1998年11月23日:「湖上の怪物」 1998年11月24日:「恐竜大紀行」の追憶 1998年11月25日:「日本は英語だけでも困らない不思議な国です」? 1998年11月26日:新井素子風.. 1998年11月27日:大道芸な娘たち 1998年11月28日:手塚治虫プロダクション見学オフ 1998年11月29日:「女人果」目次へ戻る 先週へ 次週へ
Hさんからの、W・A・カーティスの「湖上の怪物」(1899、佐川春水訳は1907)が、「恐竜文学大全」(東雅夫、河出文庫)に収録されたとの通報を受けて、早速書店に走る。
これは、江戸川乱歩が「怪談入門」の中で、少年時代に忘れ難い感銘を与えられたものとして紹介した作品であり、私の「“怪談入門”読破リスト」において、ただひとつ、未読のまま残されていた作品だったのである。どうしても見つけられなかったのだ。これが復刻されるとは、全く予想もしていなかった。
感想(論評?)は、上記ページの「湖上の怪物」に記した。結末近くまで粗筋を書いているが、ネタバラシというほどではない。先にこれを読んでも、十分楽しめることは保証する。この珠玉のアンソロジーは、超お薦め。
目次へ戻る昨日の恐竜ネタを書いていて思い出したのが、岸大武郎の「恐竜大紀行」。
これは12回ほどの連載で、人間が全く出てこない古生物もの。出てこないといっても、話者の視点は、タイムトラベラーであるところの人間であるらしい。しかしいずれにせよ、漫画の中には全く登場しない、純然たる“動物”漫画である。
この作品を初めて目にした時の衝撃は、ちょっと忘れ難い。確か、居酒屋か喫茶店で、初出誌(少年ジャンプ)を読んだのだが、その時たまたま目に入ったのが、プテラノドンの飛翔シーンであった。
崖から(生まれて始めて)空に飛び立ち、それを(食い損なった)ディノニクスが見上げている..
「これは一体、なんなんだ?」と言うのが、第一印象であった。これは、私が知っている少年マンガ(いや、「少年」に限らず)と、フォーマットも題材も違いすぎた。普通、こういう情景であれば、空を飛んでいるのは鳥。地上から見上げているのは、人間か獣。食い損なったことを悔しがっている、というパターンを当てはめれば、「鳩(等)」と「狼(等)」に置換可能であるが..この一枚絵から、私は直ちに「この作品世界にはいかなる種類の人間も存在しない」ということが察知できたのである。
こんなマンガが、少年マンガ週刊誌に載っていたこと自体が、奇跡かと思われた。私はもちろん、その強烈な一枚絵を含むエピソードを、その場で読んだのだが、その異質感は、いや増すばかりであった。動物(恐竜)マンガとしては、十分に(非科学的に)擬人化しており、「物語」のパターン(兄弟中、もっとも貧弱だった末弟が、兄たちを尻目に大空に飛翔する)自体は、むしろ伝統的で必要以上に人間的で「臭い」とすら言えるのに..
恐らくは、その「絵」の衝撃だったのだろう。プテラノドンもディノニクスも、このように(リアルに)マンガの中に描かれたことは、多分なかったのだと思う。
目次へ戻るネットニュースはネタの宝庫。また面白い投稿が。
Newsgroups: fj.questions.internet From: wada@hama.toshiba. co.jp (Haruhisa Wada) Subject: Re: SPAM TAISAKU ? Message-ID: <F2wyB6.Fqn@hama.toshiba.co.jp> Date: Tue, 24 Nov 1998 15:35:29 JST
から抜粋する。
基本的に、多くの外国人は「日本語」の存在を知りません。 英語なら通じると思ってたりする。 だって、世界中で日本人が英語しゃべってるでしょ? #「でぃすかうんと、ぷりーず」しか喋らない芸能人もいるけど(^^; 農協ツアーのおじいさんも結構流暢に英語喋ったりするから。 日本国内ですら公共機関や表示には必ず英語表記がある。 日本は英語だけでも困らない不思議な国です。 #コギャルの言葉も日本語とは思えないけど。
この投稿は、二重の意味でおかしい、まず、「英語だけでも困らないのは、不思議な国である」という認識。そりゃ確かに(日本以上に)英語の通じない国はあるのだろうが、“普通の国”では、英語だけでも困らないのである。私は東南アジアを訪れたことがないので本当のところは判らないが、あのあたりの人々は、児童の頃から英会話を叩き込まれているのである。日本とは大違いだ。
そして、「日本は英語だけでも困らない」という認識が、決定的におかしい。周囲を見回せば一目瞭然であるが、英語の掲示がどれほどあるか。JRや私鉄のホームの掲示は(駅名程度は)英語が併記されているかも知れないが、バス停に英語表記されているか。バスの運転手が、外人の英語に応対できているか。
と、ざっと見回してみただけでも、「日本は英語だけでも困らない不思議な国です」という、この投稿者の認識が、およそ浮世離れしていることが判る。「日本は、英語だけで生活するには不自由な、不思議な国です」という方が、遥かに正確だろう。恐らくこの投稿者は英会話に堪能な人であって、“自分は”外人を困らせていない。そして、都内かどこか、とにかく比較的英文表示の多い地域に住んでいる。まぁそんなところなのだろう。
目次へ戻る「空手莫迦一代」
ほとんどスティルト(大道芸で使う“高下駄”)状態のハイヒールを履いている娘たちが、闊歩している。私の記憶が混濁していなければ、あれは1970年代前半に流行したものである。ということは、逆算すると、彼女らの母親のお古かも知れない。
ま、それによってシルエットが“映える”ようになるのだから、男性(オヤジ)としては、基本的に歓迎する。しかし..なかには問題点を感ずる(というか、心配になってしまう)女性もいる。
それは、「スティルト(もとい、ハイヒール)を履いている状態で、普通のプロポーションに見える」ケースである。これは決して少なくない。
無論、脚の長短は当人の責任ではないので、そんなことをあげつらうつもりは、毛頭無い。しかし..いつかは「ハイヒール」を脱いだ状態に持ち込まないと(立ち向かわないと)いけない、ということを考えると、あまりにギャップが大きい状態を維持するというのは、危険なことではなかろうか。
目次へ戻るきょうは、手塚MLのメンバーと、手塚治虫プロダクション見学オフ。
例によって7:14のひかりで上京。池袋の丸井前で10時に待ち合わせなので、喫茶店で1時間ほど、小栗虫太郎を読みつつ時間をつぶす。
9人で訪れた午前中のメニューは、池袋駅徒歩7分の、区立勤労福祉会館7階の豊島区郷土資料館で開催されている、「トキワ荘のヒ−ロ−たち・2」展見学。どちらかと言えば小規模なものだが、当時の生活環境の調査・発掘・再現に力点が置かれており、非常に見ごたえがある。(一部、私自身の学生時代の生活環境(食環境)や、あるいは現在のそれと、あまり変わらない部分を発見・確認してしまい、それなりに問題を感じたが、それはそれ。[;^.^])しかも入場無料。お薦め。来年1月24日まで。隣の常設展(同じく無料)では、池袋駅前の闇市の再現模型などが展示されており、これも非常に興味深いものであった。
武蔵野線の新座へ。ファミレスで食事をしてから、手塚治虫プロダクションへ。駅から徒歩で何分もかからない。
今日のオフは、実はディレクTVの取材が入っている..というか、ディレクTVと手塚プロから、MLに(番組づくりの一環としての)オフの打診があったのである。無論、事前にその旨通知された上で参加者が募られているので、問題はない。しかしこういう場合は、オフの費用の少なくとも一部はディレクTVが持つ、というのが、世間の常識ではなかろうか?(プンプン [^.^])
手塚治虫プロダクションは、やや古い建物である。鉄筋コンクリート4階建てだが、内部は比較的簡素なパーティションで部屋割りされている。実際に原画を描いたり彩色したりしている現場を、初めて見せていただいたが、ほぼ想像どおり。この「想像」というのが、30年前にカッパコミクスの巻末の「テレビ映画 鉄腕アトムができるまで」を読んで想像していたものと同じ、という点に、問題を感じないことはない。[;^J^] アニメを「芸術」と見るか「工業製品」と見るかで、微妙に判断基準は異なるかも知れないが、少なくとも「工業」(あるいは「産業」)の世界で、30年前と同じ生産手段で通用している分野は..存在してはいるのだろうが、それは守旧的な伝統工芸の世界なのではあるまいか。「アニメ」がそういうことでいいのだろうか。動画部の、くたびれた木製のライトテーブルは、この手法(1枚ずつ人間が描いて行く)を取る限り、古いどころか、ジャストスペックのツールである。これ以上進化させる必要が無い..
手塚治虫の(生前、最後に使っていた)仕事部屋を見せていただいたあと、手塚治虫の講演のビデオを2本。いずれも未公開の貴重なもの。2本目は、逝去3ヶ月ほど前に、とある中学校で行なったもので、(癌でひどく痩せてはいたが)死期間近とは信じられぬ元気さに、胸が痛む。特に、“来年の”アニメ作品の予定を楽しそうに語り、これから20年も30年も描き続けますよ!と、宣言しているシーンには..
驚いたのは、(大きな模造紙に漫画を描きながら講演しているのだが)その絵を描く“速度”である。手塚治虫が“描く”シーンを初めて見たのだが、ほとんど“神速”という他はない。
このあと、資料室を見せていただいたのだが..
せ、せ、せ、
整理する。
整理したい。
整理させてくれーーーっ!![;^O^](血の叫び)
宝の山のはずなのだが、存在するはずの資料にアクセスできないようでは、発掘以前の「王家の谷」と、なんら変わるところがないではないか。来年あたり、頑張れば連続2週間程度の休暇をもぎ取ることは不可能ではないだろうから、無給で結構なので、整理の任に当らせてもらえないだろうか(本気)。そういう状態ではあったが、それでもなんとか数件、未確認だったデータを確定させることはできた。
池袋へ。N亭という店で、最終的には10数名になった総勢で鍋。
..暑い。死ぬほど暑い。[;^J^] 酎ハイ用のアイスボックスから氷を取り出し、おしぼりで包んで額をぬぐって、熱を下げる。ほとんど病人状態。[;^J^]
ここでもディレクTVの取材。各人の「手塚お宝」を披露するのであるが、私はたいしたものを持っていない。他の人のを見ると、70年も前の本(無論、手塚治虫の著作ではなく、手塚治虫が愛読していた「トンネル」というドイツのSFの邦訳)なのに、ほとんど染みが無く、活字もまるで新刊書のように鮮明なものがあり、驚かされた。
これを書いている今では、ちょっと記憶が曖昧なのだが、確かこの本は初版だったと思う。これが初版本の値打ちなのだ。「活字」を使っていた時代においては、「初版」の印刷が、もっとも鮮明だったのである。
9時24分のひかりに乗るために、8時45分頃に辞去。
目次へ戻る「女人果」(小栗虫太郎、桃源社)読了。これで、小栗虫太郎の著作で、現在(単行本の形で)読める作品は、全て読んだことになる。
「紅毛傾城」(小栗虫太郎、教養文庫、社会思想社)巻末の島崎博氏による著作リストを読むと、実は小栗虫太郎の作品は、これでほとんど全部である。このリストがどの程度網羅的なものかは判らないが、単行本未収録の短編が、あますところ2〜3編。あと、エッセイの類は、ほとんど単行本化されていない。
そしてこれら単行本未収録作品を読むのは、非常に困難(あるいは不可能)である。エッセイは「新青年」誌に掲載されたものが多く、多分これらの多くは国会図書館で読めるであろうが、その他の雑誌は(先日、ざっと調べたのだが)ほとんど国会図書館に収蔵されていない。まぁ、仕方が無い。
もう少し説明すると、かつて桃源社から出た全9巻の全集は、現在、沖積舎から復刻されているが、これでほぼ全作品を読めるのである。しかし、沖積舎の全集を集めることは、私はお薦めしない。このあたりの事情は「小栗虫太郎の版問題」で書いたとおり。
さて、この作品集(「女人果」)には、「海螺斎沿海洲先占記」「巴奈馬朋次郎記」「成吉思汗の後宮」「新彊」「紅軍巴蟆を越ゆ」などの“異郷もの”の佳作が集められているのだが、やはり圧巻は、怪作「女人果」であろう。
これは、作者がその(早すぎた)晩年に紡いだ、自分の旧作のコラージュなのである。もっとも「晩年」といっても、自身は数年後の急死のことなど全く予想もしていなかったであろう時期のことであるから、いわゆる“枯れた”作品では、全くない。
噂は聞いていた。だから、虫太郎読破プランの最後に回していたのだが..これを、他の主要作を読む以前に読んでいたら、全くわけが判らないのではあるまいか? とにかくほとんど、支離滅裂なのである。[;^J^]
気がついただけでも、「完全犯罪」「赤い喇嘛仏」「二十世紀鉄仮面」「爆撃鑑査写真七号」「地中海」「南海の鯱」。もしかしたら「颱風」も入っているか? さらにいくつか、作品名は思い出せぬまでも、どこかで読んだプロットや場面が混ぜ合わされている。
で、これが全然成功していない。[;^J^] これだけ接続するほうがそもそも無茶であって、ある作品のある登場人物と別の作品のある登場人物を、強引に重畳している(同一人物であるとしている)のだが、当然のことながら、矛盾でまくり。さらに、元ネタの作品を切り貼りするにあたって、不要な部分は切り捨てているのだが、これが実に不徹底であって、元ネタの作品中の伏線や登場人物であって「女人果」には全く関係ない(登場しない)ものが、多数残っている。[;^J^] エンディングも、尻切れとんぼ。
だから、解説・解題の類で、「価値の無い作品」のひとことで切り捨てられていることが多いのは、もっともな話ではあるのだ。実際、独自に起こされたプロットや幻想が、ほとんど存在しないのだから。
しかし、私はこれを非常に興味深く読んだ。ほとんど手に汗を握って読んだ、とすら言える。なぜならば..
..これは、「夢(あるいは悪夢)」の構造を持った作品だからだ。
脈絡の無い(しかし無意識の世界では意味が連続している)シーンや物語の接続。それが“夢”の基本構造である。そして、さなきだに悪夢的で現実感の希薄な小栗虫太郎の作品群を、これだけ(脈絡なく)接続しているのである。
“悪夢の自乗”である。
「赤い喇嘛仏」の世界の登場人物が、そのまま「完全犯罪」の世界で演じ始めたところで、呆然とした。そして「二十世紀鉄仮面」の、まさに悪夢的な爆殺シーンに結びついた時には、ほとんど陶然となった。これらの元ネタ作品群の壮麗な幻想世界が、借景として「女人果」世界の背後に聳え立っているのである。
だからこれは、“最後に”読むべき小栗作品なのだ。元ネタを知っているか否かで、受ける感銘は、全く異なることになる。
自らの“悪夢”を接続して紡ぎあわせた、新たな“悪夢”。そう、「女人果」こそ、小栗虫太郎の「バイオレンスジャック」(永井豪)だったのである。
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