大抵の人は信じてしまうのではなかろうか [;^J^]。もちろん、「敢えて」なのだ。ハンガリーに美術の大伝統を築き上げるためには、こういう作品が必要なのだ、と、この画家は確信していたのである。あたかも今から半世紀前、日本のSF受容を盤石なものとするためにはスペースオペラの良品を大量に供給することが重要だと信じて、ハヤカワ文庫を立ち上げ、ハミルトンの「スターウルフ」シリーズを大ヒットさせた、早川書房の森優編集長のように..(なんの話だ。[;^J^])
「2.レアリスム―風俗画と肖像画」のセクションでは、まず、ムンカーチ・ミハーイに注目。若くて貧乏な頃には、同様な境遇の人々を描いた彼だが(左図、「「村の英雄」のための習作(テーブルに寄りかかる二人の若者)」)、貴族の未亡人と結婚して上流階級に入ってからは、その画風を捨て、「パリの室内(本を読む女性)」(中図)のような作風に切り換えてしまった。実にわかりやすい裏切り者であるが [;^.^]、これが人生。これが出世というものだ [^.^]。もちろん、作品は素晴らしい。この豪奢な室内の装飾を、やや荒々しい筆致で完璧に捉えきっている。
「フランツ・リストの肖像」(右図)は、この大画家と大音楽家の、幸福な出会いの記録。この作品のモデルとなってから4ヶ月後に世を去ったリストの、最後の肖像画である。
この展覧会で最大の衝撃を受けた作品のひとつが、この、「白いショールをまとった若い女性」。遠目に観て、「おぉ、これはなんと洒落た、逆光の..」、と、近づいてキャプションを見て、「えーーーっ!」、と、叫んでしまった。[;^.^](展覧会においては感心しないマナーであります。[_ _][;^J^])なにしろ、画家の名前が「ギュスターヴ・ドレ」! こんな作品を描いていたのか..!!
「幻想美術選」で、2回紹介しているのだが(「失楽園:サタンの地球への降下」、「神曲 煉獄篇 アラクネ」)、まったく異なる作風である。「ギュスターヴ・ドレ」で画像検索しても、大体こっち方面の図像が検索されるはずだ(画像検索結果)。うーむ、不覚。言われてみれば(後出しジャンケンで恐縮だが)確かに、イラスト(版画)ばかりでなく、油彩画、彫刻、建物デザインまで幅広く手掛けていたと読んだことがあるのを思いだしたが、その「油彩画」にしても、たとえば、ジョン・マーティンのような(「幻想美術選」から引用すると「天国の平原」「万魔殿に入る堕天使たち」「神の怒りの偉大な日」のような)ロマンティックな、大仰な作品なら、まったく納得が行くのだが、これはまるで、マネのような..
単に意外というだけではない。見事な技量、卓越したセンス! この「敢えての」逆光、影に沈む(近代的な)女性の美貌と衣装! これがポートレート写真なら、ぎりぎり失敗レベル [;^.^] という、攻め方! よほどの自信が無ければ描けない作品である。
そして、シニェイ・メルシェ・パールの傑作を2点。左図、「紫のドレスの婦人」は、単にこの展覧会のメインビジュアルであるばかりでなく、ハンガリー絵画(ハンガリー美術史)全体の、メインビジュアル(アイコン)であるという。さもありなん..とにかく、補色で構成された色彩設計の妙!
しかしそれよりも、右図、「ヒバリ」! 前記「白いショールをまとった若い女性」を越える、本展覧会で最大の衝撃を受けた作品である!
とにかく、この「2.レアリスム―風俗画と肖像画」の部屋の中で、この絵だけ、時代が違う..時間が違う。1882年の作品だが、21世紀の新作ポスターだと言われても、納得するのではあるまいか。それほどまでに、感覚が新しい。神話的背景も歴史的背景も(なんの物語も)もたずに、単に裸婦を屋外に配置したこの作品は、まだまだ守旧的だったハンガリー画壇において、当然のごとくスキャンダルの的となった。それは、19年前のマネの「草上の昼食」(画像検索結果)が引き起こしたそれの繰り返しではあったが、マネと比較しても、圧倒的に新しい。マネが描いたのは19世紀の「現代」だったと言えるが、シニェイが描いたのは「未来」だとすら言えようか。
心を奪うのは、その「青空」である。当時のシニェイは画壇においてはむしろ「不遇」だったのだが、そんな閉塞感を吹き飛ばしてしまう、この大空の青! 図録には、「シニェイ・メルシェは、いわば、ハンガリー絵画に青空を見いだした人である」という一文があったが、膝を打たざるを得なかった。
この青空の向こうに、未来が見えるのだ。その意味では、これは「SF画」すれすれであるとも言えようし、広々とした草原に(まったくなんの意味もなく)寝そべる裸婦という、(当時としては)「あり得ざる事物の配置」という意味では、シュルレアリスムに近接しているとも言えるのだ。そういう目でみれば、デルヴォーやマグリットを先取りしているようにも見える。
この作品は、いずれ、「幻想美術選」で取り上げたいが..しまった、そこで書くべきことを、ほとんど書いてしまったではないか [;^J^]。仕方がない。読者が今日の日記を忘れた頃。1〜2年後にね。[;^.^]
「3.戸外制作の絵画」では、左から、ギュスターヴ・クールベの「オートヴィルのヒマラヤスギ」。その右の、カミーユ・コローの「クーブロンの想い出」みたいな絵を、旅先でサクッと描けたらどんなに素晴らしいだろうかと夢想するのだが、それができないのでカメラをいじっている、という面はある。
その右は、再びムンカーチ・ミハーイ。「ほこりっぽい道 II」は、まるでターナー [;^J^]。彼としてもこのタイプの作例は、ほとんど存在しないらしい。
右端は、「4.自然主義」から、アデルスティーン・ノーマンの「ノルウェーのフィヨルド」。絵葉書みたいな絵だという感想は否めないが [;_ _]、確かに記憶に残る作品である。
待ってましたというわけではないが [;^.^]、「5.世紀末─神話、寓意、象徴主義」 [^.^]。ジュール・ジョゼフ・ルフェーヴルの「オンディーヌ」は、実に素晴らしいヌード絵画である [^J^]。アングルの「泉」(画像検索結果)へのオマージュだというのは、図録の解説を読むまで、気がつかなかった [;^J^]。当たり前すぎて意識に上らないということは、確かにあるよね [;_ _][;^.^]。ソフトフォーカス的な光が、素敵である。
アルノルト・ベックリンの「村の鍛冶屋を訪れるケンタウロス」..ジョーク絵画ですか、これは [;^.^]。蹄鉄打ち(あるいは調整)に鍛冶屋を訪れたケンタウロス、という画題は、初めて見ました。[;^.^]
チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダルの「アテネの新月の夜、馬車での散策」..まったく知らなかった画家である。絵画と無縁な薬剤師であったチョントヴァーリは(書き忘れていたが、ハンガリー人は日本人と同じく、姓が先。シニェイらも同様)、神のお告げで画家となった [;^J^]。その意味では、危なめのアウトサイダー寄りであるし [;_ _]、技法的には突っ込みどころ満載なのであるが、この奇妙な世界観には、確かに心奪われるところがある。少なくとも私にとっては、アンリ・ルソーよりも魅力的である。ハンガリーにおいてはカルト的な人気を博しており、知らぬものとてない「大画家」なのだという。憶えておきたい名前である。
「6.ポスト印象派」からの引用は(あなた方のご想像どおり)略しまして..[_ _][;^.^]、「7.20世紀初頭の美術─表現主義、構成主義、アール・デコ」。ジーノ・セヴェリーニの「静物」は、仮面の表情に目を奪われるが、よくみれば、いずれも地中海文化の物品。つまり、ギリシア・ローマ文明を借景としているのである。ベルナート・アウレールの「リヴィエラ」も、心に残った。
(..やっと書き終わりました..[;_ _] やれやれ..[;_ _][;_ _][;_ _][;^J^])
12:30に退出し、中野へ向かう。中野ブロードウェイに行く以外の用件でここで降りるのは、何年ぶりだろうか [;^J^]。北口に出て、中野ブロードウェイの脇をすり抜け、三田製麺所という店でつけ麺。13:45、Lensbaby の製品を取り扱っている「ケンコー・トキナー」のサービスショップ。紛失したレンズ蓋(ボディ側)を買いに来たのだが、蓋は商品ラインナップにないとのこと。サービスパーツとして取り寄せられるか週明けに連絡してもらうことにし、ついでに、大きめのルーペを購入して、14:05に出る。
まんだらけに寄る元気はなく [;_ _]、まっすぐ東京へ。ひかりで浜松へ。浜松駅前のビックカメラで、鶴ヶ峰の家に置き忘れてきた iPhone の電源ソケットを買い、17:20、帰宅。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Feb 7 2020
Copyright (C) 2020 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]