新・ベルリオーズ入門講座 第6講

劇的物語 ファウストの劫罰 (1846)



“音楽は、劇場の壁のなかでは広げきれないほど大きな翼を持っている”

(ベルリオーズ)


 ベルリオーズの最高傑作である。書くべきことは山ほどあるので、成立事情とかは、ほとんど略。ここでは、彼の「苦難の後半生」における演奏旅行の途上で作曲されたこと、1846年のパリでの初演は大失敗だったこと、この作品がフランスで爆発的な人気を得るようになったのは、作曲者の死後8年目の1877年からであることのみ、記しておく。

 ゲーテのファウストの自由な翻案である。「原作」からの相違点は、非常に多い。おおむね原作の第1部を下敷きにしているが、天上のプロローグがなく、代わりにハンガリーの平原のシーンが置かれている。又、マルグリートの兄のヴァランタンが登場しないし、何よりもファウストが救われずに、地獄に堕ちてしまう。勿論(ロメオとジュリエット同様)古い伝承物語であり、ゲーテ版はそのひとつのバージョンに過ぎないのであるから、墨守しなければならないというものではないのだが、聴衆にかなりの戸惑いを与えたことも事実である。とりわけ問題になる、冒頭のハンガリーのシーンについては、ベルリオーズはこう述べている。


 “作品に良好な結果が生じるのであれば、私は何の躊躇も感じないで、主人公をどのような場所へでも連れていったことであろう。私はゲーテの原作の枠組みに忠実に従おうとは思わなかった。ファウストのような主人公ならば、どのような奇想天外な旅だって可能なのであって、また、そのために作品の真実性が損なわれることもない。”

 ベルリオーズの、この明快な言明に付け加えるべきことは、何もない。また彼は、特にドイツの批評家が原作との相違を厳しく批判したことに対して、「私の『ロメオとジュリエット』が、どれほどシェイクスピアの原作に似ているというのだろうか? 彼らはこの点に対しては、なんの批判もしてはいない」、と、批評家達の偏狭なナショナリズムをとがめている。彼がいずれの原作(及びその作者)に対しても、最大級の敬意を払っていることは、言うまでもない。



 全体は4部からなっている。第1部の舞台はハンガリーの平原であり、素晴らしい夜明けの音楽にはじまる。弦の旋律一本で大平原を見事に描き出しているという意味で、幻想交響曲の第3楽章と比較するのもいいだろう。ファウストは自然を称えて歌う。農民達が現われ、活気のある合唱となる。人生を憂えるファウストは彼らを羨むばかりだ。そして先程から遠く聞こえていた軍隊のラッパの音が近づき、兵士達が進軍してゆくのが見える。有名な「ハンガリー行進曲」である。

 第2部冒頭は、ファウストの書斎のシーン。人生に絶望して毒杯を仰ごうとした彼は、外から聞こえてくる復活祭の美しい合唱に、死ぬのを思いとどまる。そこにメフィストフェレスが現れ、ファウストに人生の喜びを教えてやると言う。ファウストは彼についていくことを承諾する。(なんの説明もないが、ここでファウストはメフィストフェレスの魔法により、若返るはずである。)飛行マントに乗って酒場につく。学生達の馬鹿騒ぎ。「鼠の歌」「アーメンフーガ」「蚤の歌」と、生き生きとしたナンバーが続く。ファウストが、こんなところはうんざりだというと、再び飛行マントの音楽。ファウストはエルベ河のほとりでまどろんでおり、メフィストフェレスが妖精達に、神秘的な子守歌を命じる。「これぞフェアリー・ミュージック!」と叫びたい合唱が続く間、メフィストフェレスはマルグリートの夢を見せる。そして有名な「妖精のワルツ」。目覚めたファウストは、メフィストフェレスに、マルグリートに会わせろ、と迫る。(悪魔の術中に落ちた!)さあ、それでは町に行かなくては! 学生達と兵士達の陽気な行進(合唱)に合わせて、二人はマルグリートの住む町へ向かう。

 第3部。二人はマルグリートの部屋に忍び込む。マルグリートが現われ、切ない恋の予感を込めて「テューレの王」という、ゴシック風の素晴らしい歌を歌う。この擬古調のメロディーは、一度聴いたら忘れられない。中庭に場面が移り、メフィストフェレスは妖精達を招集し(降魔の音楽)、マルグリートを惑わす様、指令する。有名な「鬼火のメヌエット」。そしてメフィストフェレスと鬼火達の、卑猥なセレナード。(この一連の音楽の輝きと生命力を、なんと形容すればいいのか..)続いて、全曲中唯一と言ってもいいオペラティックなシチュエーションとなる。即ち、ファウストとマルグリートの愛の二重唱と、それにメフィストフェレスが「隣人達が気が付きましたよ! 今夜は帰らなくては!」と割り込んできた三重唱。それに隣人達の「娘が男を連れ込んだよ!」という陽気な合唱が重なる。

 最後の第4部では、もはや舞台の論理を超越した、幻想的としか言い様の無い時空間のジャンプが見られる。まず、ファウストが訪ねて来てくれない寂しさを歌う、マルグリートの素晴らしいロマンス。次に山中で(女のことなど思い出しもせずに)大自然を賛美して歌う、ファウストの歌。管弦楽は、大自然の偉大さと底深さを見事に描き出す。そして森の中で、狩猟のホルンが背後に聞こえる中で交わされる、ファウストとメフィストフェレスのレシタティーヴ。メフィストフェレスはファウストに、マルグリートが牢獄に入れられ、ほどなく絞首刑に処せられると告げる。ファウストが彼女に与えた軽い毒(逢引に備えて母親を眠らせる睡眠薬)を、母親に対して使い過ぎて、死なせてしまったのである。後悔したファウストは、彼女を救えと悪魔に命ずる。悪魔は「では、死後は私に仕える、という契約書にサインを」と迫る。ファウストは「今困っているんだ! 明日のことなぞ知るか!」と、サインする。(身につまされている人はいないでしょ〜ね。[;^J^])このシーンで背後に聞こえ続ける狩猟のホルンは、こんな日常風景の中で、地獄堕ちに通ずる悪魔との契約がなされてしまった、という怖さを演出すると同時に、悪魔による、ファウストの魂の「狩り」をも暗示している。雄大な大自然の中に繰り広げられる日常風景の片隅に(例えばパエトーンの墜落の様な)劇的な主題を描いた、ピーター・ブリューゲルの偉大な絵画作品群を想起させる、全曲中でも最高に劇的な瞬間である。そして、有名な「地獄への騎行」の音楽が始まる。

 二人はそれぞれ黒い馬にまたがり、地獄へと走る! 疾走する黒馬の音楽に重なる、祈り、弔鐘、そして背後から迫る怪物の唸りと、上空から襲う怪鳥! (本講座でくどいほど繰り返し強調している管弦楽法の簡素さに驚くのは、まさにこのシーンである。初めてこの箇所のスコアを読んだ時は、仰天した。なんと、幻想交響曲よりも簡潔なのである。しかも聴衆に与える劇的効果は、幻想交響曲とは比較にならないほど大きい。)ファウストの恐怖の悲鳴とメフィストフェレスの勝利の叫びが重なった時、地獄が開く! 悪魔達は理解不能の言葉で歓声をあげ、メフィストフェレスに、ファウストが自らの意志で契約書にサインしたことをただし、メフィストフェレスを称える! 悪魔達の洪笑と狂喜の叫び! 地獄の祝祭! やがて恐ろしい地獄の音楽が遠ざかると地上のエピローグとなり、「地獄が閉じた..」と、震えおののく囁きが聞こえる。そして天上へ。美しく、しかも決して崇高過ぎない、まさに、純真で無邪気だったマルグリートに相応しい優しい音楽に包まれて、彼女は祝福され昇天する..



 この作品の特性を一言で表現するならば、「多様性」である。同様な多様性が特徴的であった「ロメオとジュリエット」に聴かれた、「様式上の混乱」は、ここでは感じられない。純粋に、音楽内容が多様なのである。実に様々な様相のナンバーが、次から次へと現われる。時には軽く、時には重く、滑稽、荘重、卑猥、崇高、邪悪、純情、悲壮、歓喜、なんという多彩さだ! その色彩感、そのリズム、美しいメロディーと素晴らしい生命力!

 もう一つ特徴的なのは、異常に頻繁な場面転換である。つなぎの音楽に相当するものがほとんど存在しないことも指摘しておこう。このため、舞台形式での上演が、ほぼ不可能となっている。見方を変えると、猛烈な「詰め込み」が行なわれているとも言える。曲をつけるに値するシーンを全て音楽化し、しかもリーズナブルな時間内に収めようとした努力の結果である。そして各ナンバーのレベルの高さと個性の強さ! まれに見る高密度音楽劇である!

 これは“世界”だ。偉大なる“世界”だ! (ゲーテの原作が、そもそもそういう作品であった。)世界図(宇宙図)と言っても、「曼陀羅」的な物ではない。北方ルネサンスの絵画に典型的に見られる“世界風景(又は宇宙風景)”なのだ。“世界風景”とは、広大なスケールの風景画の中に、農村、都市、山岳、海洋、狩人、商人、旅人、乞食、戦争、祭り、教会、売春宿、その他ありとあらゆる自然界と人間界の事象を描き込んだものをいう。上述したピーター・ブリューゲルの作品に、“世界風景”の最も優れたサンプルの幾つかがある。「ファウストの劫罰」は、音楽で描かれた“世界風景”なのである。

 世界と宇宙、人間界と自然界、地上的なるものと天上的なるもの、要するに宇宙の諸相を、ひとつの絵画の中に封じ込めよう、などという野望を、何故ちっぽけな人間が持ち得るのか、と尋ねられれば、それは人間には「夢」があるからだ、と答えよう。「狂気」と言い直しても良い。この“音楽による世界風景”の本質も「夢」である。「夢の情景」ではなく、「魂のあり方としての夢」である。従って、「魂に夢を持ち得る音楽家」こそ、この作品の演奏にふさわしく、「魂に夢を持ち得る聴衆」こそ、この作品を聴くのにふさわしいのだ。人は、「ファウストの劫罰」を聴き、ファウストの絶望と、愛と、野心と、希望と、苦悩と、歓喜を体験することによって、ひとつの「夢」、ひとつの「世界」に生きることが出来るのである。それは中央ヨーロッパで数百年かけて醸成され、ゲーテにより言葉を与えられ、ベルリオーズによって音楽を与えられ、永遠化された、人類の創り出した最も偉大な夢のひとつなのだ。



 この作品は、アニメ化に向いていないだろうか? 舞台化の試みは何度かなされたらしいが、恐らくは上述の理由からであろうが、失敗に終ることが少なくないようだ。オペラ映画化も、難しいと思う。しかし、アニメーションならばどうだろう? この作品の非現実性とうまく調和するのではないだろうか? 例えば、以下の様な演出プランが考えられるのだが..

 第2部冒頭でファウストは毒杯をあおぐのを止めるのだが、歌の後でやはり死のうとして、改めて口元に運ぶことにする。そこにメフィストフェレスが現われて彼を止めることにし、彼の出現の前後で、映像のニュアンスを微妙に変えておく。そして全曲の末尾、ファウストの地獄堕ちのシーンのあとにマルグリートが昇天して終る、そのシーンのラスト30秒位で、カメラを第2部冒頭のファウストの書斎に戻す。そこでは、「メフィストフェレスに会う前の、年老いた姿のファウスト」が、毒杯をあおいで死んでいる。つまり、メフィストフェレスは実在せず、全ての冒険は、死ぬ瞬間に観た一連の夢であった、という訳だ。この作品の唐突で脈絡の無い場面転換の多さも、濃密な夢の雰囲気作りに役立つ。先にこの作品の本質は「夢」であるが、実際に「夢の情景」を描いたものではない、と述べた。それを「実際の夢(なんじゃそりゃ[;^J^])」として描く、というプランである。

 いうまでもなく、幻想交響曲のプログラムの引用である。そもそも幻想交響曲が「ファウスト」の影響下に書かれたことは明らかなので、そのプログラムを逆に適用するのは、筋が通っている。“夢”をブリッジにして、「ファウスト」と「幻想交響曲」が鏡像関係にあるのは明らかであろう。

 第1部は、従って夢ではなく、ファウストの追憶である。そろそろ晩年にさしかかる頃でもあったのだろう。第2部冒頭ではそれを想い出している訳だ。実人生において救われなかったファウストは、自殺する瞬間に見た夢の中で自らを地獄に堕とし、その意味では自らを罰した(罰せられた)のだが、一方、夢の中で死刑に追いやったマルグリートを昇天させたことにより、自らを救った(救われた)とも言える。映像上の仕掛けとして、ファウストの机の上か指にでも、(彼の夢の中の登場人物である筈の)マルグリートの形見(指環か首飾りが適当)を置いて、夢と現実を混交させると、その手のマニアが喜びそうである。このアイテムが、第2部冒頭にはなかったのに、ラストシーンにはあったりすると、さらに効果的だが、少しあざとすぎるかな? 当然、ラストのフェイドアウトの直前には、ファウスト(の死体)は、一雫の涙をこぼす..(さすがにくさいか。[;^J^])



 「ファウストの劫罰」ほど“巨大”な音楽を、私は知らない。それは、“宇宙”と“永遠”を完全に内包し、しかもあくまでも、人間の視点から描き切っているからである。特に第4部は、まさに音楽の奇蹟であり、僅か30分で、宇宙を完全に記述している。まず、街。次に、山岳地帯。この僅か二ヶ所へのフォーカスで、人間と人間界の事象を描き切り、続く森の中のダイアローグを起点として、3本のベクトルをスタートさせる! 第1のベクトルにはファウストと悪魔が乗り、地獄へ向かって一直線に下降し、その地獄は閉じて“フェイドアウトする”。第2のベクトルは地上を水平に走り、「地上のエピローグ」として“フェイドアウトする”。第3のベクトルはマルグリートを天上界へと導いて(これほどの大作としては意外なほど、静かなさりげなさで)“フェイドアウトする”。全てフェイドアウトするのだ..そしてそれらのベクトルの消え去った先には? 人間界を中心に地獄界から天上界に至る広大な空間が、広大な世界が、広大な宇宙が、ファウストとマルグリートの悲劇と劫罰と救いの物語の舞台となったことも知らぬげに、果てしなく、ある。「ファウストの劫罰」は収束しない! それは、宇宙に向かって“開いたまま”フェイドアウトして行くのである。

 “神−天上界”すなわち“永遠”の概念に依って“世界”を記述した音楽など、珍しくもない。バッハの名を想起するだけで十分だ。決定的に違うのは、「劫罰」のエンディングで、全てのドラマと冒険が飲み込まれていった広大な“時空”は、“神−天上界(即ち、永遠)をも含んでいる”ことである。ここでは、“宇宙”は“神”の上位概念なのだ。とすると、「天上のプロローグ」が省かれて、人間ファウストの詠嘆に始まり、しかし「地上のエピローグ」は残されている、という構成に、重大な意味が読み取れまいか? この音楽には、実は“神”が本当には登場しないのだ。では、人間と悪魔の物語なのか? 悪魔は実在したのか? ここまで読んだ読者諸氏は、恐らくはただの戯れ言として読み流したであろう、私の提案したアニメ版の演出プランに、不気味な迫真性を感じ始めたのではないだろうか?



 「ファウストの劫罰」は、“天使の合唱”によって終わる。だからと言うわけではないが、最後に、「ヴォックス・アンジェリカ(天使の声)」と名付けられた、偉大なる“宇宙風景”を紹介して終ろう。何故ならば、この絵画作品を語った言葉が、ほとんどそのまま「ファウストの劫罰」をも語っているからである。


 “「ヴォックス・アンジェリカ」は4枚の組合せカンヴァスの中に、エルンストの20年間にわたるシュールレアリスト時代のイメージのあらゆる局面をうかがわせる小画面がびっしりつめ込まれている。この作品はシュールレアリスムの画家としてのエルンストのそれぞれの発展段階の、いわばミニチュア形式による回顧的アンソロジーともいえるものである。すなわち見事な静物、異国風の情熱的な“夢の風景”、紫色の空にかかる銀河の眺め、モホリ=ナギを思わせる幾何学的な断片、古代のプリミティヴなトーテムあるいはフェティシュを思わせる一連の彫刻的な形象、一見通り抜けられそうもない深い森を通してのぞかれる暗い不吉な眺めなどであるが、これらはいずれも完璧なバランスと秩序を保って描かれ、集められている。このことはこれらの色彩と形態と単純さと念入りな細部とのコントラストが物語っているが、その頂点ともいうべきは右下隅に見える“Max”という名で、各文字は精度の高い製図工のコンパスで、欠けるところのない“スーパー・リアリズム”風の緻密さで描かれている。かりに災厄が地球全土を襲い、席捲し、しかもこの「ヴォックス・アンジェリカ」だけは無事残ったとすれば、この作品1点によっても彼はその時代の、あるいはあらゆる時代の最大かつ最も才能ある芸術家として決して忘れられることも、見すごされることもないだろう。”

(ティモシー・バウム「シュールレアリスムの巨匠たち展 図録」より)

*データ

作曲年代
1846年
初  演
1846年12月6日:パリ
編  成
ピッコロ、フルート2(ピッコロ持ち替え)、オーボエ2(コーラングレ持ち替え)、クラリネット2、バス・クラリネット、バスーン4、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ2、ティンパニ、大太鼓とシンバル(それぞれ形態の異なるもの複数)、小太鼓、タムタム、トライアングル、鐘、弦5部、ハープ2、テノール独唱、バス独唱2、メゾソプラノ独唱、混声合唱、舞台裏にトランペット、ホルン各2。
構  成
全4部。詳細は略。本文参照のこと。
所要時間
約130分

*推薦CD/LD

* ショルティ/シカゴ交響楽団/他
 (ポリドール ロンドン POLL1007〜8)(LD)
 ほぼ同じメンバーによるCD(ポリドール ロンドン POCL4123〜4)もあるが、こちらの方がいいと思う。特にメフィストフェレス役のヨセ・ファン・ダムが素晴らしい。なんにせよ、字幕は有り難いものである。会場が広すぎるせいか、録音に若干の難点があるが、現時点でのベスト・チョイスと言ってよかろう。
* ガーディナー/リヨン歌劇場管弦楽団/他
 (日本フォノグラム フィリップス PCD26〜7)
 ライヴ録音のせいか、多少精度の粗い面もあるが、実に生気溢れる名演である! ただ、各部の終りに(ライヴならではの)拍手が入るのは、好悪が分かれよう。
* インバル/フランクフルト放送交響楽団/他
 (日本コロンビア デンオン COCO75767〜8)
 「ロメオとジュリエット」の回でも書いたことだが、インバルの音楽は、どこか重い。それ故、この聖俗軽重の絶妙なブレンドが本質的である作品とは、ベストフィットとは言いがたいところがある。演奏自体は入念なものであり、存在意義は十分あるのだが。


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 5 1998 
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