1996年09月09日:ガラスの城の記録/ガムガムパンチ/ごめんねママ/マコとルミとチイ/グランドール等、調査 1996年09月10日:何故、全集未収録作品の解説が先行するのか 1996年09月11日:新聞1年分を、読まずに捨てた 1996年09月12日:オリンピック惨敗の責任とは? 1996年09月13日:grepという大発明 1996年09月14日:高橋葉介、いしいひさいち、諸星大二郎の新刊を買う 1996年09月15日:日記の証拠能力について目次へ戻る 先週へ 次週へ
ホテルを8時過ぎにチェックアウトし、シンセを東京駅のコインロッカーに預けて、国会図書館へ。まず、前回調べ残した「よろめき動物記」の初出誌調査。未収録エピソードが3編。まいったのは、初出誌(サンデー毎日)はマイクロフィッシュ化されているのだが、連載第1回と最終回(第50回)の該当ページが切り抜かれていたこと。マイクロフィッシュ化される前の凶行である。
次に「どろろ」の初出誌(冒険王)の、現代マンガ図書館になかった号を、2冊捜すが、別冊の方はここにもなく、もう1冊は補修に回されていた。年末まで読めない。
「ガラスの城の記録」を国会図書館で調べたのは、完全な手違いである。何度も書いているように、現代マンガ図書館で閲覧できる初出誌は、原則としてそちらで読み、閲覧できないもののみ、国会図書館で読むことにしている。国会図書館でないと読めない初出誌の方が遥かに多く、ここがクリティカル・パスになっているからだ。「ガラスの城の記録」は、以前、現代マンガ図書館で読んだ時、勘違いで初出誌全部を請求せず、一部照合できないページが残ったので、(翌日、国会図書館に回る予定だったので)「残りは国会図書館で」と、メモ書きしておいたのだが、結局翌日は予定変更で国会図書館に行けず、その(判読困難な)メモだけ残り、1〜2冊を除いて全て、現代マンガ図書館で閲覧した、という記録と記憶は失ってしまっていたのだ。結局、国会図書館でなければ閲覧できないのだな、という思い込みを抱いて、今日、初出誌を請求してみれば、なんのことはない、かつてほとんど全て、目を通している雑誌ではないか。しかも、欠落がある。「残りは現代マンガ図書館で」読まなくてはならない! 全くもう、国会図書館では、分秒を争う状況だというのに!
「ごめんねママ」も、初出誌の切り抜きが酷い。なんと、34冊中、24冊やられている。出版社から納本される前に切り抜かれている訳がないので、図書館内でやられたのだろうが、しかし、号によっては切り抜き痕が醜く残っているが、物によっては、実に丁寧に(ほとんど製本作業と言えるほどの注意深さで)抜き取られている。
小学一年生と小学二年生の「ガムガムパンチ」。これは、全集未収録エピソードが膨大にあり、その梗概をノートに書き記すのに時間がかかる。コピーはしない。金もかかるが、それより何より申込書を書いたりコピーカウンターで仕上がりを待ったりのロスタイムが、到底看過できないからである。無論、手元に置いて味読すべき作品や、その場で梗概をまとめきれないほどややこしい作品の場合は(疲れてくると、普通の作品でも、こういう状態に陥る [;^J^])、即、コピーである。これは時間切れで、15エピソード積み残し。
「マコとルミとチイ」も、ほとんど全号チェックするも、あと僅かで時間切れ。
国会図書館は17時で(一般利用者に対しては)閉館。このあと、地下鉄で4駅先の現代マンガ図書館(19時閉館)で、調べ残しを拾うのが、いつものパターン。もちろん「ガラスの城の記録」の最終チェックである。なんと、結局初出誌は全部、ここにあるではないか。ったく、たいした作品でもないのに、手間をかけさせよってからに..(たいした作品でない、というのは、正直な本音だが、ちょっと評価が難しいとも考えている。これの解説を書くのは、まだだいぶ先になりそうだが..)時間の余裕が、まだ少しあったので、「グランドール」もチェック。
シンセを回収して、ひかりで浜松に帰還。
目次へ戻る「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」は、全体としては、まずまずのペースで更新されているが、「総解説」の追加・更新ペースよりも、「全集未収録作品リスト」の追加・更新と解説執筆の方が、ペースが速い。これは本末転倒に見えるかも知れないので、何故こういうことになるのか、説明しておこう。
これは、作業手順から来る、自然な結果なのである。
この「解説総目録」は、解説に重きを置いているとはいえ、何よりもまず「目録」である以上、データの正確さが命である。そのために、大変な手間暇をかけて初出誌を閲覧し、照合確認をする。そうすると、ボロボロ出て来るのである。全集未収録作品(未収録エピソード)が。
「今は全集収録分の作品を調査するフェーズであるから、これらの(新発見の)作品については、のちに日を改めて閲覧しなおす」というのは、恐らく正しい手順であるが、金銭的にも時間的にも無駄が発生し、現実的ではない。見つけたらその場で処理するべきだ。処理とは、データ(初出誌名・巻号・発行日・頁数)を書きとめることと“内容の梗概を書きとめること”である。
後者の処理は“コピーを取ること”で置き換え可能であり、短時間でまとめきれない作品の場合は、そうしている。しかし、全集未収録作品のコピーを、片端から取っておく、というのは、これもまた非現実的である。金銭的な負担はともかく、特に国会図書館においては、時間のロスが非常に大きい。これは昨日の日記でも説明したことである。だから、作品自体のコピーではなく、梗概を手早くメモして持ち帰る訳だ。
そしてこの(時には1日の調査で数十作品にものぼる)手書きの梗概の束は、何日も何ヶ月も寝かせておかずに、素早く清書してしまわなければならないことは、言うまでもあるまい。数週間を半減期として解読困難になって行く筆跡ももちろんのこと、そもそも梗概には固有名詞や数字など「事実関係」以外の情報は十分に書ききれず、情緒的抒情的な情報は、記憶に頼らざるを得ないことが多いのだ。記憶が色あせる前に、文章(内容紹介・解説)として定着させなくてはならないのだ。(この理由から、パソコンやワープロで梗概を書くことは、筆跡の問題を除いて、なんら事態の改善に寄与しないのである。さらに、これらを図書館で使うことは非常に困難だ。国会図書館では使える席が決められており、そもそも出納された漫画雑誌をそこから持ち出してはいけない「雑誌課別室」では使用禁止なのだから、問題にならない。)
以上が、全集未収録作品の解説が、どんどん先行して書かれる理由である。
目次へ戻る新聞を9ヶ月分、読まずに積み上げ続けたことを報告したのは、ちょうど3ヶ月前であるが、ついに私も諦めた。捨てた。塵紙交換に出すべく荷作りした。
論理的には、過去1年分の新聞を、1年前の知識から“追跡”して読み上げることは、可能である。しかし世の中には、やって出来ることと、やっても意味のないことがある。“追い付く”ためには、おそらく数ヶ月、場合によっては半年近くを要しよう。今現在、既に過去1年間のニュースを(一面トップ以外は)知らない、というハンディを抱えているところに加えて、さらにこれから半年間、最新のニュースではなく、遥か過去に終わってしまっているニュースだけを読み続ける、という状況に耐えられるか。
無理だ。やめた。この1年間は、無かったことにした。これでいい。これでいいはずだ。
目次へ戻るテレビも観ない、新聞も読まない、という状況なので、もちろんオリンピックも観ていなかったわけだ。さすがに、オリンピックを開催していること位は、知っていたが。
で、例年のごとく、日本は惨敗を喫したらしいが(私は、日本が“勝利した=金メダルをたくさん獲得した”年、というのを記憶していない。そういう大会は、無かったのではないかと思う)、コーチ陣の責任を問う、とかいう話が(居酒屋で読むスポーツ新聞を)賑わしたりしている。
な、なんで?
私の理解が間違っていなければ、オリンピック選手団は、税金で送り出されている。(全額ではないだろうが。)だから、税金が無駄に、あるいは不当に使われたとすれば、その責任は、問われなければならない。
しかし、これはスポーツなのである。誰かが負けるに決まっているではないか。負けた責任を取れだなんて..まるで、幼稚園。大方の読者は知らないだろうが、かつて読売ジャイアンツという球団が、9年連続優勝したことがあり、その頃は「勝つのがジャイアンツの宿命」だなどと、想像を絶するほどくだらない決意表明が、ジャイアンツ陣営からなされていたのだ。(宿命づけられているにも関らず、たったの10年連続優勝も出来ずに、負けたのだが。)それと同類のたわごとである。
目次へ戻る例によって昔話だが、15年以上昔のことでは、ないはずだ。
確か、朝日新聞で読んだネタである。「哲学」の研究が、コンピューターの導入で、歴史的な大改革に直面しているのだという。
哲学に関しては全く門外漢なので、ほとんど受け売りなのだが、要するに哲学研究の議論とは、ターム(用語)の用例の引用の争いなのだという。Aはこういう文脈でこう言った、いぃやBはこういう文脈でこう書いた..もちろん実際は、もっともっと複雑なものなのだろうが、要は用例をたくさん知っている方が勝ちで、記憶力(あるいはメモの量)の勝負なのだという。で、考えるまでもなく明らかなことであるが、大半の議論は水掛け論に終り、結論は出ない..
この状況を一変させたのが、コンピューター。過去の哲学関係の文献を片端から入力し、キーワードで検索できる。そのキーワードの前後の文章も表示できる。つまり、全ての用例を、誰もが知ることが出来るようになった。これで、哲学史上の難問の90%以上が解決するであろう、と。
私は、椅子から物理的に転げ落ち、後頭部を打ってしまった。そんなことで良かったのなら、電算機屋に相談してくれれば、1960年代(あるいは、もっと以前)から可能だったのだ。1980年代も半ばになるまで、こんなことで困っていたなんて..
教訓は、三つある。
井の中の蛙には100年たっても解決できない問題も、外の世界から見れば、瞬時に解けることがある。 | |
ひとり一台のパソコン時代になって、歴史的な問題解決の手法に思い至ったのだ。パソコンはやはり、歴史を変えているのだ。 | |
立場を変えてみれば、私もこのような壁にぶちあたっているに違いない。自戒せよ。 |
ちょっと仕事がたてこんできたので、この3連休は、休日出勤である。まず、浜松中央図書館によって、取り寄せてもらったモノ・マガジンの、吾妻ひでおのマンガのコピーを取って、駐車場に戻ったら..
車のドアが壊れている。[/_;]
別に悪戯されたわけではない。運転席側のドアが、開かない。助手席から入って内側から開けようとしても、駄目。メカが外れてしまったようだ。JAFに電話するが、そういうのは管轄外だとのこと。(そりゃそうだろう。)まぁ助手席からは出入りもロックも出来るので、連休中はこれで我慢することにする。火曜日にディーラーに電話しないと。
仕事を終えて、帰途、新刊コミックを3冊購入。高橋葉介の「夢幻外伝3:目隠し鬼」、いしいひさいちの「問題外論9」、諸星大二郎の「栞(しおり)と紙魚子(しみこ)の生首事件」である。
「夢幻紳士」には、大きく分けて3系統ある。初期の「マンガ少年版」、リュウに連載された「スチャラカ・ホームコメディ版」、そしてアダルトな「怪奇編」である。この「夢幻外伝」は、「怪奇編」の系譜に属する。
古くからのファンは、ほぼ例外なしに「マンガ少年版」を最上と評価している。その気持ちは判るし、私もこれが傑作であることは認める。しかし、“「マンガ少年版」の魅力”は、実は“「初期・高橋葉介」の魅力”に他ならないのではないかと思うのだ。この作品に固有の魅力というよりは、この時期の作者の“全ての”作品に共通する、美学と描線の魅力である。だから、私は「マンガ少年版」が「夢幻紳士」の最高傑作である、とは言いたくない。
最も普通の少年マンガである「スチャラカ・ホームコメディ版」は、最も魅力に欠ける、というのも、作者のファンのほぼ共通した見解であろう。これには私も異論はない。単に(比較的)個性が乏しいからだけではなく、特に後期になると、明らかにやっつけの、書き飛ばしのエピソードが増えるからだ。
「怪奇編」は、いわば現在進行形のアクチュアルな作品であり、多くのファンから支持されている。
私は、「夢幻紳士」の最高傑作は、「夢幻外伝1:死者の宴」だと思う。何よりも、第1話「死者の宴」の扉絵! 夢幻魔実也の美貌を描く線の、病的なささくれかた!(ほとんど、ビュッフェの絵を想起させるほどだ。)この実にきわどい、崩壊寸前の美貌の魔力! この巻には、実に壮麗なエピソードが含まれ、スケール雄大な敵キャラが登場し、また対照的に、落語的な切れ味の良さを見せる短篇も含まれている。
そして、これが外伝の最終巻になるという、「夢幻外伝3:目隠し鬼」。これもまたひとつの到達点を示している。それも“物語”ではなく“絵”の側面で。しかも“描線”というよりは、むしろ“スクリーントーンの徹底的な活用”で。
昔はスクリーントーンと言えば、本当に単純なパターンの模様しかなかったものだが、今では非常に凝った(リアルかつ自然な)雲や雪のパターンがある様で、これが全面的に使われている。とり・みきは「人達」の中で「このトーン最近みんな使ってるけど、やっぱり手抜きじゃねぇか?」と呟いているが、しかし、これほどまでに(ほとんど異常なまでに)多用されているにも関らず、“安易”な印象は全く受けない。それは、描線とのハーモニーが絶妙だからだ。描線は、上記「死者の宴」の扉絵とは逆の意味で、病的なまでに、細く美しく怜悧に官能的に研ぎすさまれ、そのすっきりした絵の背景に、これらの出来合いの(美しい)スクリーントーンが貼り込まれる。アニメのセル画の感覚に近いのだが、いわゆる“アニメ絵”とは、全く違う。もはや完全に、ひとつの様式美の世界である。初期にはまさに、ワン・アンド・オンリーの筆の描線で、孤高の世界を築いた作者が、いまやそれとは全く対照的な手法と描線で、もうひとつの頂点を築きあげたのだ。これは驚くべきことである。
いしいひさいちの新刊については、特に語るべき点は、ない。よくも悪くも、完全にマンネリ芸である。
諸星大二郎の「栞(しおり)と紙魚子(しみこ)の生首事件」は、作者の余技と言うべきか。お馴染みの題材を、女子高生のコンビを主役に据えて、軽やかに転がしてみせている。
目次へ戻る「3億円事件」を覚えている人は、いわゆる若者ではあるまい。それはともかく、あの迷宮入りの事件の捜査の過程で、ひとりの青年が無実の罪に問われた。そして彼の冤罪を晴らしたのが、父親の日記だったのである。(この冤罪事件のあと、日記帳の売れ行きが急進したと記憶している。)
これは私には、不思議に思えた。何故なら、日記などいくらでも偽造できると思えるからだ。そうでなくても(一般に)肉親の証言はアリバイにはならないはずではなかったか?
もちろん、実際には様々な裏付け捜査や証拠が絡み合っていたに違いないが、結論としては、上記の私の粗雑な理解(誤解)とは異なり、日記には十分な証拠能力があったということになる。偽造出来るような性質のものではない、と判断された訳だ。
遥か後年、IBM−PCのBIOSのコピーが法的問題になり、クリーン・ルーム手法でこれをクリアするしないという話題が、技術誌を賑わしていた頃になって、上記の3億円事件の話を思い出した。クリーン・ルームと言っても色々なタイプがあるのだが、ここで話題になったのは、解析チームがBIOSの動作を観察して、それの仕様書を起こす。そして、解析チームから隔離された(クリーン・ルーム内の)コーディング・チームが、その仕様書を受け取って、BIOSをコーディングする。これならデッド・コピーしたことにならない。そして、コーディング・チームが“仕様書だけを頼りに作業したことの証拠”として、作業日誌をつけるのである。
私もBIOS(の様な物)を、いくつか作って来たので、これは納得できる。作業日誌というのは、到底偽造できるようなものではない。現実の作業の進行度合というのは、全く論理的でも合理的でもなく、ある日は作業がどんどん進み、翌日は(そんな簡単なところで頓挫するはずがないのに)完全に作業がストップする。全く意味不明な来客が邪魔をする。突然組織改変がある。どうしてワークステーションがハングアップするの? などなど、現実の作業日誌というのは、ほとんどシュールな読物なのである。これは偽造できない。読む人が読めば、たちまちばれる。(もっとも、クリーン・ルームの手法自体は、のちに“クリーンでない”−すなわち、IBMの著作権の侵害にあたる−と、結局は判断されたはずだ。)
ここで“公開日記の証拠能力”に話題を振ると期待されたであろうが、今日はここまで。その話題は、またいずれ。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Sep 16 1996
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