*2004年10月11日:花博最終日/「スウィングガールズ」
*2004年10月12日:「怪奇礼賛」
*2004年10月13日:矢野徹、逝去
*2004年10月14日:振替休日、いろいろ雑件
*2004年10月15日:「ハロー・マンガ」
*2004年10月16日:電話応対者研修
*2004年10月17日:「デビルマン」実写版
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*2004年10月11日:花博最終日/「スウィングガールズ」


 今日は、「花博最後の日」である。(← 意味は正しい。[;^J^])朝から雨が降っているが、心配するには及ばない。午前中には降り止むという予報だし、事実、雨雲は薄い。最終日は無茶混みするに決まっているのだが、それも一興、と、傘を差して出発である。

 バス停に着くまで徒歩10分。歩きながら、今差している安物の自動式の傘にはボタンがふたつあることに改めて気がつき、いつもはその一方を押してオープンするだけなのだが、もうひとつのボタンはなんなんだろう? と、押してみたら..バシュッ!、と、閉じてしまったのである。バシュッ!、と。[;^.^] ..大体、傘の取りうるアクションには(先端から何かを発射する類の傘は別として)「開く」と「閉じる」しか無いんだから、ふたつしか無いボタンの片方が「開く」なら、もう片方は「閉じる」に決まってるだろっ!? 大丈夫か? おぃ → [;^.^]

 腹が立つのは、現在、雨が降っていることであって、[;^J^] 慌てた私は、再度開くために大わらわ状態になっしまったのだった。(いったん完全にリセットしないと、オープンしないのである。)ま、それやこれやでなんとかバス停にたどり着き、[;^J^] バスに乗って、8:00前には浜松駅前ロータリーに。10分程度の待ち時間で、8:05にシャトルバスで出発。この時点で、雨はほとんど上がっていた。

 今日で7回目である。せっかくなので、これまでの6回を参照しやすいように、ポインタをまとめておく。

* 05/29 * 06/05 * 07/03 * 08/21 * 09/19 * 09/26
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 これは、開場20分前のゲート前の人混みである。実際は、人混みのど真ん中で撮影したので、私の後方にもこれと同じだけいると考えていただきたい。本来の開場時刻(9:00)より10分ほど前にゲートが開いたのだが、私がゲートを通過するまでに、10分以上かかりました [;^J^]。今日はきっと、10万人以上の人出となるに違いない。



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 例によって園芸文化館を堪能したあと、百華園を回る。これは、「カッシア」の「アンデスの乙女」という品種。



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 これも百華園にて。有名なオオオニバスではなく、パラグアイオニバス。巨大な葉は直径1.5mにもなって、象が踏んでも子供が乗っても沈まないというが、この池に浮いているのは、直径数十センチクラスである。それにしても..日本人はどうして、こういうものに小銭を投ぜずにいられないのであろうか。[;^J^]



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 やはり百華園にて。左がダリアの一種の「アルペン・フューリー」。右が熱帯スイレンの一種。



 百華園の先にあるモネの庭へ。やはり睡蓮は、ほぼ盛りが終わっている。モネの家のワイドビューホールの待ち行列が短かったので、並ぶ。7回目にして初めて、この映像作品を観る。内容は、まずまず。これでようやく、花博会場内の全施設、コンプリートである。

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 食事をしてから、足の向くまま気の向くままに会場内を散策。いろどりクルーズ(運河遊覧ボート)の待ち行列が比較的短かったので、並んで、乗る。船長さんの、「そこに、サギがいますね。自己紹介すると、オレオレサギ」..等などの、心地よい脱力系癒し系のトークを楽しむ [;^J^]。国際庭園をぶらぶら歩く。なんか、ハワイアン・ダンスもやってました。



 時間いっぱい、17:30までそぞろ歩き。これにて、花博終了。なかなか楽しいお祭りでした。これといった事故もなく終わって、本当に良かった良かった。

 浜松駅までバスで戻り、ちょっと時間を潰してから、トーホーシネマで、前から気になっていた「スウィングガールズ」を観る。

 をを、これはとても良いですよ! ストーリーをぐたぐた説明することはしないが、この女子高生ども(と男子ひとり)が、実にリアルでねぇ..[;^J^] いやもちろん、私は今どきの女の子に詳しいわけではないのですが、例えば、トロンボーンの関口香織。私はこれとおんなじタイプの女の子を、少なくとも3人、知っている。[;^J^]

 バンドの顧問?になる数学教師(竹中直人)の人物造形も、実に良い。ただのリスナー系のオタクであり、演奏能力も指導能力も全く無いのだが、生徒たちから「頼りになる先生」と誤解され慕われて、引くに引けずに、分不相応の役割をこなさなければならないという窮地に追い込まれてしまう..[;^.^]

 驚くのは、彼女らの演奏が「吹き替え」ではないことである。何人かはブラバン等の経験者もいるようなのだが、それにしても、楽器に初めて触った人も多い彼女らが、高々数ヶ月の練習でここまでの演奏ができるというのは、驚くべきことである。技術的にどうこうではなく、音楽の楽しさ、ジャズの楽しさが伝わってくる。良い指導者がついたのだろう。

 「おぃ、今、どこからバッテリー取っている!」、と、突っ込まざるを得ないシーン [;^J^] といい、ラブロマンスになりそうでならない爽やかさ [;^J^] といい、第一級のエンタテインメントである。繰り返すが、大推薦! 観なきゃダメだよ。

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*2004年10月12日:「怪奇礼賛」


 「怪奇礼賛」(中野善夫、吉村満美子編、創元推理文庫)を読む。「“怪奇”イコール“恐怖”ではない」、というコンセプトの元に編まれた、19世紀中心の、いい感じに古色を帯びた燻し銀系のアンソロジーである。

 「塔」(マーガニタ・ラスキ)、「失われた子供たちの谷」(ウィリアム・ホープ・ホジスン)、「跫音」(E・F・ベンスン)、「ばあやの話」(H・R・ウェイクフィールド)、「メアリー・アンセル」(マーティン・アームストロング)、「囁く者」(アルジャナン・ブラックウッド)、「今日と明日のはざまで」(A・M・バレイジ)、「溺れた婦人」(エイドリアン・アリントン)、「死は素敵な別れ」(S・ベアリング=グールド)など。

 「のど斬り農場」(J・D・ベリスフォード)は、どこかで読んでいるはずなのだが、なぜか、読書記録からは検索できなかった。今頃になって気がついたが、これ、高橋葉介の「案山子亭」の(舞台とイメージの)元ネタではないかな。

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*2004年10月13日:矢野徹、逝去


 ..読書記録を検索して、今さらながら彼の訳業の(量と質の)偉大さを思い知らされたが..やはりなんといっても、私にとっては、「カムイの剣」の作者なのである。「少年」誌に1966/7月号から1968/3月号まで連載されており、リアルタイムで読んでいた。次郎が、海賊キッドの宝物を発見する前後のくだりには、本当にワクワクした。あるいは私にとって「少年」誌は、「鉄腕アトム」よりも「鉄人28号」よりも、「カムイの剣」の雑誌だったかも知れない..

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*2004年10月14日:振替休日、いろいろ雑件


 今週末の土曜日に研修で休日出勤するので、今日はその振替休日である。雑用をいろいろ片付ける。まず、バスで街中へ。

 昨年末にコンタクトレンズを新調して以来、検査していなかったので、駅前のプレスタワー内のアイシティで診察を受ける。待合い室で地元の新聞を読んでいたら、来月30日に、奥山山の家が閉店との記事。寂しいなぁ..この10数年間で、本当に数えるほどしか行ったことが無いのだが、あそこでやった宴会は、いずれもいい想い出になっている。

 昼食は、プレスタワーの下にある三太でラーメン。んーと、それなりに美味しいと思っていた時期もあるのだが、なんか、もういいや。飽きた。

 郵便局、銀行、谷島屋書店、と巡回。帰宅してから車で再起動。カーマホームセンターと、書店のハシゴ(計5軒)。帰宅してから、再度バスで街中へ。某所によってから「スウィングガールズ」2回目。早くDVD、出ないかな。

 それにしても、急に寒くなった。昨日までは半袖ワイシャツだったのだが、さすがに夜になってからそれで出歩く気にはなれず、しかし汗をかくのも嫌だったので、夏物のブレザーを羽織ったのだが..やはりこれでは寒かった。

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*2004年10月15日:「ハロー・マンガ」


 寒い。一気にグレードアップして、ランニング+長袖ワイシャツ+秋物ブレザーである。今から寒がっていては、話にならないのだが..

 ネット書店ではないR舎に発注していた、「ハロー・マンガ」の第7号と第8号が届いた。合わせてn万円である。これから払うのである。トホホのホ。[/_;][;^.^]

 これは今から半世紀も前の雑誌であり、手塚治虫のもっとも初期の重要な初出誌なのである。この2冊に掲載されている手塚作品は、

オバケ::1(4コマ):ハロー・マンガ 7号:47/04
探偵ブンチャン::1(8コマ):ハロー・マンガ 7号:47/04
探偵ブンチャン::1(8コマ):ハロー・マンガ 8号:47/05

 ..の3本。従来、「手塚治虫マンガ大全」などの書籍や、知人のコレクターが所有されているコピー(それもしばしば、ファンクラブ会誌等への転載からの孫コピー)の形でしか読むことができず、初出データについては、今ひとつ確信が持てていなかったのだ。これで、(この3本については)裏付けが取れた。さて、別の号に、あと何本載っているかというと..(← 業が深い。深すぎる..)(← もちろん、「号」と「業」をかけているのである。)

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*2004年10月16日:電話応対者研修


 休日出勤。初級電話応対者研修である。

 これまでの人生に於いて、(応対用の)発声練習をすることなど無かったので、新鮮で面白かった。また、電話応対というか顧客対応の理論(というと大げさだが)を、体系だてて説明していただき、非常に有意義であった。

 ただ、講師の先生の漢字の書き順が不思議なので、気になって仕方がなかった [;^J^]。「横棒は全て左から右へ引く」「左側のパーツから組み立てていく」というクセがあり、思わずそれの観察に興じてしまい、気が散る気が散る..[;^.^]

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*2004年10月17日:「デビルマン」実写版


 さて。

 公開前(正確には試写会直後)から、これほど罵倒された映画も珍しいのではあるまいか。[;^J^]

 そもそも、「デビルマン×キューティーハニー」という、昨今よくある、オリジナルバージョンの再録(再連載)専門の月刊誌(全7号で完結済み)に時々載っていた制作ルポを読んでいる時点で、既に不安が立ちこめていたのである。主役ふたりが、ビジュアル面で(のみ?)選ばれていることが明らかだったからである。そして、SFマガジン11月号の映画レビューで、私が信頼しているレビュアーが、ちょっと過去に記憶に無いほどの酷評を浴びせているのを読んで、「やはりそうなのか..」、と、覚悟を決めざるを得なかった。ネットニュースの fj.rec.movies にも、罵倒記事が掲載された。

 まぁ、あとは、その気になれば山ほど読めた(読める)のであろう酷評文は、敢えてひとつも読まなかった。先入観をこれ以上、入れたくなかったからである。(たまたま目にした島本和彦の評は、結構、好意的であった。)

 この映画は観ない..という選択肢も、もちろん、あった。観るべきではないのだろう、とも考えた。でもね..でもね..それは、負け だと思うのだ [;^J^]。(← 業が深い..[;^.^])

 ..というわけで、腹をくくって、有楽街の東映へ。ここに来るのも、久しぶりである。ザザシティ内のトーホーシネマの豪華さとはほど遠い、昔ながらの映画館であるが、設備面でトーホーシネマに勝っている点が、ひとつある。それは、待合室に「椅子」があることである。[;^J^]

 さて。

 ...

 ......

 .........

 ...えーと...[;_ _][;_ _][;_ _](...ここで、思いの丈をぶちまけて終わらせることは、実にたやすいが、それでは負け だと...[;^.^][;^.^][;^.^])

 なんというか、その...実に困難なのである。「良かった探し」が [;^J^]。どうして、こうなってしまうのだろう?

 一体、プロデューサーは、何をしたかったんだろう?

 劈頭の15分で帰りたくなってしまい、以降は腕時計をチラチラ見ながらの観賞だったので気がついたのだが、全編の各エピソードの「時間配分」が、永井豪の「原作」(※)と、ほぼ一致しているのである。(例えば、ちょうど真ん中あたりで、ススム君が登場するなど。)これに着目すると、原作の物語のトレースが目的だったのかと思えるが..しかしもちろんそれは(時間的に)不可能なので、各エピソード自体を大幅に刈り込む、あるいは類似のエピソードに差し替える。そのこと自体には何の問題も無いのだが、その刈り込み方(差し替え方)に、全く「センス」が無いのである。

 (※ 厳密に言うと、永井豪の「デビルマン」よりもアニメの「デビルマン」の企画の方が先行していたので、「原作」という表現は正確ではないが、「この映画」の原作である、という意味で、ここでは「原作」と呼ぶ。)

 致命的なのは、世界観が欠如していることである。一体、デーモン族って、なんなのさ? なぜ、それが復活したの? なぜ、人間にとりつくの? なぜ、不動明にとりついたの? なぜ、不動明は闘うの?

 原作と「流れ」が違うことは、問題としない。原作には、まず、デーモンの恐ろしさ、(滅ぼすべき)邪悪さを十分に強調した上で、物語の後半にいたって、実は人類の方が遙かに邪悪な存在であって、それがデーモンに滅ぼされるまでもなく自滅してしまったのは当然のことなのであり、しかし、とはいえやはり、デーモンも人類も、懸命に生きてきた生命であることに変わりはなかったのだ..という、想い出すだけでも胸が熱くなるような、壮大な世界観、生命観にもとづいた、素晴らしいドラマツルギーがあった。それがカケラも残っていないのは、仕方がない。別の何かがあればいい。

 しかし、何もないのだ。

 愚痴を並べると、本当にキリがなく、また、取り留めがなくなってしまう。「取り留めがない」というのは文字どおりの意味であって、「これを指摘するならあそこも」「ここも」「そこも」..と、ひたすら併置せざるを得ず、結果として、(読者であるあなたに)散漫な印象を与えてしまうのである。「デビルマン」(実写版)の巻き添えをくらって、私まで悪文を書かざるを得なくなってしまう、というわけだ。なんというはた迷惑な映画だ。[;^.^](今週の更新が2日も遅れたのは、台風にかこつけてはいたが、実はこれに悩んでいたのが、主たる原因なのであった。)

 極力、ポイントを絞る。まず、飛鳥了。これがダメだ。こいつが何を考えていたのか、最後までわからない。一体いつの時点で、自分の「正体」を自覚したのか。極めて早い時点から(観客には)その正体が(ずるずると)判ってしまうのだが、自分が果たす役割を自覚していたのか。

 次に、シレーヌ。冨永愛の「コスプレ姿」は確かに美しい。彼女を起用したのは正解である。しかし..肝心要の「デビルマンとの空中戦」が、全くダメなのだ。「東映アニメへのリスペクト」だかなんだか知らないが、妙にカクカクとした不自然な動きは、(手書きの)2次元アニメだからこそ、素晴らしい効果を発揮したのであろうに..そんなことも判らなかったのか。この映画を観る前は、デビルマンとシレーヌの流れるようなドッグファイトを見せてくれたら、それだけで全てを「許す」つもりでいたのに..[;^J^] ただそれだけの夢も、かなえてもらえなかったのだ。監督(あるいは制作側)は、このシーンに、リソースを集中投下すべきであった。(繰り言になるが、原作の全編中でも屈指の名シーン、デビルマンがシレーヌの肩に脚をかけて、シレーヌの左の翼を引きちぎるシーンの、ほとんど崇高なまでの「残虐美」など、全く何ひとつ、見当たらないのだ..)

 もうひとつ、監督(制作者)が、全く何も判っていない(勘違いしている)んじゃないか、と、疑われるシーンを、挙げておこう。比較的「小さな」シーンなので、見過ごされる(というか、罵倒し忘れる [;^J^])人も多いのではないかと思うが..デーモンの無差別合体攻撃が始まり、街中で、デーモンに憑かれた人間が暴れるシーン。商店街だか店の中だかで、ふたりの大男が暴れているのだが、これがどうやら(私は名前は知らないが)ビジュアル系のプロレスラーらしい。つまり..「デーモンに憑かれるまでもなく、暴れていても不自然に見えない」[;^.^] キャラなのである。最初のうち、彼らが何故暴れているのか、自暴自棄になっているのか、あるいは、世間が騒然としている機会に、単に暴れたくて暴れている暴走族かなんかなのか、判断がつかず、しばらくしてから「化けた」ので、あぁ、デーモンだったかのか、と..これ、全然ダメでしょ? 話題性だけのキャスティングが、このシーン全体をスポイルしてしまった。(これに比べれば、ボブ・サップ演ずるニュースキャスターは、遙かにマシである。)

 以上、述べてきたことに比べれば、CGのバランスが悪すぎるだの、デーモン族の造形に何の魅力もなく全く印象に残らないだの、揃いも揃って演技がイモだの、ほとんどヤラレ役の下級戦闘員と化した悪魔特捜隊に迫力のカケラも無いだのは、枝葉の問題に過ぎない。

 ..あぁ、ここまで書いてきて、やっと言葉を探り当てたぞ。つまりこの映画には、「恐怖」が欠如しているのだ。全く恐くない。登場人物たちの「恐怖」が、伝わってこない。そんな「デビルマン」はあり得ないのだ。デビルマンの本質は、「恐怖」と「(世界を滅ぼすほどの)パッション」なのだから。

 さて。

 では、あなたは、これを観るべきか。[;^J^]

 別に、とめはしない。しかしもしもあなたが、まだ永井豪の「原作」を読んでいないという幸福な人であるのならば、悪いことは言わないから、先にコミックスを読んでおきなさい。(版にもよるが、たったの5〜6巻なのだから。)これは命令である。

 「良かった(のカケラ [;^.^])探し」も、しておこう。

 CGが、「時々」美しい。つまり、「止め絵」としての美しさである。(動くと、すぐにダメになるが。)ススムとミーコの扱いが、原作とは異なる。特に効果的だとは思わないが、いくらかでも「工夫」しているという評価はできる。(「デーモン軍団対デビルマン軍団」とか「神対デーモン」とかの「巨大な物語」がバッサリとカットされた結果、最終シーンにおけるサタンの役どころ(振る舞い)も変わってしまったので、それをカバーするために、この変更が必要だったとも言える。)あとは..2回ほど顔だけ見せる永井豪の表情が、凛々しくて素敵、てとこかな。[;^J^]

 最後に、これは映画本編の評価とは切り離すべきであるが、(仕方がないので [;^J^] 購入した)パンフレットをパラパラ眺めていて、唖然とした。「デーモンの誕生」と題する「年表」なのであるが..


古生代 5億900万年前〜2億4500万年くらい前

幾多の微生物が、生産する余剰エネルギーを求めて、体細胞内に寄生するエナジー
クリーチャーの周りに集まり合体。優生生殖や突然変異に比べ進化スピードの速い
ホメオティック接合を繰り返しながら、この生命体は「意識」を獲得。これがデー
モンのはじまりである。
 
中生代 2億4000年前〜7000年くらい前
初期 デーモン、いち早く「脳記憶」を利用する知的生命体となり二足歩行をはじめる。
恐竜全盛期 デーモン、現在の人類に近い形態をとりはじめる。巨大で獰猛な恐竜に対抗して生
きるために知性を発達させ、文明を築き始める。デーモンの身体は珪素成分で構成
されているため、化石等の歴史的生命の記憶は残らない。
三畳紀 超大陸パンゲアの誕生。南北大陸の分裂。デーモン一族の文明がはじまる。
 
新生代 氷河期 デーモン眠りの中。精子状の形態をしたシリコンのカプセルの中に眠る。
間氷期 現代 デーモン復活。再び合体開始。

 ..文字どおり、膝が砕けた。何これ? 誰が書いたの? 誰がチェックしたの?(「4000万年前」→「4000年前」程度の誤植は、私は問題にしていない。)「中生代」の「三畳紀」の前に「初期」と(巨大で獰猛な恐竜が闊歩している)「恐竜全盛期」って、一体..(このページを開いて最初に「恐竜全盛期」と「三畳紀」が目に入った私は、しばらくの間、この年表は「上から」読むのか「下から」読むのか、迷ってしまったのである。いやほんと。)

 もちろん、「デビルマン」(というか「デビルマン」実写版)は、フィクションである。どんな嘘をついてもいいのである。だけどね。特にSFの場合、その「嘘」は、確固たる(科学的)事実の「すぐ外側」に寄り添わなければ、無意味とは言わないまでも、ほとんど無価値なのである。面白くも何ともないのである。科学的事実としての「地質時代」の正確な年表に、「デーモン族」という、とびっきりのフィクションを埋め込むことによってこそ、「では、デーモン族の化石がひとつも発見されないのは何故か?」、という、ワクワクするような謎を盛り上げることができるのであるが..まぁ、昨今(というか、ここ20年ほど)流行っている、架空戦記モノとか歴史改変モノには、そんな配慮(というか常識)などカケラもない、雑なものが大半を占めている(?)らしいので、この年表だけ取りあげてまなじりをつり上げる方が、滑稽なのかも知れませんがね..

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 22 2004 
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