2022年03月28日:Thunderbird で閲覧すっか [;^J^] 2022年03月29日:幻想美術選「ズレタズウラ」シドニー・H・サイム 2022年03月30日:やはり症状出ずですか [;^J^] 2022年03月31日:「感応グラン=ギニョル」 2022年04月01日:「知識ゼロからの西洋絵画入門」シリーズ 2022年04月02日:「ゴッホ展」 2022年04月03日:浜響 第92回 定演目次へ戻る 先週へ 次週へ
というわけで、従来使用していた kurata@rinc.or.jp のメール群を、新規に取得した Gmail のアカウント(kuratawataru@gmail.com)に移そうとしたのだが、これが一筋縄ではいかない。rinc は無償版 G Suite によるホスティングであり、いわば水平移動なのだから、なんの問題もないだろう、と、思っていたのだが、どうもそういうことではなさそうだ。いったん、mbox 形式でエクスポートしておいてインポートする方法も考えたのだが、そもそも Gmail には mbox ファイルをインポートする機能はないらしいし..そういうポリシーなんだから、仕方がないが..
まぁ、いいや。「過去メール」を Gmail で一括管理する必要はない。ローカルに保存した mbox 形式の過去メールは、ローカルに Thunderbird Portable でブラウズすることにしよう。Thunderbird Portable は5年以上触っていないので、まず、インストールからだが、多分、問題は発生しないだろう。(そもそも論だが、メールアーカイブ(に限らず個人データ)は、クラウドではなくローカルファイルとして手元の物理メディアに保管しておく方が、圧倒的に 安心できるしね。[^J^](もちろん、遠く離れた2地点以上(現時点では、浜松と横浜)に正副保管しておくのが、当たり前の大前提ですよ。[^.^]))
目次へ戻る「幻想美術選」、第288回。この画家の名前の「日本語表記」については、ひとことふたことしておく必要がありそうだ。
私と Sidney Herbert Sime(1865〜1941)との衝撃の出会いは、1975年(高校2年生、17歳)の冬に読んだ「ダンセイニ幻想小説集」(荒俣宏訳、創土社)、そしてその翌春の「ペガーナの神々」(同)であり、それらには挿画家名が「シドニー.H.サイム」と記載されていた。(この2冊の書名で「あぁ..(^_^)」、と、相好を崩したあなたは、好むと好まざるとにかかわらず、こちら側の人間である。[^.^])しかし、1981年の「妖精画廊 PART II 夢を描く絵師たち」(荒俣宏編著、月刊ペン社)では、同じ荒俣宏が「シドニー.H.シーム」と表記しているのである。
現在、Wikipedia では「サイム」であるし、ざっと検索しても多くの人は「サイム」と書いているにもかかわらず、幻想系の人(誰? [;^.^])が、しばしば「シーム」と呼んでいるような気がするのは、間違いなく、「妖精画廊」の責任である。まったく、荒俣宏には落とし前をつけてほしいものであるが、それはさておき。[;^J^]
この絵は、ロード・ダンセイニ(まさかとは思うが、知らなければこっそり → Wikipedia)の「驚異の書」(The Book of Wonder, 1912)の巻頭に収録されている「ケンタウロスの花嫁」という掌編を飾っている。
250回目の誕生日を迎えたケンタウロスのシェパラルクは、やむにやまれぬ衝動に駆られて、秘蔵の角笛を宝箱から取り出し携え、住み家の岩屋を飛び出し、野を越え山越え、人の住む街を駆け抜け、ズレタズウラの都を目指す! そしてそこに住まう伝説の生き物であり、久しく恋焦がれていたソンベレーネ、ケンタウロスと神とスフィンクスとライオンの血が流れている、夢のごとく美しいソンベレーネをさらうと、角笛を吹き鳴らしながら連れ去って行った..婚礼のために..
..という、まさに夢のような物語(というよりは、一幅の情景)なのだが、実は、この絵に付けられているキャプションは「ケンタウロスの花嫁」ではない。遠くの方に見えている都の名前であるところの、「ズレタズウラ(ZRETAZOOLA)」なのである。
つまり、これは「挿画」ではなかったのだ。先にこの絵があり、ダンセイニは、あとからこれにあわせて物語をつづったのである。(サイムがこの絵を描いた時点では、「ズレタズウラ」は都の名前ですらなかったかもしれない。画家はこの2頭の神話的人獣のいずれかの名前と想定していたのを、ダンセイニが自由に解釈したのかもしれない。)
未谷おとの、「シドニー・サイムについて」という、心のこもったページを見つけたので、よろしければ、ぜひご一読を。この、今となってはもはやマイナーポエットの範疇にくくられざるをえない、しかし、20世紀初頭のイギリスでは大いに人気を博していた挿画家と、幻想作家との出会いと交流を、短い文章に感動的にまとめている。先述した「驚異の書」の作成事情も、書かれている。
このページによると、こんにちの欧米では信じられないことに、ダンセイニとサイムの関わりはまったく顧みられていないとのことである。サイムのイラストで飾られたダンセイニの著作は(Amazon で確認する限り)いくつも出版されているのだが、要するに「それだけの人」という整理のされ方なのだろうか..あるいは、再評価が(いくらかでも)進んでいるのだろうか..
画像検索結果 を見ていただきたい。これほどの画家が、幻想世界が、忘れ去られてしまっていいわけが無いのだ..
目次へ戻る昨夜、OAナガシマからかかってきた電話に(ら抜き言葉で [^.^])出れていなかったので、折り返した。もちろん、修理だし中のスキャナーの件である。メーカーで確認したところ、症状出ずとのこと。やはり [;^J^]。被写界深度が非常に浅い機種であって、原稿が密着せずに少しでも「浮く」と、ピンボケになりやすい。それが原因ではないか、と。私もそこらへんは疑っていたんですけどね。
そもそも、「密着が甘くなることがある」のは、「ガラス面に強く押しつけることをためらう」傾向が(私に)あるからである。従来メインで使っていたEPSON GT−X830は、(書籍のノドの奥までしっかりとスキャンするために)それこそ体重をかけて押しつけても問題は発生しないのだが、このGT−S650は、それをやると、「壊れたか?」レベルの誤動作をするからである。スキャン画像がぐしゃぐしゃになるどころか、それ以前にスキャン時にメカが異音を発したりとか [;^.^]。非常に薄くて、物理的にも華奢な機種なので、そもそもそういうこと(強く押しつける)をしてはいけないのだろう、と、それはそれで納得していたのだが..このことを電話で伝えたところ、その件も踏まえて再度メーカーに確認していただきます、ということになった。
目次へ戻る「感応グラン=ギニョル」(空木春宵、東京創元社、創元日本SF叢書)、読了。第2回創元SF短編賞を受賞した期待の新人の初の単行本(短編集)である。
「感応グラン=ギニョル」−不具者の一座に、感覚(記憶)を転送(放射)できる、“心を持たない”少女が加わるが..ギラギラとした触感の幻想小説。「地獄を縫い取る」−他のアンソロジーで既読。世界中のペドフィリアにVR世界でレイプされるために作られたAIと、地獄太夫(Wikipedia)を結びつける。視点人物の切り替えが効果的。「メタモルフォシスの龍」−これも既読。新型コロナを恋の病に置き換え、そこに安珍清姫のモチーフ..は、むしろ本質的ではなく、主人公は幾重にも偽物/紛い物である。「徒花物語」−これもまた、病と隔離の話。ココロを持つ個体を攻撃してくる正体不明の敵から、「敵」として認識されなくなることを目的として、ココロを無くした存在となるための実験。どの作品もだが、感触がデカダンである。「Rampo Sicks」−「感応グラン=ギニョル」の続編(後日談)。「醜=善、美=悪」という「逆転世界」。乱歩作品からの引用がもちろん乱舞しているが、意想外に爽やかで前向きな幕切れ。
目次へ戻る先日、書店で山積みされていたのをまとめて捕獲しておいた「知識ゼロからの西洋絵画入門」、「知識ゼロからの西洋絵画史入門」、「知識ゼロからの西洋絵画 困った巨匠たち対決」、「知識ゼロからの近代絵画入門」(いずれも、山田五郎著、幻冬舎)を、読了した。
山積みされていたといっても、新刊ではない。2008年から2019年にかけて刊行されていたシリーズである。この4冊の中に私が知らなかった情報はほとんど無いのだが、さすがは山田五郎、「切り口」というよりは「グルーピング(まとめ方)」と「ラベリング」がうまく、西洋美術史の流れを、非常に見通しよくしてくれる。
本当に知識ゼロの新鮮な感性の持ち主にも、まぁ大体のことは知ってるよというひねこびた老木 [;^.^] にも、お薦めできる。どの1冊を読んでもいい。
目次へ戻る雲が多いが明るい。バスで発ち、7:07浜松発のJR(在来線)で、8:56、名古屋の隣りの伏見。9:05、 名古屋市美術館。開館時刻は9:30だというのに、日時指定のチケットの持ち主が25人も並んでいる。並ぶ必要ねーだろ、あんたら早すぎるんだよ!(..お前もな。→ [;_ _][;^.^])
「ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(〜4月10日(日)まで)である。コロナに邪魔されて東京で観るタイミングを逸していたのを、名古屋まで捕まえに来たというわけだ。(あやうくこちらでも、会期が終わるところだったぜ..[;_ _])..といっても、実のところ、ゴッホを観に来たのではない [;^J^]。目当ては、ルドンの1枚のみ![^.^]
まずは、ゴッホのオランダ時代の(主として)素描の展示から始まるが..正直に申し上げるが、彼のこの時代の作品は、面白くない [;_ _]。ヘタだしさ [;^J^]。むろん、どんな画家にもヘタな時代はあるのであって、その時代の作品たちからのちの傑作群の萌芽を読み取るというスタンスを取るならば、それはもちろん面白いものなのであるが、私にとって、ゴッホは、そういう工数をかける画家ではありませんのでね..(すみません。[;_ _][;^J^])しいて挙げるのなら、「刈る人」(画像検索結果)かな。
展覧会の構成上、このあといったんゴッホを離れて、その他の画家の展示(「ヘレーネの愛した芸術家たち:写実主義からキュビスムまで」)となるのだが、もちろんこのセクションの方が、遥かに面白い![^.^](← ..性格の悪さは、自覚してるんですよ。[;^J^])
パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエルの「それは遠くからやって来る」(画像検索結果)は、当時の最新鋭の乗り物(移動手段)である「蒸気機関車」が「遠くから迫りくる」様子を描いたもの..となるとどうしたって、ターナーの「雨、蒸気、速度:グレート・ウェスタン鉄道」(画像検索結果)と比較することになるし(この作品は来てません)、美術史上の重要度と知名度では比較にならないのだが、私は、このハブリエル作品も、なかなか悪くないと思う。
ちなみに、この作品のタイトルからブラッドベリの「何かが道をやってくる」を連想するのは、正しい幻想者(もの)。ついでに吾妻ひでおの「蛮人ヒロコの逆襲」の最終ページを想起してしまったあなたは、さらに業の深いSF者(もの)である。[-人-][^.^]
アンリ・ファンタン=ラトゥールの「静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)」(画像検索結果)..そらみろ、ゴッホより遥かに上手い [^.^]。ついでに先に書いておくと、このあと、ゴッホの中期以降の作品の展示となり、そこにも静物画は含まれているのだが、はっきりいって、セザンヌよりも下手である![^.^] 下には下がいる![^O^](..私ぐらいの年齢になると、石投げられても平気です。[_ _][;^.^])
ヤン・トーロップの「版画愛好家(アーヒディウス・ティメルマン博士)」(画像検索結果)は、「運命」の画家と同一人物の作品とは思えないが [;^J^]、画家の作風はどんどん変わるものなのである。ヨハン・トルン・プリッケルの「花嫁」(画像検索結果)は、初見の作品。面白い。モンドリアンの「グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション」(画像検索結果)は、もう、問答無用だよなぁ。[;^J^](「モンドリアン」と頭韻(略))抽象画にはあまり惹かれない私ではあるが、これは素晴らしいと思うよ、やはり..(いきなり思いついたが、家をリフォームしたら、こんなステンドグラスを設置したい..金かかりそうだけど。[;^J^])
そして、私はこの1枚を観るためだけに、浜松から名古屋まで来たのだ! オディロン・ルドンの「キュクロプス」(画像検索結果)である! 先回りして書いておくと、帰宅してから、自宅にある600冊ほどの画集を総ざらいして、この作品の複製をすべてチェックしたのだが、どれもこれも(近年の印刷品質の高い画集であっても)、実物とは色が「有意に」違う。(この展覧会の図録でも色が違い、それもあって購入を見送ったのだが..)写真を撮るわけにもいかないので、手帳に細かく書き記しておいた色彩のニュアンスのメモ(と記憶)を、一連の画像検索結果と比較してみたところ、https://www.artpedia.asia/the-cyclops/ の色彩が、比較的(というか相対的には)実物に近いので、ご参考までに。
まだ「幻想美術選」で採り上げていない作品であるが..この、限りない「哀しみ」と「諦念」と「憧憬」を湛えた「巨人」の造形(瞳)は、まったく独創的なものであり、ルドンならではの夢のような色彩に包まれた、まったく比類なき幻想世界である..
さて、以降は、ゴッホである。私だって、ゴッホ(やセザンヌ)をディスってばかりじゃありませんよ、いいものには感心するし、心が慄えることもあるんですよ、バカにしちゃいけませんよ。[^.^][;^.^]
「黄色い家(通り)」(画像検索結果)は、ゴッホが(仲間たちがやってくると信じて)アルルに借りた家。しかしながらご存じのとおり誰にも相手にされず、ゴッホの弟に懇願されたゴーギャンがようやくやってきたものの、ゴッホが夢見た共同生活は僅か2ヶ月で破局を迎えたという、なんとも切ない物語..そして、これも強調しておかなければならないと思うのだが、この絵の「青」と「黄色」は実に鮮烈なものであるにも関わらず、ネットに流通している画像データの多くは、何故か極めてくすんで(色褪せて)おり、この絵の魅力が、まったく伝わってこない。特に Wikipedia の この絵の項 の画像は、「黄色い家」どころかほとんど「白い家」の様相を呈しており、タイトルがもはや意味不明。[;^.^]凸
「夕暮れの刈り込まれた柳」(画像検索結果)は、しょーもな、というのが第一印象だったのだが [;^.^]、よく見ると、異様な太陽と青い柳の組み合わせは、悪くない。構図には感心せんけどね [;^J^]。「糸杉に囲まれた果樹園」(画像検索結果)は、果樹の花がいい。有名な「種まく人」(画像検索結果)は、素直に素敵だと思います。「緑のブドウ園」(画像検索結果)の真価は、2次元の複製や画像では伝わらない。ブドウの緑がもっこもこに盛り上がっているのは(植物というのはそういうものだから)けっして不自然ではないのだが、空の「青い部分」も、もっこもこに盛り上がっているのである [;^J^]。これが「雲」ならばまだしも。[;^.^]
「サン=レミの療養院の庭」(画像検索結果)は、昔から「推し」の逸品。これ、素晴らし。「麦束のある月の出の風景」(画像検索結果)は、山も畑も空も太陽もうねうねのぐねぐねで気持ちよい。[^.^](気持ち悪いともいう。[;^.^])「夕暮れの松の木」(画像検索結果)の、ぶっとい輪郭。
そしてやはり、この展覧会のアイコンである「夜のプロヴァンスの田舎道」(画像検索結果)! この作品についても似たようなことを書かなければならないのだが、2次元の複製画や画像ファイルと本物とでは、まったく印象が異なるのだ。(それほど大きく絵の具が盛り上がっているわけではありませんが..)色彩の対比も鮮やかだし、人や馬車、月や星などの事物の取り揃え方も、素晴らしい。素晴らしいのだが..この構図に、私はどうしても引っかかってしまうのだ [;_ _]。どうしてど真ん中に糸杉を据えたんだろう..? ほとんど理解できないんですけど、私..それに画面上、糸杉の配置が明らかに上すぎて、すわりが悪くなっているし..[;_ _][;_ _][;_ _][;^.^]
常設展もざっと観てから、昼前に発つ。在来線で浜松に帰り、まだ真っ昼間だというのに、駅南すぐの「横濱魚萬」で悪徳(2時間飲み放題)に耽る..[-人-][-人-][-人-]
目次へ戻る昼ごろ車で発つ。雨が冷たい。風もしばしば強い。
佐鳴台のはやたろうで濃厚つけ麺。ビックカメラで、iPhone case を購入。従来、iPhone のケースを使ったことはなかったし、これまで何度落としても悪運強く(本体には)これといった大きな傷もつかず(※)、故障することもなかったのだが、何ヶ月前だったかな、ふと気がついたら、背面にひびが走っていたのであった。
※ この文章を推敲していて思い出した。先代の iPhone 6 を、2020年05月07日 に「爆弾散華」[;^.^] させていたのだったが、これが唯一の例外かな。[;^J^]
光の加減によっては見えにくい傷でもあるし、別に実害はないので、引き続きそのまま放置していたところ、これまた先日、ふと気がつくと、傷が僅かに拡がっている..つまり、ひび割れに沿って、幅1ミリにも満たないガラス片が、いくつか落ちた形跡がある..そりゃそうだ、傷を露出したまま使い続けてるんだから [;^J^] ..というわけで猿程度の反省をしつつ、これ以上の悪化を防ぐべくケースを買いにきたというわけだ。2千円弱の平凡なモデルを購入。
アクトシティ大ホールに、13:15を少し回って、着く。「浜松交響楽団 第92回定期演奏会 〜ふたつのロミオとジュリエット〜」である。
指揮:井ア正浩
ヴァイオリン:長尾春花
チャイコフスキー:幻想序曲「ロミオとジュリエット」
ベートーベン:ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス 第2番 ヘ長調 作品50(ヴァイオリンソロ:長尾春花)
モンティ:チャールダッシュ(ヴァイオリンソロ:長尾春花)
プロコフィエフ:組曲「ロミオとジュリエット」より
ヴァイオリンソロの2曲は、実は当初の予定から変更されている。(「年初からの新型コロナウィルスの市中感染拡大、および、まん延防止等重点措置への対応により、浜響としてこの難曲への十分な準備期間が確保できないため、コルンゴルトの協奏曲から上記のとおり演奏曲目を変更させていただきます。」)また、この2曲のあとに、ヴァイオリンソロのアンコール(「バッハ:無伴奏バイオリンソナタ 第3番 第3楽章」)が演奏された。
正直、多少残念ではある。珍しい曲目だったし..しかしこれらの小曲も、しっかりと楽しませていただいた。またの機会を期待したい。
「ふたつのロミオとジュリエット」では、やはりプロコフィエフかな。(ベルリオーズがどーたらこーたらとかは言いませんよ、オトナなんですから。[;^.^])個人的に、チャイコフスキーの幻想序曲は、ときおり耳にする機会があるのだが、プロコフィエフのバレエ組曲を聴くことは(CDは手元にあるのだが)、もう何年間も(ヘタすると10年以上?)無かったような気がする..そりゃもちろん、「モンタギュー家とキャピレット家」は、テレビCMでちょいちょい耳に入ってきますけどね。[;^J^]
しかし初めて(この曲の一部を)聴いたのは、かなり昔のことである..半世紀ほど昔、おそらく、中学生時代。「タイボルトの死」である。テレビで聴いた(というか、視た)のである。おそらく、N響だ。ホルン奏者たちがクライマックスの斉奏でスタンドプレーをしたのに仰天したことを、はっきりと憶えている..
..という追想に耽らせてくれる演奏であった。「バルコニーの情景」が、特に良かったかな。
夕刻、帰宅。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Apr 7 2022
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