*1998年11月16日:最低な消え方
*1998年11月17日:流星雨前夜
*1998年11月18日:流星雨に振られる
*1998年11月19日:最低な戻り方
*1998年11月20日:尻馬に乗る人々
*1998年11月21日:鉄の道/COM誌、等調査
*1998年11月22日:Tさん宅で、単行本調査のつづき/冨田勲「千年文化・源氏物語」
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*1998年11月16日:最低な消え方


 珍しくもない話だが..ニフのとあるフォーラムのとある会議室で、常連どうしの喧嘩がこじれた挙げ句..一方が、去ります! ニフからも脱退します!

 ..ま、社会人として、最低の行為である。

 フェイストゥーフェイスの議論では、こんな行動は(恥ずかしくて)取れないのが普通であることを考えると、「インターネット(やパソコン通信)をすると馬鹿になる!」という、一部のマスコミによるヒステリックな誹謗も、根拠無しとは言えないね。

 「最低」である理由を、説明する必要はないだろう。相手に「反論の機会を与えずに、不快な後味を残す(与える)」ことが主目的だからだ。しかも自分に“受難者”のロウル(役割)を暗に割り振って、である。卑劣というほかはあるまい。議論に勝てる人間ならば、こんな馬鹿なことはしない。志が低すぎる。勝ち目が無いが故の自暴自棄の自爆攻撃である。

 ま、今回の件に限って言えば、そのフォーラムにおける、その男の存在は、私にとっては非常に疎ましいものであったので、消えてくれることは大歓迎であるし、このように、誰の目にも「最低な」去り方をすることによって、全員に対して悪印象を残してくれたので、実は最高にオッケーな状況ではあったのだ。今夜は祝杯である。

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*1998年11月17日:流星雨前夜


 獅子座流星群の極大日は、明日の未明である。今夜は快晴。期待できる..のはいいのだが、まず間違いなく、今年一番の冷え込みである。寝袋が見当たらないが、その他の防寒具はまずまず揃ったので、よしとしよう。

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*1998年11月18日:流星雨に振られる


 流星雨を観そびれてしまった。1時頃から仮眠を取ったのが失敗。この時点では、まだ空は晴れていたのだが、(予定の3時から寝過ごして)4時過ぎに起きた頃には、浜松上空には薄い雲が広がっていた。徹夜して1時から空を観ているべきだった。

 私は、意外と諦めのいいタイプである。ただちに車を飛ばして東名を西か東に走れば、まだ暗いうちに雲の切れ目に到達できるかも知れない..と、思い付いても、そういう行動を取ることはしないのだ。縁が無かった、と、さっさと寝直してしまう。

 爽やかでしょ。

 実際、気に病む(悔やむ)必要は無いのだ。今世紀最後の天体ショーであったのは、恐らく確かなのであろうが、これが一体、何年前に予報されていたか。宇宙空間は、文字どおり、一寸先は闇なのである。数年後の突発的天体ショーのことなど、誰にも見通せはしないのだ。

 それはそれとして、流星雨を目撃できた幸運な人々も大勢いるのだろうが..「トリフィドの日」の譬えもある。報いはあるさ..(爽やかに根に持つタイプ)

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*1998年11月19日:最低な戻り方


 最低な消え方をした男が、メールボックスにラブコールが殺到したとか、嬉しそうに自慢しながら、僅か2〜3日で帰ってきた。

 見苦しい。

 最低な戻り方である。

 このように引き止められ、“望まれて”戻ることが織り込み済みだった、ということが、みえみえだからである。小学生(または幼稚園児)の、「喧嘩 → 絶交 → 元の鞘」、というプロセスを想起すれば、判り易い。園児(または小学生)の社会では、こういうことがしばしば起こる。

 とはいえ、こんにちでは、インターネットにもパソコン通信にも小学生が参加しているので、こんなことを気に病むほうが時代遅れではあった。たまたま今回は、小学生ではなく30男が、小学生なみの知的(社会的)水準を披露しただけであって、正真正銘の小学生も参加している、という本質的な危機には、かわりはないからである。

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*1998年11月20日:尻馬に乗る人々


 手塚プロダクションの掲示板(の、「フリートーク」カテゴリー)が、荒れている。(リンクを張る気になれない。読みたければ、自力で探して欲しい。[_ _])

 もとはといえば、手塚治虫ファンクラブの不手際であるらしい。NHKで手塚治虫関連の番組の企画が立てられ、その一環として、アンケートが実施されたのだが、そのアンケートの配布先として、ファンクラブの名簿(実際には、送付用住所ラベル)が、ファンクラブの事務局?からNHKに渡されたようなのだ。

 突然、NHKから、手塚治虫関連のアンケートが送られてきたファンクラブの会員が驚くのは、当然。しかもどうやら、手塚治虫関連の質問というよりは、手塚治虫をダシにして思想調査をしていると疑われても仕方が無いような、質問内容であったらしい。(私自身はファンクラブには入っておらず、このアンケートが送られてきていないので、実際のところは判らない。以上全て、伝聞情報である。)

 非は、ファンクラブ事務局にある。NHKも、あんまり関心できないが、非難するほどではないかな。

 しかし問題としたいのは、こういう“非難されるべき対象が明確である騒ぎ”に際して(そしてまた、こういう場合にだけ)現われる、「正義の論客」たちの存在である。

 楽なもんだ。最初から「勝ち」の決まっているレースに出走しているんだから、ほとんど八百長みたいなもんである。切り返されて自分が傷つく(論破される)心配の無い状況で、居丈高に、心ゆくまで“正義の罵倒”をする人々..

 自戒しなければならない。

 私は、決して、このような卑しい心根の持ち主ではない。持ち主ではないが、第三者の眼から観て、結果的にこのような役割を演じてしまう可能性が、極めて高いのである。

 例えばニフティのFCLAの会議室には、もう普段は、ほとんど書き込みをしていない。長く居座っていれば、新ネタも少なくなるし、旧ネタを繰り返すのもスマートではないからである。

 しかし、何か騒動が起こると“出動”することが少なくない。別に“ご意見番”を気取っているわけではない。およそ“騒動”ほど“新ネタ”に乏しいジャンルも珍しく、ほとんどの騒ぎは、過去3年以内に類例が発生して(解決して)いるものなのであって、それらを目撃してきた眼には、新たに“事件”が発生しても、その原因も背景も今後の展開も落とし所も、一気に見えてしまうものなのである。

 だから、放置しておいても構わないのだが、その騒ぎがうざったかったり邪魔であったりする場合は、自分の口出しによって、収束までのプロセスを加速したくもなろうというもの。

 決して“善意”ではない。“正義感”でもない。単に“邪魔”だから火を消すだけ。(クラークの小説版「2001年宇宙の旅」のラストシーンの、スターチャイルドみたいなものである。)しかし第三者の眼には、ただの「騒動師」「トラブル・ウォッチャー」「火事場の野次馬」としか見えていない、という可能性が、大いにあるのだ。自戒、自戒。

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*1998年11月21日:鉄の道/COM誌、等調査


 あまりに眠かったので、7:14はパス。8:06のひかりで国会図書館へ。1時間遅い上に三連休の初日だからか、結構混むが、なんとか座れて惰眠の続き。国会図書館には、開館に30分遅刻して、ほぼ10:00着。

 「鉄の道」を、持参した全集版と照合チェック。これによって、「初出データが曖昧であるか、不明であるか、あるいは従来資料のデータが明らかに怪しく、かつ、国会図書館か現代マンガ図書館で調査可能な作品」は、全て片付いた。

 両図書館に収蔵されておらず、いまのところ古書市場で初出誌を入手することも出来ていない作品は、非常に多数ある。どうように多いのが、「従来資料の初出データに、特に疑義が無いので、初出誌未見ではあるが、調査の対象から外している(外していた)作品」である。これらをどうするかが、今後の課題である。

 「読める限り全部読む」、というのが、判り易い方針ではあるが..日暮れて道遠し。むしろ、長期連載はことごとく片づけたがゆえに、残存作品は単発の短編やエッセイが多く、これらを国会図書館で潰して行くのは、かえって手数がかかるのだ。従来資料(二次データ)が誤っている作品は、必ず、存在する。調査すれば得るところは、必ず、ある。それは断言できる。しかし..

 ..という逡巡はともかく、いま現在、国会図書館に来ている以上、やれるだけのことはやる。「従来資料の初出データに、特に疑義が無いので、初出誌未見ではあるが、調査の対象から外している(外していた)作品」を、バリバリチェック。無論、未読作品からである。「おいつめられた男」など。

 毎度おなじみの「切り抜き被害」だが、これには参った、「かにとへび」。絵本に掲載された作品であり、どうやら絵本から、その頁(というより束(つか))が、「切り取られた」のではなく「抜き取られた」ように見える。途中、右頁と左頁の内容が不連続になっている個所があるからである。

 しかし、確証が持てない。なぜならこの絵本、目次はおろか、ノンブルすらないので、そもそも何が掲載されていたのか、あるいは、ある頁が抜き取られているか否か、実証が出来ないのである。

 さらに、「COM」誌、「歌劇」誌などを中心にチェックしてから、どこにもよらずに横浜の実家へ。

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*1998年11月22日:Tさん宅で、単行本調査のつづき/冨田勲「千年文化・源氏物語」


 月に一度の(第三土曜日の)国会図書館詣での翌日は、これまた恒例の、Tさん宅にお邪魔しての調査である。現在は、単行本や同人誌から、まえがき/あとがき/はしがきの類の文章を発掘する、という、もう最低に根の暗いフェーズに突入している。[;^.^]

 これらの短文の初出調査などは、ほとんど行なわれていないのが実状だと思う。早い話が、全集の「あとがき」には、(特に作者存命だった第300巻までは)初出データなど記載されておらず、だから一見、悉く全集発行時の書き下ろしのように見えるのだが、実は、数十年前の単行本のまえがきやあとがき、あるいはカバー見返しに書いた文章の再録、という例が、少なくない。そして、ある文章が、いくつもの単行本(あるいは雑誌別冊、雑誌付録)にわたって再利用されていくこともある。

 「そんなことまで調べてどうするんだ」、と、尋ねられても困る。なすべきことはする。そうとしか答えようが無い。

 一方、漫画作品の初出チェックも進んでいる。雑誌の付録などは大方チェックがすんだが、きょうは「手塚治虫デビュー作品集」(毎日新聞社)から、「マアチャンの日記帳」「AチャンB子ちゃん探検記」「グッちゃんとパイコさん」のデータを拾った。これらは初出紙が国会図書館にも収められていない初期新聞連載漫画。復刻であり二次データではあるが、信頼できると踏んだ。

 その他、光文社から出ていた初期の全集や、絵本の他、実に細々としたアイテムをチェックする。

 辞去してから、渋谷へ。NHKホールで冨田勲「千年文化・源氏物語」というコンサート。瀬戸内寂聴訳「源氏物語」を題材にしたもので、第一部が、瀬戸内寂聴の講演。第二部が、オーケストラ+邦楽器+シンセサイザー+能舞+ハイビジョン映像、という構成の、冨田勲の音楽(指揮も冨田勲)。勤務先が技術協力している関係で、ただ券が入手できたのだ。

 講演は面白い。恥ずかしながら源氏物語は通読していないのだが、読んでみようか、と思わせられる。が、積読の高峰を思いやると、腰が引けてしまう。[;^J^]

 冨田勲の音楽だが..うーん、この日記を書いている時点では、ほとんど全く思い出せない。まず疑問を感じたのは、オケの背後の大スクリーンに「京都の四季」としか言いようの無いイメージ画像が映されていることであって、これは、「音楽と映像の相乗効果」ではなく「音楽と映像のもたれ合い」と見えた。つまり、音楽も映像も、単体では成立しない(それほど弱い)のである。

 やがて映像は、生き霊の場に向かって、(静的に)ドラマティックになって行くが..そして音楽も、生き霊の場では、広い会場内を3Dで生き霊が飛翔するありさまをシンセサイザーで表現するが..

 こう書くのはつらいのだが、なんのために音像が飛翔しているのか、さっぱり判らなかった。これは冨田勲のプランの責任である。別に生き霊だからといって、聴衆の目の前や頭の上を飛び回る必要はないのである。むしろ、舞台上のオーケストラの上空に浮かび上がる、というプランの方が、効果的だったのではあるまいか。

 観世銕之亟による能舞については、私に全く鑑賞眼が無く、豚真猫こば状態であった。

 ひかりで浜松へ。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 26 1998 
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