2000年08月28日:山田章博/2ch 2000年08月29日:狂犬論 2000年08月30日:記憶が頼りの世界たち 2000年08月31日:ある楽観論 2000年09月01日:ある焦燥と諦念と 2000年09月02日:ビーチサンダル/本を乾かす 2000年09月03日:渚にて目次へ戻る 先週へ 次週へ
ふと思い立って、山田章博の単行本リスト(絶版込み)を作ってみた。(精度が粗いし、大雑把に調べただけなので、特に公開する予定は無い。「R.田中二郎のホームページ」、「Japanese Comic Book Search」、「紀伊國屋書店 BookWeb」の検索結果をマージして整理しただけである。前二者は(ほぼ)同一のデータベースを検索しているのであるが、検索エンジンの癖の違いに依存して、検索結果が多少とも異なるのである。)
学生時代に、ごく初期の「人魚變生」や「バンブ−ハウス」を入手していたのだが..いつしか、手放していた。その後、「おぼろ探偵帖」や「紅色魔術探偵団」を入手して、これらはしばしば読み返すほど気に入っているのだが..まぁこの辺を押さえとけばいいか..と、特に執着するほどでも無かった。
今年に入ってから、「ラストコンチネント」、「星界物語」、「BEAST of EAST 1」などを読み、「これはやはり、“全部”要るわ」、と、考えを改めた次第。(いきなり“極端”に走るキャラなのである。)取りあえず「BookWeb」で発注可能(在庫有り)な3冊を注文。その他の絶版ものは、近場の古本屋をざっと舐めてから、「スーパー源氏」、「EasySeekの商品棚」、「日本の古本一発検索」などで検索し、それでも見つからないものを、「EasySeek」に登録、という段取りである。
知ってる人は誰もが知ってる、知らない人は知る必要が無い「2ちゃんねる」という掲示板で、ニフティのFCLAが槍玉にあげられている、ということは、先週末頃から噂に聞いていた。特に興味は無いのだが..今日の深夜になってFCLAのRTで、「2ちゃんねる」に私の贋物が現れたということを聞いて、さすがに気になって、覗きに行ったのだが..(以下、ニフのFCLAの会議室(喫茶室)に書いたログを、全文引用。)
080/080 QFH01667 わたる RE^8:2ちゃんねる掲示板で (13) 00/08/29 02:31 069へのコメント :# くだんのトゥリーには、全く興味がないので、全然読んでいません。 ..と書きましたが、某所にて、「2ちゃんねるにわたるの贋物が現れた」 という情報をゲットしたので、さすがに気になって、読みに行ってしまった のですが..[;^J^] いまさら私が口を出せるような状況ではなく、その「わたる」が本物だ 贋物だ、さらにそれを指摘した人間がわたるだわたるじゃない、さらにさら にそれを指摘した人間がわたるだわたるじゃない..の、無限連鎖。[;^.^] 所詮、匿名の掲示板は、こんなもんです。 「FCLAメンバーは、このトゥリーの収束を待っているだけ」、とい う発言が、2chにも(ここ)喫茶室にもありましたが、私は、収束を待っ ていません。むしろ、末永く続けばいいと思っています。 なぜなら、「毒消し」(というか、はっきり言って「便所」)として、 機能しているからです。 これまで、年に数回は現れていた、(婉曲に表現すると)少しエキセン トリックな人たちが、みなみな、2ちゃんねるに吸い込まれていくことが、 期待できるからです。 これまで常に、(けっして、ウルトラマンに勝てない怪獣のごとく、) 「“敵地”FCLA」の「古参常連」たちに、十字砲火を浴びて敗退してい た彼らも、FCLAの「領土外」ならば、思うさま暴れられる、と、錯覚す るに違いないからです。(実は、「錯覚」ではありません。思うさま、暴れ られます。誰もマジメには相手にしないからです。) # ..と、このくらい書いておけば、2ちゃんねるで、さらにわたる人気が、 # 沸騰するかな?(わっくわく。[^.^]) わたる
さて、「2ちゃんねる」の連中が、どのように反応するか。
目次へ戻る昨夜(というか、そろそろ“今朝”の2:30に)、2ちゃんねるの「FCLAスレッド」(?)を挑発する書き込みを、FCLAの「喫茶室」に書いたのだが、(実は2ちゃんねるのこのスレッドに書き込んでいる連中のかなりの部分は、FCLAのメンバーらしいのである。FCLAの批判を、FCLAの外でやっているわけだ、)半日ちょっと経ってから、今日の夕方(帰宅後)に見に行ってみたら..あはは、やはりこんなもんか。
最終パラグラフの「ウルトラマン」とか「怪獣」とか「「“敵地”FCLA」」とか「「古参常連」」とか「十字砲火」とかを、そのまま読んでいやがんの。
「婉曲表現」や「括弧付き表現」や「逆説表現」の意味を読みとれない、連中自身の頭の悪さから出てくるアウトプットは、ひとつしか無い。「このあきれたムラ社会意識!」、と来たもんだ。他にもいろいろ噛みついている奴らがいるが、まぁ似たようなもんである。
これで結構。およその傾向は掴めたので、以後は放置。(URLも、ブックマークから削除した。)
ご存知の通り、匿名の掲示板である。こういうところに書き込む連中“全て”の人品が知れている、とは言わない。しかしこういうところで他人の(他の掲示板や会議室やフォーラムの)悪口を書き込む連中の人品は、文字どおり、知れた物である。
名乗りも出来ず、サングラスとタオルやマスクで顔を隠して、キャンキャン吠えついてくる手合いを相手にするのは、全くもって、「癩乞(かったい)に棒遣り」。
人間は、犬と喧嘩するべきではないのである。
目次へ戻る“音(メロディー)”をキーとして、曲名を検索したい..これは既に解決されている問題だろうか?
イントロ数小節の譜例がズラーッと掲載されている書籍の存在は、知っている。この書籍は、まさにこの問題に対する一回答として作成されたものである。しかし、私が求めているのは、マシンエイデッドな“検索”なのである。(大部の書籍の頁を繰りながら、ひとつひとつ譜例のメロディーを目で追ってチェックしていくのではなく。)入力は、音声が無理なら、MIDI情報でも構わない。
同様に、未だに発明されていないのではないか、と思われるのが..“画像”を入力して絵のタイトルを出力する装置である。かなり難しいパターン認識の問題になる。私が大学でパターン認識の研究をしていた1984年頃には、こんなことは到底不可能であったが、今の技術は、どこまで進歩しているのだろうか?
こんなことを思いついたのは、先日まとめ買いしたスターログ誌の頁を繰っていて見つけた、とあるSFアートが、ポール・デルヴォーの幻想画のパロディに違いない、と思われたからである。そして、その元ネタを探すのに、“記憶を頼りにして”画集の山から発掘するしか無かったからである。デルヴォーの作品が、どの画集に入っているかは、学生時分に私自身が作成し、そして中途で構築を放棄したままのデータベース、画家名と作品名(作成年度順)をキーとした「画集総目録」(ペーパーウェア)で、ある程度はわかる。しかし、「絵」そのものからは、このデータベースでも検索することは出来ないのである。(今回の私の要求は、さらに高度なものであって、パロディ(と思われる)作品を入力して、それの元ネタ(と思われる)作品を検索・出力させようと言うものなのであった。)
随分以前、「grepという大発明」という小文で、哲学の研究は比較的近年まで、研究者個人の記憶力に頼っていた(らしい)ことを驚いて見せたものだが..なんのことはない、私は、絵画(と音楽)の検索を、ものの見事に、私個人の記憶力に頼って実行していたのである。
目次へ戻る浜松ではしばしば見かけるのだが、他の地域ではどのくらい普及しているのだろうか。正式名称(商品名?)は知らないが、小型の四輪車である。電動車椅子ではなく、小型スクーターでもない、丁度そのあいだの需要を満たすために作られた商品。典型的には、お年寄りが乗って、時速2キロ程度で、ゆっくりと転がしている。
自力で歩かずに、こういうものに乗っていると、かえって脚が弱くなるような気もするのだが..しかし多くの場合、歩くどころか、立っているのもしんどそうなお年寄りが運転しているのである。この装置が無ければ、歩く以前に外出不能であろう。そんな人々が、介護者無しに外に出て、日光を浴び、書店やコンビニで買い物が出来ていることは、文句無しに素晴らしい。
そしてここに、無線インターネットの出番がある。「防犯考」で述べたような、身を守るツールとしてだけでは無く、もっと積極的に、位置情報や体調をモニターする。ビデオ画像などと組み合わせた、いわゆるカーナビ(人ナビ)的機能は当然だし、さらに進んだ情報のやりとりも出来よう。それも、うるさく口を出すのではなく..いわば、「つかず離れずのサービス」が可能になると思うのだ。これは大切なことだ。お年寄は、プライドが高い。出過ぎたナビゲーションは、しばしば腹立たしく、気分を害したり、リラックスできなかったりするであろう。最悪の場合、スイッチを切ってしまうかも知れない。これでは、本末転倒だ。
技術は、人を幸せにするためにある。無線インターネットは、強力な技術だ。一歩間違えれば、国民全員の所在地(と行動)を、常時モニター出来るシステムが作り上げられてしまうが、そういう「マッドエンジニアの夢」を回避しつつ、人々の幸せを高めていくことは、絶対に可能である。
私は、そう信じている。
目次へ戻る名作は若いうちに読んでおけ、とは良く言ったものである。今、これを読んでいる若い人たちには、心の底から忠告する。名作は、若いうちに読んでおきなさい。
なぜなら、歳をとってから読んだ本は、さっぱり、その内容が身に付かないからである。読んだそばから、内容を忘れてしまうからである。どうかすると、内容どころか、その本を読んだという記憶すらも。
私自身の例から引こう。そろそろ42歳になる私が、10年前から5年前(すなわち、32歳から37歳)にかけて読んだ本のうち、ほとんど全く記憶に残っていなかったタイトルを、読書記録からいくつかピックアップしてみたところ..
「サラダ記念日」(俵万智)。これはまぁ、どうでもいいや。[;^J^]
「逆まわりの世界」(P.K.ディック)。これもまぁ、いい。読書記録の感想欄にも、「これ、駄作と違うか? [;^J^]」、と明記してあったし。[;^J^]
「呪われた村」(ジョン・ウィンダム)。これは痛い! タイトル自体は、この作者の代表作として、無論、以前から良く知っていたし、読んだ記憶もほのかにあったのだが..内容を、「盗まれた街」(ジャック・フィニイ)と、完全に取り違えていた! しかも読書記録の感想欄には、
「序盤の趣向(正体不明のガス)は、むしろなくもがなであるし、一斉妊娠という仕掛けも、妙な興味を惹く以上のものではない。これらはなくてもよかった。(現代ならば)後半だけで成立する小説である。デビルマンに(あるいは意識下で)影響を与えた可能性あり。それは原子砲によるギジンスクの抹殺であり、焼き打ちのモチーフである。エンディングはかなり唐突で、その直前に、この子供たちの(愛すべき?)別の側面を見せているだけに、読後感が悪い。作者の狙いどおりだろう」
..とあり、少なくとも読了直後の私が、この作品に対して問題意識を持っていたことは、確実なのに。
「カンディド」(ヴォルテール)。これが、最悪に痛かった! これを読んでいたなんて、今の今まで思いもよらなかった!
何がそんなに痛いのかと言うと..今年の「夏オフ」で、これを題材とする、バーンスタインの「キャンディード」という作品が取りあげられ、夏オフ前の、夏オフ準備会議室では、「ところで、「キャンディード」って、どんな話なの?」「それはね、筋は一見、支離滅裂なんだけどね..」、という具合に、紹介・議論がなされており、それを適当に読み流していた私は、「へえぇ、そんな小説があったのかね」、と、最後の最後まで(今に至るまで!)それを読んでいたことを思い出さなかったのである。特に、夏オフ会議室では、「しかし、耕さなければならない..」、というエンディングの意味についても、議論されていたのだが..読書記録の感想欄から、引用しようか。
「ライプニッツの決定論の基盤をなす、充足理由の原理=“原因がなければ結果もない”。「事物は現在と違った形を取り得ぬ」。(27章「…とても本当とは思えない」云々、メタである。)「この能う限りよい世界では、何も彼も鎖のように結びついています……」「いかにも、そのとおり、だが、庭を、耕さなければいけない」。確かに、支離滅裂な筋ではあるが」
..[;_ _][;_ _][;_ _]
当時は、はっきりと印象に残っていたのに、この始末。私は、「カンドィド」を“取り込む”のに、失敗したのである。[/_;]
..では、30過ぎてからの読書は、無駄なのか? そうではない。なぜなら、本当に素晴らしい本の内容は、くっきりと記憶に残っているからだ。記憶するに値する本の内容だけは残す、という、ナチュラルフィルター(年の功フィルター)が、働いているのである..では何故、「カンディド」を憶えていないのか。それは私にとっては、素晴らしい本では無かったからだ。そう思いたい..
(大切なことを、付記しておく。さきほど「記憶に残っていなかった」、と、過去形で述べたのだが、何故、過去形かというと、読書記録に当たれば、内容は思い出せるからである..というか、内容を思い出すためのキーになる程度の情報は、読書記録に書いているからである。絶え間なく崩壊し続ける脳細胞組織と記憶機能を、いくらかでも補完できているからである。)
目次へ戻るNでモーニングをとったあと、ビーチサンダルを探して、靴流通センターを何軒か回る。この時期になれば、投げ売り状態で廉かろう、と、踏んでいたのだが(←「靴」と「踏む」で縁語になっていることへの注意を喚起しておく)、あまりに時期外れすぎていて、投げ売りコーナーからも、ほとんど姿を消している。まぁなんとか確保した。
ビーチサンダルを買うなど、30年ぶり位かと思うが、なぜこんなものを買ったのかは、明日、明らかになるであろう。幸い、台風は既に去っている。
帰宅してからは、SFマガジン2冊を乾かしつつ読書。
先日の大雨の夜、まさかとは思ったが、鞄の中に水が侵入し、中に入っていたSFマガジン2冊が水害に遭ったのだった。
ドライヤーなどで急速に乾かすのは(本が変形したりするので)タブー。何しろ夜間しか自宅にいないこととて、この数日間は、数ページごとにはさんでおいた吸い取り紙を(朝晩)とりかえるなどして、じっくりと対処していたのだが、ようやく、晴れた日中に自宅に居られる日が来たので、窓際にこの2冊を置き、ほどよい風と日光で自然乾燥に努めた、という次第。2冊それぞれ、最初は第10頁で開けて陽光と風に晒し、5分たったら、第20頁を開き..と、2時間以上かけて、大体端から端まで(10頁ごとに5分間だけ)陽と風に当てたところで陽が翳ったので、今日はここまで。湿気はまだ残っているが、かなり乾いてきた。
表紙の反りや「ゴワゴワ感」を完全に取ることは出来ないし、それは諦めているが、少なくとも、湿気だけは完全に取ってから本棚に入れないと、周囲の本に悪影響を与えてしまうのである。
目次へ戻る今日は、磐田郡の海岸で「地引き網」。勤務先の組合行事である。
現場に車で直行してもいいのだが、現地でビールをがぶ飲みする予定なので、車で帰宅することは出来ない。幸い、工場(2箇所)から、送迎バスが出る。そこで、6:55に自宅を出て、工場まで路線バス。工場から現地まで送迎バス。
残念ながら、台風の残滓と思われる、風波の強さ。漁船が出せないので、地引き網自体はお流れ。そうなると、単なる海辺(砂浜)でのバーベキュー大会である [;^J^]。私は、ビールを片手に、バーベキューエリアと渚を、ひたすら往復する。(他にやることが無いんだってば [;^J^]。)
海など、何十年ぶりであろうか。海辺でバーベキューをしたことは、ここ10年以内に数回あるが、足を海水に浸したのは、確実に20乃至25年ぶりである。(このために、昨日、ビーチサンダルを買ったのであった。)
従って、足元を波に洗われた時、引いて行く波が足の下の砂をごっそり持っていく、ということも、全く憶えていなかったのである。さすがに転倒はしなかったが、平衡感覚を失いかけたのは事実。こんなところで倒れた日には、戻っていく波の意外なエネルギーに起きあがりそこなって、溺れることも無いでは無い。その時、浜辺に大勢いる同僚社員たちは..助ける以前に、まずは「撮影」に走るであろうなぁ、確実に [;^J^]。(死んでも死にきれんわ [;^.^]。)
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Sep 6 2000
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