*1998年06月29日:いかにして画集を救うか その三
*1998年06月30日:「未来の記憶」
*1998年07月01日:「日経ビジネス」の特集記事
*1998年07月02日:コミック・モーニング二題
*1998年07月03日:「衝突する宇宙」
*1998年07月04日:サリンとスパイ
*1998年07月05日:ふと気がついたこと
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*1998年06月29日:いかにして画集を救うか その三


 (承前)それは、変色する前に電子化してしまうことである。

 平凡な結論で申し訳ないが、実はストレートには、この“解”に辿り着けなかったのだ。なぜなら、これまで二度にわたって「電子化」を諦めてきた、という経緯があったからである。

 最初は、大学生時代。当時ようやく入手可能になりつつあったハードディスクが、5メガ10メガという時代で、その時点では、画像情報を電子化することなど、文字どおり夢にも考えなかった。各作品ごとに、タイトル、制作年代、収録画集番号、および「(画像のかわりに)その絵の内容を記述する文章(!)」などのテキストデータを入力する必要があるのだが、当時は、市販のデータベースソフトで、この用途に使えるものがなく、自分でBASICでデータベースを開発する覚悟をしていた。そこでデータ構造の設計をすると、約2万点の画像に対し、どうしても「15メガバイト」は必要だ、という結論が出たのである。この大容量メディアのコスト、及びデータ入力の手間がボトルネックとなり、挫折した。

 次に、これは5年乃至10年位前のことだろうか。高価で大きいとは言え、スキャナーも(近い将来)買えるだろう、という見通しもたった。画像を電子化する、というアイデアが、現実性を帯びてきた。この時ボトルネックになったのは、MOのコストである。どういう計算をしたのか憶えていないが、十分な画質で保存するためには、1枚平均10メガ必要、と試算した。128メガのメディアに12枚。総点数(推定)2万4千枚とすると、MOを2千枚..

 このように、二度にわたって電子化を断念してきたので、今回の「変色対策」として、電子化、という発想が、数ヶ月間も出てこなかったのである。

 それでは、繰り返し挫折に追い込まれてきた、コストと手間の問題は、クリアされたのか?

 コストは、ほとんど劇的に解決してしまった。CD−Rに焼くことにすれば(実は、CD−Rはまだ持っていないのだが)、650Mのメディアに65枚入り、これで200円位だろうか? メディアが400枚必要だとしても、僅か8万円である。(これを書いていても信じられず、何度も計算し直してしまった。)

 問題は、手間である。2万数千枚の画像を、自分でスキャニングしている時間が取れるはずがない。業者に頼むという手はある。しかし(間接的に調べただけだが)手数料が大変高くつく。しかも、色合いの調整などは向こうまかせになるので、満足のいく電子化ができるかどうかは、多いに疑問である。これは(業者に比べれば廉くつくであろう)アルバイトを雇ったとしても、同じことだ。(大体、色合いとは少し違うが、コピー1枚とる時にも、コンマ3ミリの位置精度を要求するので人任せに出来ない、業の深い私なのであった。[;^.^])

 やはり駄目か..と、諦めかけた時、突然、思い違いに気がついたのである。

 全部一度に電子化する必要は、ないのである。

 学生時代の、「コンピューターの中に全画集を収録したい」という夢に、まだ惑わされていたのであった。

 変色の被害が及びそうな図版から順に、少しずつ電子化していけばいいのである。実際、変色は周囲から徐々に迫ってくるのであって、各頁の上下左右に白いマージンのある画集であれば(普通はそうなのだが)、(まだもう数年は)絵まで変色は迫ってこないだろう、と、判断される図版の方が、実はかなり多いのである。これらの電子化は、後回しでよい。また、紙質の問題であろうが、全く(あるいはほとんど)変色しない画集もある。これらは、電子化しなくてもよい。複数の画集に同じ図版が収録されている場合、どれかが“無事”ならば、他の図版は変色の危険にさらされていても、電子化は後回しでよい。さらに、(醜いアバタ状ではなく、全体にうっすらと変色する場合に限るが)必ずしも変色から待避しなくても良い図版もある。モノクロの素描や版画の場合である。

 既に変色してしまったものについては、諦める、という選択肢もありうるが..さらに悪化する筈なので、これは電子化すべきであろう。

 ..と、考えていくと、毎週、変色前線が迫ってきている順に、数十枚ずつ電子化していけば、なんとか逃げ切れるのではないか、と、期待できるのである。

 コストよし。手間よし。CD−Rはまだ買っていないので、取り敢えず、PDに入れれば良し。(スキャニング時点では最適の色で撮りきれずに、あとから色合いを調整する可能性は少なくない。従って、いきなりCD−Rに焼かずに、いったん作業用にPDに入れる、というのは、現実的である。)

 最後に残った難問は..スキャナーである。私の持っている、キヤノンのIX−4025は、A4サイズ。これで間に合う図版も多いのだが、最低でもA3サイズは欲しいところである..

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*1998年06月30日:「未来の記憶」


 積読していた「未来の記憶」(デニケン、1968、角川書店)を、読む。

 世界不思議巡りの感あり。偏見を捨てて(古代の謎の)新しい読み方をしよう..は、いいのだが、その新しい読み方というのが、ことごとく、「判らないこと、不思議なことは、全て架空の宇宙人に帰す」のワンパターンなので、これもまた結局は、ひとつのドグマ・偏見に過ぎない、と、底が割れてしまう。例示がしつこくて少々飽きるが、ありったけの材料を並べて自説を補強しようとするのは、当然とは言える。

 しかし、証明をせず、可能性を列挙するだけなあたり、いかにもトンデモ本の元祖ではあるのだが、その「可能性」を必ずしも「決め付け」ていないので、全体としては、想像していたよりまともな本であった。


「この考えにはまだ穴が多い。それは認める。「証明がない」と人びとは言うであろう。その穴がどのくらい埋まるかは、将来の問題である。この本は多くの考えから成る仮説を示すもので、《真》である必要はない。しかし、いくたの宗教がそのタブーのなかでぬくぬくと生きている理論とくらべてみると、この仮説に最小限でかまわぬから真実性のパーセンテージをあたえてやりたい気がする」(78頁)

 思わずずっこけてしまう牽強付会や(西欧的先入観に基づく)ひとりよがりは、それこそ無数にある。特に、後半になってから少々目に付く。例えばマヤ文明について、


「なぜその蛇に空を飛べる能力をあたえたのか? 悪のシンボルである蛇は、地を這うことに定められているのだ。どうしてこのみにくい生物を神として崇められるのか?」(139頁)

 しかしその論理展開(「宇宙人が来た可能性は、必ずある」「現在は、過去の人々の想像も出来ぬ様相を呈しているのだから、未来(の技術)もまた我々には、想像も出来ぬものだろう」)は、「まともな」SFのものである。“今の我々の文明が崩壊したとして、それを5000年の未来から見てみれば..”著者の、この視点とビジョンは、まさに(少々古いが、どこに出しても恥ずかしくない)立派なSFなのである。

 それにしても、私がいつも思うのは、例えばパレンケの有名な「宇宙飛行士の図」(132頁)にしてもそうなのだが、これらは高度技術の証拠としては、あまりに「絵が下手だ」ということなのである。[;^J^] ま、ものの形をはっきりと描かない、表現主義・フォービズム、あるいはキュビスムが(超古代文明の最盛期には、地域を問わず“必ず”)流行していたのかも知れないが..それにしても、ハイパーリアリズムの作例が、一点くらいは残っていてもよさそうなものだ。

 人口爆発の危機感を踏まえた、人類の科学と未来への信頼は、まことにシンプルで力強く、感動的である。繰り返すが、古いタイプの(平凡だが)良く出来たSFなのだ。書名がまた、素晴らしい。私は、幸か不幸か凡百の(無数の)トンデモ本を、ほとんど読んでいないし、また、読むに値しないのだろうが、そのトンデモ本の原点(のひとつ)にして頂点とされる本書には、長く読み継がれる価値が、確かにあることを確認した。

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*1998年07月01日:「日経ビジネス」の特集記事


 日経ビジネスの6月29日号に、世界に通用する競争力をふるうゲーム業界、さらにアニメ業界、マンガ業界に取材した、景気のいい記事が載っている。この不況のご時世であるから、読んでいて悪い気はしない。結構なことである。が..

 あまりにも一面的(一方的)な論調であった。

 抜群のアイデアと創造力で世界を席巻するゲーム業界を支えるのは、アニメ・マンガの膨大な(そして、猛烈な勢いで生み出されつつある)ストックである..ここまではいい。しかしその下地を作り、こんにちの繁栄をもたらしたのが、「少年ジャンプ」の「10週打ち切り制度」(読者の人気投票で、10週間以内に上位に上がってこなければ、新人・ベテランを問わず、連載を打ち切る制度)である、と、全面的に賞賛・肯定しているのは..

 「日経ビジネス」という雑誌のカラーと、この特集記事のスタンス(競争礼賛。競争を捨てた業界(例えば日本の映画業界)に、未来は無い)を考えれば、当然の見方ではある。しかし、その「10週打ち切り制度」が、こんにちのジャンプの斜陽の遠因となったことなどは、どこにも書かれていないのだ。

 日本のアニメ・マンガ業界を(論旨の流れから)賞賛する勢いからか、実に疑わしい文章も散見される。日本のような印税制度が定着していない(買い取りのみである)アメコミ業界は、作家が報われないので壊滅状態である、というが、本当か? また、日本のアニメ・マンガ業界に携わる作家・クリエイターたちが(諸外国に比べて)報われ、評価されていると言えるのか。今でもそうかどうかは知らないが、国家によって芸術家として守られているフランスの漫画家は、年に数作(数十頁)描けば、十分暮らしていけるときいた。ひるがえって、日本の現状は..

 リブレットの新機種が発表された。リブ100のリプレース機が無いことに、精神の平安を得、そそくさとニュースを流し読み終えたので、新機種の型番も憶えていない。[;^J^] 薄い系だったような。

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*1998年07月02日:コミック・モーニング二題


 コミックモーニングの定期購読をやめて久しいが、「デビルマン レディー」は、追っかけている。永井豪の代表作であるばかりでなく、日本SF史上の最高傑作のひとつである「デビルマン」。正直なところ、その名前に負けているところも無くはない「デビルマン レディー」。

 現在は、主人公が、“彼”に導かれて「地獄巡り」をしている。「デビルマン」に加えて「ダンテ神曲地獄変」、と、どうも遺産食いつぶしモードに入っているような気もするが..[;^J^] しかし、それはそれとして、「ジンメン」が倒されたら、次は当然、「あの方」である。う〜、わくわくするっ!

 「東周英雄伝」と「深く美しきアジア」の衝撃が、今なお記憶に新しい、鄭問(チェンウエン)。その待望の新連載、「始皇」。なんという伸びやかな描線! なんという生き生きとした表情! その活力! これでまた、人生の楽しみが、ひとつ増えた。

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*1998年07月03日:「衝突する宇宙」


 「未来の記憶」を読んだ以上、「衝突する宇宙」(ヴェリコフスキー、1950)も読まねば、片手落ちである。そこで、これも積んであった新訂版(法政大学出版局)を、読む。

 ..

 ..[;^J^]

 .....いやはや。[;^J^]

 本書は、自然科学の素養が(全く)無い著者が、文献資料だけを駆使して、旧約聖書の天変地異の記述を、科学的に立証しようとしたものである。


「最後の氷河期の終りが、わずか数千年前、つまり歴史時代に、あるいは古代文化の中心地では既に記録術が使われていた時代に起ったものならば、自然が岩に刻みつけた記録と、人間が書き残した記録とは、同じような画像を与えなければならない。そこで、古代人の伝説と記録とを調べ、これを大自然の遺した記録と比較してみよう」(29頁、第1部第1章)

 自然科学の方法をいっさい取らずに、文献調査だけで仮説を組み立てる、という方法論は、「あり」だと思う。ジャンルは違うが「時の娘」のような歴史ミステリに通ずるところがある。

 但し、この場合はルールが厳しいのだ。文献の選び方、時代の同定方法、解釈の仕方。それらに恣意的な部分を残すと、「なんでもあり」の世界になってしまう。本書は、その意味で、駄目である。なにしろ、歴史的事件の時代を好き勝手に移動して「古代史を再編成」しているのだ。

 文献だけが頼りの本書において、こんなことをしてしまったら、いっさいの根拠がなくなる。自分で自分の方法論の立脚点を崩しているも同然である。

 思わず目を疑ったのは、友人の証言を伝えるプラトンの言葉を、著者が“訂正”する個所である。そのプラトンの友人は、アトランティスが9000年前に沈んだ、と、10歳の時に祖父から聞かされていたのだが、著者は「0が一つ多過ぎる」と、あっさり修正してしまうのだ。900年前でないと、都合が悪いからである。


「子供の時に聞いた数字は、どうも大きくなり勝ちなものだ」(161頁、第1部第7章)

 (よくまぁ私も、ここで本書をぶん投げなかったものだ。)

 本書が「証明」しているのは、紀元前15世紀に金星が木星から飛び出し、奇想天外な軌道を通って何度も地球に大接近をして、旧約聖書に記されているあらゆる天変地異を引き起こしたあと、火星と何度か衝突(大接近)したあげく、現在の軌道に収まった、という「事実」である。

 従って、金星の突然の誕生を立証することが、著者にとっての正念場なのであるが(これに失敗すると、全てが崩れ去る)、


「すべての民族の神話は、金星(ビーナス)の誕生のみを取り上げ、木星(ジュピター)、土星(サターン)、火星(マース)の誕生は問題にしていない」(184頁、第1部第9章)

 (この時点で、既に嘘であるが)これだけでやめておけば、まだしも微笑ましかったのに、このあとすぐ、金星は「ビーナス」の星ではなく、「アテネ」の星とされてしまう。(金星とアテネを結びつけるというのは、全くの初耳であり、著者はこれを「証明」すらしていない。ビーナス(アフロディテ)を無視し、ヘスペリデスは「説得力」に欠けると退けたあと、いきなり「アテネは金星である」。)金星の誕生に関する、せっかくの魅力的な「証拠」(ボッティチェリの名画が証明する、「ビーナスの誕生」という「人類の記憶」)を、なぜ捨てなければならなかったのか。

 これが実に..アテネがゼウス(木星)の頭から飛び出したという神話を、金星が木星から飛び出したことの証拠にしたいがために、トロイ戦争で、アテネとアレス(火星)が戦いを繰り返したという神話を、火星と金星の衝突の証拠にしたいがために、アテネ=金星説を、発明したのである。こうなるともう、神話の「訂正」どころではなく、神話の「捏造」である。

 引用文献は膨大であり、確かに、著者の仮説を「裏付ける」神話・伝説が、あとからあとから繰り出されてくる。ぼんやり読んでいると、眩暈がするほどである。しかし逆に、これほど多くの書籍から引用したということは、使用可能なテクストの母集団が十分大きいことも意味しているのであって、(彼は(私の試算によると)恐らく100万ページは読破したはずだ、)都合のいい文章は、いくらでも選び出せるであろう。著者は、この大異変以前には、1年は360日しかなかった(つまり、大異変前後で、地球の軌道が変わった)文献証拠を、山ほど提出してみせるのだが、(都合が悪いので)引用しなかったテクストが、どれほど膨大にあるかを想像してみただけで、説得力を失ってしまうのだ。

 適当な文献証拠が無い場合には「人類の集団健忘症」で逃げるような本に、これ以上、いちいち突っ込んでも仕方がないのだが、もう2点だけ挙げる。

 まず、第2部第7章。本書では、地球は(金星と火星に揺さぶられて)何度も地軸の向きを変えたことになっているのだが、この章ではその証拠のひとつとして、古代の寺院の礎石の向きがまちまちであることを指摘している。「エルサレムには、春秋分の日の曙光が、まっすぐ東門から射し込むように作られている寺院がある。→ その向きでない寺院がある。→ 地軸の向きが、しばしば変わった証拠である」というわけだ。全ての寺院が、建造時点ではその方向に建てられていた、という証拠は、示されていないのである。

 あとひとつ。これは本書の方法論そのものに対する疑義になるが、


「一現象が、多くの民族によって同じように記されているものならば、一民族のところで作られた話が、世界中に拡がったもので、従って、語られている事件の真偽については、何の証拠もないということもできよう。ところが、ただ一つの同じ事件が、全く異った形をした伝説中に姿を見せているので、その真実性は大いに高いものになる」(352頁、第2部第6章)

 ただ一つの同じ事件ではなく、全部別々の事件(あるいは、同値類に括られる、複数の(多数の)事件)と考える方が、よほど自然なのだが。ついでに、その半数以上はフィクションである、とも考える方が。さらに、著者によれば、「全ての伝説が、ただ一つの同じ事件を指している」ことの証拠は、「その事件が、あまりにも多数の伝説に現われている」ことなのである。これを循環論法という。

 アジモフに、本書を取り上げたエッセイがあったはずだと、探してみた。「混乱する宇宙」(「わが惑星、そは汝のもの」(ハヤカワ文庫)所収)である。


「親愛なる読者諸君、人類のあらゆる神話と伝説を好きに使い、その中で使いたいものを勝手に選び、必要な場合には改変が許されるなら、諸君の証明したいことを何でも証明してお目にかけよう」(72頁)

「親愛なる読者諸君、科学の発見の中から選り好みをし、私の尊大な気まぐれのままに、あるいは受けいれ、あるいは捨てる自由を認めてもらえるなら、諸君が証明したいことを何でも証明してお目にかけよう」(77頁)

 ま、私が長々と書く必要も、なかったわけだ。

 これは、「未来の追憶」(デニケン)とは全く異なる。「未来の追憶」は、デニケンの「真情吐露」であり、提示されている多くの(まず大部分は、誤っている)仮説も、詭弁を弄してまで「証明」されているわけではない。その意味では、「誠実」なのだ。彼のスタンスは微笑ましく、気持ちが良いとすら言える。対して、「衝突する宇宙」には、不誠実で不愉快なところがある。

 その結論は、むしろSFファン好みなのに..上述したように、ルールを破っているからだ。文献証拠(と、アジモフが指摘しているように、恣意的に選んだ科学の学説)だけが頼りなのに、それを改竄しているからだ。これではゲームにならない。

 多くのSFファンは、「衝突する宇宙」を批判(あるいは無視)しているが、「未来の記憶」に対する批判は、ほとんど聞こえてこない。ざっくり言って、「未来の記憶」は「三つ目がとおる」(手塚治虫)のネタ本である。「三つ目がとおる」に腹を立てるSFファンは、まず、いないだろう。(20人にひとりくらいは、いるかも知れないが。)


 しかし、これだけネガティヴな印象を受けたにも関わらず..私は、本書の「魅力」も、十分「理解」できたつもりである。つまり..上記のような突っ込みや疑義表明をするだけの、ごく基礎的な素養や常識のない人(典型的には、中学生)にとっては、これほど魅力的な本も、またと無いだろうと思われるのである。

 それはなによりもまず、18頁905項目に及ぶ索引、573件もの引用文献、カウントする気力も起きない膨大な量の原註、そして、245項目の行き届いた訳註である。

 この一冊を「マスター」すれば、神話と古代史と天文学、自然科学と人文科学にまたがった、学際的な「幅広い教養」を身につけられる、という雰囲気が漂っているのである。「勉強」しがいのある「総合科学」の書物である、という雰囲気が。

 1970年前後の安保闘争時代には、劇画の他は「毛沢東語録」しか読まなかった学生運動家が大勢いたそうだが、どうように、「自然科学」と「古代史」については、「衝突する宇宙」しか読まない、という中高生がいても、不思議ではないと思う。これを座右の書として、ことあるごとにひも解き、引用する少年の姿が、目に浮かぶようだ。

 私は、学生時代には(「幻想の画廊から」を読んでいたにも関わらず、なぜか)澁澤龍彦には嵌まらなかったのだが、「黒魔術の手帖」や「夢の宇宙誌」や「胡桃の中の世界」や「思考の紋章学」に、バイブルとばかりに入れ込んだ、罪も無い青少年たちが大勢いた(いる)はずである。「衝突する宇宙」は、そのポジションに収まり得る。

 もう一点。本書は、古代史の再編成という「面白い」試みをしているのだ。これは、ある種の歴史マニア(個々のイベントには興味があるものの、それらをつなぐ論理的な必然性、時代の流れ、歴史の縦糸と横糸をじっくり追っていく根気の無い人たち)の、琴線に触れるところがある。要するに、人類の古代史の、一番派手でおいしいところをかき集めてきて、自分だけの(勝手な)物語を作る喜びに、満ち溢れているのである。

 私も、確か13歳か14歳の時に、大学ノートに、「旧約聖書」と「神曲」と「失楽園」と「タイムマシン」と「ファウスト」と「幻想交響曲」と「レンズマン」と「ニーベルンゲンの指環」を全部ぶち込んだような、大長編戯曲だか小説だか(全5部作で、各部が5章からなっており、最終的には(映画ではなく)オペラ化されるはずだった、と記憶する)のシノプシスを書いたはずだ。その超巨編の主役はもちろん、である。(このノートは(賢明にも)数年後には焚書処分としたので、もう安心である。)本書は、そういう喜ばしい作業の参考書ともなり得よう。

 これが、「衝突する宇宙」の魔力だったのである。

 (これで、トンデモ本の二大聖典を片づけたわけだ。「神々の指紋」も「聖書の暗号」も読んでいないけど、「本物」を読んだんだから、もういいやね。)

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*1998年07月04日:サリンとスパイ


 三日連続で、死ぬほど暑い。東海地方の梅雨明け宣言は、まだだと思うが..

 昨日の夕刊を読んでいなかったので、目を通していたら..

 一面に、「「ベトナム戦でサリン使用」/CNN、誤報認め謝罪」。これはまぁ、誤報というより捏造に近そうだが、興味はない。それより、その上の記事。

 「米軍、沖縄にサリン貯蔵/国防総省確認/ベトナム戦争時」。これはまさに「MW」(手塚治虫)ではないか。

 そもそも、95年のオウム事件の段階で、私は、これは「MW」だと力説していたのだが..多くの「識者」は、「コスモクリーナー」のような、サルでも判るアニメネタ・マンガネタには反応できたものの、この毒ガス事件の精神的構造が「MW」と極めて近しい、ということを指摘できた人は、いなかったのではないか。底の浅さが知れるというもの。

 社会面を開くと、「「世界は名ピアニストを失っていたかもしれない」/リヒテルに「粛清」の危機/息子守るため父犠牲/ロシア紙報道」。

 リヒテルの父が、息子をソ連の政治警察の粛清から守るために「ドイツのスパイ容疑」を認め、銃殺されたという。戦時中のことだ。

 サブタイトルは忘れたが、「人間交差点」(矢島正雄/弘兼憲史)にも同じようなエピソードがあった。そこでは、戦時中の息子の(意図せざる、大人に利用された)スパイ行為に嫌疑が及ばぬように、自ら痴呆の振りをし、死ぬまで痴呆者として戦後の数十年間を生き続けた、息子のために自分の人生を捨てた父親が、描かれていた。

 戦時中(あるいは、それに準ずる社会体制下)では、珍しくもないエピソードだったのかも知れないが..

 ..以上、劇画に通ずるネタが2件、新聞から拾えた日であった。いずれも、暗いエピソードである。

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*1998年07月05日:ふと気がついたこと


 大原麗子と小林ひとみは、雰囲気が非常に良く似ている。(だからどうしたと言われても。[;^J^])

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 9 1998 
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