*2002年12月16日:原画(原稿)を所有することについての、一考察
*2002年12月17日:歳末恒例、古書目録攻撃
*2002年12月18日:歳末恒例、古書目録迎撃
*2002年12月19日:見果てぬ夢..
*2002年12月20日:お気楽望年会、仕込みチェック
*2002年12月21日:「ハリーポッターと秘密の部屋」
*2002年12月22日:お気楽望年会
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*2002年12月16日:原画(原稿)を所有することについての、一考察


 さてもさても、まんだらけのオークションに出品された、吾妻ひでおの未知の作品の原画(原稿)を落札すべきか否か、迷っていたのであった。(入札したからといって、落札できるとは限らないのだが。)実を言えば..私は、「落札したくない」のである。それは、「開始価格25万円」にびびってしまったからではない。(この場合、金額などは、全く本質的ではない。)

 まず、私がこれを所有する(落札する)ことが「正当なこと」であるのか否か、というレベルで、ひっかかってしまうのだ。私に、その権利があるのか?

 誤解の無いようにあらかじめフォローしておくが、これは、世間一般の「原画(原稿)市場」に対する「異議申し立て」ではない。

 極めて古い時代(おおむね、1950年代以前)の原稿に関しては、ノープロブレムである。なぜなら、当時は作者自身に、原稿に対する「所有権」という認識が稀薄だったからである。早い話が、雑誌に掲載された漫画を、のちに単行本にまとめ直すという発想自体が無く、雑誌に掲載された時点で、その原稿は「用済み」なのであり、つまり単なる紙屑に格下げされたのである。そして紙屑に相応しく、廃棄されたり、読者プレゼントとしてばらまかれたりしたのであった。これらがこんにち(しばしば奇跡的に)生き残って、古書市場・オークション市場で高値で取り引きされていることに、私は問題を感じない。

 気になるのは、新しい時代(例えば、1980年代以降)の「原画(原稿)」なのである。こんにちの常識(社会通念)では、ほとんどの場合、「原稿」の所有権は「作者」に帰属しているはずである。(ごくまれに(例えば、新人の場合など)「原稿自体」を出版社に売り渡す、という契約もあるのであろうが、ここではこれは除く。)では、その「原稿」が、なぜ、「オークション(古書)市場」に流出してきているのか? 作者自らが市場に売却したのなら問題はないが、全てのケースがそうではあるまい。

 これは私の推測だが..作者のあずかり知らぬところで(出版社に渡したままの原稿が)いつしか「紛失」し、それが巡り巡って「市場」に現れた、というケースも多いのではあるまいか? だとするとこれらは..限りなく「盗品」に近い物件ではあるまいか? この場合、「市場」は「盗品故買市場」と、限りなく“同義”に近いのではあるまいか?

 ..以上に述べた「倫理的な」問題が、まず、ひとつ。

 次に気になるのが、仮に私がこれを入手(落札)したところで、「なんら、世の中のためにならない」ことなのである。この「チーねずみ」という作品が、私がその事実を知らなかっただけの「発表済み」の作品であるならば、まだ良い。しかしこれが本当に「未発表作品」であった場合..これを落札した私は、これにアクセスできる、唯一の人間になってしまう。

 この状況を楽しむタイプのマニアは、もちろんいるであろう。「私だけが知ってるぜっ!(私だけが読めるんだぜっ!)」、というわけだ。しかし私には、こういう発想は出来ない(理解出来ない)。わかち合ってこその“楽しみ”ではないか。世界中で自分ひとりだけが読める作品があることに、なんの意味があろうか。

 つまり、この「チーねずみ」が“本当の未発表作品”だった場合、私には、これを世に出す(出版する)義務が発生してしまうのである。(少なくとも、私はそのように発想する。)もちろん、作者の意志を確認し、権利関係をクリアにしてからであるが..私にはそんなパワーは無い。

 要するに、「持て余してしまう」のである。だから、「落札したくない」のだ。

 そして、以上だけなら話は(まだ)簡単なのだが、ややこしいことに、仮にこの原稿を落札した場合、私自身で出版するノウハウもパワーも持ち合わせていないのだが、私の知人には(しっかりした)「同人誌」を定期的に発行している人が、何人もいる。なかには、吾妻ひでおさんと、非常に近しい立場の人もいる。彼らに相談すれば、作者の意志の確認、権利関係のクリア、出版、という各段階を、無理なく踏めるはずなのだ。

 では、入手(落札)しようか..という判断もありうる。しかし、もしも既発表作品であるのならば、そのような「出版」は無用であり、従って、金の無駄である、という判断になる。さらにややこしい発想として、「未発表作品であった場合、死蔵しそうな“邪悪な”[;^J^] コレクターの手に落ちることを防ぐために、強引に落札して世に出す」、という判断もありうるのであるが..ここらへんで、十分過ぎるほどに、頭がぐちゃぐちゃになる..

 ..開始価格25万円..[;^J^]

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*2002年12月17日:歳末恒例、古書目録攻撃


 全国各地の古書店から、連日の目録攻撃である。歳末恒例なのである。「顔つなぎのために(今後も無料で目録を送付してくれるように)」出来るだけ各目録につき1冊は注文する..というようなことを、かつて書いたような気もするが、この時期ばかりは、そんな殿様なことは言ってられない。(破産します。[;^J^])..とはいえ結局、発注してしまうのだが。

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*2002年12月18日:歳末恒例、古書目録迎撃


 連日の振り込みである。連日発注していれば、必然的にこうなる。

 私の振り込み行為の特徴は、非常に“素速い”ことである。業者(あるいはヤフオクの場合、売り手)から連絡が来たら、「即日即刻(24時間以内に)」振り込む。お陰で、ヤフオクの取り引き等では、常に高い評価をいただいている。

 それが可能なのは、勤務先の目の前に銀行(信金)があり、4キロほど離れた場所(昼休みに車でひとっ走りの距離)には郵便局があるので、休憩時間に振り込みに行けるからだ。さらに言えば、ほとんど毎晩出かけている(街中の)こだわり山や天狗のすぐそばには、浜松郵便局(浜松で一番えらい郵便局)があるので、平日なら23時まで振り込みが可能なのである。

 というわけで、通販のユーザーとしては至便な環境にいると言えば言えるが、例え数分乃至十数分とはいえ、「足を運ぶ」のは時間のロスである。銀行口座であろうが郵便口座であろうが、全て携帯端末(リブ+PHS)から振り込めるに越したことはない。そういう環境は、ある程度は構築できるはずなのだが..上記のような「そこそこ便利な環境」にいると、腰が重い。もっと不便な(例えば、週に一度しか振り込みに行くチャンスがない)状況であれば、いやおうなしに、ネット送金の環境を作り上げてしまうであろうに。

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*2002年12月19日:見果てぬ夢..


 私は、ひとつの夢を持っている。学生時代(高校生時代)には実現できていたことなのだが..少なくとも10年以上前から、全く不可能になってしまったことが、ひとつあるのだ。

 それは..「裏紙を使い尽くす」ことである。

 多くの人が賛同して下さると思うのだが、「裏紙(片面しか使われていない、裏側が白紙である紙)」は、使う速度よりも溜まる速度の方が、遙かに速いのである。私は、正しい教育を受けて育っているので、「片面が使える状態の紙」を廃棄するためには、非常に大きな心理的障壁を乗り越えなければならないのである。(資源の浪費以外の、なにものでもない..)

 それなのに、職場でも自宅でも、一方的に裏紙は増え続けるのだ。(自宅にはプリンタやFAX等は無いのだが、送り届けられてくる様々な郵送物(のコンテンツ)には、片面しか印刷されていないものが、実に多いのだ。)メモや覚書に使ったり、会社であれば自分用のプリントアウトにはこれらの裏紙を使ったり、とにかく消化に相務めているのであるが..

 学生時代には、裏紙の消化速度の方が速かった。それは、数学や物理などの「計算用紙」に使っていたからだ。全くもって、裏紙は、いくらあっても足りなかった。以前にも書いたと思うが、一枚の紙を、「黒、赤、青、緑」の4色のペンを使って、計算用紙として4回使っていた。そのくらい、計算練習を繰り返していたわけだ。

 「裏紙が減らない」というのは、あるいは、私の知的活力が低下していることを示しているだけなのかも知れない..

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*2002年12月20日:お気楽望年会、仕込みチェック


 次の日曜日は、都内某所で「お気楽望年会」である。(「忘年会」ではない。ニフのFCLAでの慣例的呼称である。)やるのは、「カルミナ・ブラーナ」(オルフ)と、「一千人の交響曲」(マーラー)である。呆れたでしょ。[;^J^]

 来年の夏オフで、この両曲を取りあげる予定であり、そのための「譜読み会」なのである。いずれも、一度は「お気楽オフ」で実施済みなのであるが、しかし一日にこの2曲というのはね。[;^J^]

 私は通例、お気楽オフだろうが夏オフだろうが、遅くとも1〜2週間前までには、仕込みのチェックを始めるのだが、今年の年の瀬はさすがに忙しく、実に、2日前の今日に至るまで、シンセの電源を入れる余裕も無かったのである。ま、以前のセッティングを再確認すれば良いだけだから..と、軽く考えていたからでもあるが..

 ..以前の(カルミナ・ブラーナの)セッティングを再確認して、焦りまくった [;^.^]。なんだ、これは!?

 5年前にやった時は、シンセは私が持ち込むXP−50だけで、補助鍵盤もなく、すなわち奏者はひとりだけで、かつ、その時は諸事情により弦楽器奏者が極めて少なかったので、シンセで弦楽器のパートもかなり広範にカバーしたのである。そのため、(カルミナ・ブラーナは25曲からなる組曲であり、25曲分のセッティングを次々と切り替えていくのであるが、)「低音弦楽器のピッチカートと高音弦楽器とタムタムとグロッケンのパートを同時に弾く」、とか、「鐘とチューブラーベルとラチェットとシンバルのパートを同時に弾く」、とか、「ほとんど1キーごとに、弦楽器のマルカート奏法と単音のピッチカートとピッチカートの和音(各種)が仕込まれていてこれを弾きわける」、などなどの、難解セッティングの曲が多数あるのである。リック・ウェイクマンである。

 しかも、今回は、私が弾くのではないのだ。罪もない [;^J^] 普通の鍵盤奏者が弾くのである。幸い、補助鍵盤を1台使えるので、上記の難解セッティング群から、弦楽器パートは(チャンネルを分けて)そちらに逃がしつつ、かつ、当時は必要であったが今回は不要と思われる(主として弦楽器系の)セッティングを外しつつ、なんとかシンプルにしないと..

 これに比べれば、「千人」の方は、どうということもない。第一部では、「第一奏者:パイプオルガン(強奏)、第二奏者:パイプオルガンの足鍵盤、第三奏者:鐘」、及び、「第一奏者:パイプオルガン(弱奏)、第二奏者:パイプオルガンの足鍵盤、第三奏者:鐘」、の、ふた通りの設定の切り替え。第二部では、「第一奏者:ハープ、第二奏者:チェレスタ、第三奏者:ハーモニウムとタムタム」、及び、「第一奏者:ハープ、第二奏者:チェレスタ、第三奏者:パイプオルガンとタムタム」、の、ふた通りの設定の切り替え。計、4通りのセッティング。こんなものは、ちょちょいのちょいである。

 ..と、今夜のところは、作戦を練っただけで就寝。

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*2002年12月21日:「ハリーポッターと秘密の部屋」


 大車輪で、「カルミナ」と「千人」のシンセの仕込み。半日でなんとかまとまった。

 谷島屋で、「膨張する事件」(とり・みき、筑摩書房)を、まず確保。ところがやはり、コミック売場に「電脳なをさん 5」(唐沢なをき、アスキー)が無い。舌打ちしながら店員をつかまえて、「確か昨日が発売日のはずですが、唐沢なをきの電脳な」「専門書売場でございます」..[;^J^]。専門書のフロアーに行ったら、本当に平積みしてありやがんの、コンピューター関連書籍のコーナーに [;^J^]。大丈夫か? この本屋..[;^.^]

 ヴァージンシネマで「ハリーポッターと秘密の部屋」を観る。A氏と14:55からの回を観る予定であったが、先週に続き今週も待ち合わせに失敗してしまったので、18:15からの回を、ひとりで観る。

 「第一作よりも出来がよい、第一作と同じ映画」、という印象である。なにしろ、ストーリーの骨子が全く同じ [;^J^]。まぁ、原作がそうなんだし、シリーズものなんだから、どうこういう筋合いはない。(ダイジェスト版という印象が拭えなかった)第一作よりも、枝葉の刈り込み方がうまく、十分、楽しめた。

 但し、ハーマイオニーが(魔法の失敗で)「猫娘」になってしまうシーンは、NG である。往年のハマープロの狼男のように、ほぼ完全に猫の顔になってしまっている。尻尾が映らなかったのも、減点ポイント。ここは、ハーマイオニーの顔をそのまま生かして、顔自体の増毛は極力抑え、猫耳と尻尾を強調すべきであった。さすれば、全世界一千万人のオタクが、


「猫耳尻尾ハーマイオニー、萌え〜〜ッ!!」

 ..と叫びつつ、100回はリピートしたであろうに..マーケティングリサーチが甘いんじゃないか? [;^J^]

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*2002年12月22日:お気楽望年会


 10:02のひかりで上京。12:00過ぎに、千駄木のTスタジオ着。セッティング開始。最近は(主催者の)Mさんが用意される機材も多く、(ミキサー、アンプ、スーパーウーファー、スピーカー、等、)ひとりで接続していると1時間弱かかってしまうのだが、比較的手すきの方々に手伝っていただいて、なんとか間に合わせた。

 「千人」、「カルミナ」の順。今回は珍しく反省ポイントが少なかったのだが、「千人」第二部の演奏中、(Mさんが用意された新兵器)Vドラムを(代用ティンパニとして)使っていた奏者が、ちょっとした操作ミスでピッチ変更出来なくなってしまい、私にもその場ではわからず、結局、曲が終わるまで、ティンパニパートを演奏できなくなってしまったのは、(サポート担当として)痛恨であった。自社の製品(しかも私がMさんに購入を勧めた製品)の操作方法くらい、習熟しておくべきであった。

 「千人」では、新しい試みとして、プロジェクターで指揮者後方の壁面にパソコンの画面を映し、プロンプターが、そこに(演奏の経過に従って)「練習番号」を表示していく、ということを行った。これは大変効果的であった。パート譜や総譜を見ていて迷子になってしまった(落ちた)奏者も、これを見れば「現在地」がすぐにわかるという寸法だ。ただ、プロンプター自身、しばしば落ちてはいましたが。[;^J^]

 「カルミナ」は、わたくし的には(上記のような)大きな失敗もなく、クリア。

 「カルミナ」の演奏中、とある個所で、指揮者が「ここはふたつで振るかよっつで振るかは、まぁその時に決めます」というようなことを言った。(一小節を二拍子で振るか四拍子で振るか、という意味。)聡明な私は、ここで直ちに「シュレーディンガーの指揮者」という概念を発明した。

 即ち、奏者によって観測されるまで、生きているか死んでいるか、もとい [;^J^]、ふたつぶりかよっつぶりか確定しない。観た瞬間に確定するのである。(普段、指揮者は観測されることはない、という“前提”が、くすぐりになっている。)さらにこの場合、観測者(奏者)が大勢いるというのも、ポイントである。私は権利を放棄するので、このアイデア、誰かSFにまとめて、しかるべき舞台に応募するなり発表するなりしてくれ。

 あとは、立食パーティー、プレゼント交換、突発アンサンブル、等など(数日早いが)最高のクリスマスであった。

 予約しておいた、日暮里の「ときわホテル」に投宿。パーティー以降、記憶が必ずしも連続していないのだが、ま、些事である。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Dec 26 2002 
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