1998年03月30日:あらしの妖精/ピンクの天使/ヌーディアン列島/とべとべるんちゃん/らびちゃん/海のトリトン(たのしい幼稚園版)/漫画生物学/漫画天文学/おお! われら三人/まんが千一夜/地球トンネル/鉄腕アトム(小学一年生版)/野ばらよいつ歌う/バンパイヤ 第二部、調査 1998年03月31日:「いちど見にきてください」 1998年04月01日:恒例の人間ドック 1998年04月02日:雪来たる 1998年04月03日:ある心酔者 1998年04月04日:僅か数ビットの世界 1998年04月05日:「えふくら−しすおぺ」断末魔目次へ戻る 先週へ 次週へ
案の定、Tホテルでは0時前に(従って、正確には昨日のうちに)目を覚ましてしまった。数時間でも睡眠を取ってしまったので、もう眠れない。しかも体調がいまいちで、持参してきた文庫本を読んだり、ロビーのグレ電で通信したりする元気も、無い。
かくして、長い長い夜を、ベッドの中で輾転反側して過ごしたのである。
8時前にホテルを発ち、国会図書館へ向かう。平日のこの時間帯、ピークは外しているような気がするが、山手線の日暮里から有楽町まで、きっちりラッシュである。これに毎日揉まれずにすむだけでも、地方での(空いている道の)車通勤は、恵まれているというべきか。もっとも、今日の混み方は、(私の背中にへばりついていたOL二人連れの会話によると)少し異常らしい。有楽町から永田町までの有楽町線は、何故か空いている。
久々に、手塚治虫オンリーの調査である。
まず、「少女ブック」誌の「あらしの妖精」の調査が途中までになっていたので、これを終わらせ、引き続き、同誌の「ピンクの天使」。一般誌も久々にチェック。「現代」誌の「ヌーディアン列島」。これは4回で打ち切られたもの。
学年誌は、まず「たのしい一年生」誌から「とべとべるんちゃん」、同誌、及び「たのしい幼稚園」誌の「らびちゃん」。「海のトリトン(たのしい幼稚園版)」は、「たのしい幼稚園」誌の他、「テレビマガジン」誌掲載分も合わせて、全集に収録されているのだが、残念ながら、1972年のテレビマガジンは、1年分まとめて欠号。
古い時代の学年誌に溯り、「中学初級コース」誌の「漫画生物学」、「中学二年コース」誌の「漫画天文学」。いずれ劣らぬ名作である。「中学生の友」誌の「おお! われら三人」は、戦時下を舞台とする異色作で、これも、原稿が遅すぎるという理由で打ち切られた作品。
「少年画報」誌の「まんが千一夜」は、イラスト(漫画)付きエッセイ。「四年の学習」誌から「五年の学習」誌にかけて連載された「地球トンネル」は、「地底国の怪人」の最初のリメイク。のちに「アバンチュール21」として、再びリメイクされた。「鉄腕アトム(小学一年生版)」は、1972年度に1年間連載されたもので、並行して連載された「鉄腕アトム(小学四年生版)」とは、全く内容は異なる。(学年誌版「鉄腕アトム」には、さらにのちに1980年から連載された、「小学二年生版」もある。)
「野ばらよいつ歌う」は、「少女サンデー」誌に連載されたもので、タイトルからシューベルトの歌曲がピンと来た人は鋭いが(私は思い至らなかった)、実はシューマンの妻、クララ・シューマンの伝記。[;^J^] しかも、クララがシューマンに出会って、さぁこれから、というところで、これまたものの見事に打ち切り。[;^J^] ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ゲーテらが、綺羅星のごとく登場する作品なのだが。
現代マンガ図書館で、「少年ブック」誌を閲覧。「バンパイヤ 第二部」の再調査である。以前、問題にした「第4章 ヤモリ沢の怪物」のラスト4頁は、連載期間中の、どの号にも収録されていない。やはり単行本での描き下ろしか。
神保町に移動。コミック高岡で「怪奇版画男」(唐沢なをき)と「西遊妖猿伝1」(諸星大二郎、潮出版社)を捕獲して、こだまで浜松へ帰る。
目次へ戻る特にネットニュースにおいて、自分のホームページへ勧誘するのに、内容もセールスポイントも書かず、「いちど見にきてください」、としか書かれていないことが、極めて多い。あまりに多いので、どこぞのノウハウ本(「猿でもわかるホームページの作り方と客引きの仕方(仮題)」みたいな本)で、“お作法(慣習)”として教えているんじゃあるまいか?と、勘ぐりたくなるほどである。
これでは、勧誘になっていない。情報が少なすぎる。そうでなくとも、きょうび、ホームページは掃いて捨てるほどあるのだ。現代人には、海のものとも山のものともわからぬURLをクリックしている暇など、ないのである。
目次へ戻る年に一度の、恒例の人間ドック。(半年後の再検査も“恒例”なんだから、困ったもんだ。)
おや、コレステロール値が正常圏内に戻ってきた。万事悪くなるばかりだと覚悟していたが、これは意外。思い当たるフシと言えば..昼食をカップ麺ですませるのをやめて、ちゃんと仕出し弁当を食べるようにしたことと、居酒屋で食事をする時は、肉食を避けて魚にするようにしたこと位だが..この程度の食生活の改善でも、随分効くものだ。
肝臓のγGTP値は、横ばい。これも下げなくてはならないのだが、これは節酒あるのみ。
それにしても、何故か、無茶苦茶すいている..年度初めのこんな日に、会社を休む方が珍しいのか。
目次へ戻る今年は首都圏では、随分雪が降ったが、もちろん浜松では例年どおり、(ちらつく日はあっても)地面が白くなる日は、皆無。
FCLAのRTで、沼津では(たった)3cmの積雪で、交通機関が麻痺してしまう、などという話が出ていたが、浜松では3cmだと、交通機関の麻痺ではすまない。社会が崩壊する。
(かくして文明は周期的に.. 元ネタがわからない人は、無理についてこなくても、いいです。[;^J^])
目次へ戻る「リング」「らせん」「ループ」の三部作は、相変わらず、ネットニュースで話題になり続けている。話題になるのは、どうも釈然としない、すっきりとしない疑問点が、残るからである。そこで、質問が発せられるわけだ。
そのこと自体は、作品の品質(完成度)の低さを、ただちには意味しない。どうにも釈然としない疑問点が残るタイプの作品には、「2001年」という傑作もある。(「ブレードランナー」も、この範疇に加えてよかろう。)
特に fj.books には、この三部作に、ほとんど心酔しているファンがいて、疑念への回答を一手に引き受けている感がある。なかなか見ていて微笑ましい。
彼の回答の仕方は、実に特徴的なもので、この三部作からの引用(第何頁かを明記)を連ねるのである。すなわち、作品(テクスト)の中に、自ずから回答はある、この作品群は“完備”である、というスタンスなのだ。
気持ちはわかる。
非常に、よくわかる。
彼にとって、「リング」「らせん」「ループ」は、“The BOOK”とまでは言わないにせよ、少なくとも“聖典”(“宝典”)なのだ。
羨ましい、と思う。
私も昔は、これに近い接し方をした本があった筈だが..なんと、その書名を、思い出せない..
目次へ戻る今から30年ほど前に廃刊になった、「少年」という雑誌がある。その末期、「超人間シリーズ」という読み物が連載されていた。その中に、ヨガの修行(というか手術)をして、読心力を身につける男の話があり、これが非常に印象的なものであった。他の人間の思っていることを、言葉や映像として具体的に読み取るのではなく、もっと大雑把な「アイコン」の形で認識するのである。
数年前に数千円を投じて入手した1967年12月号に、これが掲載されており、私の記憶が、ほぼ寸分違わぬ、正確なものであったことが明らかになった。322頁から引用する。(文・北川幸比古)
外へ出てみておどろいた。
出あう人のからだから、まっかな炎が吹きだしているのだ。
「あれは、おこっているんだ。」
黒いけむりを、ふきだしている人がある。
「あれは、悪い心を持っている人だ。恵宝、きみはもう、霊視ができるようになったんだ。」
「怒り」や「悪心」にも、いろいろあろうに、ここではそれぞれ「ある」「ない」の、「1ビット」の情報として、認識されている。(炎の形や煙の濃度で、怒りの内容、悪心の程度を知ることができる、とは、読めない。)このシンプルさ。力強い単純さ。
もうひとつ、「単純」で思い当たる作品がある。これはつい最近、といっても、既に数年前になる。「沈黙の艦隊」である。
この中で、名前は忘れたが、ある政治家が、「政治の世界はどんなに複雑に見えても、所詮は単純なイエス・ノーの組み合わせに過ぎん!」、と、叫ぶシーンがある。これが実に印象的だった。
確かにその通りなのだろう。そして、単純な二択問題でも、それが5つあれば、32通りの結果がでる。10個の判断の組み合わせからは、1024通りの未来が導き出される。
さらに連想は巡る。「プログラム」だ。
経験の浅いプログラマに設計・コーディングをさせると、システム全体の「状態」「モード」等を表すために、やたらと「フラグ」を導入することがある。「パワーオン時にメディアが挿入されていたぞフラグ」「今リピート中だぞフラグ」「EXITボタンが押されたことがあるぞフラグ」等々..
条件を“追加”して、プログラムを“成長”させ、最終仕様に近づけていく、てっとり早い方法なのだが..これをやられると、設計が崩壊する。オン・オフ・フラグがひとつ増える度に、システムの取りうる状態が倍増して行く。上例の3つのフラグが導入されたことにより、テスト/デバッグすべき“状態”の数が、“8倍”になってしまった。
フラグの個数で、プログラマのスキルを推し量れるといっても、過言ではない。実際、極力フラグを導入せずに多様な状態を表現できるような設計手法が、いろいろある。
さて、政治の世界の「イエス・ノーの組み合わせ」は..と、お約束の“振り戻し”をしたところで、今夜はここまで。
目次へ戻る昨夜、寝ている間に、例の「えふくら−しすおぺ」 がまた、「クラシックCDコレクション」の「クラシック音楽掲示板」に、「倉田わた」名義で、5連発で書き込んだらしい。これは読みに行く前に、掲示板の管理者によって削除されたのだが、M氏からログが届けられたので、読むことができた。
その後、削除されたことに気が付いた「えふくら−しすおぺ」は、どういうつもりか「倉田ワタル」に名前を変えて、また書き込み、これもたちまち削除された。今度は削除前に読むチャンスがあった。
(改名以外に、ほとんど無意味な工夫もしている。「倉田わた」のメールアドレスは、“w-kurata@niftyserve.or.jp”という、架空のものだが、「倉田ワタル」のメールアドレスは、“kurata@rinc.co.jp”という、いくらか本物に近い(しかし、やはり架空の)ものに変えている。)
大方、あの掲示板において、私がコメントをつけなかったので、「口喧嘩に勝った!」とばかりに、両手を腰にあてて鼻の穴をヒクヒクさせていたのだろうが、4/2の深夜に書き込んだ、「「えふくら−しすおぺ」潰れたか」を、4/3の深夜1:30頃に読んで、実ははなから相手にされていなかったこと(私だけでなく、誰からも相手にされていなかったこと)に気がついて、逆上したらしい。(何をいまさら)
4/5の1:30から2:00頃にかけて書き込まれた、「倉田わた」名義の5本の書き込みのタイトルは、
正真正銘、究極の阿呆です。
1998 年 4 月 05 日 01:30:53:
正真正銘、究極の阿呆です。
1998 年 4 月 05 日 01:35:45:
正真正銘、究極の阿呆です。(続き)
1998 年 4 月 05 日 01:42:34:
正真正銘、究極の阿呆です。(続き)
1998 年 4 月 05 日 01:48:36:
正真正銘の阿呆、倉田(続き)。
1998 年 4 月 05 日 01:59:11:
13:20の「倉田ワタル」の書き込みのタイトルは、
ワタルの世界
1998 年 4 月 05 日 13:20:12:
である。(ホストは、もちろん全て、sol.infonex.com である。)
やたらと同じタイトルが続いているが、これはアップミスの繰り返しで、内容も、同じものが繰り返されているのである。怒りで指が震えている、と、読めるが、それにしては数分間もあいているのが、妙ではある。(「ワタルの世界」は、先の5つの断片を、ひとつに(ようやく)まとめたもの。)
これも最初は、全て引用するつもりだったが..やめた。先日の、贋書き込みには、まだその滑稽さを笑える余地もあったのだが、もはや単に“醜い”だけだからだ。先日のには、「倉田わたるになりすます」という“知的”な処理をしている余裕があったのだが、それもなくなり、タイトル及び書き込み名義は「倉田わたる」に化けているのに、内容は「倉田わたる」に対する罵倒という、全く支離滅裂なものに成り果てているのである。
また、先日のは、掲示板の管理者が(見落としていただけかも知れないが)無視というか放置していたのに対し、今回のは、即日即刻削除されたわけであり、意味が違う。これを引用するのは、他人の家のごみ箱から汚物を拾ってきて貼り付けるも同然の行為である。
彼はほとんど、壊れてしまった。ここまで追い込んでしまったのか..という(僅かな)悔やみも、ある。この件に付いては、別途考察したい。
Last Updated: Apr 9 1998
Copyright (C) 1998 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]