新・ベルリオーズ入門講座 第1講

幻想交響曲 − ある芸術家の生活の挿話 (1830)



“ですから、却つて私は、ベルリオの幻想交響樂(シンフォニカ・ファンタジア)でも聽く心持がしました。たしかあれには、絞首臺に上つた罪人が地獄に墮ちる──その時の雷鳴を聽かせると云ふ所に、雹のような椀太鼓(ティムパニー)の獨奏(ソロ)がありましたつけね。”

(小栗虫太郎『黒死館殺人事件』より)


 この交響曲の、西洋音楽史上における意義については、先刻承知であろう。いわく、標題音楽の嚆矢。いわく、のちにヴァーグナーの“指導動機”として結実する“固定観念”の導入。いわく、独創的な楽器法。しかしちょっと待って欲しい。これらは必ずしも間違った理解ではないが、この“妖怪”の本質は、これらにつきるものではない。

 幻想交響曲の真の“意義”は、以下の三点に絞られるのではなかろうか。即ち、「コンサートホールへの劇場感覚の導入」、「様式と表現の多様性」、そして、「独創的なリズム」。

 「劇場感覚の導入」とは、「オペラとの合体」を意味しない。早い話が、幻想交響曲には、声楽も語りも導入されていない。ベルリオーズにとっては、オペラこそが至上至高のものであって器楽やコンサートホールはそれに従属すべきものだったという訳では、「ない」のである。むしろ逆である。彼は、コンサートホールにおいてこそその真の天才性を発揮した。彼はオペラ的発想、オペラ的フレバーを交響楽に注入し、その新次元を切り開き、新たな地平に到達させた。これがベルリオーズの最大の功績である。

 「オペラ的発想」とは、まず、「ドラマ」の導入を指す。この交響曲の有名な「プログラム」については、あとで触れるが、音楽が、「音楽の論理ではなく、ドラマの論理によって進行している」ことが重要である。これが、単なる「描写的標題音楽」と、この作品とを分けるポイントなのである。例えば、第1楽章の構成は、ソナタ形式の拡張と言えるようなものではなく、逆に、奔放な幻想に形式上の制約を科すことによってその暴走を食い止める、その枷として「ソナタ形式」が利用されていると見るべきである。そして、これは幻想交響曲に限らず、彼の後年の多くの「劇的作品」に共通してみられる特徴なのであるが、確固たるストーリーを持たず、むしろ独立した情景が併置されているのである。これは、一面では作品の論理的な凝縮力を弱めているのだが、後述する「様式と表現の多様性」とあいまって、しばしば目覚ましい効果をあげている。特に、幻想交響曲は後述するように“悪夢”の交響曲であり、“論理的にゆるやかに結び付けられた5つの情景”という構成は、作品の“悪夢性”を、いやが上にも、かきたてている。

 「オペラ的発想」には「オペラの手法の応用」も含まれる。具体的には、第3楽章と第5楽章における、舞台裏からの音楽(オーボエ、鐘)のことである。無論、これは単純に「距離感」の導入、音楽空間の拡張でもある。これも(交響曲にとっては)決して小さな発明ではないが、それ以上に、オペラにおいては、「舞台裏」からの音楽は、「現実の舞台」にとっての「虚構の舞台」からの音楽であり、そもそもオペラ(劇)自体が「虚構」なのであるから、二重の「虚構」なのであった。これが「交響曲」すなわち「コンサートホール」に導入されたということは、この「交響曲」にとっては「オペラ性」自体が「虚構」なのであるから、実に三重の「虚構」なのである。「舞台裏」からの音楽が、これほどまでに不安定感を与え、現実感が希薄なのは、この「虚構性の多重構造」から来ているのであった。そしてこの“現実感の希薄さ”が、上述した“悪夢性”に結び付けられることは言うまでもない。(第5楽章の鐘に関する技術的な議論については、「幻想交響曲の鐘について」を参照していただきたい。)

 さらに「固定観念」。これはいまさら言うまでもないが、ある架空の「登場人物」を導入したという点で、著しくオペラ的な発想であった。但し、幻想交響曲における「主人公」の役割は、全く風変わりである。つまり「何もしない」のである。舞踏会に出たり、遠雷を聞いたり、処刑されたり、それなりの冒険をしているようではあるが、能動的な行為を一切行わない。早い話が「愛人を殺していない」。プログラムでそのように語られているだけなのである。音楽の上では、「主人公」は、全ての情景を(己自身の処刑すらも)傍観しているのだ。これもまた“悪夢”の特質に他ならない。またしても“悪夢”だ。(これほどまでに顕著な“悪夢性”は、幻想交響曲に固有の特質であって、ベルリオーズの作品が一般に悪夢的である、ということではない。が、例えば『イタリアのハロルド』や『ファウストの劫罰』は、明らかに“悪夢”を記述していると言えよう。)

 次に、「様式と表現の多様性」について述べる。この曲の、特にドイツ系の交響曲を聴き慣れた耳には異様に響くであろう、「取りとめの無さ」と「まとまりの悪さ」。これこそが、幻想交響曲の誇るべき「新しさ」だったのである。特に、楽章ごとのオーケストレーションの性格が著しく対照的なのは、伝統的に楽章間のばらつきを極力小さく抑えてきた交響曲らしからぬことであり、むしろ、ひとつひとつの場面に鮮やかなコントラストをつけるオペラの手法を思わせるし、これは上述した「オペラ的発想」のひとつに他ならないのだが、多少大風呂敷を広げて言えば、近代美学の特徴であるところの、様式上の不統一、パロディー、グロテスク、さまざまなスタイルを技巧的に駆使する手法を前面に押し出した音楽は、ベルリオーズの作品をもって嚆矢とするのであり、その最初の顕れが、幻想交響曲だったのである。ここでは、固定観念は、全曲を統一するどころか、むしろ各楽章の多様性を際立たせているかのごとくである。

 最後に、「独創的なリズム」。幻想交響曲で「リズム」と言えば、誰もが第4楽章を想起するだろうが、それもそうなのであるが、例えば第3楽章後半。固定観念を想起するところで、完全に拍節感が混乱してしまう。音楽の流れが止まり、別の(心理的)現実の時間が流れ込む。これも実は、オペラに由来する手法に他ならないのだが、その起源(オペラ)での制約を越えて、文学作品に匹敵する自由度を獲得していると言えよう。こういう異化作用を伴う、ほとんどメタな用法はおくとしても、譜面上では、変拍子がほぼ全くないとは信じられないほどの、多彩なリズムが印象的である。

 そして、以上に述べた三つの革新的な要素(「コンサートホールへの劇場感覚の導入」「様式と表現の多様性」「独創的なリズム」)は、ベルリオーズの生涯の“固定観念”となったのだった。

 ここで忘れてはならないのは、これほどまでに“革新的”な音楽が、当時(1830年)のパリを熱狂させた、という事実である。我々は、ベートーヴェンの死後、僅か3年にして、これほどまでに“現代的な”交響曲が誕生したことは、注意深く覚えているが、そのベートーヴェンすら、まだ“前衛音楽”として捉えられていた当時のパリの聴衆に、この交響曲が受け入れられたことは、忘れてしまいがちである。

 ベルリオーズと彼の幻想交響曲は、決して、孤独な先覚者ではなかったのだ。彼は(大多数の、ではなかったかも知れないが)聴衆を味方につけたのである。理由は色々考えられるが、当時のパリの文芸界を席捲していたのは、E.T.A.ホフマンのロマン派小説であり、ゲーテの「ファウスト」であった。(幻想交響曲のプログラムが、「ファウスト」の影響を受けていることは明らかであろう。)つまり、当時のパリにあっては、「幻想的(ドイツ)ロマン派」が当世風だったのであって、ベルリオーズは、見事に時流に乗ってみせたのであった。同時に、文学界のみならず楽壇においても、ロマン派的なもの、ベルリオーズ的なものが準備されつつあったとみなしてよかろう。つまり、幻想交響曲は、生まれるべくして生まれたのである。しかしそれにしても、「ドラマ」「交響曲」「ファンタジー」を有機的に結合させた創意は、並大抵のものではなかった。



 プログラムについて大雑把に記すと、これは、ある芸術家(無論、作曲者自身がモデルであろう)が恋に絶望して阿片自殺を計ったが死にきれず、一連の“悪夢”を見る、その各場面なのである。


第1楽章 夢と情熱
特定のシーンというよりは、主人公の心理描写。憂愁、憧憬、熱情、諦観。
第2楽章 舞踏会
主人公は、舞踏会で愛人の姿を垣間見る。
第3楽章 野の風景
主人公は、野原で心の平安を得ているが、愛人を想い出し、その不実を疑って心乱される。遠雷。日没。
第4楽章 断頭台への行進
(主人公は、愛人を殺してしまった。)彼は断頭台に曳かれて行く。群集の熱狂。ギロチンの刃が落ちる直前、愛人の姿を想い出す。
第5楽章 ワルプルギスの夜の夢
主人公は地獄に落ちた。地獄の怪物どもの呼び交わす声。彼の愛人が現われるが、下品な娼婦になり果てている。弔鐘が鳴り、彼の葬儀が始まる。地獄のロンド。

 実は、幻想交響曲のプログラムは、作曲者によって演奏される度に細かく変更されており、現在、少なくとも13種類確認されているらしい。それは大体3つの版に分類出来て、その最も初期の版では、現在の第2楽章と第3楽章の順序が逆になっているのだが、これは初演前の書簡であるので、一応無視してよかろう。上に紹介したものは、最も良く知られている(と言うより、私の知る限りほとんどのレコード/CDにおいて引用されている)版であり、これは1855年以降の出版譜に記されている最終版である。

 最初の出版譜(1845〜6年)には、これとは異なるプログラムが記されていた。この版では、第3楽章までは現実であり、第3楽章と第4楽章の間で主人公は阿片を飲み、第4楽章以降が悪夢の情景である、とされていた。なるほど、確かに第3楽章までの音楽には時として高貴な美しさすらあるのに、後半2楽章で、一気にグロテスクな世界に突入するのが、納得できる。最終版では、全5楽章共、悪夢の情景である(つまり主人公は、音楽が始まる前に既に阿片を飲んでいる)とされたのだが、これは、のちに取り上げる「レリオ」が、「幻想交響曲の続編」として続けて演奏される際に、バランスを取るためであるらしい。1855年版の、作曲者によるまえがきには、以下のように記されている。


 「劇場で『幻想交響曲』を演奏し、引き続いて、「ある芸術家の生涯のエピソード」を補完し、完成させる「モノドラマ(レリオ)」を演奏する場合には、以下のプログラムを必ず聴衆に配布しなければならない。この場合、オーケストラは客席から見えないように劇場の舞台に幕を下ろしてその後ろに配置する。
 交響曲だけを切り離してコンサート形式で演奏する場合には、この指示の限りではない。プログラムの配布も必要ではない。聴衆は5つの楽章の標題さえ覚えていれば十分である。この交響曲は、一切の演劇的な関心を抜きにしても、それだけで音楽としての魅力を十分にそなえている(と作者は期待している)」

 これを読むと、一見、ベルリオーズはこのプログラムを破棄しているかのごとくであるが、言うまでもなく、それは誤解に過ぎない。上記のまえがきを丁寧に読み直せば自明のことであるが、彼は、「プログラムは、なくても良い」、つまり、「なくても通用する音楽である」(いわゆる、プログラムや標題を持たない「絶対音楽」としての価値をも包含している)と、自信満々なのである。この作品のデモーニッシュな側面を最大限受容しようとするのならば、やはりプログラムは意識すべきである。

 では、初版と1855年版と、どちらのプログラムが、より妥当か。単独で演奏されるのであれば、初版(すなわち、後半のみ悪夢)、レリオが続けて演奏されるのであれば、1855年版(全曲悪夢)とすべきなのであろうが、私自身は、単独で演奏する場合でも、1855年版のプログラムを支持する。この場合、「愛人殺し」が描かれていない(第4楽章に括弧つきで記したが、この「殺人」は、第4楽章が始まる前の出来事なのである)、ということが、不気味な迫真性を持ってくるからである。「ここに、幻想交響曲の本質がある!」と叫びたい思いだ。1855年版のプログラムを採用するとすると、これは筋道の通った「ドラマ」ではないのである。まさに“悪夢”だ。愛人に対する疑念という強烈な「固定観念」を抱いて、生死の淵をさ迷う青年が、「脈絡もなく」様々な場面を「想起する」。肝心のシーンは(無意識のうちに?)避けながら、その前後の情景がくっきりと見えている。この不気味なもどかしさ。幻想交響曲の真の独創性が、ここにある。単なる風景や抽象的な概念を標題化した作品は、枚挙にいとまがないが、「“悪夢”の様々な局面」を「夢の構造と特質を保ちつつ」、これほどまでにリアルに描いた作品が、幻想交響曲以前にあっただろうか?



 この“悪夢の交響曲”に、「ロマン的解釈に傾斜し過ぎることなく」「古典的造形を明らかにし」「純音楽的な魅力を引き出している」「大人の」演奏解釈など、不要である。なぜならば!

 幻想交響曲が作曲されたのは1830年(作曲者27歳)であるが、20台のベルリオーズはどういう青年であったか。医大通いの素人作曲家が、ようやく偉大な教師、ル・シュールに認められたのが、20を過ぎてから。従って、20台半ばと言えば、作曲家としてはまだ青春まっさかり。しかもそんなひよっこであり、仕送りを受けている身分であるにも関わらず、大作のミサ曲等を作曲しては、大きなホールを借りて自作演奏会を催し、その度に巨額の借金を背負うという、この身の程知らず! もう、熱いのである! あなたにも覚えがあるでしょう。世界は自分のものだ、自分はどこまでも遠くに歩いて行けるのだ、どんなに貧乏でも、どんなに惨めでも、それでも世界は輝いている!

 そういう、最も多感でハイな時期のベルリオーズの芸術受容体験をざっと眺めてみれば、僅か数年の間に、「魔弾の射手」初体験、シェークスピア(ロメオとジュリエット)初体験、ベートーヴェン初体験(当時のパリでは、バリバリの前衛音楽)、ファウスト初体験、と続くのである。これは狂う。嵐といってもいい。この暴風雨を走り抜けた27歳の青年が、自らの失恋を契機に、自分を顧みない女に対する復讐の念を込め、彼女を徹底的におとしめたドラマとして書き上げたのが、幻想交響曲なのである。(但し、正確な事実関係は判らない。本当にこれだけが作曲の動機だったと考えるのは、ロマンティックに過ぎるとも思う。進行中の作品に上記の経緯が反映された、というあたりが真相ではあるまいか。)

 若書きなのである! 青いのである! しかし粗削りでありながら、ほとんど制御不能のエネルギーの奔流がある! 未来がある、可能性がある、己の才能を信ずることに命をかけた、野心が、夢がある! 熱いものは熱いまま呈示すればよい。燃えるものは燃えるように再現すればよいのだ。見栄え良く、こ綺麗に化粧をする必要などない!

 “悪夢”の“幻想”! “狂気”の“幻想”! (この驚異の交響曲の中心は、第3楽章終結部の“遠雷”なのだ。この恐るべき轟きこそ、正気から狂気へ、夢の中の現実から夢の中の夢への分岐点、“魔の刻”なのである。)ここで、エピグラフに引用した、小栗虫太郎の悪魔的超傑作「黒死館殺人事件」中の“幻想交響樂”への言及を読んでいただきたい。これは、プログラムとは矛盾しており、その意味では作者の誤り(記憶違い)であるが、“悪夢の交響曲”の解釈としては、これもまた正しいのだ。何故ならば、5つの情景は、“悪夢”の情景であるが故に、論理的なつながりや明晰性は保証されておらず、どのような順番で“発生”しようが“体験”されようが、それは聴く側の勝手なのであるから。


*データ

作曲年代
1830年(1831年改訂)
初  演
1830年12月5日:パリ
編  成
ピッコロ1、フルート2、オーボエ2(1人はコーラングレ持ち替え)、クラリネット2、バスーン4、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ2、ティンパニ2対(奏者4人)、大太鼓、小太鼓、シンバル、鐘、弦5部、ハープ2
構  成
全5楽章。詳細は略。本文参照のこと。
所要時間
約50分

*推薦CD/LD

* レヴァイン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 (ポリドール ドイツ・グラモフォン POCG1487)
 大変、柄の大きい演奏であり、どちらかと言えば重量感が勝っている。ベルリン・フィルの戦闘力を見事に引き出している。特に、弦。
* バレンボイム/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 (ソニー ソニークラシカル SRCR2009)
 新しい録音の中では、私が望む「悪夢の雰囲気」を、十全ではないにしても、比較的色濃く漂わせている盤である。この不健全な雰囲気は、実に素晴らしい。
* テミルカーノフ/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
 (BMGビクター RCA BVCC118)
 この第1楽章冒頭には驚いた。ここまで大胆な演奏は、こんにちでは貴重である。但し、全曲が、これほどまでに大胆な表情で統一されている訳ではない。評価の分かれるポイントであろう。
* ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
 (日本フォノグラム フィリップス PHLP4813)(LD)
 同一テイクのCD(PHCP5093)も発売されている。オリジナル楽器を使って初演会場でライブ収録した、貴重な文献である。演奏内容については多少の異議が無くもないが、その音色の面白さには抗しがたいものがあるので、オフィクレド、セルパン等の興味深い演奏風景が鑑賞できるLDのみ、推薦盤とする。


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 5 1998 
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