2003年07月07日:自分の体を大切に 2003年07月08日:CDのインプレ3件 2003年07月09日:自虐の流血 2003年07月10日:鬼の美醜を問う 2003年07月11日:傘と猫と電子レンジ 2003年07月12日:クズで哲学する 2003年07月13日:「幻想音楽」とは目次へ戻る 先週へ 次週へ
振替休日。(今年の最初の4ヶ月間に働きすぎてしまったので、休んでも休んでも、振休残が減りません。[;^J^])聖隷で人間ドックの(3ヶ月後の)再検査。呼び出しくらってましたのでね。[;^J^]
結果、無罪放免とは参らず。「一勝一敗」といったところか。(勝ち負けの問題なのかよ。[;^J^])(まだ)心配するような数字じゃないんですけどね。(しかし..再検査の呼び出しをくらうのは珍しいことではないが、再検査の時点で安全圏の数字に落とし込めていなかったのは、初めてだったような..)
目次へ戻る先日、秋葉(石丸)で購入したCD6枚のうち、3枚のインプレを書いておこう。
「トッカータとフーガ〜バッハ名演集」(RCA, BVCC-38248, ストコフスキー指揮, フィラデルフィア管弦楽団)
「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」「パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582」「シャコンヌ」など8曲。全てストコフスキーによるオーケストラ編曲。
..ほれぼれと溜息をついてしまうほどの素晴らしさ! ストコフスキーによるバッハの編曲物を、これまでまとめて聴いたことが無かったので購入してみたのだが..まるで、オーケストラ版がオリジナルであるがごとくである。
クラシックファンでないと、ストコフスキーの名に親しんでいないとは思うが..ディズニーの「ファンタジア」の指揮者だといえば、おわかりであろうか。シリアス系のクラシックファン(なんじそりゃ [;^J^])からは軽んじられることもある人だが、確かに、クラシック音楽の偉大なセールスマンであったのだ。こんにちのクラシック界の長期不況の原因のひとつは、ストコフスキーの後継者がいない(いなくなってしまった)ことなのである。
但し、このインプレでストコフスキーの編曲物に興味を持った人に、このCDを薦めることはしない。録音が(1930年前後と)非常に古いからである。ストコフスキーの編曲物のCDは、もっと録音が新しいものが、いくつもあるはずである。
「ムソルグスキー管弦楽曲集(というタイトルが付いているわけではないが)」(NAXOS, 8.555924, Theodore Kuchar 指揮, ウクライナ国立交響楽団)
「組曲“展覧会の絵”」など5曲。魅力は、「交響詩“禿山の一夜”」の、リムスキー=コルサコフ編曲版とオリジナル版の両方が収録されていることである。オリジナル版を聴くのは、私はこれが初めてであった。(こんにち、録音・演奏されるのは、ほぼ100%、リムスキー=コルサコフ版である。上記「ファンタジア」に収録されているのも、そう。)
聴き比べた感想は..「リムスキー=コルサコフは、確かにいい仕事をした」、という..[;^J^]
なるほど。確かにこれでは、僚友・リムスキー=コルサコフが編曲したくなったのも、無理は無いわ。見ちゃおれんかったのだろう [;^J^]。この原曲は、素材はいいのに..ダイヤの(泥だらけの)原石。良く言えば、「粗野」で「野性的」ということになろうが..はっきり言って、下手クソ。オーケストレーションの技術云々ではなく、構成力が無いのである。そのため、僅か10分少々の演奏時間の「間」が保たず、後半になると「打つ手」が無くなって、聴き手に散漫な印象を与えてしまうのである。
これとリムスキー=コルサコフ版を聴き比べると、後者の素晴らしさに、改めて息を呑む。実際、「同じ素材を使って組み変え直した、別の音楽」、と言えるほど、大胆な編曲がなされているのであるが [;^J^]..この「劇的」で「簡潔」な構成の素晴らしさ! とりわけ、あまりにも有名なエピローグ(夜明け)が、リムスキー=コルサコフの発明であることに驚いた。(オリジナル版は、悪魔の饗宴の音楽で終わるのである。)
「AVE MARIA」(Jroom, COCQ-83633, 本田美奈子)
クロスオーバー物..という用語でいいのかな? (かつての)ポップス歌手・本田美奈子が、「クラシック唱法を身につけて」挑戦した、クラシック“歌曲”集..といっても、映画音楽や民謡も含まれているし、「タイスの瞑想曲」「シシリエンヌ」「ジュピター(“惑星”より)」など、本来、歌曲ではない管弦楽曲等に(日本語の)歌詞をつけて歌っているものが中心である。
実のところ、本田美奈子の歌をまともに聴くのは、今回が初めてであった。私は、「本田美奈子」と言えば、fjがまだjunetだった(1990年以前の)頃、NTTのN氏が彼女のフリークで、(時効だとは思うが(気を配って)名を伏せておこう [;^J^]、)シグネチャに「美奈子は(まだ)可愛い!」、などと書いていたことを憶えているばかりなのであるが..当時の「アイドル歌手」が(まだ)生き残っていて、クラシック系のCDを出す、ということ自体に興じて購入したというのが、正直なところ。
..良いではないか。「クラシック唱法を身につけて」云々については、留保が必要。本格的な(本物の)「クラシック唱法」ではなく、「“クラシック唱法風味”のポップス歌唱」というのが、正しい。従って、クラシックの声楽畑のファンからは批判されるかも知れないが..なんの問題も無いだろう。そもそも、ちゃんとした「クラシック唱法」の歌を聴きたいのであれば、クラシックの歌手が吹き込んだCDを買えば良いのである。このCDを買って文句をつける方が、間違っている。
時に甲高く、耳障りになる個所もあるにせよ、概して美しい声を愉しめる。それは、クラシック的ともポップス的とも言える、ある種「中性的」「アマルガム的」な、不思議な魅力の歌であり声である。基本的に日本語で歌っているのも、好感ポイント。これは「ポップス」なのだからね。ここ数日間の、通勤時のカーステの友である。お薦め。
目次へ戻る月曜日に書き忘れていたことであるが、要は、「採血」されたわけである。そして、「採血」される際の私の「作法」(たしなみ)として..「直視しない」のである。[;^J^]
かつて、下手な看護婦のおかげで「15cc抜かれただけで貧血を起こして倒れてしまった」という事件があったにせよ、そのトラウマではない、と思う。勇気の問題でもない。ただ..自分の皮膚に(金属製の)針が刺しこまれ、そしてそれを通じて、鮮血がドクドクドクドクドクドクドクドクと管の中に噴出し、溜まっていく様子を、わざわざ見ている必要は無い、と、私は思うのである..あなたももちろん、そう思うよね? [;^J^]
目次へ戻るかれこれ20年近くも浜松に住んでいるのだが、一向に「遠州弁」に染まらない。これは、「標準語」の基礎が身に染みついているからではなく..要するに、地元の・地域のつきあいをしていないからである。(私のような「アパートの住人」は、「町内会費」すら徴収されないのだ。はなから「員数外」なのである..ま、おかげさまで気楽なのではありますが。)
地元民(あるいは、半・地元民)の会話を聞いていると、強調するときに、やたらと「ど」を冠するのであるが..もしかして、これは遠州(あるいは浜松)だけではない? ひょっとするとテレビ語? まぁともかく、「ど凄ーい!」「ど寒ーい!」「ど恐ーい!」「ど可愛いー!」..てなもんである。
同じ用法で、「鬼のように」も使われるのであるが..「鬼のように凄ーい!」「鬼のように寒ーい!」「鬼のように恐ーい!」..は、いいとして..「鬼のように可愛いー!」..てのは、どうよ [;^J^]。ま、ひとさまの美的感覚にケチつけるつもりはありませんけどね。[;^J^]
目次へ戻る通勤時、信号待ちの合間にバックミラーを見て、思わず失笑。後続車の運転手が、ゴルフクラブを握ったつもりの練習(イメージ・トレーにニング?)をしている [;^J^]。そんな「正しくない姿勢(そもそも、座ってるし)」で中途半端な練習をすると、変な癖がついちゃうぞ。せいぜい、「指揮棒」を振る練習くらいにしときましょう。(指揮者は、座って指揮することがあります。)
ゴルフと言えば..最近、誰かに教えてもらったんだけど、誰だったかな..最近の(ある種の)「傘」の「取説」には、「ゴルフのスイングの練習に使わないでください。危険です」、という注意書きがあるという。
あまりの馬鹿馬鹿しさに声も出ないが..もちろん、PL法対策である。駅のホームで、傘を(ゴルフクラブに見立てて)振り回しているバカが、他人に怪我をさせたとしても、傘メーカーとしては「言うだけ言っておいたんだからね、警告していたんだからね」、と言える、ただそのためだけの(エビデンスとしての)文言なのである..ま、他メーカー(しかも他業種)を嗤うことは出来まい。私の勤務先の取説にも、この類のアホな注意書きが満載されていることなのであろうよ。(恐くて、確認できない。[;^J^])
PL法と言えば..誰もが知っている、「濡れ猫を電子レンジでチンしたら破裂した」、という、例の奴。私は真偽のほどは知らないが、どうやらこれは「都市伝説」ではないか、という説を、数年前に読んだことがある。とある弁護士がどこぞのコラムに書いていたのだが..検索しても、どこの国にも、この事件の「判例」が見つからない、というのである..つまり、これはフィクションだったのではないか、と。
それにしてはあまりにも良くできており、PL法の「ダークサイド」のデモとして誰にとっても判りやすい逸話だったために、ここまで人口に膾炙したのではないか、と..
目次へ戻る今年の1月から4月までの「連続休日出勤月間」から、5月の入院期間を経て平常勤務に戻った6月以降、すっかり、土日に休む癖がついてしまった [;^J^]。休日に休んでいると、とても落ち着かないんですけど [;^.^]..
..とまぁ、今日はこれしかネタが無いのだが、これだけではいくらなんでもあんまりなので [;^J^]..
y先日紹介した「クズビデオ49日」の「ドラキュラ・ゾルタン」の項目から、引用しよう。
映画という物は、金をかければ良いというものではない、と、心ある映画ファンは常々ことあるごとに主張するわけであるが、この言葉の意味するところは、たった一つしかない。それは、つまり、「金をかけた映画にだって、つまらない物は沢山ある」事実を冷徹に述べているのにすぎないのであって、ここのところを勘違いして「金がなくてもアイデア次第で良い映画は出来るんだ」という風に読み変えてしまうと、製作者の立場としても観客の立場としても、とんでもない絶望感に責なまれることになる。
(中略)
金がないことが、『ドラキュラ・ゾルタン』をつまらなくした全てだとは思わないが、とにかくしみじみ金がないことを実感させられる切ない映画であったことは間違いない。
(中略)
『トゥルー・ライズ』では本物の橋をブッ壊し、『ジュラシック・パーク』では検討用のダイナメーション映画を別撮りした(無論、そのフィルムは公開されていない)。金を使える映画ってのはつくづく素晴らしい。これだけのことがさせてもらえて、もしもその作品がつまらん駄作だったとしたら、その製作者は国へ帰って別の仕事を探した方が良い。本人のためにも、観客のためにも。
その点、金のない映画は切ない。たいていつまらん映画だし、観ても貰えないから本当につまらんことにも気付かれない。人跡未到の森の中で、勝手に生えて勝手に腐る毒キノコのような存在である。だから私は可能な限り誰も観ない映画を観て、その詳細に至るまで心をこめて徹底的に罵倒するのだ。それ以外に、愚作の存在の痕跡を残す術はないと確信しているから。
..いい言葉ではないか。その意気や良し、尊し。
確か、ユダヤ教においては、信仰の篤さとしての記憶というものが、まったく神秘的役割を演じており、エホヴァが記憶を維持するということは、エホヴァのただひとつの特性ではなくて、最も深い特性でさえあるのだが..この文化圏における最も恐ろしい呪いは、「彼のことをおぼえているな!」..だったんじゃないかな。(以上、ただの雑学である。)
いかなる生き物にも生きる権利があるのと同様、いかなるクズ映画にも認識される権利はあるのだ! という叫びは、この、とある宗教における「忘却される恐怖」に通底するところがあると思う。
目次へ戻る夏オフに向けて、Fantom−Sへの音色仕込みを、多少行う。まだ曲目は決定していないのであるが..
..とまぁ、今日もこれしかネタが無いのだが、これだけではいくらなんでもあんまりなので [;^J^]..
学生時代(1980年前後)に見ていた夢..いつかそのうち、冨田勲のような、シンセの多重録音のレコード(LP)を作って、大金持ちになろう!(その印税で、シンセ購入時の借金を払おう! [;^J^])..まことに若者らしい、健全な夢である。むろん結局、夢は夢のまま、いつしか私はシンセサイザーそのものを作る側に身を置いていたのであるが..
ただ漠然と「月の光」みたいな(あるいは「惑星」みたいな)レコードを作りたい!、と、夢見ていたわけではない。「私が作りたい/私が作るべき/世界でただひとり、私にだけ作る権利がある([;^.^])」レコードのイメージは、明確に決まっていた。それを紹介しよう。
LP5枚組という大作で、15曲からなる組曲。(CDの比ではない)LPならではの大型ジャケット(ブックレット)には、15曲に対応する、15枚の絵画の大判の複製が収められている..ご存知の方は、リック・ウェイクマンの「地底探検」とか、イエスの「イエスソングズ」とかを想い出して欲しい。あんな構成である。
つまり、15枚の絵画に素材をとった、15曲なのである。その15枚として予定されていた絵画を、全部は思い出せないのだが..確か、1枚目のA面(1曲目)は、「死の島」(ベックリン)。そのあと、順序は憶えていないが、「ヘクトルとアンドロマケーの別れ」(デ・キリコ)、「バベルの塔」(大ブリューゲル)、「沈黙の眼」(エルンスト)、そして作品名すら失念しているが、ルドン、モロー、ブレイク、他が並び、第14曲目が「無限の分割」(タンギー)。最終曲が、「Galacidalacidesoxilibonucleicacid」(スペル、自信無し [;^J^])(ダリ)であった。これらを音楽化しようというのである。これらの絵画をご存知の方は、存分に呆れていただきたい [;^J^]。(ベックリンの「死の島」がラフマニノフによって音楽化されていたことは、当時から知っていたのだが、この時点では、まだ聴く機会がなかったはずである。)例えばタンギーには、硬質な(マリンバ系の)パーカッションの音詩を付曲し、ダリには、リズムもメロディーも和音もない、複数の持続音の音色変化だけからなる、30分の“音響”を作曲する予定であった。
ま、(幻想)美術好きが妄想すれば、こうなるでしょ、と言われれば、身も蓋も無いが..ちと「青年の主張」させていただきますと [;^J^]、「幻想音楽」という概念に取り組んでいたのである。
当時子どもだった私は知らなかったのだが、1970年代には、「幻想」という概念が流行していたらしい。(その犯人 [;^J^] のひとりが、澁澤龍彦だったらしいのだが。)で、知らなかったとはいえ、その時代の空気は吸い、すっかり「幻想」してしまったわけである。で、「幻想文学」と「幻想美術」。これらは、すんなりと(?)分別でき、栄養素として吸収できた。問題は、「幻想音楽」なのであった。
「幻想」ファンであり「音楽」ファンでもあった私は、意地でも、「幻想音楽」という概念を確立する必要があった。
しかし、それがなんであるのか、良く判らなかった。そもそも「幻想音楽」という概念は、成立しうるのか? 「幻想」という言葉が冠された音楽は掃いて捨てるほどあるが、(「幻想交響曲」「幻想即興曲」「幻想曲(ファンタジア)」などなど、)それらを“自動的に”「幻想音楽」呼ばわりするのは、拙すぎる。まぁ、ベルリオーズの「幻想交響曲」を「幻想音楽」と呼んで、反対する人は少なそうだが..ショパンの「幻想即興曲」となると、もう怪しい。“幻想的な気分”はしますが..“気分”で決めていいのかよ [;^J^]。人によって違うでしょ。バッハの各種「幻想曲とフーガ」の類も..てゆーか、バッハのオルガン曲は、「幻想曲」に限らず、全て「幻想音楽」と呼んで良いと思うんですが..あ、ダメですか? きちんと設計・構築されたものは、「幻想」と呼べない? そりゃ偏見でしょうに..気分の問題なら、シベリウスの後期の交響曲と交響詩は、全部「幻想音楽」だよなぁ..そんなこというならマーラーの交響曲は全部..私は反対、ショスタコの交響曲こそが..違う違うそもそもヴァーグナーの..とかとかとかとかとかとかとかとか..
つまり、理念的に考えても全然追い込めないので、実作するしかない、と考えたわけ。そしてそのよりどころとして、「誰もが認める“幻想絵画”」に“すがり”、これを“音楽化”(というより“編曲”)してみる..もちろん、「幻想絵画に付曲したものは幻想音楽也」などという単純な主張は、恥ずかしくてできないのであるが..ひとつの「足がかり」「捨て石」「作業仮説」としては有効だ、と、考えたのであった。
..そして今でも、そう思う。
..そして今の私は..当時の情熱だけは、失ってしまった。とても、15枚もの(人類の至宝と言うべき)幻想絵画を、音楽化する気力は無いが..
..とか、書いているうちに、なんだか“夢”が、甦ってきたみたい。年甲斐もなく、再起動してみましょうかね..
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