*1997年12月29日:他人の言葉・他人の思想
*1997年12月30日:「羅生門」
*1997年12月31日:紅白歌合戦 '97
*1998年01月01日:遠くへ行きたい
*1998年01月02日:PDの意外な弱点
*1998年01月03日:プロには出来ない仕事
*1998年01月04日:クラシックのCDのジャケットについて
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*1997年12月29日:他人の言葉・他人の思想


 帰省してなにに閉口するかというと、晴れている日には、家じゅうが明るいことである。リブのTFT液晶ディスプレイが、非常に見づらくなるのだ。当然のことながら、午前中からリブで書き物をする都合上、自分の部屋は午前中から雨戸を閉めてしまうのだが、実家の連中は、朝っぱらから暗いとか文句を言うし。

 ニフの某フォーラムで、またしても。議論の発端は、例のポケモン騒動なのだが、ここであげつらう発言とはほとんど関係無いので、経緯は略す。


「日本では、自分の頭で考える人間は「危険人物」ですからね〜。」

 阿呆。

 あんたが、どこに出しても恥ずかしくない、人畜無害な、筋金入りの“安全人物”だということは、良く判ったが。

 議論のコンテクストをキーにして、フレーズデータベースを検索して貼り付けただけ。この定型句の中に、あんた自身の思想が一語でも含まれていたら、俺は驚く。

 とはいえ、私は実のところ、「自分の頭で考えない」という態度を、否定的なニュアンスでしか捉えないことは、間違っていると思う。「借り物の言葉」「借り物の思想」を、もっと積極的に評価してもいいと思っている。

 なぜなら、何もかも自力で考えるのは、現実的でないからだ。思考能力と時間の無駄使いである。自分の頭を絞るに値しないと判断した(決めた)分野ごとに、信頼できる新聞なり評論家なりを“自分で”見定めて、その上で、彼らに判断をゆだねる。彼らの判断を、彼らの言葉を、めくら判を押して承認する。そして、自分の(全)思考能力を、自分が命をかけるべき分野に投入する。その知的労働の産物である“思想”と“言葉”に、それだけの価値があれば、あるいは今度は別の誰かが全面的に信頼して、借りて行くことだろう。

 これは、社会(あるいは人類)全体の、頭脳のシェアリングとして、正しい状況である。

 しかし、先に引用した阿呆は、自分が借り物の言葉を(しかも、それをタイプしている間、気でも失っていたのではないかと想像できるほどの、生気のなさで)喋っていることを、自覚していない。

 “自分の責任において”他人の判断を輸入する者は、正しい思考者であり、知性の持ち主である。しかし、なんらの自覚も責任感も無く、他人の判断を受け売りしている者は、“知の家畜”に過ぎない。

 実家の連中と、横浜は「みなとみらい」の、パンパシティックホテル横浜の「トゥーランドット」という店に、夕食を食べに行く。入る前は、中華料理の店かと思っていたのだが..

 ..テーブルが違う。中華料理の回転テーブルではない。ウェイターが給仕をし、料理が替わる度にスプーンやフォークを置いていく。料理は、中華料理というよりは、フランス料理をベースに、大幅に中華の食材とエッセンスを取り入れたもの。

 “ヌーベル・シノワ”の店なのであった。[;^J^](プッチーニのオペラにちなむ名称からも、そんな予感はしていたのだが。)シェフがテレビに出ているなど、結構有名な店らしい。なかなか美味く面白く、しかもそれほど高くはない。たまにはよろしい。

 帰宅してから、「史上最大の作戦」をテレビで観る..違和感..これ、モノクロ映画ではなかったか? カラーだったっけ?

 カラー版を観た記憶が無いのである。確かに小学生時分には、家には白黒テレビしかなかったのだが、カラーテレビを買ってからも、この映画はテレビ放映で観ているはずであるが、その記憶に“色”が付いていないのだ。

 それはともかく、カラーで観ると、単色では判らなかった“アラ”が、非常に目につく。屋外のシーンが、ほとんど全てロケではなく、セット撮影であることも判る。例えばオマハ・ビーチの激戦地でも、“空”は壁に描いた絵であり、崖は作り物であることが..

 ..んなわけあるか?

 制作費は憶えていないが、こんな大規模なセットを作れるか?

 深夜になって、ニフを巡回していたら、この件に関する問答があり、疑問が氷解した。オリジナルのモノクロ画面に、CGで色を付けたらしい。ったく、余計なことを。これは完全に逆効果であった。モノクロ画面の“奥行き”と“巨大さ”と、そして何よりも“香気”を、理解できなかったのだろうか?

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*1997年12月30日:「羅生門」


 昨日は暖かかったが、今日は寒い。朝から冷たい雨が降っている。明日は大晦日なのだから、この位の気温の方が自然なのだが、しかし雪にも霙にもならないね。

 妹夫婦が来宅する。甥も姪も、ポケモンの放送中止に、多少ともがっかりしているが、私はまだ、このアニメを観たことがないのだ。

 「羅生門」をテレビで観る。無論、三船敏郎追悼企画である。昔に観たことがあるはず、と思い込んでいたが、登場人物たちの正面向きの告白シーンを観た記憶が無い。例によって、スチール写真の記憶に騙されていたか?

 森の中の光の描写が、素晴らしい。また、殺された夫の霊魂を巫女に憑依させ、彼の証言を取る、という、不気味なユーモアを湛えた奇想。これは芥川の原作(「薮の中」)にもあったシーンだと思うが、今昔物語にあるモチーフであろうか。死んでからも体面を守りたいか、という、可笑しさと哀しさと凄さ..

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*1997年12月31日:紅白歌合戦 '97


 今日は快晴。年賀状を出す。印刷は妹に依頼する。数年前のWin3.1時代には、筆美人というソフトを使っていたのだが、年に一度しか使わないハード(プリンタ)とソフトは、メンテしきれない。3枚ほども失敗すると(被害総額150円)、気力が失せてしまう..という理由で、去年かおととし位から、年賀状の宛先は手書きなのであった。

 紅白歌合戦。なんだかんだ言っても、毎年楽しみにしているのだ。音楽番組(歌番組)というものを観ないので、メロディーは知っているが曲名も歌手も知らない、という曲が沢山ある。あぁ、あの曲はこの歌手が歌っていたの!という、新線な驚きが楽しいのである。

 もうだいぶ以前から、くだらない応援合戦をしなくなっているのにも、好感が持てる。また、ひと頃クラシックの歌手を起用したりしていたのをやめたのも、正解。中途半端なことをしても、駄目である。

 なるほど、居酒屋の有線で、さんざん聴かされたのは、シャランQの曲であったか。(曲名を、またしても憶えそこなった。[;^J^])

 動く広末涼子を初めて観た。なるほど..確かに..これは可愛い。久々の?アイドルらしいアイドルである。ただ、振り付けの責任だとは思うが、肩をすぼめるのはともかく、猫背で歌うのはちょっと。

 今更、きょうびの新人(若手)の歌唱力をどうこういうつもりはないが、しかし、SMAPのそれは、ほとんど感動的ですらあった。天は二物を与えず、とは、このことである。

 小室哲哉の曲って、高音域に貼りつく癖があるのか? 歌手の力量が酷いことを差し引いても、少しも魅力的には聴こえんなぁ..

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*1998年01月01日:遠くへ行きたい


 本当に遠くへ行きたければ..通信端末を置いて行くことである。あなたには、その勇気があるか?

 私には、無い。[;^J^]

 これと関連するが、例えば海外旅行先で、インターネットへのアクセスに成功すると、「をを、日本にいるのと何の変わりもない!」と感激したりするが、(私も一年前、フランクフルトで、まさにこういう感激の仕方をしたが、)良く考えると、これはおかしい。日本にいようがブラジルにいようが、インターネットから見れば、その距離は区別がつかないのである。(特定のサーバー間のホップ数とか回線の太さとかは、もちろん、別問題。)だから、日本において、最初にインターネットへの接続に成功した時点で、「をを、世界のどこからも等距離なニュートラルポイントにつながった!」と、感激すべきなのである..が、こういうややこしい感激の仕方は、なかなか出来ないものである。[;^J^]

 さらに、上記の話と関連しているようなしていないような、ちょっと“筋違いの”連想をひとつ。

 それは、孤島を舞台とした連続殺人事件を描く、とある和製の名作ミステリで、「孤島もの」「嵐の山荘(雪の山荘だっけ?)もの」と呼ばれる、言わば閉塞宇宙に閉じこめられた一群の登場人物の中に、被害者も犯人もいる、というパターン。それを、あろうことか、この作品では、犯人は孤島の“外”から“通っていた”のである。

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*1998年01月02日:PDの意外な弱点


 PDがいまいちメジャーになりきれない理由が、突然判ってしまった。

 以前、「(私にとっては)ジャストスペックなのだ。私は現在、携帯可能なCD−ROMドライブも、携帯可能なバックアップメディアも持っていない。それが一台で兼用出来る」と書いたが、まさにこれが問題だったのだ。

 こんにち最も普通のスペックである、CD−ROMドライブ内蔵ノートパソコンの場合、PDを買いにくいのだ。「20倍速CD−ROMとしても使える」点が冗長で、これが付加価値どころか、マイナス要因として働いてしまうのである。どうせ同じ金を払い、同じように持ち歩くのならば、「異なる特性の物」を使いたい。これは素直な心情だと思う。

 持ち歩くなら、小型のMOと携帯MOドライブ。据え置きなら、メディアが廉くて、確実なRO属性がつくCD−R。これはまっとうな判断だ。だから、日本では、これらのメディアが流行るのだ。速いだけで容量の小さいZIP、速くて容量が大きいが、HDに匹敵するほど高価なJAZをありがたがるアメリカ人の神経は、私には判らない。光モノがとことん嫌いだ、ということだろう。LDも流行らなかったし(これは欧州のことか?)、光ファイバも遅れてるし。(日本人が、極端に光モノが好きなだけのことかも知れないが。[;^J^])

 横浜の実家から、ほど近い、FCLAの友人のRさん宅で、おせち食い尽くしオフ。作ったはいいが、外出の予定がどんどん入ってしまい、余ることが必定となった由。私と、もうひとり、同じくFCLAのM氏の2名で、お邪魔する。

 Rさんの、小学校低学年の子どもたちに、ポケモンの解説を頼むが、これが非常に難航する。「ポケモンの基本概念と世界観を、筋道を立てて説明せよ」という設問は、難しかったであろうか?[;^J^]

 どうも、私の思い込みにも問題があったようで、つまり先に玩具のゲームがあり、それがアニメ展開したのだと思っていたのだが、実は最初にゲームボーイ?版のゲームがあって、これがアニメになり、さらに玩具ゲームに展開した、という順序らしい。ポケモンのやり取りが(メンコやビー玉のように)あるはず、と思い込んでいたのも、敗因だったか。(いまだに、全貌が把握できていないのであった。[;^J^])

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*1998年01月03日:プロには出来ない仕事


 アマチュアでなければ出来ない仕事がある。

 私のホームページで言えば、「吾妻ひでお 著作リスト」と「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」である。これは、プロの文筆家や編集者には、絶対に、作れない。

 なぜなら、まるでペイしないからである。

 例え出版したとしても、これで飯を食うことは出来ないのだ。にも関わらず、途轍もなく時間(と金)がかかっている。

 他の収入源を確保した上での“余技”としてしか、成立しないのである。この種の仕事は。

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*1998年01月04日:クラシックのCDのジャケットについて


 13時から、新春恒例、FCLAメンバーによる秋葉原オフである。今年はオーディオには回らず、CDとPC。特に大きな買い物をした人はいなかった。私の戦果は、全てCDで、ベルリオーズ7枚、ヴァーグナー1枚、イエス5枚(3セット)。

 それにしても腹が立つのは、つまらないジャケットデザインのCDである。曲名と演奏者名をゴシックフォントでタイプしただけなんぞは、論外である。

 なぜなら、まるで売る気が無いとしか、思えないからである。きょうび、多少ともポピュラーな曲であれば、同曲異演盤は数十枚ではきかないことも珍しくはない。そんな中で、1枚でも多く売ろうとすれば、ジャケットで目を惹くのが基本ではないか。(これ以外に方法が無い、とは言わないが。)

 なんのデザイン感覚もないジャケット。それは、知っている人には宣伝をしなくても売れることを意味しており、また、それ以上の拡販を意図していないことも意味している。全く内向きなのだ。同人誌の世界。いや、(多くの)同人誌は、不特定多数の読者に売るべく努力をしているのだから、肉筆回覧誌の世界とでも言おうか。こんな連中に、CD不況を嘆く資格はない。

 無論、多少とも凝ったジャケットには、多少ではすまない金がかかるのは、承知の上で言っている。それをなんとかするのが、プロの(営業の、宣伝の、企画の)仕事だろうに。

 例えば、私はつねづね、クラシックのCDのジャケットには、ヌード写真が少なすぎると思っている。ヘアヌードだって、ばんばん使うべきである。

 そんなことをすると、女性ファンに嫌われるだって? それは「エマニュエル夫人」以前の世代のオジサンの思い込みに過ぎない。大体、今、女性ファンを開拓するために、どの位の営業努力をしているのかね?

 それはセクハラである、街の風景から品位が無くなる、とおっしゃるか? そうかも知れない。また、日本の書店では、ヘアヌードどころか、飛んでもなく下品な写真集や雑誌が、子どもたちの目や手が届くところに大量に陳列されており、これが内外の心有る人々の批判のまとであることも、承知している。かく言う私自身が、「アダルトCD−ROMの憂鬱」という小文で苦言を呈している位だ。

 しかし、ことの善し悪しはともかく、ここはそういう国、そういう社会なのである。そういう前提条件の元で、戦わなくてはならないはずだ。(大人の)男性(や女性)の目を奪い、その財布から数千円を抜き取って行くビデオや写真集が、CDのライバルのはずである。不況であるか否かに関わらず、個人の遊興費は有限なのだから、菅野美穂の写真集が1冊売れれば、CDの売り上げは1枚、確実に減ったと認識すべきである。気取っている場合ではないはずだ。

 極端な例を出そうか。ベルリオーズの「幻想交響曲」である。これは、そんなにお上品な作品では、絶対に、ない。

 作曲者の分身たる主人公の妄想を紡いでゆく、この病的な交響曲の終楽章は、地獄が舞台。しかも、地獄の情景を描写する音楽でありながら、それは異様な活力に満ちているダンス音楽なのである。

 北方ルネサンスのフランドル派の地獄画の中には、責めさいなまれる男女の裸体が、異様に艶めかしく描かれているものが、しばしばある。幻想交響曲の地獄も、この系譜に属する。ベルリオーズの地獄には、“歓喜”が満ち溢れているのだ。

 しかも、この楽章の最初の方では、主人公が絞殺した愛人が地獄の女王として現れる。それも、卑しい娼婦の姿で。聖女(かどうかはともかく、愛人を絞殺する前の主人公は、彼女に、こういう幻想を抱いていたはずだ)から娼婦への転落。彼女は、地獄の化け物どもを相手に、おもうさま痴態を繰り広げる。(さらに言えば、これは作曲者27歳、独身時代の作品だ。)

 もう、おわかりであろう。この楽章は、どう見ても、SM系AVの世界、地獄の乱交パーティーの音楽なのである。

 しかるに、世のCDはことごとく、そういう写真の一枚も使わず、せいぜい地獄画でお茶を濁している。(まぁ、指揮者のじいさんの色気も何もない顔写真よりは、遥かにましだが)クラシックを知らない若い男性に対するビジネスチャンスを、失い続けているわけだ。

 明日から仕事。こだまで浜松へ。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 7 1998 
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