*2011年02月14日:小谷元彦展/「トロイアの人々」日本初演
*2011年02月15日:確定申告/iPhone ケーブル不良
*2011年02月16日:ツイッターの落とし穴
*2011年02月17日:前世紀の遺物の呟き
*2011年02月18日:世を捨てて
*2011年02月19日:トークイベント「『シベール』のころ」
*2011年02月20日:「弧の増殖 夜刀浦鬼譚」
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*2011年02月14日:小谷元彦展/「トロイアの人々」日本初演


 今日は有休取得済み。6:30に自宅を発ち、7:30の東名バスで上京。12:20、霞ヶ関の停留所で降車し、12:40に国会図書館着。手塚治虫調査である。

 主目的は、未知のエッセイが掲載されている可能性がある「婦人倶楽部」の1964年11月号の閲覧であったが..なんと、欠号である。少なくとも国会図書館の場合、ウェブで確認できる欠号情報は当てにならない(現場に来ないと、実際のところはわからない)ということを、忘れていた [;_ _] ..ったく、もう。[;-_-]

 このままおめおめと引き下がるわけにはいかないので [;^J^]、ほかに何か調べるネタは無いかと(iPhone に入れて持ち歩いている)調査案件ノートを再チェックしたところ、「少年サンデー」の「10周年おめでとう!」というカット(色紙に近い)が、未見のままだったことを思い出し、創刊10周年前後の号をまとめて借り出し、1969/3/30号に掲載されていることを確認した。これで一応の形は付いたとみなして [;^.^]、14:00に退出。

 14:50に六本木の森美術館着。「小谷元彦展 幽体の知覚」である。私にとっては、未知の作家であった。生物の動きを封じ込めるという意味ではいかにも未来派的なコンセプトの「ニューボーンズシリーズ」は、未知の生物の骨(あるいは化石)という風情でなかなかよろしく、また、浮遊感を表現しているらしい、純白系の「ホロウシリーズ」にも、感心した。ただし、映像作品は(申し訳ないが [_ _])いずれもいただけなかった。「インフェルノ」という、360度全方向の瀧の映像(時間軸の速度が一定しない)に取り囲まれるという作品が、映像作品中の一押しのようだが、うーん..どこぞの博覧会のパビリオンの出し物以上の感興は湧かない [_ _]。面白いのは(というかなんというか)、これにつけられている音楽が、まるっきり「2001年宇宙の旅」の、スターゲイトに飛び込む直前の、木星系で衛星とモノリスがダンスを踊っているシーンの音楽だ、ということである。もちろん、2001年は2001年で、リゲティを引用しているのだが、あの映画はその意味でも、もはや完全に「古典時代」の作品なのである。

 16:35に退出。これからアークヒルズ(サントリーホール)まで20分歩くのだが、いいタイミングで、冷たい雨 [;_ _]凸。17:00に、サントリーホール前のオーバカナル赤坂。この店に入るのは、初めてだったかな? 多少の疲れはあるものの、今夜の演目では眠らない自信があるので、シャンパンと白ワインをいただく。

 ここで、iPhone の異状に気が付く。エネループのリチウムイオンバッテリーを接続しても、充電できない。残容量の数字が、単調に減少して行く。そう言えば(少なくとも 3GS 世代の)iPhone には、バッテリー系の持病があると聞いたが、購入してから1年半、ついに発病したか? それとも、このエネループのバッテリーが壊れたのか? まぁ、ここでしばらく iPhone が使えなくなったとしても(ツイッターやらメールやらmixiやらが出来なくなるだけなので)特段、致命傷ではないのだが。

 18:00にサントリーホールに入る。ベルリオーズの歌劇「トロイアの人々」の、コンサート形式ではあるが、日本初演(ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団、歌手とあらすじの詳細)である。先日の日記でもリンクを引用したが、このオペラについて知りたい人は、拙文「新・ベルリオーズ入門講座 第9講 歌劇 トロイアの人々」を参照のこと。[;^J^]

 欠点が無かったとは言わないが、これほどの大作の瑕瑾のない演奏など、求める方に無理がある。とにかく、実演に接することができただけで、大感激である。思えば、少年時代の私は、「トロイアの人々」の舞台を観ることができれば死んでもいいと思っていたものだが、それは1980年代にメトロポリタン歌劇場の公演のレーザーディスクが出たことで(実演ではないものの)あっさりと実現されてしまい、「死んでもいい」は、無かったことにしたのだが [;^.^]、その後も、多いとは言えないまでも、なかなかすぐれたDVDを数点、購入して鑑賞してきた。とうとう、実演に接するところまで来たわけだ。感慨無量である。

 数ヶ所のカットがあったが、ほぼ妥当。(小さな役ばかりでなく、主役級でも)ときどき声量が多少足りないと思われたのが、気になった程度。舞台裏のバンダは、なかなか上手かった。

 22:30にサントリーホールを出てみれば..をを、ホワイト・バレンタインデー! [;^.^][;^.^][;^.^] ..なんて、いいもんではなく、降りしきる雪は(十分に気温が下がっていないのか)湿気の多い、ベタベタのボタン雪で、コートに貼り付くこと貼り付くこと! 六本木一丁目駅から、水道橋へ。流石に少々腹が減ったので、23:30、スパ ラクーアの直下の「BRITISH PUB HUB」という店に入ってみるが、残念ながら食事メニューは終わっていた。が、アルコールとつまみとで、十分に腹は宥められた。なかなかいい店である。ちなみにここでも iPhone を調べてみたが、4時間の公演中にほとんど放電しきっており、しかも(店員さんに許可を求めた上で)壁コンセントに接続しても、充電できないのである。ツイッターから断末魔のツイートをしたところで、力尽きた。[;_ _][;_ _][;_ _][;^J^]

 23:55に店を出て、スパ ラクーア泊。

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*2011年02月15日:確定申告/iPhone ケーブル不良


 今日は午前半休取得済み。スパ ラクーアを5:45に発ち、徒歩15分ほどかけて10回ほども滑りながらも転倒はせずに踏みこたえつつ [;^.^] 水道橋駅着。6:33東京発のこだまは、途中で10分ほど遅れたが、無事に8:32に浜松着。バスでいったん帰宅。やれやれ。

 一息ついてから、すぐに車で確定申告の会場へ。それなりの行列。私の申告内容は例年どおりのワンパターンなのだが、今年からは手書きではなくPCで書類を作成するようになっていた。確かに便利は便利であるが、最終的に出力される帳票のフォーマットは、昨年までの手書きのものと、寸分たりとも違いは無い。[;^J^]

 もういい加減、イータックスにしろよ、という気持ちはあるのだが、年に一度の(しかも今のところはルーチンワークと言ってよい、昨年までの書式を引き写すだけの)単純作業だし、1時間半も並ぶのは確かにバカバカしい限りではあるが、読書してればいいんだし(時間の無駄遣いにはならないし)[;^J^]、つまり、ハイテク化しようというモチベーションが皆無なので、イータックス導入に踏み切れないのである。

 午後から出社。

 ちなみに、昨夜来の iPhone 充電不能事件だが、原因を切り分けていったら、なんと、充電ケーブルの不良であった [;_ _]。たまたま自宅にあった(首が切れかかっている)予備のケーブルと交換したら、まともに充電できる。本体もエネループの充電器も問題なし。やれやれ。[;^J^]

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*2011年02月16日:ツイッターの落とし穴


 ツイッターのタイムライン(自分がフォローしている人々のツイート(呟き)が時系列で表示される画面)を読んでいると、自分の考えと同じ人々、あるいは同じでなくとも、自分の考えの裏付けとなる/補強してくれる意見を述べてくれる人々の多さに、驚かされる。リアルライフの自分の周囲の人々のあいだでは、孤立しているとまではいわずとも必ずしも多数派とは言い難い自分の考え方が、ツイッターの(ひいてはネットの)世界ではメジャーであることに力づけられるし、そんな(リアルライフに比べて、明らかに先進的である)ネット世界/ツイッター世界のメンバーであることを誇らしく思う..

 ..もちろん、大いなる錯覚に過ぎない。

 そもそもツイッターのタイムラインとは、自分が選んでフォローした人々の発言の集合体なのであるから、自分と考えを同じくする発言の割合が高くなるのは、当たり前なのである。仮に「敢えて、自分とは異なる考え方の人をフォローしている」としても、自分が「興味を抱いて、選んだ」人であるという時点で、既にバイアスがかかっているのである。全世界にツイッターユーザーが何千万人いるのか知らないが、ひとりの人間がまともにフォローできる(その人の呟きを継続的に読み続けられる)人数は、高々数百人であろう。全ツイッターユーザーの1万分の1か、10万分の1か..いずれにせよ、ほんのひとかけらとも言えない程度の、小さな小さなサブセットに過ぎず、しかもそのサブセットは、上述したように、自分の考えよりに(大きく)偏向しているのである。(その数百人は、たまにリツイート(他人のツイートの転送)をするだろうが、それらもまた、その数百人の主観で選んだツイートであるのだから、「偏向」という意味では本質的に変わりはないし、量的に仮に一桁程度人数が増えたところで、全体から見れば誤差である。)つまり、ツイッターの(自分の)タイムラインから(ツイッター界の)世論のマクロな動向を読みとることなど、根本的に不可能なのである。

 にも関わらず、「そんなことはツイッター界では常識なのに、世間では全く理解されていない」とか、「ツイッター界ではとっくの昔に議論が終わり、結論が出ている問題だ」とかいうようなツイートをしばしば見かけるし、もしかすると私だって、口走っているかも知れない。それは何故か。

 ツイッターの仕組み自体が、そのような錯覚を引き起こしやすく出来ているのである。それは、いつでもすぐに、どのような著名人でも(その人がツイッターユーザーでありさえすれば)フォローして、その発言を追っていくことができる、という仕組みである。(そして運が良ければ、自分の発言が彼らの目に止まり、もっと運が良ければ、彼らから話しかけられることすらありうるのだ。)フラットな世界にフラットにアクセスできる。まさに公平な仕組みであり、この仕組み自体にはなんの欺瞞もない。全世界(全ツイッター界)を、鳥瞰的に公平に見渡すことが(理論的には)可能であり、そして自分が、そのように振る舞っていると、思い込みやすいのである。(繰り返しになるが)誰の発言でも、すぐにフォローできるから。

 問題は、その「フラットな世界」が「桁外れに広大であり過ぎる」が故に、結局、自分の基準で(恣意的に)サンプリングするしかない、ということにある。そのサンプルの集合体は、多くの場合、「拡大された自分の世界」に過ぎないのだ。

 このように言い換えても良い。「ツイッターは、視野を広げはしない。視野の狭さを維持したまま、より多く見えるようになるだけである。」

 無論、ツイッターに限ったことではないのだ。人は意識的にせよ無意識的にせよ、自分の考えに賛同してくれる人、自分の考えを補強してくれる意見を求めている。たとえばほうぼうのブログを読みあさるにしても、そのようなブログを選んで読む傾向があるはずだ。ただ、数百ものブログを読みあさるのは現実的ではなく、(熱意をもって)継続的に読み込めるのは、高々数十ではあるまいか。するとその「少なさ」故に、「自分が読んでいる文章/集めている情報は、自分よりにバイアスがかかっている」ことを、意識しやすいのである。世界全体を公平に概観している、という勘違いが、発生しにくいのである。さらに言えば、ネットの外。新聞や雑誌を、数百も読めるであろうか。高々数十、いや、もっと少ないかも知れない。朝日新聞しか読まない人、読売新聞しか読まない人、あるいは日経と産経だけ読んでいる人。いずれも、自分が集めている情報(あるいはオピニオン)の「偏向具合」には、はっきりと意識的であり続けられるだろう。論壇誌などは、右から左まで、さらに旗幟鮮明であるから、読む前から覚悟できるであろう。

 これらとツイッターの違いは、どこか。それは「ソースをいともたやすく量的に増やせる」ことである。そこに勘違いが発生しやすいのだ。

 無論、良いも悪いもない。これがツイッターの特性なのだから、それを存分に生かして使いこなせば良い。自分のタイムラインが「井戸の底」であることさえ忘れなければ、それで良い。

 以下、蛇足だが..「ツイッターは、視野を広げはしない」と書いたが、これはもちろん、議論をわかりやすくするための極論であって、思いもかけぬ意見が(たまたま)目に入って視野が広がることは、少なくない。念のため、補足しておく。

 さらに蛇足。久しぶりに長文を書いてみたが、このような内容は、ツイッターの140字では語れないのである。数十のツイートを連結してひとつの長文を構成している人をしばしば見かけるが、これはツイッターの本来の使い方ではないだろう。(また、やたらとリンクを貼ってクリックさせるのも、いかがなものかと思う。)ツイッターの(物理的な)制約をわきまえることが、肝要ではあるまいか。

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*2011年02月17日:前世紀の遺物の呟き


 どうしても、「データ買い」には馴染めない。iTunes で実験的に何曲か購入して iPhone に入れてあるが、それは、昔聴いたLPの中の(既知の)チューンである。たとえば「幻想交響曲」の画期的な演奏(新盤)がリリースされたとして、それをデータ買いすることは、あり得ない。CD、DVD、あるいはBDなど、とにかくなんらかのメディアで購入する。

 こんな考え方が古すぎるのは、百も承知。しかし今さら改めることは出来ないし、改めるつもりもない。この感覚は、「モノを求める」とか「形あるものが欲しい」とか、そういう言葉で説明されることがしばしばあるが、私の場合は、これでは大切なニュアンスが欠落してしまう。なんというか、その..「モノ」には「“香気”がある」のである。「データ」には、それが無いのだ。

 音楽/映像を題材にすると、今ひとつ伝わりにくそうなので、書物を題材にしよう。もちろんこれからは電子書籍の時代だが、私は(言うまでもなく)紙の本を買い続ける。無論、置き場所の問題が解決され続ける限り、であるし、私だって、電子書籍の利便性は知っている。いわゆる「自炊」こそ、まだしてはいないが、学生時代の論文その他はスキャンしてデータ化し、原本は捨てた。ここから「自炊」まではあと一歩だし、iPhone の「豊平文庫」には数多くの長短編がダウンロード済みで、出先でうっかり(読む本も持たずに)ロスタイムが発生してしまったときなど、iPhone でそれらを読んでいるのである。それはたとえば小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」であり「白蟻」であり、夢野久作の「ドグラ・マグラ」である [;^J^] のだが、しかしここで肝要なことは、私はこれらの作品は、既に(紙の)書物として所有していて、(紙の)書物で読んでいるということである。つまり、iPhone での読書体験は「代用品」に過ぎないのだ。(実に便利な代用品ではあるけれど。)iTunes で音楽を聴く場合も、同様である。

 理屈ではない。私は、小説をそういうふうにしか読めないのである。(読んだことはないが、ケータイ小説とやらは、ケータイの画面で読む方が、しっくりくるのだろう。あれらを紙の書籍として出版することこそ、歪(いびつ)であると思う。)

 「音楽」や「映画」を(データではなく)パッケージメディアとして購入し、パッケージメディアとして鑑賞するのも、上記の「書籍」に対する態度と、まったくパラレルなのである。廃墟通信の読者ならご存知のとおり、地デジ/BS/CSから、厖大な量の録画を行っており、その中には数多くの「映画」が含まれているのであるが、それは前記の態度と矛盾しない。つまり、これらの録画は「代用品」に過ぎないのである。昭和ゴジラと昭和ガメラは、全部録画で揃えたが、これらは「参照用(参考資料用途)」だから、「録画という代用品」でも構わないのである。「ゴジラ(初代)」や「ラドン」や「平成ガメラ三部作」や「GMK」や「ゴジラ ファイナル ウォーズ」のような、大切に思っている作品はパッケージメディアで購入しているし、今は代用品(録画)で我慢している作品も、少しずつパッケージメディアで買いそろえていくことだろう。その他の映画についても、同様である。(無論、いわば「お試し」として録画して鑑賞し、これはパッケージメディアを買うに及ばず(代用品のままで十分)と判断するケースも、非常に多い。)

 繰り返しになるが、私が購入する「メディア」に求めるのは「香気」である。「紙の書物」には、それがある。では、「音楽」「映画」となると、買うに値するメディアとは、何か。現状では、CDやDVD等の「円盤」としか言い様がない。(「テープ」は、まったく別の(物理的な)理由から、ここでの議論のスコープ外とさせて下さい。[_ _])音楽や映画が、なんらかのフラッシュメモリーの形で販売されているのかどうか知らないが、それがSDやUSBスティックであるのならば、残念ながら、私は買いたくない。私はそれらに「香気」を感じない。フラッシュメモリー系で、私が唯一認めるメディアは、CF(コンパクト・フラッシュ)である。縦横高さの寸法比と大きさのバランスが、絶妙なのだ。円盤には劣るが、もしも円盤では入手できない作品が、CFでは買えるという状況が発生すれば、躊躇なく買うと思う。(今さら、CFパッケージで、何かが販売される可能性は無いと思うが。)

 以上、前世紀の遺物の戯言である。こんな人間は、紙の書籍や円盤の山に押し潰されて死ねばいいのである。あなたに言われるまでも、無いのである。[;^J^]

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*2011年02月18日:世を捨てて


 つげ義春の映画のどれか(93年の「ゲンセンカン主人」か、98年の「ねじ式」)だったと記憶しているのだが..最後に少女が山の中に逃げ込むというシーンがあった。大人たちにけっして見つけられずに暮らしていくためである。もちろん、そんなことは不可能に決まっている。子どもの体力でどの程度の深山に侵入できるのか。また、そこに「隠里」を作って、ずっと孤立して暮らしていけるのか..しかしこれは、子どもの空想としては実に切実なリアリティがあり、この少女の非論理的な行動を否定する気にはなれない。(私だって小学生の頃、そのようにしてひとりで生きていきたい、と、妄想したことがあるし、おそらくあなたにも憶えがあるのではあるまいか。)美しいシーンだと思う。

 「ブラックジャック」の「望郷」というエピソードの結末も、少し似ている。ひとりの少年が、軍艦島のような無人島で、ひとりで生きていくことを決意するのであるが..もちろん、完全に不可能 [;^J^]。ただ、孤島の廃墟でひとり生きて行く、という夢想は、悪くない。

 最後に、これは確か「カムイ外伝」の中のいちエピソードだったのではないかと思うが、私はこの作品を通読していない(断片的に読んでいる)ので、物語の中でどういう位置づけなのかは、不明である。[_ _]

 ある大名が、山の中で、逃げるカムイを追跡する。部下たちとはいつしかはぐれ、単身、深山へ、深山へと誘い込まれて行く。谷を越え、崖を越え..やがて、その大名にはそこがどこであるかもはや全くわからず、元の自分の領地に戻ることもできず、乞食となり果てる..

 ..こういうのは、やだ。[/_;][/_;][/_;][;^.^]

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*2011年02月19日:トークイベント「『シベール』のころ」


 6:30に自宅を出て、7:30の東名バスで上京..このパターン、この9日間で3回目なのであるが [;^J^]、従来に無い珍しい状況が発生した。首都高速に入ったところで、渋滞のため霞ヶ関停留所への到着が30分以上遅れる見込みとのことで、用賀パーキングエリアでの降車を薦められたのである。田園都市線の渋谷までの切符の引換券を100円で発行してもらえるとのことだし、特に急いではいないというものの、同じパターンの上京に飽きてきたので [;^J^]、ここで降りた。

 用賀駅まで徒歩ですぐ。渋谷経由で神保町に12:30。仮に渋滞が無くても、こちらの方が早かったな。まずは昼飯。三省堂のすぐ傍のなか卯である。数週間前の「“ぷっ”すま」で、なか卯のメニューが全般的に非常に称揚されていて、なかでもカツ丼の評価が高かったので、カツ丼を注文してみたが..うーむ。値段相応程度の美味しさだとしか、思えないがなぁ。(こういう場合、自分は、舌が肥えているのか、バカ舌なのか、非常に判断に迷うところである。[;_ _][;^.^])

 呂古書房へ。先週の「小林礫斎 手のひらの中の美 〜技を極めた繊巧美術〜」展で豆本に「当てられて」、豆本の在庫が豊富なこの店に来たのだが、そういえば、「サントリー洋酒豆天国」の「どれかの巻」に、泥酔しているヒゲオヤジのカットが載っているはずじゃなかったかな、と、探してみた。36巻(全巻?)揃いは、内容の閲覧が出来ず、ウン万円なので、これを不見点(みずてん)で買うわけには行かない。このセットもの以外に、バラで20冊、出ていたので、片端から内容をあらためてみるが、手塚治虫のカットは無い..というか、どうも、手塚治虫のカットが載りそうな雑誌に見えない..

 ..と、手帳にメモしつつ iPhone でリストを確認しつつ調べていたら、店番の奥さんが、捜し物ですか? と訊いてきたので、前記の事情を説明したら、「それは、『サントリー洋酒豆天国』ではなく、『サントリー洋酒天国』(豆本ではない)でしょう」..ををををを! [;^.^] そういう雑誌があったのか! 「サントリー洋酒豆天国」のイメージが強すぎて、良く似た名前の別の雑誌があるという可能性を、見落としていた。

 いずれにせよ、この店には「サントリー洋酒天国」はない。あるいは国会図書館(等)にあるかも知れない。情報料というわけではないが、お礼の意味も込めて豆本を何冊か購入する。羊頭書房も回ってから、少し早いが、14:30に米澤嘉博記念図書館。すでにIさん、Gさんも来ている。現在進行中の「吾妻ひでおマニアックス」関連のトークイベント、「『シベール』のころ」聴講のためである。開始は16:00。

 講師は、沖由佳雄氏と、もうひとり、KAZUNA氏の予定だったのだが..やって来たのは、単なるメトロン星人であり [;^J^]、その正体が KAZUNA氏なのかどうかは、私には判断できなかった。[;^.^]

 シベールとは、吾妻ひでおが中心となって発行した、ロリコン(美少女)同人誌の嚆矢として名高い、まさに伝説の同人誌なのである。沖氏は編集者、KAZUNA氏は寄稿者(..はっきりと役割がわかれていた訳でもないようだが)。当時の周辺状況や、人脈関係、そもそもシベールを作りだした目的やモチベーションなどについて、貴重な話を伺うことができた。トークイベントは17:30までだったが、会場を出たのは15分ぐらい経ってからだったかな。

 18:00、徒歩数分の「世界の山ちゃん」という名古屋系の店でミニオフ。I氏、G氏、S氏。少し遅れて(トークイベントには参加できなかった)O氏。注文システムがハイテクで素晴らしい。

 興味深い話をいろいろと。たとえば、アメリカのアニメ(ディズニー)は、可愛い子を出してはならないのである、なぜならブスへの差別になるから、とか。なるほどなるほど、あのへんのアニメのヒロインが、揃いも揃ってブスばかりなのは、そういうわけだったのか。[;^J^](生身の女優は美女でも構わないんだから、理解に苦しむところである。)実際、アメリカのアニメ業界人(ディズニーの人?)は、日本のアニメを(心ゆくまで美女や可愛い娘を出せる、という理由で)羨ましがっているらしい。

 20:50にお開き。21:30東京発のひかりに乗り、浜松22:48着。23:30、帰宅。

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*2011年02月20日:「弧の増殖 夜刀浦鬼譚」


 午前中から、車で起動。OAナガシマ(浜松西インター店)で、BD−REメディアの5枚パック(1000円超)を買い、替わりに、賞味期限切れのUPSを処分してもらう。この店では、1000円以上買うと、ハードウェアをひとつ、処分してくれるのである。

 久しぶりにCoCo壱で昼食。例によって、チキン煮込みカレーの1辛 + ガーリック × 2 + 半熟卵だが、うーん、記憶していた美味しさとは微妙に異なるなぁ。以前とどこが違うんだろう?

 帰宅してから、書籍数冊を小さいバッグごと紛失していることに気が付いた。どこかで落とした可能性もゼロではないが、99%、CoCo壱のカウンターの下の手荷物置き場である。早速電話してみたが、「今日は、落とし物は届けられていない」、とのことである。「カウンターの下に忘れたはず」と伝えたのだが..

 ..何度考えなおしても、そこにしかあり得ない。改めて車を飛ばしてCoCo壱に乗り込んだら..ほら、どんぴしゃりでそこにあるではないか! [;^.^]凸 ..電話を受けた店員の人は、現場まで見に行かなかったわけである。CS(カスタマーサポート)に限らず、電話応対する可能性のある人は、もって他山の石とすべし。[;^.^]凸

 再度、帰宅。他にもやらなければならないことは山積しているのだが、昨日神保町で買ってきた「弧の増殖 夜刀浦鬼譚」(朝松健、エンターブレイン)が気になるので着手し、サクサクと読了した。(リーダビリティは、極めて高い。)

 実のところ、ジャケ買いならぬタイトル買いだったのである。なにしろ、「弧の増殖」と言えば、私が偏愛するシュルレアリスムの巨匠、イブ・タンギーの、最晩年の最高傑作クラスの作品のタイトルであるのだが..しかし本書は、特にこの絵画作品とは関係ないし、「弧」は出てくるのだが、さして増殖もしていないように思う [;^J^]。要は、この絵画作品のタイトルのイメージ換起力を借用したということだろう。それはそれで構わない。

 クトゥルー+サイコキラー+ケータイネットワークという趣向は面白いが、期待したほどの恐怖は感じられなかったため、「クトゥルーものとして、標準的な面白さ」という感想になってしまうのだが、これは私の感性が擦り切れている可能性が高い。「和製クトゥルー」(← 今や死語か)を探している向きには、問題なくお薦めできる。いや実際ここのところ、「和製クトゥルー」としては「這いよれ!ニャル子さん」シリーズ(逢空万太)しか読んでいなかったので、これでなんとか、バランスが取れました。[;^.^](あ、「うちのメイドは不定形」(静川龍宗)も読んでたか。[;^J^])

 ちなみに、私の感想がずれているのではないかと自信が無くなり [;_ _][;^.^]、ネット上で軽く検索してみたところ、ラヴクラフトの「闇に囁くもの」を巧妙に引用/リンクしている、という指摘があった。なるほどね。15年前に読んだっきりなので、そりゃ、思い出せませんや。[;^J^]

 本質的ではないが、本書で非常に気になった点がある。例えば、zip ファイルを「zip. ファイル」と書いている(拡張子のあとにピリオドを付けている)のだが、世間では、こういう書き方をするのだろうか? ピリオドをつけるのならば、「.zip」だと思うのだが。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 24 2011
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