2020年04月06日:コロナのせいにするな [;^J^] 2020年04月07日:緊急事態宣言発令 2020年04月08日:作詞家:北山修 2020年04月09日:幻想美術選「火星人」フランク・R・パウル 2020年04月10日:平成怪奇小説傑作集 2020年04月11日:169万人/10万人 2020年04月12日:ノートPCを新調したい目次へ戻る 先週へ 次週へ
快晴。強い西風。会社までの往路の祝田の下り坂が恐い [/_;]。泣くな..[/_;][/_;][/_;][;^.^]
なんだかんだで発注してから数ヶ月近く納品されていない品が、いくつかある。カメラのレンズの蓋とか書籍とか..物流の混乱(どころかここ最近はものによっては製造不能)のせいと言われれば引き下がるしかないし、いずれにせよ、「不要不急」かつ代金の払い込みもしていないので、構わないようなものではあるが..
..考えてみれば、これらはいずれも(国/地域によって時間差はあるが)コロナ禍が本格化するよりも「前」に発注しているのである。単に対応が遅くてぐずぐずしている間にコロナが始まってしまい、それにちゃっかり乗じてしまっている(自分たちの仕事の遅さを「無かったこと」にしてしまっている)という感が、無きにしも非ず..裏を取れないが。[;^.^]凸
明日、緊急事態宣言発令の予定。7都府県で、1ヶ月程度。
目次へ戻る..さて、これで終息するのか、だ。「感染地域を長期間完封すれば収まる」、というロジックが、私には十分飲み込めていないのだが、仮にそれが「真」だとして..
..東京・大阪を「完封」できるわけがないだろう..
目次へ戻るCSのフジテレビネクストで毎月楽しみにしている、「しおこうじ玉井詩織×坂崎のお台場フォーク村」。3月19日に録画した「第106夜」をようやく視聴した。メインのゲストは、きたやまおさむ(北山修)だった。
私はもちろん、「ザ・フォーク・クルセダーズ」というバンド名は知っていたし、私の年代で「帰って来たヨッパライ」を知らない人は、いない。しかし個々のメンバーの名前までは知らなかったのである。
北山修が作詞した曲が、興味深いトークをはさんで、次々と演奏されたのだが..唖然としてしまった。「あの素晴らしい愛をもう一度」「花嫁」「白い色は恋人の色」「花のように」「さらば恋人」「花のかおりに」「風」「感謝」「戦争を知らない子供たち」..なんということだ。私が知っている/私が憶えている「あのころの素晴らしい歌」は、すべてこの人が作詞したのではないかとすら、錯覚しそうになった。
早々と音楽業界から足を洗い、学問の世界に入って学会の重鎮となり、第一線を退いた今、パソコンの歌詞自動生成ソフトに(超一流の作詞家として、こんなものは認めない!と無視/反発するのではなく、逆に)興味をしめして遊んでいる..素晴らしい人生というほかないではないか。
目次へ戻る「幻想美術選」、第191回。久々のSF画家。それも、史上最大級の大物のひとりである。
Frank Rudolph Paul(1884〜1963、Wikipedia)は、まさに「SF画の父」である。まずは、画像検索結果 を見ていただきたい。古色蒼然? レトロ? 確かにそれはそうだろう。しかしそこには「絵空事とも言いきれない存在感」が、ないだろうか? 「SF魂」を感じられないだろうか? パウルは、時代時代の最先端の科学知識を吸収し、かつ、(ここが重要なのだが)「それを、フィクション(につけられる絵)を魅惑的にする裏づけとして利用した」のである。あくまでも、フィクション(SF)が「主」なのであって、「従」ではないのだ。そしてそこでは「SFの楽しさ」が、まさに爆発しているのである!
彼はもともとテクニカル・イラストレーションの出身であり、メカに強い。そして、未来都市/宇宙都市。また、メカ系だけではなく、宇宙生物/エイリアンのデザインにも瞠目すべきものがあるという、まさに万能選手だった。
あなたは、こういうSF画家を、もうひとり知っているはずである。確かな理科系の素養をもち、メカも都市も異生物も異星の風景も能くする、多作で万能のSF画家を..
..そう、手塚治虫である。
私が先に述べたパウルの美質は、すべて、手塚治虫にもあてはまる。パウルの絵は、確かに、「今の目で見ると」それはそれはレトロで大時代なものかもしれない。それはたとえば(初期の)「鉄腕アトム」についても言えることのはずだが、しかし、われわれがそこに感じるのは「レトロ」だけだろうか? 手塚治虫の輝くばかりの想像力/創造力に圧倒されるのではないだろうか..?
パウルに戻ろう。確かにメカも素晴らしいのだが、ここでは、パウルが描いた異星人の傑作をご紹介しよう。それは、「火星人」である。
不思議なデザインだが、ちゃんとそれなりの理屈に裏づけられているのだ。これが、パウルならではなのである。「火星の大気は稀薄なので聴覚だけでなくテレパシー能力が発達にしているに違いなく、そのためのアンテナがあるに違いない」「稀薄な大気のために耳は大きく発達しているに違いない」「極寒の環境に耐えるために眼と鼻は体内に引き込めるに違いない」「稀薄な大気のため、肺は巨大なサイズにまで発達しているに違いない」「極寒から肺を守るために胸は濃密な体毛で覆われているに違いない」などなど..そして、こういう「理屈」を下敷きにすると、いかにも頭でっかちな、観念的な、つまらない絵になってしまいがちなのだが..まぁ、見てご覧なさい! いったい誰が、このような「火星人」を描けるというのだ! 「時代時代の最先端の科学知識を吸収し、かつ、それを、フィクション(につけられる絵)を魅惑的にする裏づけとして利用した」という意味が、おわかりいただけただろうか?
このイラスト自体は1949年に描かれているのだが、実は、ほとんど同じ図柄のイラストが、1924年に発表されている。その後、同じコンセプトの火星人が何度も描かれており(前記「画像検索結果」の中にも見られるはずだ)、パウルのライフワークとまではいわないが、生涯こだわり続けた、「火星人」だったのだ。
1924年と言えば、まだまだ「火星の運河」が「見えていた」時代であり、当然、この魅惑的なタブローの背景もまた、「運河」である。縦横に走る(明らかに人工の)運河に沿って、ドームで保護された植物プラントが整然と整備されており、火星人たちが働いている。塔の上の火星人たちは「歩哨」に立っているように見え、さすれば、この、アップになっている火星人が手にしているのは「武器」なのであろうが、かつて、「不思議な楽器を奏でている..」というキャプションを読んだこともある。それは恐らく間違いである(パウルの真意ではない)のだが、しかし私は、そのイメージも好きだ..
運河のすぐ外側には、厳しい火星の砂漠が、遙か彼方にまで広がる..空に浮かぶのは火星の月と、これは航空機か、あるいは中空に浮かぶステーションか..いつまでも観ていられる、蠱惑的な幻想世界..けして存在しない、人間の魂が創り上げた「火星の風景画」なのである..(この連載の初期(4年前)にご紹介した「火星のプリンセス」(武部本一郎)と見比べてみるのも、一興だろう。)
目次へ戻るいろいろあって、読書量、爆落ち中である..[;_ _] なんとかかんとか最近読み終えた「平成怪奇小説傑作集」(1、2、3、東雅夫編、創元推理文庫)について、ざっと書いておく。ただし、収録されている作品の全についてではない。どうしてもネタバラシになる等、触れにくい作品は、省略。また、現時点で内容をよく思い出せない作品も、省略。[_ _]
第1巻。「ある体験」(吉本ばなな)−イタコもの。「墓碑銘〈新宿〉」(菊地秀行)−影の薄い人々。「光堂」(赤江瀑)−新宿での青春の追憶、映画。素晴らしい。「角の家」(日影丈吉)−本当に狒狒だったのか? 「お供え」(吉田知子)−宗教的存在(神)にされてしまうという、静かな恐怖。「正月女」(坂東眞砂子)−土着の言い伝えに絡め取られる。「家――魔象」(霜島ケイ)−実話系怪談の先駆らしい。「静かな黄昏の国」(篠田節子)−没落した日本の未来図。
第2巻。「匂いの収集」(小川洋子)−美しい。匂いの収集がパーツの収集へとスライドする終盤。「グノーシス心中」(牧野修)−ふたりの「怪物」による、宗教的と言って言えなくもない無意味な殺戮。読後感は意外に悪くない。「水牛群」(津原泰水)−敗残者の魂の救済の物語..かな? 「厠牡丹」(福澤徹三)−主体がするりとすりかわるというパターン。「海馬」(川上弘美)−吾妻ひでおの漫画を想起 [;^J^]。ストーリーというより、詩的な設定のみで読ませる。「乞食柱」(岩井志麻子)−生き神(童女〜少女)を襲う性的な危機。生臭い物語のはずだが、どこか不思議に爽やかな空気感が漂う。「トカビの夜」(朱川湊人)−戦後間もなくの貧しいコミュニティにおける被差別外国人との友情を、感動的に描く。「蛇と虹」(恩田陸)−幻想詩篇。いつまでも読んでいられる美しい情景と文章/言葉。
「お狐様の話」(浅田次郎)−やんごとなき家柄の?少女のエクソシズム。「水神」(森見登美彦)−京都の水と関わる一族の小史。良い。「帰去来の井戸」(光原百合)−美しい。この小さな町と素敵な居酒屋の情景が心に沁み入ってくる。「六山の夜」(綾辻行人)−どこか不気味な祭り。いくつもの伏線や設定が説明されないままという悪夢感。諸星大二郎の小説のムードを想起した。「鳥とファフロッキーズ現象について」(山白朝子)−恩返しものの変形だと考えると、非常にオーソドックスな構成である。人の心を読むがごとき「察しのよい」鳥であるが、それ以上の超能力を持つわけでもなく、不気味なリアリティがある。傑作。
第3巻。「成人」(京極夏彦)−実話怪談のフォーマットを借りて、解明されないもやっと感を残す。巧妙である。「グレー・グレー」(高原英理)−ゾンビを気遣い、世話をする一夜。事態(世界)がこうなった説明は、もちろん無い。「盂蘭盆会」(大濱普美子)−途中、ちょっと不穏な展開になりかけるが、非常にオーソドックスな、彼岸の幽霊談である。「【コオロギ】橋」(木内昇)−●●●型の感動的な話。「天神坂」(有栖川有栖)−恨みをのんで死んだ幽霊を、食事で癒す。「さるの湯」(高橋克彦)−これもまた実は全員●●パターンの、鎮魂の物語。「風天孔参り」(恒川光太郎)−スマートな妖怪談。「ガケップチ・カッフェー」(大前田りん)のような展開に始まる。[;^J^]
「雨の鈴」(小野不由美)−死の予兆である黒衣の幽霊(?)の訪いを回避する。「アイデンティティ」(藤野可織)−素晴らしい。近世の輸出産業であったフェイク人魚の視点という、着眼点の良さ。人魚の贋物を購入した西洋人が、その存在意義とアイデンティティを認めてくれる人で、本当に良かった [/_;][;^.^]。「深夜百太郎」(舞城王太郎)−軽妙な文体。3話目の横内さんが、哀れでならない..「修那羅」(諏訪哲史)−擬鏡花文体が最初は鬱陶しいが [;^J^]、すぐに慣れる。文体と調和している、蠱惑的な鏡花世界。「みどりの吐息」(宇佐美まこと)−山の民の正体は..「鬼のうみたりければ」(澤村伊智)−表面的には、合理的な説明をつけられるが..という、緻密で巧妙な構成。
目次へ戻る全世界での感染者数と死者数の、本日までの累計である。もちろん、国により地域により、測定方法(推定方法)も定義も異なるのだから、絶対値としては役に立たないのだが、推移(変化の速度)の尺度にはなる。
大林宣彦、逝去。享年82。合掌..
目次へ戻る今でも、自宅でのメインマシンは、東芝のリブレット100(Win95、オフライン)である。これをいつ買ったのか、と、日記を検索してみたら..1998年4月14日。なんと、22年前 である [;^.^]。われながら、引いたわ..[;^.^][;^.^][;^.^](無論、22年前の個体自体は(おそらく)動いていない。その後何度か同じ機種を秋葉原で入手したり譲ってもらうなどし、かつ、それらの本体/メモリ/ディスプレイなどなどの部品取りをして、動く/使えるパーツをかき集めるなどしてきたので、正確には何台入手したのかわからないのである。[;^J^])
無論、今でもバリバリの現役。能力的に動画再生は不可能だし、静止画像の表示はできるだろうが、(800×480ピクセルでは)意味がないのでやらない。そもそもブラウザも(IE5.5 が限界なので)使わない。アクセスもエクセルも使わない。じゃあ何に使っているのかと言えば、文章書きや、リスト・データベースのメンテや、ホームページのメンテの、プラットホームなのである。無論、すべてテキストベース。動画や音楽は扱えないが、テキストの取り扱いならば、「リブ100のDOS窓に常駐させたVzエディタと“UNIXライクツール群”のコンビネーション」がいまでも最強の環境なのである..(などという古老のタワゴトに、ここはだまってつきあうのが、大人の読者というものだ。[^.^])(UNIXライクツールというのは、jgawk、sed、tr、grep等々、および、これらを組み合わせたBATコマンドのことである。)
..本題ではないので、ここらで勘弁しといたるが [;^J^]、とにかく、22年も使い続けてきたこの「最強環境」は、まだまだこれからも手放す気はない。ただ、この「メイン環境」以外にも、「サブマシン」は存在する(併用してきた)のである。それは、WinXP→Win7→Win10、という、時代時代の最新環境。第一の目的は、自分のホームページ(「倉田わたるのミクロコスモス」)をブラウジングすること。リブ100でテキストベースで作成しているのではあるが、リブ100ではブラウザが使えない(に等しい)ので、まともな [;^.^] 能力/スペック/OS環境の「サブマシン」が必要だったのだ。
そしていつしか「サブマシン」で、画集からのスキャンをするようになり、一眼レフで撮った画像ファイルの整理をするようになり、そして、動画の再生をするようにもなった。テレビ番組の録画(初期にはmpeg、いまでは主としてm2tsファイル)の再生である。用途が増えるたびに、要求されるハードウェアのスペックも次第に上がり..そしてついに、「ネット配信番組」を「キャプチャー」するようになってしまった。今のハードウェア(ノートPC)では、力不足である。現在の私の視界に入っている範囲では、これが一番苛酷なニーズである。再生するだけならスムーズに動いているのに、キャプチャープロセスも稼働させると、いっきにガクガク。小画面ならなんとか視られる水準だが、フルスクリーンで再生したものをキャプチャーすると、これまた視られたものではない..
というわけで、コロナでろくに外出も出来ず、ビックカメラに行くのも肩身が狭い日々ではあるが、買い換えを企んでいるというわけなのである。ちなみに部屋の事情から、デスクトップは不可。価格は20万マックスといったところか..また、大切なことだが、「コストパフォーマンス至上主義では、ない!」..どれほど廉価で高性能であろうとも、触りたくないブランドというものは、あるのだ。仕事用の機材を選ぶのならばそんな判断はあり得ないが、所詮は、趣味用。インテリアとしての一面もあるのだ。正直、同じ性能で価格差2倍ぐらいまでなら、許容範囲内である。
「そういうことなら(趣味性を重要視するなら)、そもそもウィンドウズはあり得ないだろう(プフッ)」、と仰るか? Macにしろと仰るか? ウィンドウズが素晴らしいとは全然思わないが、しかし私はそこまで堕ちてな(宗教の話はやめよう。[;^.^])
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Apr 17 2020
Copyright (C) 2020 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]