*2012年09月24日:肌寒い..
*2012年09月25日:「ベートーヴェンの交響曲」
*2012年09月26日:はねトび、最終回..
*2012年09月27日:「沙漠の魔王」に着手する
*2012年09月28日:プレデターが好き [^.^]
*2012年09月29日:浜名湖一周サイクリング/メトの「劫罰」
*2012年09月30日:献血/ナント美術館名品展/サロメ/サロ/停電
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*2012年09月24日:肌寒い..


 さすがにもはや、Tシャツ出勤は季節外れか [;^J^]。朝、陽が当たらない場所では、肌寒い。

 ..とはいえ、陽があたる場所に出ると、いきなり暑くなる。Tシャツ以外は考えられない。[;^J^]

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*2012年09月25日:「ベートーヴェンの交響曲」


 某ネット古書店から、「ベートーヴェンの交響曲」(ベルリオーズ、橘西路訳、角川文庫)が届いた。

 といっても、ベルリオーズに、こういうタイトルの著作があるわけではない。これは(音楽評論家としても活躍していた)ベルリオーズのさまざまな評論/エッセイから、特に、ベートーヴェンの交響曲に言及しているものを訳者がセレクトしたものであり、ベルリオーズ以外の、当時の業界人の(ベートーヴェンの交響曲に関する)評言や新聞に掲載された時評も、豊富に収録されている。

 これがもう、箆棒(べらぼう)な面白さなのである!

 私が本書の存在を知ったのは、思い出せないほど遥かな昔であるが(なにしろ、本書の初版は1959年なのである)、通読したのは、実はつい2年前。とっくの昔に絶版で、どこの古書店でも見つからず、国会図書館に存在することは(やはりとっくの昔に)知ってはいたものの、ほかならぬベルリオーズの著作(評論集)なのであるから図書館で読むのではなく極力購入して自宅の書架に備え付けたいと想い続け、やっとヤフオクで見つけたと思ったら1万円越えで手が出ず、悶々悶々悶々とした末に、ついに筋をまげて国会図書館で読んだのが、2010年の6月。(さらに言うと、本の状態があまり良くなく、コピーすると破損する恐れがあるということで、コピー禁止なのであった。[;_ _])

 ..というわけで、2年前に通読はしているものの、興味を惹かれた個所のコピーも出来ず(いくらか抜き書きはしたものの)、悶々悶々悶々としていたのであるが、つい最近になって、改めてネット古書店で検索したら、なんと、800円と1500円で出ているではあーりませんか! 800円の方は、コンディション的に若干難ありとのことなので、もちろん、1500円の方を発注し、それが今日、届いた、という次第なのであった。

 こんにち、我々は、ベートーヴェンの交響曲の価値を「疑う」ことは、決してしない。もしかすると、演奏する立場のオーケストラプレイヤーは、別の考えを持っているかも知れないが、私のような「リスナー」にとっては、極端にいえば(西洋音楽史上の)「聖典」「宝典」なのである。

 しかし、ベートーヴェンの同時代の人々にとっては、そうではなかった。もちろん、ベートーヴェンは当時から大家ではあったが、だからといって、その交響曲が無条件に「聖なる無謬の傑作」として受け入れられたわけでは、当然、ない。出来立てのホヤホヤの「新作」なのである。諸手をあげて絶賛する人々もいれば、厳しく批判をする人々もいる。特に後者の視点は、実に新鮮で、非常に面白い。目から鱗が落ちまくりである。

 ベルリオーズ以外の時評については、訳者が恣意的に選択したものであるし、当時の世論調査を行ったわけでも(もちろん)無いから、ここに収録されている評価が、当時の平均的な声を反映しているかどうかは、なんとも言えない。しかし特に印象的なのは、ベートーヴェン(の交響曲)は「響きが汚い」、という(ある程度一般的な)ネガティヴ・イメージである。これは、わかるような気がする [;^J^]。確かに、あの「革新的な」響きは、「汚く」聞こえたのではあるまいか。(むろん、その「汚さ」を評価する人々もいるわけである。)

 要約は到底不可能だし、面白い個所を抜き書きしているとキリが無いので、数ヶ所を選んで紹介するに留めるが..やはり印象的なのは、「交響曲 第7番」に対する評価である。これを発表した頃には、押しも押されもせぬ大作曲家だったわけだが..この曲ばっかりは、「とち狂った音楽」として、人々を困惑させてしまったのである。当時ベートーヴェンと面識があったメンデルスゾーンが、コンサートでこの曲を聴いたのちに友人たちに会った際、自分の頭を指でトントンつつきながら、「ベートーヴェン先生、とうとう、頭にきちまったぜ」、と語ったというエピソード。[;^J^](言われてみれば、確かに、あの終楽章は、とち狂っているわなぁ..[;^.^])そんな「第7番」であるが、しかし人々は、第2楽章(だけ)は、認めたのである。ベートーヴェンの全ての交響曲のなかでも、最高の音楽であると..

 このように、毀誉褒貶相半ばするベートーヴェンの交響曲を、ベルリオーズは、一貫して擁護している。ベルリオーズの鋭い耳は、これらの「現代音楽」の価値を正確に理解しており、その革命的な響きと音楽語法を咀嚼・吸収して、自らの音楽に取り入れ発展させていったのであるが..

 しかし、そのベルリオーズですら、こんにちの我々とは異なる評価をしているところが何ヶ所かあり、そこがまた、面白いのである。少し長くなるが、第131ページから引用しよう。交響曲 第3番の第1楽章についての批評である。もちろん、この楽章の新規性を(見事な言葉/表現で)讃えているのだが、しかし..(以下、展開部から再現部に移行する個所についてである)

 ただ、奇怪千万と思われる例を一つだけ記せば、そのためにテクストは論議の的になり、フランスの出版社など、くわしく調べてから元のとおりに直しはしたが、一時は誤りと解して譜面から変えてしまったくらいである。というのは、第一と第二ヴァイオリンのみ、属音<変ホ>における七つの和音の断片、<ロ>、<イ>の二音符をトレモーロで奏していると、ホルンが間違えて二小節はやく飛び出したかのように、中心テーマの冒頭、<ホ>、<ト>、<ホ>、<ロ>の音符をぬけぬけと吹き始める。この主和音の三音符からなる旋律が属和音の不協和な二音符にぶつかることはもちろん、声部がはなれているから不快の度合は大いにやわらぐとはいえ、きわめて不自然な効果であることは否めない。しかし、こういう反則にわれわれの耳が反撥するかしないかの瞬間、いきなり猛烈な全奏がまきおこりながらホルンの音を吹き消して、主和音をピアーノで結び、それからはチェロだけの再登場となって、これはまことにしっくりした和声で中心テーマの全部をかなでる。ただ、ことのしだいを最初にさかのぼって見ると、この音の気まぐれをまともに弁護するのはむつかしい。が、作者だけはこの点すこぶる頑固であったらしい。伝え聞くところによれば、この交響曲を初めて稽古したみぎり、その場に居合わせたベートーヴェンの弟子が、「早すぎる、早すぎる。ホルンが違う」と叫んでオーケストラを止めてしまうと、その出すぎた熱心の褒美に師匠じきじきの激しい平手打をくらったそうである。
 以上をのければ、この交響曲の総譜にいぶかしい個所はまったく見あたらない。葬送行進曲はまさに一個のドラマである。思うに、この崇高な曲の作者はウェルギリウスが青年パルラスの葬列を歌った美しい詩句を音楽であらわそうとした..(以下略)

 このあと、第三楽章、第四楽章に対する分析も、実に見事なものであるのだが..しかし、上述の「ふたつの和音が同時進行する(おかしな)個所」について言えば、私は、まさにそれ故にこそ、遥かなる距離感を表現している(つまり、ヴァイオリンとホルンは「ここからは異なる距離の、別の時空に存在している」)と思うのだが..ベルリオーズですら、当時はそうは聴きとれなかったのである。

 また、交響曲 第九番の第四楽章の冒頭の「あの」不協和音。誰ひとり知らぬ者とてないあの響きについても、疑念を表している(第97ページ)。

 四十年ばかり前、通称マルティーニというフランスの作曲家マルタンは、オペラ「サフォー」で、ファオンの恋人が波間に身を投じようとする瞬間に、全音階、半音階、微分音階のありとあらゆる音程を同時に鳴らして、同じくオーケストラの怒号をとどろかせようとした。それがその場にふさわしい企てか、あるいは芸術の尊厳をそこないはしないかどうか、などとは考えもしなかったようであるが、少なくとも彼の目的だけは、はっきりしている。ところが、ベートーヴェンの目的となると、いくらたずねても皆目わからないのだ。この二つの不協和音は計算と熟慮の末にあみだされたもので、作者の意向を確実に反映しているのに、それこそ二番目の不協和音ときては最初のそれよりも百層倍も悪いし、いずれにせよ、楽器や人声のレチタティーヴォをさそう前の重要なひと時ではないか、わたくしは作者の意中をずいぶん忖度してみたが、正直なところあきらめざるをえなかった。

 お前(ベルリオーズ)がそれを言うか!..という、全国百万人の読者の突っ込みが聞こえるようであるが [;^.^]、しかしここで重要なことは、こんにちわれわれはこの響きの意味(作者の意中)を忖度(そんたく)したりはしていない、ということである。だって、この音楽は「傑作なんだから!」..ベルリオーズは、(そして当時の人々は、)「これでいいのか、この響きはおかしくないのか、なぜこのような音符を書いたのか..」と、真剣に考え、考え抜いたのである..

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*2012年09月26日:はねトび、最終回..


 ..しか、ネタが無い日。[;_ _]

 2002年から続いていた長寿番組だが、私が観始めたのは、ほんの2〜3年前なので、今日の最終回特番で放映された過去の名場面集は、ほとんど見覚えが無い [;^J^]。まぁ、ごくろうさまでした。

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*2012年09月27日:「沙漠の魔王」に着手する


 右耳がボコボコ(というか、ガポガポ)鳴る現象は少しも好転せず、クラシック音楽を安心して聴ける状態では全く無いのだが、(だから、ももクロZの音楽に逃げているという側面もあるのだが、)今日は、心理的に、やや、聴くことが可能な状態になったので、3ヶ月も前に購入したまま積んでいたCDを、2枚片付けた。平井千絵のモーツァルト(「Mozart Speaks Vol.1」(FONTEC FOCD9551))と、Robin Ticciati/スコットランド室内管弦楽団の「幻想交響曲」(LINN CKD400)である。

 しかし、ここまでが限界 [_ _]。もう1枚聴きたかったのだが(ロットの交響曲第1番(Paavo Jarvi/フランクフルト放送交響楽団、RCA SICC 1537))、今日は無理。他日を期すこととする。

 沙漠の魔王(完全復刻版)を読み始める。合本9巻の復刻、及び、雑誌掲載のまま合本には含まれなった分を復刻して1巻にまとめたもの、計10巻である。最初は、一気読みするつもりだったのだが、もちろん、全く不可能であった [;^J^]。速読できないのだ。一般に、この時代の絵物語は情報量が多いのだが、この作品はそれが特に顕著で、ページごとに、絵ごとに、味読することになる。結局、今夜は1巻しか読めなかった。楽しみが引き伸ばされて、まったく言うことはない。[^.^]

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*2012年09月28日:プレデターが好き [^.^]


 ..いや、今夜もまた、ネタが無いので、昔のSF映画の話でお茶を濁そうかと [;_ _] ..ま、すぐにやめますけど。[;^J^]

 このシリーズのどこがいいかというと、話が単純なところがいい。宇宙からマンハントを楽しみに来たエイリアンと、戦う。そんだけ。私は、「禁断の惑星」や「2001年宇宙の旅」や「ブレードランナー」のような、内容豊かなSF映画がもちろん大好きでなのであるが、こういう、ワンアイデアというか、たった一種類の価値しかない、ある意味ストイックな映画(別にSF映画に限らないが)も、大好きなのである。

 唯一、このシリーズで気に入らないのが、タイトルである。「捕食者」という意味であるが..これは、映画のなかで描かれている実態と、乖離していると思う。ここに登場するエイリアンたちは、「レジャーとしてのマンハント」を満喫しているように見える。ちょうど、人間が、「レジャーとして他の生き物を殺して楽しんでいる」ように..(人間の)スポーツハンターたちは「捕食者」だろうか? 違うと思う。「捕食者」というのは、もっと真剣な、「生きるために、殺して食う」存在だと思う..まぁ、「Predator」には実はそういうニュアンスがあって、「捕食者」という訳語が、誤訳なのかもしれないが..

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*2012年09月29日:浜名湖一周サイクリング/メトの「劫罰」


 明日は午後から天気が崩れる。チャンスは今日だというわけで、9:20に、浜名湖一周サイクリングに出発する。(予定より2時間は遅れているが、そこはスルーしてください。[;_ _][;^J^])前回(2週間前)に、5ヶ月ぶりに浜名湖一周100キロサイクリングしたときには、盛大にバテたが(その時の日記には書き忘れていたが、脚がつりまくっていて、そのあまりの(Mな)心地よさに、ほとんどトリップしていた始末なのである [;^.^])、さすがにいくらか楽になった。

 出発が遅かったので、昼の休憩は、いつもの「勝美」よりも遥か手前の、以前から気になっていた「カフェ寸座フランセ」に、12:20。ギャラリーつきのカフェという、ちょいと洒落た店である。とはいえ、当初はカレーライスかパスタでも食うつもりだったのだが、疲労性の食欲不振で、結局、メロンミルクのかき氷でお茶を濁した [;^J^]。まぁ、糖分の補給にはなった(かな?)[;^.^]

 13:00に発って、残りの旅程を滞りなくこなして、16:30に帰宅。トータル104キロ。

 サイクリング中に留守録しておいた、「ファウストの劫罰」(ベルリオーズ)(メトロポリタン・オペラ 2008/11/22 LIVE、レヴァイン指揮、ロベール・ルパージュ演出)を、観る。(画像付きなら、耳の中で鳴り響く騒音に気を取られることが、いくらか少なくてすむのである。)なかなか良いではないか。[^J^]

 どういう演出かについては、この「スライドショー」をざっと眺めていただけば雰囲気は伝わるだろう。21分もかかるので、飛ばしながら適当に拾い見していただければ、十分(というか、私も拾い見しかしていない [;^J^])。

 とはいえ、突っ込みどころも多い演出なので、いくつか選んで容赦なく指摘しておこう。[^.^](基本的には気に入っているからである。箸にも棒にもかからん演出は、最初から取りあげない。)ちなみに、多くの読者はこの作品を知らないだろうから、いま、暇で退屈でほかにやることが無いのならば、拙文「新・ベルリオーズ入門講座 第6講 劇的物語 ファウストの劫罰」を参照するのも、そう悪い考えではないよ。[;^J^]

 「ラコッツィ行進曲(ハンガリー行進曲)」のシーンの演出は、実につまらない。兵士たちと女たちが「ゆっくりと、後ずさりに」行進しながら、机や椅子を運んできて、次のシーン(第2部)の舞台装置(図書館内部)の準備をしているだけなのである。なんなの? これ..まぁ、(ラコッツィ行進曲で終わる)第1部は、実は(書斎にいた)ファウストの追憶(または夢)なのである、という演出であるから、これはこれで筋が通っているとはいえる。つまり、夢から醒めかけているのであるが..そもそも、ラコッツィ行進曲に「演出」が要るのか?という、根本的な問題を、解決できていない。

 誰が聴いてもわかる。

 前半は整然たる行軍なのだが、後半に入ると「情景」が一変する。不吉なムードが広がり、遥か彼方で大砲の音が鳴り響く。(ここがまさに、ベルリオーズならではの魔術的な管弦楽法であって、単に、「大太鼓」を弱音で叩いているだけなのに、誰が聴いても、「砲火の響き」なのである。)そしてこのあとはもはや単なる行進ではなく、最前線への突撃となる! 大平原での会戦か、攻城戦かまでは特定できないが、雄たけびを上げながら殺到する兵士たちの姿が、はっきりと「見える」!

 ..これは、そういう音楽なのである。この音楽に、ビジュアルな演出が必要(あるいは可能)なのか? どういう演出をつければいいのか? 私がこれまで観てきたいくつかの例を想い出してみても、ロクなものがない [;^J^]。珍妙な(未来的な)鎧?を着て、もさもさと壁を登っている、城攻めのつもりらしいものとか..いっそ、この曲に入ったら、舞台上の動きは止めて(フリーズさせて)、純然たるオーケストラ曲にしてしまうほうが、なんぼかマシである。今回の演出は、そこまでは割り切れていないが、あまり邪魔にはなっていないという意味で、ぎりぎり許容できる最低限のラインか..

 第2部では、ファウストがメフィストフェレスの魔法で(夢の中で)見るマルガリータの幻影が、つまらない。(ちなみに、メフィストフェレス役の存在感は、素晴らしい。この曲は、メフィストフェレス次第なのである。)巨大な顔が映るだけ。ぶっちゃけ、妖怪みたいで恐い [;^.^]。これを見てときめくファウストは、どこか壊れているのでないか [;^.^]。そそらねーんだよ! [;^.^]凸 どうせ(メフィストフェレスが見せる)幻影なのだから、遠く、近く、誰かと笑いさんざめいている、とか、いかにもな演出はいくらでも考えられたろうに..

 第2部最終シーンの、兵士と学生の合唱の演出も、意味不明。説明するのも面倒なので、ここは省かせてもらいます。[;_ _][;^J^]

 もっとも素晴らしいシーンは、第3部の「鬼火のメヌエット」のバレエである。別に特別なことをしているわけではないのだが..しかし、盛大な、フライング拍手つき [;^.^]。この曲の終わり間際に、フォルテの主和音のあと、一瞬のゲネラルパウゼ(総休止)があるのだが、そこで一斉に飛び出しやがった [;^.^]。まぁ、みんな、拍手のタイミングを待ち構えていた(それほど見ごたえのあるバレエであった)証拠なのだが..この曲を知らないのかよ![;^.^]凸

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*2012年09月30日:献血/ナント美術館名品展/サロメ/サロ/停電


 9:20に自動車で起動。(午後から雨の予報だからである。)9:30頃からポツポツ降り始める。9:40に、献血ルーム・みゅうず。受付は10時から。例によって成分献血。出たのは11:40。この間、多少降っていたようだが、現時点では上がっている。メイワン谷島屋で数冊購入。

 浜松市美術館へ。先に食事をしたかったので、第二駐車場に止め、そばの蕎麦屋(← 別に受けなくてもいいです [;^J^])で月見うどんを食っている最中の12:45頃から、本格的な雨。

 13:00に美術館へ。「ナント美術館名品展」である。

 気になった作品を、挙げておこう。シャルル・フォン・シュトイベン「読書する女性」で女性が読んでいるのは、どう見ても楽譜なのだが..[;^J^] ポール=エミール・デトゥーシュ「仮面舞踏会をひかえて」の誘うようなしどけない姿勢、いいねぇ..[^J^] ネットから画像を拾えなくて、申し訳ない。アンリ・レーマン「レオニードあるいはモナ・ベルコローレ」も肖像画だが、グレーのイメージが、どこか未来的である。

 シャルル・ル・ルー「春、満潮時のロワール河畔:雷雨の効果」−これも、画像を捜せなかったのだが、素晴らしい構図の風景画である。シャルル・ドービニー「セーヌ河畔にて」も同様。

 ジャン=レオン・ジェローム「羊の角をつけた女性の頭部」画像検索結果)は、面白い。ジュール=エリー・ドローネー「ステファニー・ブルセの肖像」は、背景の青空と緑の葉が印象的な、寒色系でまとめられた肖像画。クロード・モネ「ヴェネチアのゴンドラ」画像検索結果)は、日本画と見まごうばかりの作品。ジャン=ジュール=アントワーヌ・ルコント・ドュ・ヌイ「白人奴隷」画像検索結果)は、素晴らしくエロくて、いい。[^.^](正直になろうよ。[^.^])キース・ヴァン・ドンゲン「正直なところ暇つぶし」画像検索結果)は、それをいっちゃあ、おしめーよ、という..[;^.^] マルク・シャガール「赤い馬」画像検索結果)は、周知の作品ですね。[^J^]

 14:30頃に出て、15:00に帰宅。

 先週、WOWOWから録画したまま未見だった、「サロメ」(R.シュトラウス)(メトロポリタン・オペラ 2008/10/11 LIVE、パトリック・サマーズ指揮、ユルゲン・フリムア演出)を観る。

 演出も、サロメも、○である [^J^]。演出は、妙な読み替えをしておらず、単に時代を現代にしているだけなのが、いい。(「読み替え演出」の是非については、面倒なので、ここでは触れない。)やはり、凄い音楽だよなぁ..

 17:00過ぎに観終えたら、風がうるさいこと。台風は(浜松では)今夜が山で、明朝には去っている見込みなのだが..

 引き続き、同じく先週WOWOWから(上記の「サロメ」と同じ日に、続けて放映されたのを)録画した、舞台上演版「サロメ」(平野啓一郎訳、宮本亜門演出、多部未華子主演)を観る。

 まず、多部未華子は(「7つのベールの踊り」で)脱がないので、そこは諦めてほしい [_ _][;^J^] が、とにかく、目力(めぢから)が尋常では無いんだよね。こいつはすげぇや、と、堪能していたら..ちょうど19時頃、多部未華子にヨカナーンの首が届けられる直前に、停電。[;^.^]凸

 実は、しばらく気がつかなかったのである。部屋の照明を落として(暗くして)観ていたのだが、BDレコーダーもテレビも、ついでに横で起動していたPCも、全てUPSで守られていましたのでね [;^J^]。なんか気配が変わったな? とは感じたのだが..しばらくしてからUPSのアラーム音(作動音)に気がついたという次第でありました。[;^.^]

Picture

 しかし、この時刻。さすがにまいった。電気がないと、なんもできん。寝るしかないのだが、あまりに早すぎるので、寝酒が必要。冷蔵庫は開けられないので、冷蔵庫の外に置いてある赤ワイン。懐中電灯で赤ワインを飲んでも仕方がないので、燭台をもってきた。(長年挿しっぱなしだった蝋燭が歪んで傾いているのは、ご愛嬌。[;^J^])燭台の向こう側に置いてあるものを取ろうと腕を伸ばしたら、指が触れて揺らしてしまい、蝋が指先に落下して、ひとりSM悶絶状態。[;^.^]

 19:50には、大体静かになった..単に電気が使えないだけ。納得いかん。せっかく蝋燭に切り替えたんだから、一晩中、嵐が荒れ狂ってくれないと..[;^.^]

 (ちなみに、今夜の日記(もちろん、月曜日以降に書いたのではあるが)のタイトルは、タイポではなく、ふたつめのサロメは最後まで観られなかったという状況を、巧妙に的確に表現していることを、不注意な読者のために指摘しておく。)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 4 2012
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