*2002年09月09日:本を愛するすべての人に..
*2002年09月10日:毛唐の方が器用じゃないか
*2002年09月11日:モツレク譜読み会
*2002年09月12日:始発で帰宅
*2002年09月13日:「図説 異星人」
*2002年09月14日:考古学について
*2002年09月15日:「會議は踊る」
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*2002年09月09日:本を愛するすべての人に..


 午前半休を取って街中に出て、11日(今週の水曜日)の東名バスと「ながら」のチケットを購入する。その他野暮用を、若干片付ける。

 うっかり書き忘れていたが..まさかとは思うが読者の皆さん、「ダイホンヤ」と「ラストブックマン」(いずれも、とり・みき/田北鑑生著、早川書房刊。「ダイホンヤ」は、1993年にアスキー出版局から出た単行本の新装版)は、既に購入しているでしょうね!?

 もしもまだだったら..こんな日記なんか読んでいないで、さっさと本屋に買いに走りなさい!(あるいは、どこぞのサイトで購入ボタンをクリックしてきなさい!)

 ..すべての読書家・愛書家のための、必読の名作なのだから..

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*2002年09月10日:毛唐の方が器用じゃないか


 先週末、ペンションAで食事をしながら、つくづく思ったことだが..「ナイフとフォークで魚料理から小骨を取り外す方法を、誰か教えてくれ!」..

 もちろん、慣れりゃ出来るんでしょうけどね..

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*2002年09月11日:モツレク譜読み会


 代休取得済み。東名バスで上京。目的地は、幡ヶ谷のアスピアである。同じ会場で9/22に「お気楽3大レクイエム」オフが開催されるのだが、今日はその「譜読み会」である。といっても、本日取りあげるのは、本会で演奏する「モツレク(モーツァルトのレクイエム)」「ドツレク(ブラームスのドイツ・レクイエム)」「フォーレク(フォーレのレクイエム)」、及び(「3大」には入っていないが)「ラターのレクイエム」のうち、モツレクのみ。そもそも平日の夜なのだから、会社が終わってから集まって(リハ込みで)演奏出来るのは、高々1曲である。(代休取って浜松から駆けつけている莫迦もいるがな! [;^J^])

 ..といっても、実は本日参加すべきか否か、数日前まで、いささか迷っていたのである。

 言うまでもあるまい。今日は「9月11日」である。例のテロの死者を悼むための「ローリング・レクイエム」(全世界で(時差を利用して)24時間にわたって、絶え間なくレクイエムを演奏するという行事)が予定されており、本日の「モツレク譜読み会」も、それにリンクしようという動きがあったからである。これには、本当に気を揉んだ。

 なぜなら、もしもこの譜読み会が「ローリング・レクイエム」に組み込まれるのであれば..私は(私の真情の命ずるところに従って)、欠席せざるを得ないからである..

 誤解しないでいただきたいのだが、私にももちろん、例の事件の犠牲者たちを悼む気持ちはある。また、この「ローリング・レクイエム」を発想した人々、賛同し参加する人々の真心にも、一点の曇りも認めようとは思わない。あくまでも、私個人の問題なのだ。私には、あの「事件」とその犠牲者たちを、ここまで「聖別」する理由が理解できないのである。

 世界に目を向ければ、「自爆テロ」など(悲しむべきことだが)日常茶飯事である。そしてその犠牲者が数十人であろうが数千人であろうが、本質的には同じことだ。数十人の犠牲者が出た自爆テロのニュースを鼻歌混じりに読み飛ばすやから(私もそのひとりなのだが)に、数千人が殺された自爆テロに驚愕する資格があるのか? また、米国は(少なくとも米国の大統領は)このテロを「戦争行為」と認定したが、もしもこれが「テロ」でも「犯罪」でもなく「戦争の一環」であるのならば、それこそ、「一撃で数千人が死ぬ戦闘行為など、珍しくもなんともない」のである。犠牲者たちの命が、桁外れに「軽く」なってしまう..

 そしてもちろん、米軍に殺されたアフガニスタンの民間人(非戦闘員、非テロリスト)たちも、疑う余地なく「9月11日」の事件の犠牲者であるはずなのだ。彼らの命は、「カウント」されているのだろうか?(彼らの犠牲も「ローリング・レクイエム」の追悼の対象であるということならば、私の認識不足であった。お詫びする。)

 閑話休題。結局この譜読み会は、(さまざまな理由から)「ローリング・レクイエム」の一環に組み入れられることはない、と、数日前に決定したのであった。私としては、難しい判断を回避(棚上げ)できたわけである。

 13時過ぎにアスピアに着き、取りあえずシンセを預ける。始まるまで時間があるので、神保町と秋葉を回り、書籍とCDをしこたま購入する。(重たいシンセから解放されて身軽なので、心ゆくまで荷物の重量を増やせるのである。本日の最終段階では増殖した書籍とCDとシンセの重量が合体することなど、この段階で気に病んでも仕方が無い。)

 17:30にアスピアに戻る。今回のセッティングの新しい試みとして、Mさんの持参するスピーカーシステムが、サンスイの普通のオーディオスピーカーから、ボーズの小型スピーカー&スーパーウーファーに変更されたことが挙げられる。小型スピーカーで常に難渋するのが、オルガンや打楽器の重低音だったからだ。配線がややこしいかも、と、事前に心配したことは確かだが、蓋を開けてみれば、ごくシンプルなもの。S氏にも手伝っていただいて、素速くセッティング出来た。シンセの音色的には、いつものポジティブオルガンサウンドである。

 ウーファーの効果は、確かにあった。(低域に余裕があった。)このクラスの編成のオフなら、十分、音がとおる。しかし、例えば夏オフのエンディングの「威風堂々」のパイプオルガンの大音量を、このシステムで表現できるかといえば、恐らく力不足であろう。

 打ち上げは、夏オフの時と同じく、アスピアから徒歩数分の焼き肉屋で飲み放題食べ放題。スタートは22時少し前だったと思うが、私は23:43東京発(23:50過ぎ品川発)の「ながら」に乗るために、22:52幡ヶ谷発の新宿行きに乗る必要があるので、この会場を出るのは22:40頃。ということで、40分少々で白ワインを1本空けたのであるが、こんなのは全然普通のペースである..

 ..全然普通のペースなのに、そして予定どおりに22:52幡ヶ谷発新宿行きに乗ったのに、どうして、気が付いたら、0:00に高円寺にいるのだろう? [;^.^]

 ポケットの中には、新宿発160円のJRの切符があるので、新宿に辿り着いてから(恐らく山手線内回りで)品川に向かった(少なくとも向かおうとした)のであろう、と推測されるのだが。どこぞ方面行きの電車(山手線含む)の中で眠りっぱなしだと、0:00に高円寺という微妙な近距離に着くことは不可能である。意識不明のまま乗り換えをこなしていたのであろうか。[;^.^]

 ..とにかく、「ながら」には乗り遅れた。仕方がない。山手線圏内で夜明かしして、朝いちのこだま(東京6:17発)で浜松に帰るしかない。(もちろん、出社時刻には間に合わない。)

 問題は今夜の身の振り方だが、既に0時を過ぎているというのに、ホテルを探すのも無駄である。(多分、3〜4時間くらいしか眠れないはずだ。時間当たりの単価が高すぎる。)そこで、「東京始発のこだまへの距離が近い」という理由で、品川に向かった。この街で朝までの時間を潰そう。(「東京」では駄目なのだ。最近は事情が違うのかも知れないが、少なくとも数年前には、深夜の東京駅近辺には、時間を潰せる場所が全く無かった。)

 品川駅の改札で訊いたところ、案の定、駅のすぐそばに24時間営業のファミレスがある..が、それに向かう道すがら、アンナミラーズを見つけてしまった。もちろん、寄り道する。(転んでもただでは起きないのである。)

 コーヒーを注文して、目(と心)を癒しつつ3時の閉店まで粘ってから、24時間営業のファミレス(ロイヤルホスト)に河岸を変える..をを、「寝るな!」、と書かれている。[;^.^](「以下の行為はお断りします(中略..)仮眠(後略..)」)仕方がないので、コーヒーをおかわりしつつ、昨日神保町で仕入れてきた書籍を読む。

 空も白み、5:30を回ってから、品川駅へ。山手線で東京駅へ。6:17発のこだま。眠い眠い。しかしここで眠ったが最後、新大阪だ [;^J^]。コーヒーを飲みつつ、必死の読書..

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*2002年09月12日:始発で帰宅


 浜松駅に8:13着。始業時刻は8:30なので、「今日は午後出社」、と、会社に電話を入れる。

 ここで念を押しておくが、これは当初のプランどおりなのである。「ながら」で普通に(無事に)帰宅すると、4時自宅着。ま、午前半休するのが、自然な発想であろう。今回も本来、このつもりであったのだが、数日前になって、「4時帰宅でも朝いちから出社可能でしょ」、と、午前半休の予定を取り消していたのである。(「ながら」車中で2時間、帰宅してから2時間は眠れるので、さほど無理なことでは無いのだ。)..が、結局、昨夜からの諸事情により、午前半休と相成った次第。つまり、「元に戻った」のである。繰り返し念を押しておくが、不慮の半日欠勤ではない。誤解しないでいただきたい。[;^J^]

 閑話休題。

 浜松駅から(重いシンセを担いで)バスに乗る元気は全くなく、タクシーで帰宅。丁度8:30着。2時間ほど仮眠してから、午後出社。

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*2002年09月13日:「図説 異星人」


 ..でもって、一昨日の夜から昨日の早朝にかけて読書が捗ったわけであるが [;^J^]、そのうちの1冊が、神保町で確保した「図説 異星人 − 野田SFコレクション」(野田昌宏、河出書房新社、ふくろうの本)。このシリーズは、既に「図説 ロボット」「図説 ロケット」が出ており、これで三部作完結なのかな? これで終わりかと思うと寂しいが、しかしこれほど豊かなコレクションを、これほどコンパクトに(しかも大きな欠落感無しに)まとめてくれた著者と編集者には、感謝せずばなるまい。希に見る幸福な読後感!

 ..しかし若いあなたが、これらを読んで面白いと感じるかどうかは、私には判らない。客観的な判断が、不可能なのである。私は、これらのイラストが「SFマガジン」で初めて日本に紹介された時代を、ほとんどリアルタイムに(あるいは数年遅れで)生きてきたのであるから..私の人生体験の、最も深く最も古い部分に打ち込まれている追憶群なのだから..

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*2002年09月14日:考古学について


 ギリシアでもローマでもメソポタミアでもインカでもどこでもいいが、遺跡を発掘して、当時の家具や彫刻や食器などを掘り出しては、その時代の「様式」を推測するわけである。この場合、先述したようなメジャーな地域の遺跡であれば、数多く発掘されているだろうから、その時代の「多様性」のさまざまな局面を、それなりに網羅しているのであろう、と、一応は期待できる。しかし、ごく僅かなサンプルしかない(例えば、一個所でしか発掘されていない)時代・地域・民族の「美学・様式」を、僅かな発掘物だけを手がかりに推測するのは、やむを得ないこととはいえ、随分な冒険だな、とも思う。

 例えば今から数千年・数万年後。21世紀に到る人類の歴史の記録がほとんど失われているとして、たまたま日本列島の21世紀の地層で唯一見つかった遺跡が「中華料理屋」だったとすると、数千年・数万年後の人々には、21世紀の日本の「様式」を、かなり誤解されてしまうのではあるまいか..

 ..ということを、学生時代から気に病んでいたのであるが、「中華料理屋」を発掘されたぐらいでは、ほとんど「誤解」のうちにすら入らないことに、最近、気が付いた。

 「中華料理屋」ならばまだしも、「フィギュアショップ」を発掘されてしまった日には..

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*2002年09月15日:「會議は踊る」


 リブ100を正副2台(DIASPER, ARCTURUS)所有しているのであるが、それらのHDDの内容(編成)が完全には一致していないので、危急の事態に際して、瞬間的に入れ替えることが出来ていないのであった。そこで、VFATBAKを使って、ベタコピーを作る作業を開始した。(子細は省く。)

 その間、暇なので、未開封のDVDを片付けることにした。まず、「メトロポリス」(手塚治虫原作、大友克洋脚本、りんたろう監督)。もちろん、映画館で公開時に(2回)観ている。1回目は、非常に感心した。2回目は、欠点が目に付いた。

 今回、DVDで改めて見直して、欠点は欠点として、「未来都市の風景画」としては評価すべきではないか、と結論した。主たる欠点は、脚本のスピード感の不足なのであるが、これは大友克洋に全責任を負わせるわけにはいかない。原作自体、かなり構成がギクシャクしているのである。しかし手塚治虫による、その(欠点だらけの)「脚本」の「漫画化」は、稀に見る光芒を放つことになった。さて、大友克洋は?..というわけだ。

 深夜になってもVFATBAKが終わらないので、もう1本。タイトルにだけは35年位昔から親しんでいる「會議は踊る」である。これも随分以前にDVDを購入したまま、積んでいたものだが..

 ..愕然。

 ..こんなに素晴らしい映画だったのか!!

 特に、迎えに来た馬車に乗って、ヒロインがロシア皇帝の「お城」に向かうシーン! そうか、この曲は、ここで歌われるものだったのか!

 この「ただ一度だけ」というメロディーは、もちろん、昔から知っていた。しかし、この映画とリンクされていなかったのだ..いや、「会議は踊る」というタイトルとはリンクされていたかも知れない。しかし、この可愛い女性の歌声とは、全くリンクされていなかった。なぜならこれは亡父の愛唱曲であり、私の小学生時代に、何度か(バリトンで)口ずさんでいるのを聞いていたからだ。

 感動した。誇張でもなんでもなく、泣いた。涙がこぼれた。このメロディー! この幸福感に満ちみちた歌詞! 馬車の中で腕を振りながら歌うヒロインの表情! そしてこの馬車とすれ違いながら、あるいは見送りながら踊り、手を振る人々の合唱! その馬車に延々とついていくカメラワーク!

 こんなにも素晴らしい映画が、世の中には存在していたのだ! そしてまだまだ存在するに違いない! なんと、世界は、宝の山ではないか! 仮に人類文明がこれ以上何も生み出せないとしても、人は、過去の遺産を消費し続けるだけで、一生幸福に過ごせるのではないか..!?(..これは確かに一面の真実であり、そしてこれこそがまさに、現在の(さまざまなレベルでの)経済危機の重大な遠因のひとつなのであるが..)

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Sep 18 2002 
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