*2010年07月05日:「歪み真珠」
*2010年07月06日:定型、あるいは係り受け
*2010年07月07日:「NOVA 2」
*2010年07月08日:Jリーグの話で恐縮ですが..[;_ _]
*2010年07月09日:タコの正体
*2010年07月10日:「完本 八犬伝の世界」
*2010年07月11日:展覧会をハシゴする
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*2010年07月05日:「歪み真珠」


 「歪み真珠」(山尾悠子、国書刊行会)を、一読。最新短編集(ショートショート集)である。

 私にはピンとこない作品もあるのだが、それは仕方がないだろう。「ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠」「ドロテアの首と銀の皿」「アンヌンツィアツィオーネ」「紫禁城の後宮で、ひとりの女が」が、特に感銘深かった。「美神の通過」「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」「マスクとベルガマスク」「聖アントワーヌの憂鬱」「向日性について」「影盗みの話」「火の発見」なども、悪くない。

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*2010年07月06日:定型、あるいは係り受け


 先日、ネット上のある場所で、ある有名漫画家(現在は事実上「漫画評論家」である [;^J^])が、ある番組におけるある芸人(の言動)を、「クズ」呼ばわりした。このこと自体が適切であるかどうかは、私は当該番組を観ていなかったのでわからないのだが、この件に関して私の目にふれた情報の範囲内で判断すれば、まぁ、かの芸人の言動は、クズと呼ばれても仕方がないようなものだったようである。

 しかし、このことの是非は、今夜は問題にしない(どうでもよい)。

 今夜、話題にしたいのは、このあとの成り行きについてである。もちろん、2チャンネル(等)で盛り上がった(荒れた)らしいのである。私は(面倒なので)2チャンネルは原則として読まないのだが、この件の関連リンクをクリックしているうちに、意図せず2チャンネルのスレッド(板というんですか?)に迷い込んでしまった。で、やれやれ..と、閉じる間際に目にはいったのが、

「クズというやつがクズである罠」

 (..記憶で書いているので、カタカナ/平仮名/漢字の使い分けは、微妙に違うかも知れないが)まったくお約束どおりとしか言い様がない、定型詩である。[;^J^]

 この発言主は、果たして人間であろうか。知的内容が無いことと、技術的に容易であることから、ロボットによる自動書き込みであると考える方が自然である。なにしろ、ツリーなりスレッドなりを定時スキャンし続けて、「クズ」あるいは「屑」という文字列があればそれに反応して、この文字列を出力すればいいのだから..そうだな、文系の大学の教養課程の1年生のコンピュータ関連の講義の2学期の課題(理系の大学なら1学期の課題)として、手頃だろう。

 とはいえ現実には、いかに容易であっても、そのようなロボットを設置する意味がないことから、ロボットを模した人間の書き込みなのだろう。なぜわざわざそんなことをするのかは、私などの想像力の、到底及ぶところではないが。

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*2010年07月07日:「NOVA 2」


 「NOVA 2」(大森望編、河出文庫)- オリジナル・アンソロジーの第2弾。特選級が、「バベルの牢獄」(法月綸太郎)− 日本語の縦書きの書物型仮想宇宙。紙の両側にそれぞれ自意識が存在するという状況を、自己の二重化として(強引に)理屈づけ、最後にそれを利用して、この空間から脱出するという奇想。「クリュセの魚」(東浩紀)− テラフォーミングされている火星を舞台とする、極めてオーソドックスな作例。「五色の舟」(津原泰水)− 戦時下のフリークス一座(一家)が、未来を語り時間線を並行宇宙へと乗り換えさせてくれる「くだん」と出会う。

 佳作級が、「かくも無数の悲鳴」(神林長平)− 多世界解釈SFに対する異議申し立てか。「夕暮にゆうくりなき声満ちて風」(倉田タカシ)− この手のタイポグラフィネタは、一度しか使えないと思うが。「東京の日記」(恩田陸)− 多少の異形が徘徊する、戒厳令下の東京の日常を綴る日記。こういう作風には、日記形式が適している。「衝突」(曽根圭介)− オーソドックスな破滅テーマに、多少の捻りを加えている。「マトリカレント」(新城カズマ)− スケール雄大な海洋SF。

 ちょっと気になるのが、「聖痕」(宮部みゆき)− 編者の評価も極めて高く、おそらく多くの読者に絶賛されると思うのだが、私は少々引っかかった。ネット社会の暗黒の中で自らの虚像が「神」に祭り上げられてしまい、信者たちの暴走が始まりつつある、という、ここまではSFとは言えない、まったく現実的な、普通小説だといえる。敢えてこの(普通小説としての)見事な結構を崩してまで、SF的な結末をつける必要があったのか、疑問である。

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*2010年07月08日:Jリーグの話で恐縮ですが..[;_ _]


 ..とある地元チームの名前が、どうしても思い出せませんでな..[;_ _]

 「パジェロ磐田」..違うような気がする..パジェロは、自動車の名前のような気がする..

 「パブロ磐田」..それは、ピカソかカザルスだろう..

 「パラオ磐田」..ダメだ、国名だ..

 「パルディオ磐田」..昔使っていた、PHSの端末だ。あれは、名機だった..

 「フィガロ磐田」..モーツァルトだ。あるいは、ロッシーニだ..

 「ビガロ磐田」..もりやすバンバンビガロだ..

 「ブイドロ磐田」..「展覧会の絵」だ..

 「ビードロ磐田」..歌麿だ..

 ..ここまで壊れたところでさすがに諦めて、「サッカー 磐田」で検索して、あっさり「ジュビロ磐田」という正解をゲット。便利な時代になったものである..[;_ _][;^.^]

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*2010年07月09日:タコの正体


 8:25に自宅を発ち、9:20のこだまで東上。小田原から小田急に乗り換え、海老名の某社へ出張である。業務内容は、もちろん秘密だ。

 ポツポツ怪しい空模様だったのだが、夕方、ミーティングが終わる頃には、大雨になってしまった。タクシーで本厚木へ向かい、駅ビル構内の店で20時半頃まで懇親会。散会してから、小田急から相鉄へと乗り継いで、21:30に鶴ヶ峰の実家着。ひらたく言えば、交通費会社もちで帰省したわけである。[;^J^]

 私はワールドカップを(テレビでも新聞でも)観ていないのだが、別に目や耳を塞いでいるわけではないので、それなりに情報や空気は入ってくる。しばらく前から気になっていたのは、「タコ」である。マイミク諸氏の(ワールドカップに関する)Mixi日記や、私がフォローしているツイッターの(ワールドカップに関する)ツイートに、「タコ」への言及が混入し始めたのである。(ワールドカップが始まったばかりの頃には、「タコ」の話題はなかったと思う。)

 よくあることであるが、非常に気になることであれば、すぐにネットを一撃して、たちまち解が得られるのであるが、そうでもない(少し気になる程度の)ことであれば、わざわざ検索もしないので、いつまでたっても正体不明のままなのである。「いったい、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906 - 1975、ソ連時代の作曲家、交響曲や弦楽四重奏曲が有名)がワールドカップになんの関係があるのか、ロシアチームの応援歌に引用されているのか、かりにそうだとしても、予選落ちしたのではなかったか?」、と、本気で疑問に思っていたのである。[;_ _][;_ _][;_ _][;^.^](私のマイミクや、ツイッターのフォロー相手には、クラシック畑の人が多く、「ショスタコーヴィチ」を日常的に「タコ」呼ばわりしている人が少なくないことがまた、トラップとなっていたのではあった。[;^.^][;^.^][;^.^])

 ..で、実家で母と雑談しているうちに、突然、真相がわかったという次第である [;^J^][;^J^][;^J^] ..なるほど、なるほど、なるほど..野暮は言うまい。[;^J^](おとなの態度、というやつである。)それにしても、タコと超能力(予知能力)の組み合わせからは、クトゥルーという解しかありえない。[;^J^](ショスタコーヴィチとクトゥルーと、どちらがメジャーか、微妙なところではある。[;^.^])世界が邪神に平伏(ひれふ)す時代が、ついに到来したということか..

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*2010年07月10日:「完本 八犬伝の世界」


 以下の iPhone アプリを、何気にインストールしてみた。

* TouchRetouch(115円)
紹介記事)これは、使える! いくつか試してみたが、一番綺麗に消えるのは、電線の類。複雑な形状のものを消すと、背景がギザギザになってしまったりするなど、もちろん、万能ではないし、あまり加工しすぎると記録性が失われてしまうのだが [;^J^]、ちょっとした見苦しいノイズを消すときなどに、極めて便利に使えそうだ。お薦め。

 浜松から持参した、以下の本を一気読みした。

 「完本 八犬伝の世界」(高田衛、2005、ちくま学芸文庫)- 「八犬伝」を通読したのはかなり昔のことであるが、なにしろ大長編であるし、特に後半のストーリーがうろ覚えなので、思い出すキーとして使えるかも知れないな..と、「ダイジェスト版」のつもりで購入して(積んで)あったのだが、読み始めて仰天。そういうもの(単なるあらすじ)では、全くなかった [;^J^]。極めてスリリングな研究書である。要約・論評するのも面倒なので、ポストイットしたところを、抜書きしておこう。

* 「稗史野乗」の世界とは、虚構が恣意的空想であってはならず、必ず何らかの根拠を持たねばならぬという暗黙のルールがあったのである。だからこそ、稗史家は唐土小説や和漢の故事伝説を熱心に勉強した。(32頁)
* だから玉梓の場合、馬琴は稗史の物語空間の中で「悪霊」の魔的存在を公認するために、「言の咎」という契機を導入して、古い悪霊信仰の復権をはかったということになる。その意味で『八犬伝』の世界は「悪霊」の公認、因果の理のねじれた発動から出発する物語だといっていい。(45頁)
* 一般に神話的想像力と言うとき、その概念の中枢にあるのは、聖なるものと穢なるものの同義性である。(53頁)
* 伏姫らは、イザナギ・イザナミの生みなせる神子出生譚のうちの、ヒルコ・スサノオ神話の合成、活用と見ていい。(54頁)
* この八玉の血縁的共同性の有無が、『水滸伝』と『八犬伝』の世界との、おそらく決定的な相違点なのである。『水滸伝』の百八豪傑は、たんに地底より噴出した百八の「悪星」から成る個の群れでしかない。もちろん『水滸伝』は、それゆえに個々の豪傑の集散してゆく物語的魅力があるのだが、『八犬伝』でははじめから八士の擬血縁家族的な「宿因」が設定されているのである。逆説的に言うならば、『八犬伝』はまさに血縁家族的共同体が崩壊してゆく、特定の時代(幕末)の所産であったのである。(111頁)
* 江戸時代は「八」は「少陰」と言って、吉数ではなかった。(116頁)
* 伏姫物語はさまざまのレベルの、さまざまの神話的想像力による要因からなる構造体であったことを先に見たが、それらは究極的には、八字文殊騎乗像の曼陀羅的な世界に収斂されるのである。そして隠されたこの原基的イメージこそ、伏姫物語の複雑な諸要因を、あげて聖別してゆく、馬琴の想像力の源泉であった。(中略)重要なのは、先述のように文殊の八字真言が八大童子の「種子」であることであった。文殊の持つ八つの「大威徳真言」が、八大童子出現の「因」であり、また生命素なのである。この文殊と八大童子のアナロジーが、伏姫と八犬士なのである。(173頁)
* 「曼陀羅図」一般の日本的な性格の根底には、日本の民衆の神々への待望を「聖衆来迎図」とともに、このような抽象(図像)によって表現してゆく歴史があったということがあろう。文学的作品が深層に曼陀羅的世界を幻想することは、そこはひそかに神々の降臨を求める心性が隠されているということにほかならない。(中略)八犬士はそのような心性にこたえたもの、すなわち神々の子として地上に降臨したものたちであった。(181頁)
* 現在では、義人が無実の罪で死刑執行のさい、その寸前に正義の士が出現して、義人の救出に成功するなどという物語は、もっとも安直な勧善懲悪の図式のひとつであって、ありふれた趣向となっている。しかし、『八犬伝』が書かれた時代には、この趣向はきわどかった。刑場襲撃はなんといっても武門の体制権力に対する公然たる謀反だからである。だから中国小説『水滸伝』等からの趣向の導入や援用を旨とするという、稗史家の口実はかけがえのないものであったし、三犬士の荘介救出の動機も、<正義貫徹>など観念的なものではなく、何をおいても仲間(義兄弟)を助けなくては−−という、切実な家族愛的な心情にもとづいている。(287頁)
* それにしても、地名の列挙にすぎない、これらの文章の魅力的な美しさは何か。これはほとんど「国讃め」の文章と言っていいのではないだろうか。(中略)坂東諸国はいまだかつて、物語・小説において地名や土地伝承がうたいあげられたことはなかった。(329頁)
* 山姥の原像が妖怪であったように、それに通ずる『八犬伝』の伏姫神女の暴力(猛威)は、先述した舵九郎の股裂きの処刑においてすでに示されていた。では親兵衛においてそれはどうであったかと言えば、「仁」の玉の徳がそれを消しさって、彼の強烈なる戦闘力は、一種の呪術的力、魔法的力による和合性に変じてしまっている。濱田啓介が指摘したように、八犬士のなかで親兵衛のみが人をひとりも殺さないのだ。たとえ相手を傷つけ殺しても、玉の呪力でそれを蘇生させたり、癒したりするのだ。馬琴は「仁」の玉を与えることによって、子神の凶暴性を、和合的特性「仁」に変換してしまった。どうしてそんなことができたのか。思うに馬琴は、八犬士のひとり、女装犬士犬坂毛野を書くことによって、本来子神としての親兵衛の持つ凶暴性を代行させたのである。(450頁)
* 川村二郎は、犬江親兵衛を評して「この幻怪な冒険物語も、親兵衛が主人公なら何の不思議でも奇蹟でもないと思われてしまうだけ、緊迫感を減じて損をしている。親兵衛物語を覆っているのは、一言で言えば、聖者伝説の退屈さである」と言っている。(中略)車童子として発想された(と仮定するなら)大八は、『八犬伝』大団円の役割をはたさなければならなかったからだ。(504頁)
* 稗史小説としての『八犬伝』は、こうしてひとつの世界像(世界解釈と言ってもよい)を創ったのだが、それはこの稗史小説がひとつの宇宙空間論(コスモロジー)に支えられているからでもあって、それを一口で言えば、多神教(の文学)ということになると思う。(531頁)
* では『八犬伝』世界にとって、方法としてのシンクレティズムの中軸となる何らかの信仰的立脚点はあったのか、なかったのか。私はひそかに北斗七星信仰をこれに擬している。(534頁)
* 「輔星」や「北極星」を含めることも可能なので、「北斗七星」は「北斗八星」でもある。(543頁)
* ユートピア里見王国を照らす光は、観世音であっても、大日如来ではない。なぜ、『八犬伝』にかかわる神話は、星辰に限られるのか? 私はそこに政治論的文脈をも伝奇世界に吸収する馬琴の幻想家としての存在があったと思えてならない。それは伝奇幻想のリアリティがもともと夜の領域にあるということであろう。しかし夜の領域の文学は、「闇」を書くことで「光」を求める文学ではないだろうか。社会がいろいろな意味で行き詰まり、人々が心ひそかに、行き詰まった社会そのものの打開、少なくともその予感を求める時代に、伝奇ロマンは生み出される。『八犬伝』こそ、そのような時代が作者に渾身の力をしぼり出させ、作りあげた希有な伝奇大河小説であったのである。伝奇ロマンとは、過去形の物語によって未来を開く幻想の世界である。『八犬伝』は、民衆が新しい宇宙論の出現を予感し、また新しい神による救済を予感していた中で、血わき肉おどる「戦う若者」という新しい英雄群像を創り出したのであった。(548頁)
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*2010年07月11日:展覧会をハシゴする


 実家前のバス停から、8:40のバスで発つ。せっかく(会社の金で [;^J^])帰省/上京したのだから、展覧会のハシゴでもしなくてはね。(脈絡不明 [;^.^])

 まずは、横浜駅からみなとみらい線で馬車道へ。9:35に神奈川県立歴史博物館。「奇妙奇天烈!? 明治の版画あれこれ」である。内容自体は興味深い(面白い)ものであるが、なんといっても、量的にものたりない。無料なのだから、文句をつけるつもりはありませんが。[;^J^]

 JRで鎌倉へ。徒歩で神奈川県立近代美術館の「鎌倉別館」へ。(神奈川県立近代美術館は、鎌倉に「鎌倉館」と「鎌倉別館」があるので、ややこしい。[;^J^])「20世紀西洋版画の展開」である。量的にはまずまず(75点)なのだが、たとえばマッソンの10点は、全て同一のシリーズ、マッタの10点も、全て同一のシリーズ、など、バリエーションがいまいち [;^J^]。とはいえ、前記マッタ作品など、好みの作品が多く、満足はできた。

 昼食時になったので、鎌倉別館の隣のレストラン(ガーデンハウス)で、特に期待もせずに「若鶏のカレー」(1000円)を注文してみたら、これが当たり [^.^]。非常に美味かった。

 鎌倉駅までの帰途、特に寄るつもりはなかったのだが、ついでなので神奈川県立近代美術館の「鎌倉館」で、「鬼と遊ぶ 渡辺豊重展」。時間つぶしに入ったようなものだが、今日まわった中では、これが一番、面白かった。リンク先の図版で伝わるかどうかはわからないが、実に伸びやかなユーモアと生命力に満ち溢れた傑作群である。ミロやクレーが好きな人なら、必ず気に入ると思う。お薦めである。

 大船に戻り、小田原からこだまに乗って、16時に浜松の自宅に帰宅。参院選投票。(どこに投票したかは、ここには書かないことにするが、まぁ、票を散らしても仕方がないしな..といったところ。)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 15 2010
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