2003年06月30日:帆船の夢 2003年07月01日:鳥類の喜怒哀楽を問う 2003年07月02日:指輪の魔力 2003年07月03日:睡眠時間について 2003年07月04日:海賊盤について 2003年07月05日:久々に国会図書館/現代マンガ図書館に寄贈 2003年07月06日:リブ100、3号機/玉川高島屋でライヴ目次へ戻る 先週へ 次週へ
小学生時分に、恐らく最初に魅了されたのは、スチーブンソンの「宝島」である。私は毎日毎夜、ヒスパニオラ号に搭乗して、危険極まりないジョン・シルバーたちとともに大海原を馳せる夢想に、没入して飽きることがなかった。
次は..多分、アレクサンドル・グリーンの「真紅の帆」(少年少女世界の文学(河出書房新社)所収)だと思う。エンディングで、幸福な新婚の男女を乗せて波の彼方に去って行くシークレット号には、真紅の帆がかけられているのだが、その夢のような情景よりも私を夢中にさせたのは、小さなオーケストラ(というより、室内楽団)をも乗せていることであって、彼らの奏楽と共に海上を行く..私はまた熱心に、私ならどういう編成のオーケストラを乗せるか..多すぎても少なすぎてもダメなのだ。弦楽器は全部で4〜5人..木管はフルートとオーボエだけにしようか..金管は1人。トランペットかホルンか..ハープは必須。ピアノを乗せるのは無理だろうから、いくらかでもその穴をカバーできるように..などと、毎日楽しくプランを練っていた。
やがて中学生になった私は、西洋文明が生んだ偉大な絵画作品群に夢中になっていた。とりわけ、北方ルネッサンス絵画、フランドル美術、そしてロマン派..それらの風景画・海洋画の遠景にはまた、実にしばしば、壮麗な帆船が描かれていたのである。毎日、何時間、眺め暮らしたことだろう..
船長(あるいはオーナー)として、その(大きすぎも小さすぎもしない)帆船で果てしなき流浪の旅に彷徨う私は、もちろん(気持ちよくしつらえられた、広すぎも狭すぎもしない)個室でワイングラスを傾け、また、甲板に出ては陽光と海風を全身に浴びるのであるが..(という“夢”に身を浸らせていたのであるが..)もうひとつ、絶対に必要なものがあった。「私の帆船」の「私の個室」の隣り(あるいは階下)には、必ず、それが設置されていた。
それは、「書庫」である。
私は、万巻の書を手元に置かないことには、流浪ひとつ出来ないのであった [;^.^](..というか、「部屋一杯分の書籍を持ち運びながらあてどなき旅に出ることを可能にする」手段として、「帆船」を(無意識のうちに)選んでいたフシがある。[;^J^])
目次へ戻る今年の(ニフのFCLAの)「夏オフ」の進行の遅さは、既にして記録的である。「なし崩し的に、時間切れ・開催取りやめ」という事態を主催者が狙っているのではないか..と、本気で訝しんでいたのであるが..どうやら、動き始めた気配。やれやれ..
以前から不思議に思っていたのだが、「泣かず飛ばず」と書く人が、実に多い。誤字だよね? これ。「鳴かず飛ばず」でしょ? ..てゆーか、それ以前に、「鳥の泣き声」と平然と書く人が珍しくもないので、話にならんか..
いくら言葉が生もの・生き物だといってもなぁ..と、ブツブツ呟きながら、大辞泉で調べてみたら、おっとっと。
鳴かず飛ばず
将来の活躍に備えて行いを控え、機会を待っているさま。また、何の活躍もしないでいるさま。「―の下積み生活」→三年飛ばず鳴かず
..第一義(将来の活躍に備えて云々)は、知りませんでした [;^J^]。「何の活躍もしないでいる」という意味しか知らんかった。修行が足りーん!
目次へ戻る先日、常識はずれの価格で落札した「別冊冒険王 映画テレビマガジン 1973年12月号」が、無事に届いた。
落札価格に興味がおありの方が、多数いらっしゃるかと思うが、ここには書けない。誤った相場感覚を持たれると困るからである。今回の高額落札は、あくまで例外的な事件だったのである。
実際、出品者(プロの業者)からは、何故、これほどの価格で落札したのか(何が目当てだったのか)、という質問メールが来た。今後の参考のために、というわけである。そこで私は、「個人的な追憶に関わるものであって、普通、この価格で買う人がいるはずがありません..」、と、適当にごまかしておいたのであるが..
いきなり一般論に振るが、この不況下にあって、「金片(かねびら)をきる」という行為は、多くの場合、問題なく「善」である。「貨幣」は、そこに「ある」だけでは価値を生まない。動かされて初めて、社会を潤す。人々を幸せにする。
しかし盾に両面あるがごとく、「購買行動」にも、「悪」の側面というか「ダークサイド」がある。早い話が、「相場のつり上げ」だ。例えば横田順彌がしばしばエッセイに書いていることであるが、彼が雑誌などで紹介した古典SFや古典奇想小説、及びその周辺の古書は、すみやかに高騰して、横田順彌自身にも、おいそれとは購入できなくなってしまうのである。エッセイなどの形で公表しないでいても、自分の購買活動だけで、古本屋たちが反応してしまう。ジレンマとは、このことだ。
自分の購買活動が自分の首を絞めるだけなら、それは「自業自得」に過ぎないかもしれないが..相場が高騰すると、他人の首まで絞めてしまう..これは、倫理的に、実に悩ましい問題なのである。
話を戻すが、この雑誌(「別冊冒険王」)を超高額で落札した私は、「業界からのヒアリング」に対して、「普遍的な価値は無い」..と、「ごまかした」のであるが..しかし、時すでに遅し。10年、20年前ならいざ知らず、今日のアクティブな古書店たちは非常に勉強熱心で、インターネットやパソコン通信を駆使して、情報収集におさおさ怠りは無い。この雑誌が超高価格で落札された事実は、瞬時にして彼らの知るところとなり、すなわち、この時代のこの雑誌には、常識はずれの価格を設定することが可能である..と、認識されてしまったに違いないのである..
..あたかも、フロド・バギンズが(身を隠すために)指輪を填めた瞬間、サウロン大王がそれに(指輪の所在地に)気がついたごとく..
目次へ戻る今日が(正確には「今朝」が)更新日である。朝方、4時近くまでかかってようやく更新完了。徹夜するわけにはいかないので(さすがに仕事に差し支えるので)、目覚まし時計は一応6時にセットして、そそくさとフトンにもぐり込む。(7時起床でも間に合うのだが、木曜日の朝は、ゴミ出しとかコンビニでの雑誌チェックとか、やたらと忙しいのである。)
例によって、目覚まし時計が鳴る「直前」に目が覚める。(これは私の特技でもなんでもない。この程度の精度の体内時計を持っている人は、ざらにいるはずである。)シャワー&着替え&食事。さて、予定の時間どおりだ、出勤するか..と、時計を見たら..6時である..
..1時間早かった! ..つまり、5時前に起きてしまったのである。「目覚ましセット時刻の直前」というのは、錯覚なのであった..さすがに早すぎる。今出勤しても、会社の駐車場で1時間、玄関が開けられるのを待つはめになる..ふてくされて(着の身着のまま)1時間、寝直す。(1時間ちょっとしか眠ってなかったわけだからね。)
しかし..「睡眠時間が足りなくて(寝惚けて)寝過ごしてしまった」のであれば、実に当たり前で、ある意味、健全な肉体反応であるのだが..「睡眠時間が足りなかった(寝惚けた)結果、1時間も早起きしてしまった」というのは、どうよ [;^.^]。この肉体、本当に健全か? [;^.^]
目次へ戻る昨夜は、すさまじい嵐であった。前日の睡眠不足を解消するどころではなく、雨戸に叩きつける風雨の轟音で、何度も叩き起こされたぞ。トホホ..[/_;]
今夜は、想い出話。悪徳系である。
学生時代(1980年代初頭)。新宿(確か、東口)。
「海賊盤(レコード)」の小売店である。私は月に数回は、そこを漁りに行っていた。目当ては、もっぱら「イエス」と関連ミュージシャン。
もちろん、「非合法」という認識はあった。「今月の海賊盤評」などが掲載されている、鬼畜な [;^J^] ミニコミ誌には、「英国のどこそこの海賊盤製造工場が手入れをくらって、何千枚押収された」、とかいう記事が、しょっちゅう載っていたしさ。
これらの「海賊盤」の品質の低かったこと! 録音の音質自体の酷さはもちろん、盤質も悪いし、大体、ジャケットが無いに等しい。単なる「厚紙」というかボール紙で、それに、コピーだかガリ版刷りだか知らないが、粗末な印刷品質の紙が、「糊付け」されている。
しかし..こういう「世界」は「必要」なのだと(今でも)思う。無論、悪事であることには間違いなく、正当な著作権保有者(ミュージシャン)に正当な報酬が支払われないシステムを、単純に肯定することは、とても出来ないのであるが..しかし、それが「誤差」として「無視」できる範囲なのであれば、「黙殺」という「認可」を与えることも、あるいは必要なのではあるまいか? 世の中は、正論だけでは維持・運営できない。あまりに純粋に「正義」のみを追求した社会は、脆くなる。ある程度の「悪」を「恒常的に飼い慣らす」ことによって生まれる「陰影」こそが、豊かさの謂ではあるまいか?(..なかなか、軽々しく論ずることが難しい問題ではあるのだが..)
それにしても..かつてCDが登場したとき、「これで、海賊盤業界は壊滅する!」、と、喧伝されたものである。なぜなら、LPと違ってCDの製造は、素人衆には手も足もでない、特殊なハイテク工場の中でしか行えなかったからであるが..時は流れて..いまや、CDの製造ぐらい、誰もが(まさに“誰もが”)自分の机の上で出来る。それに対して、LPをプレスできる(そのツテがある)人が、一体、どれほどいるのであろうか?
目次へ戻る7:14のひかりで、ひっさびさに国会図書館。手塚治虫と吾妻ひでおの調査である。手塚治虫については、Nさんをはじめとする情報提供者の方々からいただいた情報(多くは、リストに反映済み)の裏付け調査、及び、「図説 鉄腕アトム」(河出書房新社、ふくろうの本)に掲載されていた、非常に多数のリスト未収録文献の調査。本書に掲載されている資料の「倉田リスト未収録率」は尋常ではなく、著者の森晴路氏は、意図的に私のリストに掲載されていないものをセレクトしてきたのではないか? ..と、本気で疑ってしまったほどである [;^J^]。ともあれ、これでリストが一気に(さらに)充実するのだから、ありがたい話である。[_ _]
吾妻ひでおについては、「HANAKO」誌(マガジンハウス刊)の調査。1990年頃に2作品掲載されているのは把握しているのだが、さらに埋もれていないか、と。結果、1993年3月までは、新規の発見は無し。これ以降は(著者の動向が、かなり把握できているので)もう調べなくてもいいかもしれないが..それにしても、この雑誌、あまりと言えばあまりなほどの「バブル」系であり、今となっては、どの特集記事もギャグにしか見えない。[;^J^]
引き続き、現代マンガ図書館へ。調査もしたが、主たる目的は「寄贈」である。プレイコミック誌をはじめとして、計9冊。現代マンガ図書館や国会図書館や日比谷図書館やその他の図書館のどこにも収蔵されていない古雑誌を、あちこちで(時には大枚はたいて、ときには二束三文で)買い集めてきたわけだが、私は「データコレクター」であって、「現物コレクター」ではない。調査がすんだら、基本的には不要なのである。(もちろん、さまざまな理由から、雑誌まるごと手元に置いておく必要があるものも多数あり、それらは大切に保管しているのだが。)で、用済みになった古雑誌はオークションなどで売りに出しているのだが..どうしても売れないものも多数ある。もう少し粘れば、数ヶ月後にはもしかすると100円か200円で売れるかも知れない、というレベル。これでは手間暇と全くバランスが取れていないし、よく考えてみれば、これらは主たる図書館のどこにも収められていないのだから、寄贈する方が社会の役に立つのである。
横浜の実家に帰省。
目次へ戻る午前中に実家を発って、まず、秋葉原。CDを6枚。ラオックス「ザ・コン」で、ノートパソコン調査。
「InterLinkが良さげだよ」という話を最近聞いたので、現物を見にきたわけだが..ほほぅ..なかなかいいじゃないか。リブ100のサイズに非常に近い。リブ100というのは、5年以上前のモデルなので、現行機種に対するアドバンテージは、この(絶妙な)サイズを除けば、ほとんど何ひとつ無い。従って、このサイズを実現してくれる機種が出現した時点で、ついに(ようやく)引退時期がやってきた、と言えるのだが..
..しかし、どうも気になる。JVCのInterLinkは、かつて検討して「却下」した記憶があるからである。理由を思い出せない。さらに言えば、却下したのは、おそらく、この目の前にあるInterLinkではなく、ひと世代前の機種だと思うのだが..多分、「発熱」か「騒音」か、どちらかの理由だったのではあるまいか?(もちろん、雑誌の評価記事で判断したのであろう。これらは、カタログスペックには現れない特性だからだ。)だとすると、そういう「血統」は、受け継がれがちである。FMV LOOX Sシリーズも同様だ。これも非常に良さそうなのだが、やはり「却下」した経緯がある..
とにかく、パンフレットを確保。ちと、慎重に調べないとね。それに..例の「大流血事件」の傷口が、まだ塞がっていないんだよっ! 今は、こんな買い物できないんだよっ! あぃたたたたたた..[;^.^]
例によって徒歩で神保町へ。三省堂をざっとチェックしてから、JRで中野へ。13時に、まんだらけ本店の前で、この日記の読者のWさんと待ち合わせなのだ。もはや使用していないリブ100を譲って下さるという、ありがたい申し出をいただいていたのである。
通路でのブツの引き渡しというのも(場所が場所だけに? [;^J^])怪しすぎるので、1Fのルノアールへ。(ちなみに私は、ルノアールのココアを、一度も飲んだことが無い。)30分ほど歓談してから、渋谷へ。(Wさんも、渋谷までは同方向なので同行される。)14時に、渋谷ヤマハで、FCLAのMさんと待ち合わせ。夏オフで演奏できるベルリオーズの楽譜(パート譜)を探すのが、私の主たる目的だったが、手頃なものは無し。(「エジプトへの逃避」があれば、最高だったんだけどね..)
ここからは、Mさんの運転する車で移動。私は助手席。目的地は、玉川高島屋。もとはと言えば、今日、このデパートの「アレーナホール」で面白いイベントがあるから、と、私がMさんを誘っていたのだった。
車中、カーナビを眺めていて、ふと気がついた。先週、「車を運転していて道に迷った」事件を報告したが、これの意味が解らなかった読者も、結構いたのではあるまいか。そう、私の車には、カーナビが取り付けられていないのであった。(ウェブでさくっと調べたところ、カーナビの装着率は1割に満たないらしいが、恐らく、この日記の読者のカーナビ装着率は(ハイテク側に偏向していると考えられるので)5割を越えているのではあるまいか。)
そこそこの渋滞を突破して駐車場に車をいれてから、まず、レストランで腹ごしらえ。17:30の開場を待って、アレーナホールへ。「尾崎晋也プロデュース クラシック&トークLIVE 第3回 〜西洋と東洋の出会い〜」である。
ゲストの蒲原史子氏(ソプラノ)と尾崎氏のトークでつなぎながら、前半はチェロ(林裕)とピアノ(木村徹)で、バッハの「無伴奏組曲第3番」、小林秀雄の「落葉松」、山田耕筰の「荒城の月」「からたちの花」..すなわち、西洋と東洋の併置。
メインは後半。西川古柳氏が操る「八王子車人形」で、まず、「東海道中膝栗毛」より卵塔場の段、深夜の墓場のシーン。これは純然たる和物であるが、次に、カサドの「無伴奏チェロ組曲よりプレリュード−ファンタジア」を伴奏に、「清姫」日高川のシーン。これは圧巻で、この音楽がオリジナルであるかのごとく、完全に(西洋と東洋が)溶け合っていた。
ちなみに「車人形」というのは、人形が車に乗っているのではなく、人形遣い(ハインラインに非ず)が車に乗っている(腰掛けている)のである。普通、人形浄瑠璃というのは、二人ないし三人でひとつの人形を操るのだが、車人形では、ひとりで操る。前後左右に自在に動くように工夫された低い腰掛けに座り、両手で、人形の両腕と頭部(及びそれらに仕込まれたギミック)を操作し、両足の親指と人差し指で、人形の両足首を、それぞれ“つまむ”。これによって、人形が、舞台上を歩き回り走り回ることが可能になる。なにより、舞台を「ドンッ!」、と、踏みしめることができるのである。これは、世界の人形芝居でも、ほとんど例が無いという。実際、素晴らしい機動力に、目を瞠らされた。
私は「ムーンライトながら」で浜松に帰るのであるが、まだ時刻も早いので、まずMさんの車で品川まで出てから、駅前のアンミラでお茶とケーキ。四方山話。あらら、23時に閉店ですか? いつもは3時まで開いているのだが..日曜日だから? 仕方がないので、品川駅構内でさらに立ち話をしてから、無事にながらに搭乗。
ちょっと珍しいことだが、小田原駅で、「乗り遅れた乗客、数名」を待った。品川駅で後続列車に乗って、追ってきたのである [;^J^]。小田原駅発は、15分遅れ。無論、この時刻であるから、この程度の遅れは大勢に影響しないし、浜松駅に着く頃には定時に追いついていた。タクシーで帰宅。
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