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私は、疲れれば疲れるほど、夜更かしすれば夜更かしするほど、早く(早朝どころか深夜のうちに)目が覚めてしまう体質なのだが、今夜は3時頃に目が覚めた。もっともこれは体質のせいというよりは、雨戸も砕けよと叩きつける、嵐の轟音のせいであろうが..
理由はともかく、この時刻に起きてしまったら、あとはもう、どろどろと夢に溺れつつ浅い眠りを繰り返すのみ。暇な時にはレム睡眠貪りモードなのだが、これをやると、疲れが少しも取れないどころか、逆にぐったりしてしまうのだ。明日は(今日は)仕事なんだがな。
しまいには、「7時に目を醒ましたが、どんよりと暗く、朝の7時だか晩の7時だか判然としない、という夢」すら観た。もう何がなんだか。[;^.^]
目次へ戻る創元推理文庫にラインナップを持っている唯一の漫画家(だったと思う)、いしいひさいち。私は、「ミステリギャグ漫画家」として広く一般に認知されるようになる以前から、彼のミステリ漫画に注目してきたつもりである。
いしいひさいちのミステリ4コマ中、屈指の傑作を、紹介しよう。(ドーナツブックス所収だったと思う。)
町医者にかかったものの、門から出た所で、力尽きて倒れた患者。あまりにも世間体が悪いので困った医者とその女房は、その死体の(以下、結末 → )
目次へ戻る私自身の、最近のネットニュースへの投稿から、引用する。内容はどうでもよろしい。注目していただきたいのは、字配りである。
普通、そうですよね。というか、中学生のくせに、そのくらいの背伸びも できないやつは、情けない、と、言いたくなります。[^J^] 私も、当時の日記 は、難しそうなかっこよさそうな(しかもオリジナルではない)フレーズのオ ンパレードです。 「ツァラトゥストラ」は、高校に入ってからだったと思うけど、ソクラテ スやダンテやミルトンは、中学生時分の愛読書ですよ。あったりまえじゃん。
..この引用文は、(以下、ブラウザによる振る舞いの違いを避けるために、タグは全角で書く)<BLOCKQUOTE>されたものではない。<PRE></PRE>なのだ。つまり、最初から、各行の左にスペースを入れているのである。パラグラフの最初の行は、半角スペース8個、その他の行は、同4個。
このスタイルは、非常に珍しい。お陰で、大量のログを高速スクロールで流し読み(というか流し眺め)していても、私の発言が引用されていれば(引用文が中空に浮いているので)逃さず認識できるのだが、これは予期せぬ副作用。
なぜ、行頭に無駄なスペースを入れるのか。
それは、1984年から85年にかけて、私が会社で使っていたドットインパクトプリンタに、左マージンを設定する機能が無かったからである。
プリントアウトをファイルに閉じるためには、左マージンが必要なのだ。プリンタにその機能が無いのだから、自力で開けるしかなかったのである。
時は流れて、そんなものを自分で設定する必要が無くなってからも..身についたスタイルを、今更捨てるつもりには、全然なれなくなってしまっていたのだった。
それにしても、1989年にインターネット、1990年にパソコン通信を始めたのだが、1992年の時点でも、このような不要なスペースが各行につくスタイルは、(当時は、私以外にも、かなり大勢いた。同じ理由だったかどうかは不明である、)「転送バイト数が無意味に増える」「通信費の無駄」として、嫌がる向きが少なくなかった。今や、この程度の“無駄”は誤差範囲であり、現在、もっとも嫌われているのは、数十キロ乃至数百キロバイト(ときにはそれ以上)の、無意味な添付ファイルである。良い時代になった(のだと思う。多分 [;^J^])。
目次へ戻る今日は、腹のたった2本の映画について書く。いずれも、多分10年以上前に、テレビで観たものである。
まず、「火の鳥 黎明編(実写版)」(原作:手塚治虫、市川崑監督)である。まぁ、この豪華な俳優陣を見ていただきたい。
大原麗子、由美かおる、尾美としのり、風吹ジュン、草刈正雄、ピーター、カルーセル麻紀、若宮富三郎、高峰美枝子、江守徹、草笛光子、林隆三、田中健、大滝秀治、沖雅也、仲代達矢..
最高水準の原作に、(ミーハー的なラインナップではあるが)最高水準の俳優陣、そして(多分)一流の監督。これだけ揃えて、スカしか出来ないのだから、映画というのは面白いものである。
もっとも、“戦犯”は自明だ。監督と制作(あるいは企画)である。何よりも呆れたことには、漫画の台本、アクション、ギャグを、そのまま実写でやっているのである。
猿田彦が、張り詰めた緊張の糸をたって、思わず一息つくシーン。そこで彼は、軽く飛び上がると同時に、両足を伸ばしたまま直角に前に放り出し出し、そのままドスンと(尻と脚全体で)着地する..漫画の文脈でなければありえない、動作である。
他にも、猿田彦とナギが山犬に襲われるシーンで、突然山犬がピンクレディになって、UFOを踊りながら歌ったり、空に向かって蹴飛ばされた人物がアトムに変身したり(アトムの主題歌付き)..
これらのギャグは、漫画の文脈であってこそ意味を持ち、光り輝く。アニメ映画でも通用するだろう。しかし、シリアスな表情の登場人物たちが演じる実写映画で..(さらに呆れたのは、ヒナクを演ずる大原麗子が、ラストシーン、数十年を火口の底に閉じ込められて暮らし、老婆になっているはずだのに、全くメイクを変えずに、若々しい姿で(しかし“フリ”だけは老婆で)演じていたことであるが、これはまた別の問題。)
なめているんじゃないか?
もうひとつは、「ゴルゴ13」の、これも実写版。確か主演は千葉真一だったと思うが、タイトルも監督も、憶えていない。
問題点は、上記「火の鳥 黎明編」と同じなのだが、中でも印象深かったシーンは..(多少の記憶違いは、勘弁していただくとして..)
..G13を追跡していながら、振り切られた刑事たち。チーフのデスクを6〜7人が、神妙な顔をして、無言で身じろぎもせず、取り囲んでいる。チーフが、何か一言二言しゃべる。すると、ひとりが“左足を大きく一歩踏み出して、左半身を乗り出すと同時に、左腕を、肩から肘までは下向き45度、肘から手首までは水平の角度で、左手は自然に開いたまま、前方に突き出し”、チーフに向かって「申し訳ありません、見失ってしまいまして」。この間、チーフを含めて残り全員、無言かつピクリとも動かず。(..10年以上前、テレビで観た情景の記憶なので、まるで違う可能性もある。左手ではなく右手だったかも知れない。また、伸ばした手は、チーフの机の上に置かれたかも知れない。しかし、確かにこのようなイメージで、記憶に焼き付いているのだ。)
劇画であればこそ、意味のあるアクションである。それをそのまま実写でやって、どうする気だ? もしかして、劇画の構図・コマ割りを、そのまま絵コンテに流用したのか?
なめているんじゃないか?
「漫画」や「劇画」をなめているのではなく、「実写映画」をなめているんじゃないか?
「漫画」や「劇画」の文法と、「実写映画」の文法は、違うのだ。徹底的にトランスレートしなければならないことが、判らぬスタッフでもあるまいに。やはり、「翻訳」にかける金と時間が無かった、ということなのだろうか?
目次へ戻るこれも昔、ある雑誌をガソリンスタンドで拾い読みした思い出話だが、まぁ、今でも状況は同じなのだろう。
確か、バイク系の雑誌で、ヤングなんとかという誌名だったかも知れないが、とにかく、ビキニのお姉さんが、意味も無くバイクに跨っている表紙である。内容をパラパラしたところ、「“族”仕様」とは言わないが、まぁそのへんの客層が喜びそうな誌面作り。連載漫画も暴走族が主人公で、十分に美化されている。
驚愕したのは、読者の投稿欄である。
構成は、そこらの普通の雑誌と、まるで変わるところは無い。しかし投稿イラストは、いかにも陰惨で暴力的な、荒んだものである。それはいい。驚いたのは、あるお便りで..「このまえ、事故って死んだダチの葬式に行ってきたんだけどさぁ、あいつずいぶんクスリやってたからさぁ、焼きあがってきた骨が、ピンクや緑に光っているんだ。おどろいちゃった」..で、それに対する編集部のコメント(お返事)というのが..「うん、やっぱり、体は大事だよね。みんなも、自分のこと、体のことを考えていこうよ!」
..このやりとりの、あまりに軽いノリ。題材(素材)になった「事件(事実)」は、本当に悲惨で、ほとんど猟奇的なものですらあるのに、(日野日出志の「蔵六の奇病」等を想起した人は、あとで職員室まで来なさい、)それについて語られる言葉は、まるで明るい青春..
こういう世界もあるのである。
逆に、そういう世界から、「こちら側」あるいは「その他の世界」を見たときに、どのように見えるのであろうか? まるっきりくだらないのが、退屈なのか、馬鹿馬鹿しいのか、理解不能なのか、恐ろしいのか、おかしいのか..
..想像もつかない。
目次へ戻る美術愛好家で画集愛好家である私は、今までに2度、画集の収集・保存に関して精神の危機に遭遇し、そして2度、それから立ち直った。今日は、その1回目の「危機」について話そう。
それは、20年以上昔のことだった。
「画集」に収録されている複製の「色」は、「本物」の色とは異なることに、気がついてしまったのだ。
これには悩んだ。私は、何を見ているんだ? 「本物とは異なる色の複製」に、なんの意味があるんだ?
文学作品ならば、原書を読めば、問題なく「本物の実物」それ自体を読んだと言えようし、翻訳であっても、(翻訳の巧拙は別問題として)翻訳者の解釈に全幅の信頼を置く、という前提に立てば、これはやはり「本物の実物」それ自体なのである。
音楽ならば、別の意味で問題は生じない。どのみち、ベートーヴェンが、その同時代人が、鳴らした音、聴いた音は、消滅してしまったのだ。手がかりは、楽譜をはじめとする文献資料だけである。だから、少々プアな機材でレコードを聴いたとしても、それ故に「本物」を聴かなかったことには、ならないのである。1000万円の機材でも、条件は同じなのだ。
しかし、美術は、話が違う。(版画とかは別として、)唯一無二の実物が、地球上に存在するのである。「本物」は、それしかない。だからと言って「複製」に意味が無いわけではなく、物理的に・金銭的に「本物」を見られない条件であるならば、もちろん、「複製」で代用すればいいのだ。「それが、本物と区別のつけられない複製であるならば」。
酷い場合には、同じ絵画作品なのに、ある複製では全体が緑がかっており、別の複製では紫がかっていることもある。印象は、全く異なる。これで、「本物」の代用といえるのか? これらの複製だけを見て、本物は見ずに死んだ場合、私の人生において、その絵画作品と、関わりがあったと言えるのか?
追い打ちをかけたのが、高校時代の美術の教師の言葉。「絵の複製。もちろん、見るなとは言わんけど、こんなのは本物とはなんの関係も無いね。サイズについては言わないことにしても、ほら、このツルツルの手触り! 表面の凹凸はどうなってしまったのかね? 絵というのは、見る角度によって違うものなんだよ」
これには、参った。数年間にわたって立ち直れず、画集をいっさい、買うことが出来なくなってしまった..
ふたつのきっかけで、立ち直れた..これらの“呪い”から、解放されたのである。
ひとつは、誰だったか忘れたが、マグリット展の講評で、「しかし、絵筆のタッチの残るこれらの作品の『表面』を見て思うのは、マグリットの真価は、複製となって始めて現れるのではないか、ツルツルの紙に印刷されるためにこそ、これらの絵は描かれたのではないか、ということだ」と書かれていたのを読んだこと。もちろん、逆説混じりなのだが、おや、と思った。(そういえば、ダリも、テレビの取材を受けた時に、「つねに、複製の方が出来がよい」と、ジョークを飛ばしていた。)
もうひとつは、ある日、手元の画集数冊に収められている、ブリューゲルの「反逆天使の墜落」を見比べていた時、もちろん、全て色が違っており、どれが本当の色かは知るよしもないのだが、少なくとも、これは本当の色ではない、と判断できる複製、即ち、画集全体が薄茶色に色褪せており、その複製も「画集の色」に染められている、その複製が、「(私の主観では)もっとも色が良い」ことに気が付いたこと。
要するに、オーディオ道楽と同じ事だったのだ。「音の缶詰」には、生の音とは違う存在価値があり、それは、生の音と完全に同じである必要はないのだった。このことに気が付いてから、再び、画集を買うことが出来るようになった。画集による色の違いも、それなりに楽しんで鑑賞しわけられるように、なったのである。
目次へ戻る第二の危機は、数年前に訪れた。それは、久しぶりに(ものによっては、10年ぶり位に)画集を開いて、愕然とした時に始まった。
変色していたのである。醜く、おぞましく。昨日、「全体が薄茶色に(セピア色に)色褪せた画集の“色の良さ”」について述べたが、この時私が直面したのは、そんな“美的”な、時には“高貴な”変色などではない、醜いアバタやシミだったのだ。これが、多くの画集を蝕んでいた。
経年変化なのだ。ということは..これは、単調に悪化する一方なのだ。10年間で、これほど醜くなった。では、10年後には、どうなるのだ? 気が狂いそうになった..と言えば、もちろん嘘になる。しかし、「気が狂ってしまえればよいのに」とは、本気で思った。
無論、原因を調べた。元の状態に戻すことは不可能だとしても、これ以上の悪化を食い止める、あるいは、進行にブレーキをかけることができないかと。
調査前、直感的には、以下の原因が推測できた。
まず、日焼け。背表紙やケースの色褪せは、これだろう。しかしこれらの部位の変色などは、私は問題としていない。日に当たらない(開いたまま陽光の下に放置することなどしない)、内側のページの変色の原因では、ありえない。
次に、湿気。例は少ないが、これは「黴」ではないか? と思える変色(というか、病変)が、いくつかあり、これは保存方法(防湿、風通し)によって予防できるものなのであろう。
第三に、もっとも症例の多い、各頁の周辺(天・地・側面)から攻めてくる変色については、これは「埃焼け」ではないか? と疑った。根拠も何も無く、太陽光線でも湿気でもなければ埃だろう、くらいの、適当な推測であった。
書籍とネットで調べたところ、上記以外の、いくつかの原因があった。(「埃焼け」というのは、私の想像の産物であるらしいことも、わかった。)
まず、酸性紙の酸化。水分と反応して硫酸が発生し、これが紙をボロボロにするのである。この場合は、直接の原因は「水分」ということになるが、まさか完全防水室に保存するわけにもいかないし、大気中には必ず水分が存在するのだから、これは避けられない病変ということになる。しかし、崩壊に至る病だとすれば、「茶褐色に変色していくだけで、崩壊する形跡のない」症状は、これだけでは説明がつかないのではないか。(いやまぁ、硫酸といえども、変色させる程度の威力しかないかも知れないし、また、現在変色だけで崩れる兆候のない本も、あと10年、20年たてば、ボロボロと崩れ始めるのかも知れないが。)
もうひとつ、知ったのは、「太陽光線などの電子の攻撃によって生じる、リグニンの色戻り」である。除去しきれなかったパルプ中のリグニンは、漂白によって白くするが、この際、リグニンを分解する方法(分解漂白)と、ベンゼン環の官能基を変化させて残したまま変色させる(保存漂白)の2つに大きく分けられ、後者の方法は、あまり白くならないが歩留率が高いので、さほど高級でない目的によく用いられるが、経年変化によって、色戻りを起こす、ということである。この場合は、直接の原因は電子の攻撃であるが、これを防御しつつ鑑賞することは、相当難しそうである。[;^J^]
結局、普通に鑑賞しつつ保存しようとする限り、(醜い)変色を防ぐ方法は、無い。酸性紙でなければ、真空パック(あるいは窒素注入)して、湿度をコントロールされた無菌書庫に保存すれば、そうとういいとこいくだろう。しかし、それでは意味がないのだ。おりにふれて、全く気まぐれなタイミングで(何かの本に、あるいは音楽や映画に触発されて)ひらくことが出来る状態でなければ、画集を手元に置いておく意味は、ないのである。しかし、ただ単に置いておくだけで、醜く病変して行くのを、座視しているのも忍び難い..
この問題を、いかにして解決しつつあるかは、来週、述べよう。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Jul 2 1998
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