*2016年04月04日:読み返せ ["-_-]凸
*2016年04月05日:ちゃんちゃらおかしい [^.^]
*2016年04月06日:「ネタが無い日は想い出話」の真相
*2016年04月07日:幻想美術選「ロマンティックな風景」サミュエル・コールマン
*2016年04月08日:Yさん歓迎会
*2016年04月09日:被疑者たち [^.^]
*2016年04月10日:幻想美術選の楽しみと制約
*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*2016年04月04日:読み返せ ["-_-]凸


 朝から、昨夜来の雨。午後にはやんだ。

 疎ましきもの。それは、「ツイッター」などの「短文系」のメディアにおける「誤字脱字/誤変換」(← 以下、煩わしいので「誤字脱字」で統一)である。

 つい先日みかけた例では、某タレントに対して、「もう少しタメグチが治ったら、高感度上がるんだけどな、おれ的には」..上から目線は御勝手に、だが、「高感度」で台無し。

 なぜ、私は誤字脱字に厳しいのか。それは、推敲していない証拠だからである。投稿前に1回読み返せばわかるのに、それすらしていない証拠だからである。ことに、他人をディスるときには、1回では足りない。3回は推敲するのが当たり前だと思う。「ツイッター」(最近の(若い)連中は「ツイッター」なんか使わずに「ライン」三昧なのかも知れないが)に投稿するような短文なら、一瞥で推敲できるはずである。逆に、長文系の「ブログ」や「Web日記」における誤字脱字に対しては、「相対的に」甘くなる。もちろん、長文でも推敲はしなくちゃならんし、推敲しても見落とすようでは国語力(というか注意力)のレベルの低さを露呈しているようなものだが(← ここ、自戒しているところなので流さないで [;^.^])、文章が長ければ長いほど、推敲しても誤字脱字を見逃す確率も高くなるからである。つまり、長文での誤字脱字は、推敲をしていないという証拠にはならないのである。

 僅か30文字程度の投稿に(ひとめでわかる)誤字脱字が残っているということは、一度も推敲をしていないという確たる証拠である。

 他人をディスる文章を、推敲もせずに脊髄反射でネットに投入した証拠である。

 ネットという文脈から離れて、一般常識という物差しで判断してみて欲しい。社会人として、完全にアウトでしょ?

*目次へ戻る


*2016年04月05日:ちゃんちゃらおかしい [^.^]


 由緒正しい占星術が、長い歴史と伝統と、複雑極まりない体系を持っていることは、知っている。それによる占いの結果が当たる当たらないの次元を超えて、軽々しくディスったり批判したりはできない、敬意を払うべき存在であることも承知しているし、そのように振舞っているつもりである。

 しかし、それを桁違いに簡略化した俗流の星座占いについては、話が別である。誕生日で、全ての人間をたったの12種類に分類する。到底、まともに相手はできない。まぁ、4種類に分類する血液型占いとやらよりは、まだましかも知れないが。

Picture

 某所で拾ってきた右図。噴飯ものとは、このことだ。この図に即して言えば、私は「空想的/マイナス思考」か「空想的/中庸」のいずれでしかありえないことは、私自身が、あるいは読者も、よっく、ご存知のはず。しかるに、私は乙女座。「現実的/マイナス思考」で「機械的、計算高すぎ」と来たもんだ。[^.^]

 もちろん、「あなた自身も気づいていない性格」とか、「進むべき道/目指すべきポジション」とかいう逃げ口上が、完璧に整備されていることは百も承知。そういう、「プロのリスク回避」を、否定することはしない。彼らも、生活がかかっているのだからね。



*目次へ戻る


*2016年04月06日:「ネタが無い日は想い出話」の真相


 毎度おなじみ、数週間に一度は(あるいはもっと頻繁に)書いている「ネタが無い日は想い出話」..しかし実はこれは、単なる埋め草ではない。廃墟通信の本質に関わる、極めて重要なコンテンツなのだ。

 私は、昔のことを、あまり憶えていない。

 数十年来の旧友たちと会うのは楽しいものだが、辛いのは、彼らが楽しく話し交わしている昔話に、参加できないことである..

 ..憶えていないのだ。

 無論、全く憶えていないわけではないが、断片的なシーンの欠片なのである。多分、一番憶えていないのが、中学二年生の1年間であり、この年は、ほとんど、私の人生から欠落しているに等しい。

 (まぁ、ゼロではなく、二、三のシーンは記憶にあるのだが、そういうシーンに限って、私の人生から抹消したい、悪夢のような、イヤな記憶だったりする..例えば、試験中、ふと、書きかけの答案用紙から目をあげたら、前方の席から私の答案をカンニングしている親友と目が合ってしまった(凍りつくような)瞬間など..あのときの、彼の、小狡く卑屈な表情は忘れられない..忘れたいのに..)

 昔のことを憶えていないのは、誰にでも多かれ少なかれあることだと思うが、私は、少しその程度が酷い。おそらく、病的な水準ではないと思うのだが..

 だから、日記なのである。何かしらの記述、文章、感想を書き残しておけば、それをトリガーに、いくらかでも思い出せる。公開日記である廃墟通信は1996年4月からだが、PC内には、Vzエディタのスケジューラマクロのデータとして、1992年4月からの毎日の記録がある。連続して遡れるのは、ここまでだ。1984年3月に大学を卒業したが、学生時代の日記は、まさに三日坊主の連続で、大学ノートに、5日連続して書いたと思ったら2ヶ月開いて、2週間続いたと思ったら今度は半年飛び、といった具合で、全部合わせても、大学ノート、半分に満たないのではないかしら?

 当時は今より読書量が多かったので、読書記録は、毎日に近いペースで書かれており、これが当時の私の精神生活というか心理状態を辿る、ほとんど唯一の手がかりなのだが、所詮、読書記録は日記じゃないので、当時の生活を偲ぶことは出来ないのである。

 就職した1984年4月から、前期Vz日記を書き始めた1992年4月までは、仕事に追われて読者量が減っていたので、読書記録も当然減り、手がかりは少なくなる一方。[;^.^]

 だから、なのだ。

 いくらかでも思い出せたことのうち、公開日記にエンタメ風味で公表できることは、書き留めておく。順序はランダムだし、点描ではあるが、私の人生の記憶の空白を、思い出した順に埋めて行く、極めて個人的で切実な、コンテンツなのである。その意味では、本来、人様にお見せできるようなものではなく、見せる筋合いもないようなものだが、せめて、エンタメ風味にして読めるようにして、お付き合いいただいている、という次第なのであった。[_ _]

*目次へ戻る


*2016年04月07日:幻想美術選「ロマンティックな風景」サミュエル・コールマン


 (これまでのラインナップ:「幻想美術選」)

 第6回..というわけで、肩もだいぶ暖まってきたので [^.^]、ここらでひとつ、「“身も蓋もない”幻想絵画」をご紹介しよう。[^J^]

Picture

「ロマンティックな風景」(サミュエル・コールマン、制作年不詳)

 ..どうです、身も蓋もないというか、臆面もないというか..なんとなく、私に刺さる視線が痛いような気もするが [;^.^]、こういうベタベタで超甘口の砂糖菓子のような絵画世界も、大好きなんだよ!(だから、そんな目で私を見るなっ! [;^.^])

 門をくぐり、左手前の宮殿にアプローチしてくる貴人たちの行列は、その人数からして、港の船団から下船したものではなく、後方の小高い丘の上の神殿(?)から下りてきたもののようだ。彼らの体は透けている。道の端でその行列に平伏している領民たち(?)の体も、透けている。つまり、彼らは幻覚(または亡霊/精霊)なのだろう。この地の「過去」が見えているのかも知れないが..しかし、よくある、「現実の風景の上に過去の幻影が二重写しになっている」パターンでもなさそうだ。なぜなら、この、「人物たち」の背景の「風景」が、現実とは思えない(現実離れしている)からだ。

 特に気になるのが、「門」の向こう側に見える「神殿」の屋上の「光」である。陽光の反射ではない。明らかに超自然の(あるいは超科学の)力で、自ら発光している。(もしかすると、太陽を作りだしている/太陽の原因である、という神話的な状況なのかも知れないが。)また、よく見ると、透き通っている群像が(透き通っているにも関わらず)「影」を落としているし、それらの影の方向が、全く辻褄があっていない。この、夢のような非現実感..!

 遠景を拡大して見て欲しい。海ではない、湖水地方のようだが..しかしその彼方にあるいは海が拡がっているのだろうか..この船団はどこから来たのだろうか..クロード・ロランのフォロワーあるいは縮小再生産に過ぎない、という見方もあるだろう。しかし、それがどうした。この色彩! この夢想! いつまでも見入っていられる..いつまでもこの夢幻世界の中で遊んでいたい..

 この画家については、詳しくは知らない。ハドソン・リバー派の同姓同名のアメリカの画家(1832 - 1920)と混同していた始末であるが [;_ _]、まったく別人の、イギリスの画家(1780 - 1845)である。

*目次へ戻る


*2016年04月08日:Yさん歓迎会


 帰宅後、徒歩で街中へ。19:30からSという店で、今春から部署に異動して来られたYさんの歓迎会。散会したのは、21:40ぐらいだったかな?

 それから7人で二次会。歩いてすぐのMというバーへ。1階は普通のバーの造り。2階に通されたのだが、ほとんど空き部屋に近い簡素さながら、それなりに和める、面白い空間。23:40まで。さすがに歩く元気はなく、タクシーで23:50に帰宅。

*目次へ戻る


*2016年04月09日:被疑者たち [^.^]


 暖かい曇天。花見日和だが諦め [_ _]、9:30に出てクリーニング出ししてから、9:50に湯風景しおり。サウナ、読書。

 湯風景しおりの男湯の野天風呂には塀がなく、林で囲まれている。(女湯の野天風呂は、さすがに塀でガードされている。)ここが好きなところで、街中でありながら、山の中のような雰囲気が楽しめるのである。

 夏場は周囲の林も生い茂り、十分に目隠しされるのだが、まだ春になったばかりのこの季節は木の葉も少な目で、(濁して書くが)「林と駐車場と道路を距てて100メートルほど離れた向かいのビル」の上の方のフロアからは、適当な双眼鏡で、十分、覗けると思う。(誰も見たくはないだろうが、私の裸も見放題である。[^.^])

 つまり、(濁して書くが)「向かいのビル」に勤めているOLは、みな、犯罪の嫌疑がかかっているというわけだ。[^J^](内偵されてたりして。[^.^])

 14:30に出て、14:50、帰宅。

 先日から、やけに、床の上にスポンジ屑のようなものが増えていると思っていたのだが、座椅子(和室にカーペットを敷き詰め、そこに机(正確に言うとコタツ)と座椅子、という生活スタイルなのだ)をひっくり返してみたら、あらあらまあまあ、2箇所も大穴が開いていて、そこからスポンジが露出しているではないの [;^.^]。これが原因か。買ってからまだ3年経っていないのだが、安物買いの銭失いとは、このことか。近々、買い直さないと..それに、廃棄が面倒。サイズはともかく、金属製のフレームが入っているので、これは確実に「連絡ゴミ」だよなぁ..

*目次へ戻る


*2016年04月10日:幻想美術選の楽しみと制約


 曇天。8:00に出て、8:10から14:20まで、湯風景しおりでサウナと読書。14:30、帰宅。

 「幻想美術選」は、しんどいながらも、実に楽しい [^J^]。何故だろう? ..という疑問は、「幻想美術選」というまとめページを作ってみた時点で氷解した。目から鱗が落ちた。そうか、私は、私の理想の画集(アンソロジー)を編纂しているんだ! そりゃ、楽しいに決まってる! 仕事なんかしている場合じゃない!\[^O^]/\[^O^]/\[^O^]/(← こらこら [;^.^])

 しかしながら、その「画集」に収録したい(=紹介したい)作品を、希望通りに「収録」できるわけではない。制約条件があるのだ。

 それは、「紹介したくてもスキャンできない図版が少なくない(どころか、確実に多数派である)」、ということである。どういうことかと言うと..

 要するに、「サイズ」の問題である。私が使っているのはA4スキャナーなので、それ以上のサイズの図版は、紹介できない。最近になって、分割スキャンして、それをアプリで接続する、というテクニックを憶えたが、これがなかなか難しくてね..(実は、第6回までの図版の中に、ひとつだけ、「分割スキャン → ファイルを接続」しているものがある。どれだかわかりますか?)

 それでも、フラットにスキャンできれば、まだなんとかなる。手を焼くのは、画集のノドの奥深くにまで印刷されていて、スキャン時にどんなに上から押さえつけても、どうしても歪んでしまう図版。そして、ノドを越えて見開きに印刷されている図版である。これらは、基本的に、諦めるしかない。(その画集のメインというか目玉商品的な作品ほど、見開き印刷されている可能性が高いのが、辛いところ..)

 解決策は、多分、3つある。

 1.画集を分解(はやりの言葉で言えば裁断)して、フラットベッドスキャナでスキャンしやすくする。← 書物を分解するという選択肢は、私にはあり得ない。

 2.ノドの歪みも「込み」でスキャンしてしまった歪んだ画像ファイルを、補正するソフトを導入する。← 絶対に存在するはずだが、試用もせずに偏見を述べるのはよくないが [_ _]、まともな性能のアプリは多分数百万円クラスで手が出ず、コンシューマーが使える程度の価格の補正アプリは、画質を保てるとは思えない。[_ _]

 3.その作品が「より小さく(ノドに深く食い込まず、見開きでもなく)」印刷されている別の画集を探して、そこからスキャンする。← 現在採っている手段が、これ。

 もちろん、3.は、万能の解ではない。そもそも、そんな画集が存在しないケースは非常に多く、また、運良くあったとしても、今度は印刷図版のサイズが小さすぎて、jpgファイル(高さ800ピクセルに統一している)にしたときに画質を確保できなかったり、古い画集であれば、印刷や色に問題があったり..

 あと、第4の解として、どこぞから十分な品質の画像ファイルを調達する、というのもあるはずだが、これは採らない。あくまでも、私が所有している(この、廃墟城の中にある)画集からのスキャンにこだわる。我ながら意固地としか言いようがないが。[;_ _][;^.^]

 それやこれやで、真の(私が考える)オールスターは組めないのであるが、考えてみれば、プロ野球の監督だって、欲しい選手を希望通りに集められるわけじゃないからな。手の届く範囲でベストオーダーを組むしかないわけだ。それに、この程度の「縛り」(制約条件)は、むしろ好都合というべきだろう。たとえばある画家の代表作を(前記のさまざまな理由によって)入れられないとして、しかしどうしてもその画家を紹介したいとすれば、なんとしてでも、次善の作品を探求するからである。この過程で、必ず、新たな発見があるはずだし、この(倉田が編纂中の)「画集」の「個性」にもなるはずだ。要するに、珍しい(しかも紹介するだけの価値がある)作品が収録されるであろうということ。この可能性については、こうして書いていても、なかなか楽しみなことである。[^J^]

*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Apr 14 2016
Copyright (C) 2016 倉田わたる Mail [kurata@rinc.or.jp] Home [http://www.kurata-wataru.com/]