2000年06月12日:ある訃報 2000年06月13日:古本三昧の一日 2000年06月14日:「癩乞に棒遣り」 2000年06月15日:追憶に値する.. 2000年06月16日:大宅壮一文庫調査、再び 2000年06月17日:「ダイノトピア」 2000年06月18日:黒には黒目次へ戻る 先週へ 次週へ
南方文枝、老衰のため逝去。享年88歳。
南方熊楠の長女である。視力の衰えた熊楠の粘菌研究を手伝い、熊楠の没後は、彼の研究資料の保存に努めた。
その生涯が幸せなものだったのかどうかは、他人にうかがい知れるものではあるまい。しかし彼女なかりせば..
..「資料の保存」は、資料派オタクの使命である。私もまた、その重責の一端を、担っている..
目次へ戻る早朝、「3軒茶屋の2階のマンガ屋」のウェブの、(毎週月曜日に更新される)新着ページをチェックしていて、奇妙な文字列に目が止まった。「コミックトム」誌のバックナンバーなのだが、「かしわばやしの夜」(高橋葉介)。私は、彼の(タイトルが判明している限りの)“全作品”を読んでいるのだが、こんな作品は知らなかった。作者名か作品名のタイプミス、ということも考えられるが、600円である。外して元々。即、発注。
午前中に、「貴婦人図鑑」(聖レイ)が、届く。エロ劇画を会社に送本してもらっている、というのは、ここだけの話である。(時間的に自宅では受け取りにくいんだから、しょうがないじゃないか。今回は、「代引き」以外の選択肢が無かったのである。)
帰宅時、書店で「ネムキ」誌をチェック。諸星大二郎の「栞と紙魚子」シリーズ。今回のタイトルは、「古本地獄屋敷」。はい、今、あなたが、想像したとおりのストーリーです [;^J^]。
幕切れ近くのカタストロフシーン。崩壊する古本の蟻地獄の底から姿を現し、主人公たちに向かって這い上がってくる、古本マニアの怨霊たちの叫びが、痛切である。
「おれは増えすぎた本を売ろうと思って古本屋に持ってった。だけど古くて汚すぎるって言われて、どこも買ってくれなかった。捨てるのも惜しくて今だにこんなに…」、とか、「おれだってゴミみたいな本を山ほど…」、とか。
「おれもいつか読もういつか読もうと思いつつ、読まない本を数千冊集めた〜〜」..
お、俺じゃねぇっ! [;^O^]
大体、僕の積読蔵書は、古本よりも新刊本の方が多いんだからねっ(そういう問題じゃないってか [;^.^])。
深夜にメールチェック。「3軒茶屋の2階のマンガ屋」から、コミックトムの例の号は、売り切れとの通知。くそっ
目次へ戻るこれは、泉鏡花の小説で憶えた言い回しなのであるが..
「癩乞(かったい)に棒遣り」。
(あなたは、意味が判りますか?)
「癩乞」は「乞丐」とも書き、「こじき、ものもらい」の他に、「ハンセン氏病、または、その患者」という意味がある。「棒遣り」というのは、棒で突くこと。「癩乞に棒遣り」という成句は、そもそも相手にすべきでない者、その値打ちが無い者を、相手にしてしまうことを咎めているのである。
鏡花の小説の脚注で、この語義を知って、さすがに少々、溜息をついた。これは、何がなんでも廃語になる。「こじき」や「ハンセン氏病患者」を、人間扱いしていないのである。彼らに絡まれたら、(あるいは近づいてきたら、)あたかも狂犬を扱う時のごとく、刺激せずに適当にいなせ、目を合わせるな、相手にするな、と、言っているのである。
しかし、言葉としては廃せられても、その行為(行動様式)が廃せられることは無い。鏡花の小説中では、ヤクザに絡まれるというコンテクストで、この語が用いられていた、と、記憶する。これは今日でも一般的な行動基準だろう。
梶原一騎の、晩年の自伝的作品、「男の星座」の中でも、「癩乞に棒遣り」という言葉こそ使われなかったものの、ほぼその語義(精神)を解説したに等しい箇所があった。非常に印象的なシーンなので、あるいは憶えている人も、多いのではないか。
主人公(梶原一騎)が、O一家という、ヤクザ(というかチンピラ)と関わり合いになってしまい、彼らの暴力と嫌がらせに、悩まされていたところ、ある人(一応、ここでは名を伏せておく)の紹介で、当時、全国を恐怖の底に叩き込んでいた、武闘派ヤクザ(殺人集団)「柳川組」の親分に、口をきいてもらえることになったのだが..口をきくも何も、柳川組とO一家では、横綱と序の口くらいの実力差があるのであって、柳川組が、ちょいとその気になれば、O一家なんぞは、瞬時に皆殺しにされてしまう。だから、この揉め事は、(某氏に柳川組を紹介された時点で)たちまち解決してしまったわけなのだが..
梶原一騎が、その柳川組の親分と初対面した時。ズラリと居並ぶ子分たちの前で、親分は、梶原一騎に向かって、いきなり四つん這いになり、「ええか、極道は犬や、狂犬や! その狂犬とまともに相手になって、どないする!」、と、梶原一騎を咎めたのである。我々ヤクザなんぞと、関わり合いになってはいかん。まともに相手をしてはいかん、と。
「癩乞に棒遣り」という言葉は消える(というか、事実上、消えている)としても、その精神(知恵)は、今なお有効なのである。
特に有効なのは、ネット社会においてである。
現実には、ヤクザと目が合ってしまった時、絡まれた時、無視しきるのは非常に難しいことが、しばしばである。仮に2〜3発殴られても相手にならず、スタスタとその場を離れる..ところまではいいが、そこまで冷静に無視されたヤクザは、かえって逆上するかも知れない。執念深く、自宅まで尾行してくるかも知れない。誰でもそこまではすぐに思い至るから、そんなに簡単に、ヤクザを無視したりは出来ない..残念ながら、これが現実だろう。
しかし、ネット社会においては、そのヤクザは、目の前にいないのである。あなたを殴ることは出来ない。注意深く行動している限り、あなたの自宅も、電話番号も、知られることは無い。安全に、無視できるのである。言葉によって2〜3発殴られても、痛くも痒くも無いはずである。
だから、ヤクザは無視しなさい。相手にしてはいけない。人間扱いするべきでもない。彼らに、そんな値打ちは無いのである。
「癩乞に棒遣り」である。
目次へ戻る書物の評価の一基準として、「再読に値する」か否か、というのがある。
ここで私が提案する、もうひとつの評価基準は、「追憶に値する」か否か、である。
良く似ているようだが、この両者は、相当異なる。「再読には値する」が「追憶には値しない」、あるいは「再読には値しない」が「追憶には値する」、という例が、山ほどあるのである。
そして、一般論として、「追憶に値する」書物の方が、“深く”あなたに刻み込まれている筈である。なぜなら、自分の魂の内部に入り込んだ書物で無い限り、“追憶”することは出来ないはずだからである。(それに対して「再読に値する」というのは、極端な話、全く身の内に入らなかった(何ひとつ印象に残らなかった、憶えられなかった)が、身の内に入れる(憶える)価値はあるはずの書物なので、「再読しても無駄にならない」、という事例も考えられるのである。)
「再読に値せず」「追憶にも値しない」例..こんなのは考えても虚しいので、やめといて [;^J^]
「再読には値する」が「追憶には値しない」例。ある程度「お勉強」的な、あるいは、「義務的」「基礎教養的」な書物は、この範疇に入ることが珍しくない。私の例で言えば、「戦争と平和」が、それである。四半世紀以上昔のこと故、どんな話だったか全然憶えておらず、しかも、人類史上屈指の傑作であることは(多分)確実なので、「再読には値する」のだが、私自身の実績を鑑みるに、私としては「追憶には値しない」書物だったのである。
「再読には値しない」が「追憶には値する」例。実はこれが、非常に多い。ほとんどのSFとミステリは、この範疇に属するのでは無いか? ヴァン・ヴォークトの「非Aの世界」は、うっかり再読してエライ目に会ってしまったが、ヴァン・ヴォークトのその他の長編群の追憶は、私の生涯を(死ぬまで)豊かにしてくれるはずである。
「再読に値する」し「追憶にも値する」例。これも枚挙に暇がない。ここでは、「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎)だけ挙げておこう。
目次へ戻る代休を取って、8時6分のひかりで上京。八幡山の大宅壮一文庫に到着したのが、10時35分頃。東京駅から、ちょうど1時間。
主として手塚治虫の初出誌の、国会図書館には蔵書が無いところを潰して行く。最初期のスターログ誌が揃っていなかったのが、ちょっと当てが外れたところ。
秋葉原。東芝PCテクノ。リブ100の画面の調子が、少々悪いので診てもらったところ、これは液晶交換しないと治らない、と、宣告されてしまった。リブのユーザーならご存知の、画面左端に縦の線が出る、という奴である。蓋を開け閉めする時に出たり出なかったりするし、ヒンジの角度を調節すると消えたりするので、これは素人診断で恐縮だが、どう考えても接触不良だろう、コネクタを指し直すか、コネクタの交換だけすれば治ると思うが、このあたりで勘弁してもらえないだろうか、と、交渉 [;^.^] したのだが、通らず。6万5千円も出して修理(交換)するくらいなら、このまま我慢して使います、と、嘘泣きしながら引き上げる。
神保町を軽く流してから、横浜の実家に帰省。
皇太后陛下、逝去。
目次へ戻る実家を7時26分のバスで発って、国会図書館。今日は主として「みこすり半劇場」。吾妻ひでおの未発見作品が掲載されている可能性があるからであったが、発見できず。(くどいようだが、これは無駄足ではない。「これ以上、みこすり半劇場を探す必要は無い」、という、貴重な情報が採取出来たのである。)
今週火曜日に「3軒茶屋の2階のマンガ屋」の通販でゲットしそこなった、「コミックトム」誌83年10月号をチェック。高橋葉介の「かしわばやしの夜」が、確かに掲載されていた。新発見作品である。もちろん、コピーに回す。
並行して、毎日新聞大阪版の、1953年の紙面を、総チェックした。(死んだ [;^.^]。)手塚治虫の「たみちゃん兄妹」という作品が、この年の「毎日新聞」に掲載されている、という情報は、遙か以前から掴んでいたものの、あまりの曖昧さに、これまで放置していたのだが、一念発起して、調査した、という次第。結果..
..見つからず [;_ _]。見落とした可能性は、ゼロでは無いが、見落としたとすれば、それはヒトコマ漫画だと思うのである。「たみちゃん兄妹」というタイトルのヒトコマ漫画があるとは思えない。これはどう考えても4コマ漫画、それもスポットの単発作品では無く、連載漫画だろう。この作品が実在するとすれば、それは「毎日新聞」では無いのではあるまいか..?
八重洲ブックセンターに寄り、「ダイノトピア 恐竜国漂流記」(Gurney,James、フレーベル館)を買う。
この絵本は、6年も前に買っている。今日買ったのは、小学生の甥と姪に、プレゼントするためである。(現在、妹夫婦一家はアメリカに在住しており、来週末に母が渡米して訪問するので、その手土産にしてもらおう、と、考えた次第。)恐らく、彼らの、一生の宝になると思う。これから何十年も、追憶され、再読されることになると思う。
もしもあなたが恐竜が好きならば、あるいは、夢見ることが好きならば、悪いことは言わないから、「ダイノトピア」を買いなさい。「ダイノトピア」を読みなさい。私を信じろ。現物を確認する必要は無い。紀伊國屋でも八重洲ブックセンターでもどこでもいいから、ネットで発注しなさい。今すぐ!
目次へ戻る10時34分のバスで、実家を発つ。中野まんだらけ → 渋谷まんだらけ → 現代マンガ図書館、と巡回して、早い時刻のこだまで浜松へ。
今日の調査は、主としてアジマ系。成果はそこそこ。例えば現代マンガ図書館では、「劇画アリス」誌や「少女アリス」誌のバックナンバー中、数年前には収蔵されていなかった号があったりした。少しずつ、補充はされているわけなのである。(この間に、盗難などで紛失した書籍も、少なくないのであろうが..)
今回の上京で、ちょっと気になったこと。
黒いメッシュというか、透ける豚(失礼)スケルトン系を着る時には、下着の色も合わせなさい。大概、問題は無いのだが、今日は3人ほど、白い下着が透け透け状態の女性がいた。はっきり言って、色っぽくない。だらしなく見えるだけである。
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