“ディードーまなこを苦しげに、開いて見上げる努力して、
しかもたちまち崩折れる。その胸ふかく突き入った、
傷は内らに湧いて鳴る。三たび彼女は褥より、
その身を立ててその肘に、力を入れて起き上がる。
三たび彼女は転倒し、褥に落ちて定まらぬ、
まなこをもって高天に、光を求め求め得た、
かすかの光に苦悶する。”
(ヴェルギリウス『アエネーイス』より 泉井久之助訳)
ベルリオーズの生涯はシェイクスピアと共にあった。少年時代よりシェイクスピアに目覚め、青年時代にはシェイクスピア劇団の芝居に魂を奪われ、主演女優に無謀な恋をし、破れ、その体験は「幻想交響曲」と「レリオ」に結実し、のちに彼女を妻に得、不幸な結婚生活は彼女の死にいたるまで彼を苦しめつづけた。シェイクスピアの著作は、彼のいくつもの傑作の題材となり、つねに座右に置かれ、しばしば友人達を集めて輪読され、創作力を失った最晩年の唯一の生きがいとなった。シェイクスピア的な多彩さ、シェイクスピア的な巨大さ、シェイクスピア的な活力が、彼の音楽の生命であった。彼の生き方そのものが、まさにシェイクスピア的なるものの具現に他ならなかった。
シェイクスピアと共に彼の人生を支えたのが、ヴェルギリウスである。幼き日々より父に「アエネーイス」を手ほどきされた、彼の魂に植え付けられた、この偉大な詩人の壮麗なビジョンは、最晩年の大作「トロイアの人々」となって結実し、彼の生涯を円環状に閉じたのである。(「トロイアの人々」が彼の最後の作品だという訳ではないが。)ベルリオーズ自身が脚本を書いたこの作品には、ヴェルギリウス的なモニュメンタルな壮麗さと、シェイクスピア的な人間悲劇と各シーンの多彩なコントラストが、響き合っている。
この巨大な歌劇の作曲のきっかけを彼に与えたのは、1856年当時ワイマールでリストと共に生活していた、ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人である。ベルリオーズは彼女に、ヴェルギリウスに対する憧れと、「アエネーイス」の第2巻と第4巻を主題として、シェイクスピア風の扱いでグランド・オペラを作る、というアイデアを話し、彼女はそれを是非とも実現するよう、彼を強く励ましたのである。病身のベルリオーズは奮起し、僅か2ヶ月で台本を完成させると、1858年までに一気に全曲を書き上げている。
しかしこの歌劇は、その後悲惨な運命を辿ることになる。ベルリオーズの存命中には、ついに全曲が上演されることはなかった。全5幕が2部に分けられ(前半2幕を「トロイア陥落」、後半3幕を「カルタゴのトロイア人」とする)、その第2部が、5年後の1863年にようやくパリのリリック劇場で上演されたのみである。 全曲の上演は、 ベルリオーズの死後21年たった1890年に、カールスルーエで行なわれた。但しドイツ語版である。完全な全曲版が演奏されたのは1969年(コリン・デイヴィス指揮)で、なんと作曲者の死後1世紀たっている。
1863年の第2部の上演は、成功とも失敗とも言いがたい。この壮大な史劇が、軽佻浮薄な趣味に傾斜していたパリの聴衆の嗜好には会うはずもなく、客足は次第に遠退いていった。また作品はズタズタにカットされてしまった。しかし新聞の批評は多少の例外を除けば大変好意的で、ベルリオーズの「新しいオペラ」を大いに称賛した。 また、 とにもかくにも22回も上演された。ベルリオーズにとって、芸術的には満足できない上演ではあったが、収入はかなりの額にのぼり、彼はようやく、30年間も生活を支えるために続けてきた、意に染まぬ批評家の仕事をやめる事ができたのである。「こうして『トロイアの人々』は、少なくとも一人の批評欄執筆家を救ったのである。」(回想録より)
この作品の内容について詳述するには、紙幅がとうてい足りない。基本的な粗筋を述べるにとどめざるを得ない。前半は、有名なトロイアの木馬の計略によってギリシア人の勝利に終ったトロイア戦争を、後半は、国を追われたトロイア人たちが、約束の地、イタリアにローマ帝国を築くためにさすらう過程で、アフリカのカルタゴで引き起こした女王ディードーの悲恋物語を描く。
この作品は、純粋にオペラとしてみた場合、必ずしも高く評価できない面がある。一言で言うと「ベルリオーズは、オペラの呼吸が分かっていない」のである。見せ場とダレ場、重い曲と軽い曲を巧妙に配置し、聴衆の緊張と弛緩をコントロールして長丁場を堪能させるのが、オペラ作家の腕の見せ所なのだが、この歌劇を作曲するに当たって、ベルリオーズはそういうことにまるで無頓着だった様である。つまり聴衆に与える負担が大きい。
歌手に与える負担も大きい。もっとも、この点はベルリオーズも認識していた。1863年の上演で、第5幕のアエネーアースとディードーの重要な二重唱が早々にカットされたのは、ディードー役のソプラノがそこでエネルギーを使いきってしまい、続く第2景で延々と歌いつづけることが出来なかったからである。この歌劇がこんにちでも、なかなか舞台に乗せられない大きな理由のひとつである。
それよりも本質的な問題として、ベルリオーズの発想が舞台の枠に収まりきれていないのである。(“音楽は、劇場の壁のなかでは広げきれないほど大きな翼を持っている”というベルリオーズの言葉は、第6講のエピグラフとして紹介した。)象徴的なのが全曲の幕切れのディードーの幻視で、これは舞台では表現のしようが無い。強いてやるならば背景に映写するか。貧相なことだ! 映画ならば表現可能だが.. (最後に紹介するメトのLDでは、苦し紛れに?ローマ帝国建国神話の狼の像を釣り下げている。あまり感心しないプランだが、より妥当な代案を思い付かない以上、この演出を批判する気にはなれない。)このエンディングは、台本を読めば、確かに感動的である。それにつけられた音楽も、文句無しに素晴らしい。しかし演出/舞台化が難しい。これでは歌劇場に嫌われても仕方が無い。
ほとんどシュールな場面転換を自在に行なって素晴らしい効果を上げている「ロメオとジュリエット」や「ファウストの劫罰」との違いが、ここにある。演奏会形式の作品において、ベルリオーズは幻想の翼を思うがままに広げ、遥かな高みにまで飛翔する事ができたのだが、生身の人間が限られた空間で歌い演ずる現実の舞台は、彼にとっては足枷となってしまった。
音楽的な特徴について、考察してみよう。データ欄を見るとかなりの大編成であるし、「トロイア陥落」では大音響の一大スペクタクルが期待?されるところであるが、実態は全く異なる。大編成に見えるのは舞台裏のバンダの編成が大きいからであり、これは木馬入城の行進と、「王の狩りと嵐」での森の奥から聞こえてくる狩猟ホルン以外には、使われていない。多数のパーカッションも同様である。
古典的な抑制が、この作品の書法全体を支配している。それは、本講座で再々強調してきた、ベルリオーズの簡潔な管弦楽法の到達点とも言えるものである。しかし決して「新古典主義」的なものではない。ベルリオーズのロマンティシズムの夢は、初期の奔放な表現よりもむしろここに聴かれる「羽目を外さない」表現に至って、最後の輝きを見せるのである。
カサンドラがトロイアの陥落を幻視するシーンの不吉な響き、トロイアの女達が集団自決するシーンの、誇り高く死を選ぼうという熱狂的な合唱、イオパスの歌と水夫ヒュラスの歌の限り無い憧れと叙情、愛の二重唱の法悦、これら素晴らしいページの数々は、燃え上がるロマンの炎に彩られている。
そして英雄たちの苦悩。カサンドラー、アエネーアース、ディードーは、神々に弄ばれる人間の苦しみを、素晴らしいアリアに託して歌い上げる。
「王の狩りと嵐」! これはベルリオーズの最後の奇跡だ! ここでは、自然界(アフリカの森の嵐)、人間界(狩人たち)、神界(サテュルスとニンフたち)が渾然一体となり、生命力が溢れかえり湧きかえり、爆発している! 北アフリカの森の奥深さを見事に絵画的に描き出す導入部に続いて狩猟の音楽になるのだが、これはたちまち激しい嵐の音楽に推移する。凄いのはここからで、嵐の音楽に呼び交わす狩猟ホルンの音が重なるのだ。即ち、嵐と狩猟が同時進行している。さらにそこにニンフたちの合唱が被さり、洞窟の中では、ディードーとアエネーアースが抱擁している。かくしてアフリカの森の中に、宇宙が現出する! (このピースには、どこかダリの「まぐろ漁」を想わせるところがある。)
むろん、4時間以上の長丁場ともなると、「弱い」部分が入り込んでしまうのもやむを得ない。具体的には第3幕である。ここはもう少しなんとかして欲しかった。しかしその後の2幕は実に素晴らしい。幕切れに向かって、尻上りに素晴らしい音楽が続く第5幕は、まさに圧巻である!
ベルリオーズは、この作品で、事実上全ての創作力を使いきった。ディードーが死の間際に見たローマ帝国の幻は、ベルリオーズが遂に果たし得なかった夢、音楽による壮麗な殿堂に他ならない。彼の栄光と挫折の生涯の最期の記念碑が、少年の日に彼の夢をかきたてた題材によるものであった、という、この運命の不思議さ。彼もまた彼の神々、ヴェルギリウス、シェイクスピア、バイロン、ゲーテらに弄ばれた英雄だったのである..
作曲年代1858年初 演1863年11月4日:パリ(第2部「カルタゴのトロイア人」のみ)編 成
1890年12月6,7日:カールスルーエ(ドイツ語訳詞による)ピッコロ1、フルート2、古式フルート3、オーボエ2(1人はコーラングレ持ち替え)、クラリネット2(1人はバスクラリネット持ち替え)、バスーン4、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、オフィクレド、ティンパニ1対(奏者3人)、大太鼓、シンバル、トライアングル、小太鼓、テナードラム、古式小シンバル2、タムタム、弦5部、ハープ4。構 成
舞台裏:
小サクソルン、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、オフィクレド、ソプラノサクソルン2、アルトサクソルン2、テノールサクソルン4、コントラバスサクソルン2、オーボエ3、ハープ6〜8、ティンパニ2対、古代エジプトの鈴、タムタム、雷鳴装置。全5幕。詳細は略。本文参照のこと。所要時間約240分
目下廃盤中であるが、やはり第一指を屈せざるを得ない。なんとかして入手して欲しい。デュトワ/モントリオール交響楽団/モントリオール交響合唱団/他
歴史的名盤である。この大作を初めて完全な形で上演したスタッフが、ほぼ全員参加している(らしい)。デュトワの新録音に比較すると音は古いが、演奏の質ではひけを取らない。60年代末のデイヴィスの一連のベルリオーズの録音に共通して聴くことができる、野性的な音色が、目覚ましい効果をあげている。ジャケットがまた、素晴らしい。第5幕の亡霊の場(舞台の両端と奥から、4人の幽霊が順に現われ、囁く)では、すぐ耳元で囁き声が聞こえる、という、レコードならではの、あまり心臓に良くない [;^J^] 処理がされており、効果的である。これは舞台(を記録したLD)では不可能な演出である。
カットされ失われていた「シノンの場」を復元した、完全全曲盤。その意味ではまことに意義深いのだが、演奏内容では、デイヴィス盤に及ばない。特に歌手陣の力量の差は、いかんともしがたい。両盤の比較を「ふたつの『トロイ人』」というエッセイにまとめたので、一読していただけると幸いである。レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団と合唱団/他 (LD)
演奏内容は、上記の両CDに一歩ゆずる。また、ファブリッチオ・メラーノによる演出は幻想に乏しく、あまり面白くない。にも関わらず、推薦盤とする。やはりこういう大作オペラ(しかも上述の通り、オペラティックな魅力に富んでいるとは言いがたい)に初めて接するには、字幕付きの映像の方が遥かに敷居が低いと言うことと、カサンドラーを歌うジェシー・ノーマンが圧倒的に素晴らしいことが理由である。
演出は、オラトリオ様式とでも言うべきもので、合唱が扇形に広がって歌うのが基本である。動きも比較的少なく、第2幕、第3幕の幕切れでは、スタティックな「型」を見せる。見ていて面白いものではないが、これは全面的に演出家の責任とは言いがたい。台本自体に、動きが少ないからである。視覚的な見せ場の最たる箇所である「王の狩りと嵐」では、舞台上の演出を諦めて、完全にオーケストラによる間奏曲にしてしまっているのは、それなりの見識であろう。(中途半端な演出をされてはたまったものではない。)ここでは、レヴァインが大汗をかきながら奮闘しているのを鑑賞できる。(見たくない、という気もする。[;^J^])もう一つの見せ場である「木馬入城」は、見事に表現されている。これにはちょっと驚いた。しかし第2幕と第5幕の亡霊の場、第4幕と第5幕の幕切れは、もう少しなんとかして欲しかった..と、注文は色々あるのだが、現時点では唯一の映像として、十分に水準をクリアしている。推薦する。
Last Updated: Dec 28 1995
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