*1996年10月21日:アダルトCD−ROMの憂鬱
*1996年10月22日:「ミュンシュ・ベルリオーズ集成」について
*1996年10月23日:双子の騎士/エンゼルの丘/アトム今昔物語/ノーマン等、調査
*1996年10月24日:宇宙の眼
*1996年10月25日:進化論とカトリック
*1996年10月26日:Miburi雑感。ブッキラによろしく!/ドン・ドラキュラ/火の鳥、調査
*1996年10月27日:ヒーローマンガの王者:桑田次郎
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*1996年10月21日:アダルトCD−ROMの憂鬱


 ネタの無い日は、昔の雑文。以下は去年の3月に書いたものである..

 ぼちぼちパソコン環境をハード/ソフト共総替えし、CD−ROMも自由に使えるようになる(要は、CD−ROMドライブ内蔵のノート型を狙っている)ということで、ルンルン気分で、CD−ROMソフトの視察をしてきたのですが..

 ..おれは、ポルノショップに来たつもりはないっ![;-_-]凸 なんなんだ、これは一体。

 このジャンルの商品が繁盛しているのはもちろん知っていたし、僕は大人だから、たまには買いたいと思うし(上記パソコンを買ったら、勿論、2〜3タイトルは買うので、出色のソフトを誰か教えて)、だから店頭に並べられていることに否やを唱えるつもりは毛頭無いが、節度をわきまえろと言いたい。これでは、子供が買いにこれないではないか。子供連れでCD−ROMソフトを買いにこれないではないか。なんとかしてその他のソフトと、売場を分離してくれよ。

 これは勿論CD−ROMソフト固有の問題ではなくて、書店とコンビニ! ヌード写真集とアダルトビデオの大量露出はなんとかならんか。僕は大人だから、これらを買いたいことも勿論あるが、写真集は新刊書店ではパックされていて内容が確認出来ないので、結局買わないことがほとんどだし、ビデオに至っては、新刊書店では定価販売のとんでもない価格が付けられていて、ただの一度も買ったことがない(古本屋をこまめに探すのがコツである)ので、なんの役にも立たない、唯の場所ふさぎである。

 不都合なポイントが、少なくとも3点ある。

*その他の書籍等の設置&販売面積の圧迫

 これは、比較的小規模の店舗ほど顕著で、そうでなくとも経営の苦しい小規模書店は、日銭になる?これらポルノアイテムに比重を移しているので、普通の単行本/文庫本/雑誌類が、ますます置かれなくなる。これは本当に困る。

*別にちっとも嬉しくない

 他の人はどうだか知らないが、僕は、昼日中からコンビニの明るい店内で、エロ本を立ち読みしても、ちっとも嬉しくないぞ。TPOというものがあるのだ。こういうアイテムは、薄暗くなってから、そこそこ胡乱な店に、(そこから出る所を誰かに(少なくとも女友達に)見とがめられることがないよう気を配り、コートの襟など立てて)そっと買いに行くところに、趣があるのだ。

 江戸川乱歩に「赤い部屋」という短編の佳作がある。筋は伏せるが、夜の闇の魅力/魔力と、夜の闇の下では輝かしい魔力を放っていたアイテムや幻想が、陽光の下でしらけた姿を晒すさまの対比を見事に描き出した、ある意味では乱歩が手の内を公開してしまったとも言える、大胆な作品である。

 ポルノアイテムなんぞは、虚しい幻想の商品である。冷静に考えてみれば、こんな物に金を払う理由など、全くない。「にも関らず」ついつい買ってしまう所に、人間のおかしみ/哀しみ/面白味があるのだ。これが無駄で無意味な消費/浪費であるとは、僕は絶対に思わない。そしてその「幻想」を支えているのが、夜の闇、あるいは薄明、そして胡乱な店なのだ。断じて、明るい新刊書店ではない! あれは、幻想を破壊し、健全化し、萎えさせてしまう。「日常のすぐ裏側に在る」不健全な世界、というのは、絶対に必要なのだ。

*子供が可哀想である

 幻想を剥奪された、色あせたヌード写真の群れに取り囲まれている小中学生が、本当に可哀想である。彼らは、大人になることへの憧れやときめきを、我々の世代よりも、遥かに少なく持つことしか出来ないのではないか。

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*1996年10月22日:「ミュンシュ・ベルリオーズ集成」について


 定期購読雑誌の数を数年前に大幅に減らした結果、今では「SFマガジン」「レコード芸術」「インターネットマガジン」だけである。この他に、吾妻ひでおのマンガを切り抜くために [;^J^]定期購入しているマンガ雑誌が2冊。「サイエンス」は恥ずかしながら、定期購入しているものの未開封積読状態である。

 とにかく、読むのに時間がかかるから。ここまで絞っても、SFMの主力である小説は、琴線に引っ掛からなければ、まず読まないし、レコ芸の主力である新譜月評も、昔は全て目を通していたのだが、今では、買う可能性がほとんど無いCDについては読んでいない。

 これらの雑誌の発売が月末に集中しているので、月末は大忙しなのである。手早く片付けないと、原稿も書けない。

 さて、今月のレコ芸に、ちょっと気になる新譜の広告が載っていた。

 「ミュンシュ・ベルリオーズ集成」である。

 ミュンシュのRCAへの全ベルリオーズ録音を集大成し、ニュー・リマスターでまとめた日本独自企画。12月18日限定発売で、10枚組1万5千円。

 問題は内容で、

*ロメオとジュリエット(MONO)
*夏の夜
*ファウストの劫罰(MONO)
*ベアトリスとベネディクト序曲(STEREO)
*序曲“海賊”
*ベンヴェヌート・チェリーニ序曲
*キリストの幼時
*イタリアのハロルド
*序曲“ローマの謝肉祭”
*レクイエム
*幻想交響曲(2種)
*ロメオとジュリエット(STEREO)
*ベアトリスとベネディクト序曲(MONO)
*ファウストの劫罰より、地獄への騎行(STEREO)

 これらのうち、最後の3点を除き、全て(主として輸入盤で)所有しているのである。この3点、特にロメオと地獄への騎行は貴重品には違いないが、これらのためだけに1万5千円は、ちょっと..ニュー・リマスターということで、音質が“大幅に”改善されたという情報が入るまでは、ペンディングである。(もともと私の耳には欠陥(疾患)があり、私はオーディオマニアとしての資格を欠いている。従って、マニアにしか聴き分けられない程度の音質改善では、無意味なのである。)

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*1996年10月23日:双子の騎士/エンゼルの丘/アトム今昔物語/ノーマン等、調査


 休日出勤の代休を取って、国会図書館に出向く。今日は主として「なかよし」誌の調査。雑誌課別室では「双子の騎士」「エンゼルの丘」を、新聞閲覧室では「アトム今昔物語」(11ヶ月分)をバリバリチェック。また、雑誌カウンターでは、週刊文春に連載された「アドルフに告ぐ」の最終巻分を読了。終盤の描き足し箇所もチェックしておく。

 例によって閉館後は現代マンガ図書館。「ノーマン」のチェック完了。現代マンガ図書館で調査すべきネタも、尽きつつある。COM→マンガ少年の「火の鳥」、及び晩年の少年チャンピオン連載作品群は、ここで読めるのだが、1950年代、60年代の古い雑誌の多くが歯抜け状態であることと(これは国会図書館も同じ)、学年誌の類がおかれていないのが痛い。

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*1996年10月24日:宇宙の眼


 ボイトレのレッスンから帰宅して、空を見上げれてみれば、おぉ、これはなんと巨大な月の暈! どうみても眼球である! 宇宙の眼である! PKDである!

 「3軒茶屋の2階のマンガ屋」の写真版カタログから、鉄腕アトムのデータを拾い、それを現行のリスト上にプロットしてみる。やはり何ヶ所かおかしい。仕方が無い、次回から、国会図書館の雑誌課別室では「少年」調査だ。「少年クラブ」と「少年ブック」の調査を予定していたが、これは後回し。「少年」の調査に、推定3日間はかかるだろう。しかもそれだけ時間をかけても、別冊付録は(ほとんどの場合)蔵書されていないので、実のところ「アトム」の初出テクストの半分も読めないのであるが..(図書館にない別冊付録を買い集める、という手段も、確かにあるし、部分的にはこれを採用するつもりだ。しかし、ことごとくとはいわぬまでも、8割方の別冊付録を入手しようと思ったら、10年内外の年月をかけて、ひと財産と引き替えにする覚悟がいる。)

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*1996年10月25日:進化論とカトリック


 CD−ROMの英和辞典で、非常に評価の高い「リーダーズ+プラス」が欲しくなったので、終業後、Y書店に探しに行く。が、無い。しゃぁない、明日、上京して買おう。(この件、昼間に職場で後輩に相談したら、んなもんインターネットかニフで買えばいいじゃありませんか、と、もっともな忠告をされる。しかし、今すぐ使いたくなってしまったのだから、仕方がない。上京すれば、ついでもある。)

 街中に出たついでに、ビールの1杯サービス券があるので、Aに行こうかと思ったが、久しぶりにイタリア海鮮居酒屋のCに行く。カクテルを飲みながらパスタなど。

 帰宅したら夕刊に「ローマ法王が進化論認める」という記事が。(留保付きで「肉体の進化論は認めるが、われわれの精神は神からもらったもので、人間の精神は進化論と関係ない」由。)こういうことをされると、聖書学派とか、進化論は間違っているとして教えない、アメリカの高校などが困るのではないか。あ、彼らは新教系なのかな? だとすれば法王の言葉(見解)などには惑わされないのかな? 良く判らん。[;^J^]

 (確かカトリックでは、法王の言葉は“無謬”であるはずである。例え“神の代理人”であろうと、たかが一個人の言動が“無謬”でありうるとする発想は、私にはなんとも滑稽に思え、まるで(マルクスは無謬であると考えた)共産主義のように見えるのだが、それが宗教であるという意味では、共産主義もカトリックも、確かに見分けはつかないとは言える..などという嫌味はさておいて。)

 これがカトリックのしたたかなところで、争っても勝ち目のない部分からは戦略的に撤退し、本体を守る。いずれ人間精神がただの化学反応に過ぎないということが争えない時代が来れば、その化学反応の法則を作り、化学反応のそもそもの原因を作ったのが“神”である、という声明を発表するはずだ。賭けてもいい。

 カトリックは不滅なのだ。変貌を重ねゆくその姿(実体)が、いつまで“カトリック”であり続けるのかは、ともかく。

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*1996年10月26日:Miburi雑感。ブッキラによろしく!/ドン・ドラキュラ/火の鳥、調査


 東名バスで上京。いつもは8時5分浜松発→12時4分霞ヶ関着(→12時15分東京着)という便を使っているのだが、今日は東京に少し早めに着きたい(がしかし、新幹線を使うには惜しい−新幹線だと7410円、東名バスだと3700円)ので、7時浜松発→11時36分霞ヶ関着(→11時47分東京着)という便に乗ってみた。出発時刻が1時間早いのに、到着時刻が30分しか違わないのは、超特急と特急の差である。停車駅が多いのだ。

 いまいちである。停車駅が多いということは、(インターでの思わぬ渋滞や、途中駅での思わぬ大人数の乗客など)遅れるチャンスも多いということだ。結局40分遅れて、12時9分霞ヶ関着。これでも8時5分発より早く着くことは間違いないにしても(今日は首都高もそれなりに混んだので、8時5分の便は、さらに遅れたであろう)、1時間の早起きには見合わない。

 車内放送のテープが不気味であった。[;^J^] テレコの調子が悪く(バッテリーが寿命か?)、モーターのトルクがほとんどお釈迦でワウフラも酷く、最初の「ピンポーン」が「ひゅるりららるるぅぅ、ひゅるるるるぅぅぅぅ………」と聞こえる始末で、いきなり目が覚めた。[;^J^] メゾソプラノのアナウンスがアルトからバリトンの音域を上下し、強烈なワウフラでむせび泣くようなビブラートがかかり、どんどんピッチが落ちて、「daisy.. daisy..」と歌いだされても全く不自然ではない状態。あぁ恐かった。[/_;]

 霞ヶ関から丸の内線でお茶の水へ。(ちなみに、東名バスで上京する時の悩みは、霞ヶ関バス停の前の地下鉄入り口から、丸の内線のホームまでが、非常に遠いことである。)三省堂で「リーダーズ+プラス」のCD−ROMを入手、中野書店を手早くチェックし、神保町の路上で丁度古本祭りをしていた、その後ろ髪を引っ張る妖怪どもの手を振りほどき蹴散らして地下鉄に飛び込み(時間が無いんだってば)、池袋へ。

 サンシャインシティで MIDI WORLD。仕事絡みの生臭い話は書きたくないので、そのへんの(シンセサイザーの新製品の)インプレは置いといて、Y社のMiburiについて思うことを。

 Miburiとは、体のあちこち(肩、肱、手首、足など)にセンサーをつけ、それの発する信号で(つまり“身振り”に反応して)電子楽器をコントロールする、という、新しい考え方の(といっても、原アイデア自体は、そうとう古い)楽器、あるいは、楽器制御装置である。これの実演を、初めて観た。

 あと10年作りこめば、楽器に近づくであろう。現時点では、これはまだ、音楽の行為とは言えない。

 どういうことかと言うと、音楽のパッションと肉体とが乖離しているのである。例えばスター・ウォーズのテーマを、中々見事に“体の身振りで”演奏してみせてくれたが、どうみても、肱や手首で、そっと空中に音を“置きに行っている”。

 あの音楽。あの頭の中をスカッと心地好く吹きぬけてゆくファンファーレ。これに相応しい肉体の動きは、腹の底から吹き上げるブロウ(トランペット)、体ごと右腕を波打たせるボウイング(ヴァイオリン)、背中から降り下ろすスティック(ティンパニ)、ハイキック、ローキック、回転飛び膝蹴り(..そんな楽器はないかも [;^J^])であろう。

 これが例えば背中を丸めて端末に向かっての演奏ならば、不自然には違いないが、もとより肉体性が皆無であるが故に、まだ救われているのだ。Miburiの問題点は、それが純粋に肉体の動きによるコントロールであるにも関らず、肉体の自然な動きを封じているところにある。

 むしろ、このようなセンサー群をつけて、自然に肉体を動かしてみて出力される音楽とはどのようなものか、という、シーズからのリサーチを行なうべきかも知れない(いや、当然、さんざん行われたのであろう)。これはこれで往年の“前衛音楽”の栄光と没落をなぞることになりかねないが。

 あるいは、音階を制御するのではなく、音量や音色を制御すれば良いのだ。手を思い切りよく振り回すと音量が大きくなる、というのは、実に自然ではないか。また、手に音色切替ボタンの並んだリモコンを握っているのだが、これは良くない。両手はMiburiの制御から解放して、好きなパフォーマンスをさせるべきだ。そういう“ソフト”の練り上げが、まだまだ不足しているのである。

 ダンスを踊ってダンス音楽が出力されるようになるまで、あと10年。私は、そう見た。楽しみなことではないか。

 池袋まで来たのだから、当然、次は現代マンガ図書館である。(池袋から有楽町線で3駅目。)「ブッキラによろしく!」「ドン・ドラキュラ」、そして、「火の鳥」の黎明編と未来編を片付ける。

 さらに「3軒茶屋の2階のマンガ屋」に寄り、写真版カタログの Vol.1 を入手。(今まで、Vol.2 - 4 しか持っていなかったのだ。)Vol.5 は、年末発行予定である。

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*1996年10月27日:ヒーローマンガの王者:桑田次郎


 リープラプラ(「リーダーズ+プラス」のこと)をインストール。なるほど、こりゃ便利だ。もっと早く入手すれば良かった。やはり辞書の命は語彙数だよなぁ。

 SFマガジンのお気に入りの連載エッセイ「とても変なまんが」(唐沢俊一)の今月号(第22回)は「B級ヒーロー大集合」である。懐かしの「遊星ナンバーワン」(関谷ひさし)が取り上げられているのに嬉しくなってしまって、「3軒茶屋の2階のマンガ屋」の写真版カタログを読みなおす。このカタログは、美術(画像)資料としても、一級品なのである。

 往年のヒーロー漫画の数々。無論、B級もあればA級もC級もあるのだが、しかし改めて感銘を受けたのは.. 思わず「ほぉぉ…」という嘆声を上げずにいられなかったのは.. 桑田次郎の諸作品(の表紙絵)であった。

 もう、圧倒的な素晴らしさなのである。

 「エイトマン」は言うまでもないが..「ガロロQ」「電光少年」「まぼろし探偵」「Xマン」「エリート」「ミュータント伝」「カワリ大いに笑う!」「豹マン」「東京Zマン」「キングロボ」「ビッグ・トーリィ」等など..

 まさに、ヒーローマンガの王者だ。この時期、このジャンルで活躍していた他の俊才たち、横山光輝も、藤子不二雄も、一峰大二も、そして手塚治虫も、全く相手にならない。相撲で言えば横綱と十両か。根本的に“くらい”が違うとしか言いようがない。文化背景も歴史背景も違うのだから単純に比較しても無意味であるアメコミと、敢えて比較してみても、これほど優れたデザインのヒーローたちは、かの国にもほとんど存在しないと思える。

 驚くほどシンプルな描線。無駄な装飾が、全く存在しない。ヒーローも悪役もロボットもベムも、そのコスチュームや形態は実に単純なのに、どうしてこれほど胸ときめかせるほどファンタスティックなのか。

 いずれ誰かが、桑田次郎の業績をまとめ、リストを編集しなければならない。その大役が私に回ってこないことを願う。(大変なんだから、ほんとに。[/_;])

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 27 1996 
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