*2016年12月19日:幻想美術選「蒼い馬に乗った死神」J・M・W・ターナー
*2016年12月20日:「異次元の彼方から」
*2016年12月21日:「偉大なる幻影」
*2016年12月22日:見果てぬ夢か..
*2016年12月23日:糸魚川大火
*2016年12月24日:1月の展覧会観覧予定
*2016年12月25日:コタツが壊れた [/_;]
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*2016年12月19日:幻想美術選「蒼い馬に乗った死神」J・M・W・ターナー


 画家を(まだ)ひとりもだぶらせていないのに、第43回にして(つまり43人目にして)、ようやく、この大家の順番が回ってきた..(これでもまだ恐ろしいことに、ゴヤもデューラーもブレイクもエル・グレコも取りあげていないのだが..)「幻想美術選」があとどれだけ続くかはわからないが、とにかく当初の予定どおり、50回を越えたら、「1人1作」という縛りは、外す。当然、この画家の「幻想的風景画」は、少なくとも3〜4点は、ご紹介したいところだが..今回お見せするのは、風景画ではない [;^J^]。その筋の者なら(← どの筋だよ [;^.^])知らぬ者とてない、名作中の名作であるが..

Picture

「蒼い馬に乗った死神」(J・M・W・ターナー、1830年頃)

 いうまでもなく、「黙示録の四騎士」(Wikipedia)(画像検索結果)の「第四の騎士」、「蒼ざめた馬に乗った「死」」なのであるが、図像的には、私の知る限り、およそ類例が無い。

 前記の「画像検索結果」を見ていただいてもおわかりのとおり、普通は、4人(?)セットで描かれるのだが、本作品では、「第四の騎士」のみが描かれている。これだけならばそれほど珍しくはないのだが、(ルドンやドレに素晴らしい類例がある、)もうひとつの風変りな点は、「ちゃんと騎乗していない」ことである。原義は「騎士」ではなく「馬に乗る者」らしいのだが、それにしても「乗ってすらいない」だろ、これ。「乗せられている」だろ、「死体」が..これが、他の画家たちの手になる、「勇壮」で「英雄的」ですらある「黙示録の死神」(「大鎌」を振りかざしていることも珍しくない)と、まったく異なる点である。

 ここではむしろ、「馬」が主役のようだ。病魔に斃(たお)れた死骸を乗せて走り回り、恐るべき疫病を撒き散らしている馬が..その(「黙示録」という「物語」を必要としない)恐怖のリアリティが、まさにターナーにしか実現できないような、幻想的・幻覚的・蠱惑的な筆致で描き出される..

 ..幻想絵画の頂点を極めた傑作のひとつたる所以である。

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*2016年12月20日:「異次元の彼方から」


 わが廃墟城には、「銀背」の積読も、相当量、ある。(多くは、古書店で入手したものであるが。)たまには古典SFも読まなくっちゃね、ということで、マレイ・ラインスターをチョイス。異次元の彼方から」(Murray Leinster、佐藤高子訳)、読了。日本での出版は1969年。本国(アメリカ)で出版されたのは1955年だが、母体となった雑誌連載は1936年であるから、堂々たるクラシックと考えてよい。

 ニューアークが突如霧に包まれ、人々は生きたまま「凍結」する。外側からは伺い知れぬ霧の中では、異次元人の侵攻と略奪が..その災厄は、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、と、拡がり行き、(凍結を免れ)真相を掴んだ主人公は、しかし人々から誤解され言葉を聞いてもらえず、(この災厄(実は異次元人による「攻撃」)が「疫病」だと信じている世界中の人間に)「保菌者」として命を狙われる..

 いろいろ古いのは、やむを得ないが、(ここでは詳述しないが)「異次元」の存在理由というか根拠(複数の世界を重ねうるというアイデア)は、今でも読める。異次元人同士の「階級対立」が、あまりにもステロタイプではあるが、そこには案外、主眼はおかれていない。「疫病」をばらまく「犯人」と誤解された主人公が、名誉を回復する終盤の段取りは、もちろん、すっぱり省略されているが、このスピード感こそ、古典SFの値打ちである。

 普通のSFファンが、わざわざ古書を入手して読むほどのことはない。しかしもしもあなたが、現代SFを読み飽きているほどのSFオタクならば、リフレッシュのために本書を読むのは、悪くない考えである。なんといっても、マレイ・ラインスターなのだから!

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*2016年12月21日:「偉大なる幻影」


 昨日に引き続き、銀背をもう1冊。偉大なる幻影」(Dino Buzzati、脇功、松谷健二訳)、読了。作者はイタリア人である。

 3編からなる、日本オリジナル?の作品集。刊行は1968年だが、オリジナルが発表されたのは、それぞれ、1960年、1949年、もう1篇は不明だが、1960年以前であることは間違いなさそうだ。古典といえば古典だが、ほとんど古びておらず、現代的ですら、あると言える。(SFというより、むしろたとえば、小栗虫太郎を想起させるところがある。)これは思わぬ、拾いもの。

 「偉大なる幻影」−巨大な“施設”全体が“人造人間”であり、マッドサイエンティストによって、その中に蘇らされた、亡き妻。その“人造人間”の苦悩。“若い女性”であるにも関わらず、肉体を失い、肉体を感じられず..そもそもその状況すら理解できないのだ。何故、動けないのか..そしてその“人造人間”の“人格”は、実は..極めて現代的なテーマであり、モチーフである。古さは全く感じられない。自分の“自我”なり“魂”なりを(厖大な情報量の)電気信号として抽出してスパコンなりクラウドなりの中に“再現”すれば、“永遠の命”が得られると無邪気に信じている人々がいるが、(まぁ、そういうSFが山ほど書かれてきたし、今も山ほど書かれていることにも原因があるのだが、)そういう人々にこそ、読ませたい佳作である。それは、“永遠の命”というよりは“永遠の地獄”かも知れないのだ。

 「スカラ座の恐怖」−革命騒ぎの幻影に怯える上流階級の人々。SFというより、「ミステリーゾーン」の、一挿話のようだ。このテーマは色褪せない。「戦艦“死”」−「超艦不死身」(中沢啓治)を想起した。敗戦間際に秘密裡にドイツで建造された超越的な超戦艦が、戦い場所も死に場所もなくして、秘かに航海に出る..そして最後に超自然的な巨大な敵と戦い..傑作である。

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*2016年12月22日:見果てぬ夢か..


 もう、仕方がないので [;_ _]、「定本夢野久作全集」の第1巻を発注した。税込1万少々だが、年3冊刊のペースで全8巻なので、たいした負担ではない。(それよりも、これからカメラに、何十万円も吸い取られていきそうな恐怖が..[;_ _][;^.^])

 ..それにしても夢見るのだ。徹底的に校訂され「ルビが省略されていない」、「定本小栗虫太郎全集」が、いつの日にか、刊行されることを..

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*2016年12月23日:糸魚川大火


 郵便局で野暮用と年賀状購入。あとは終日、静養..(年賀状を買った勢いで書けば良さそうなものだが、そんなエネルギーは、全く、無い..[;_ _])

 糸魚川の大火災の報道に、やりきれない想いがつのる..昨日の午前中から、今日の夕方まで、144棟が30時間も燃えていたらしい。フェーン現象など、さまざまな悪条件が重なったらしいが..

 驚いたのは、これほどの大災害にも関わらず、死者が出なかったことである。怪我人も(現時点の報道では)10名以下とのこと。不幸中の幸いか..とはいえ、火元となったらしい中華料理店の主人の胸中やいかに..(申し開きの出来ない、不注意の失火であるだけに..)これほどの悪運に見舞われていなければ、せいぜい自宅の焼失ですんだところだったろうに..

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*2016年12月24日:1月の展覧会観覧予定


 O内科医院で、インフルエンザの予防接種。

 1月の展覧会観覧予定を再考した。

*サントリー美術館
 「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画
 後期:〜1月9日(月・祝)まで

*すみだ北斎美術館
 「開館記念展「北斎の帰還−幻の絵巻と名品コレクション−」
 〜1月15日(日)まで

*太田記念美術館
 「お笑い江戸名所〜歌川広景の全貌
 1月5日(木)〜1月29日(日)まで

*国立科学博物館
 「世界遺産 ラスコー展 〜クロマニョン人が残した洞窟壁画〜
 〜2月19日(日)まで

*名古屋ボストン美術館
 「MOA美術館所蔵 吉田博 木版画展 抒情の風景
 1月14日(土)〜2月26日(日)まで

*東京都美術館
 「ティツィアーノとヴェネツィア派展
 1月21日(土)〜4月2日(日)まで

 サントリー美術館には、1月3日、帰省先の横浜から浜松に戻る日に寄る。(この日しか、チャンスがない。)開館したばかりのすみだ北斎美術館は、見落としていた..サントリー美術館と合わせて、1月3日に行くこともできるのだが、この日はできるだけ早く浜松に戻りたいし..どのみち、太田記念美術館の件もあるので、1月中にもう一度上京しなくてはならない。その折りに片づけるか..

 喫緊の案件はこの3件で、あとは多少余裕がある。「ラスコー展」は、当初、スルーしていたのだが、「ぶらぶら美術・博物館」で観て、気が変わった。ティツィアーノは、早春になってから行けばよし。

 久々の名古屋案件も..上洛と絡めてみるか..

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*2016年12月25日:コタツが壊れた [/_;]


 コタツが壊れた [/_;]。電源が入らん。[/_;]

 みたところ、極めてわかりやすい壊れ方で、DIYの範疇で修理できると思われる..が、モノがモノだけに、素人修理は、腰が引ける。(つい先日の大火災の報道がなければ、さっそく、部材を買いに行っていた可能性が高いのだが..)

 修理に出す、という選択肢もない。なにしろ、学生時代から使っている炬燵(冬は炬燵、夏はフトンを片付けてちゃぶ台兼事務机)で、もしかすると購入したのは1978年? [;^.^] 物持ちがいいにもほどがある。

 そしてまた、今更買い直すという選択肢も..無いとは言わないが、微妙なのだ。私があと何年、浜松にいるか..仮に買い替えて、数年後に実家に戻ったとすると、買い替えたばかりの炬燵の使い道がなくなる。(いや、使ってもいいんだけど、邪魔になるし。[;^J^])

 エアコンはあるので、致命的ではない。炬燵としては引退させて、単なる書き物机として、あと数年間使うことにしてもよい。しかし、炬燵なしエアコンのみ、よりは、エアコンなし炬燵のみ、の方が、暖かく快適なのだ。(浜松ではね。)困ったなぁ..

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Dec 29 2016
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