2002年03月25日:「屋根裏の散歩者」/「押繪と旅する男」 2002年03月26日:「RAMPO」 2002年03月27日:テナント募集 2002年03月28日:廃刊待望論 2002年03月29日:雨漏り! 2002年03月30日:ブランド信仰 2002年03月31日:残飯を巡る一考察目次へ戻る 先週へ 次週へ
1994年に公開された、映画「屋根裏の散歩者」(江戸川乱歩原作、実相寺昭雄監督作品)は、素晴らしい傑作だった。
取りあえず(面倒なので)当時fjに投稿した私の記事を(ほぼそのまま)流用して、要約に換える。
これは、前日に観た「押繪と旅する男」よりも、格段に気に入りました。原作への忠実度云々よりも、乱歩の世界をしっかりと把握して、その枠内で独自性を発揮していたからです。(別に、枠から飛び出してはいかんとは言っていない。好みの問題です。)
無論これも、かなり短い原作を75分の作品にまとめたということで、拡張はしています。しかしその拡張部分が、ほぼ、ポルノグラフィックな描写に当てられており、これは乱歩の意図を正確に反映していると思う。原作には、性行為を覗くシーンはない(いや、あるにはあるんだけど、ごく簡素に言及されているのみである)んだけど、これはむしろ、無い方が不自然だもんね。
隣に越してきた、宮崎ますみ演ずるバイオリニストのお嬢様、最初はなんのために出てきたのか判らなかったんだけど、(この子に“も”エッチさせると冗長だし(とは言え、誰もが期待していたことをはぐらかされた様な気もするが [;^J^])、)これが次第に発狂していく(というか、最初から少々お狂いあそばされていて(多分、パラノイア)、それが徐々に顕現していく)という趣向。最後に、嶋田久作演ずる明智小五郎が、屋根裏から彼女の狂態を覗き見て、にやにやと興ずる、という、重要なシーンのためにセッティングされていたのでした。このシーンが重要だというのは、つまり明智は、“覗き”を断罪する意図は毛頭なくって、むしろ、(自分もそうなのであるが)世間にも生きることにも飽き飽きした高等遊民にとっての、密やかな楽しみとして、ほとんど積極的に肯定しているかのごとくであるから。殺人をとがめてすら、いない。暇潰しの“探偵遊戯”の題材を提供してくれてありがとう、というニュアンスすら感じられて、こうなると、ほとんど共犯に近い。これが一番嬉しかった。[^J^]
実相寺美学は冴えに冴え渡っているというか、雀百までというか、良くも悪くも進歩しとらんというか。[;^J^]
原色命&&乱舞する薄明り&&無意味に傾いているアングル。
堪能しました。[^J^]
(..実相寺美学って、クロヴィス・トルイユを思わせるところがある。あの、悪趣味極まりない原色のペンキ絵の世界の詩情..)
..8年前には書き忘れていたことであるが、舞台となった下宿屋は、どうやら私にとっては「楽園」なのである。(「ユートピア」ではない。話せば長くなるが、「ユートピア」というのは一言で要約すると、(こんにち的観点では)「全体主義の地獄」である。人類(の一部)は、長きに渡って、こういう社会を“本気で”希求してきたのである。閑話休題。)
高等遊民どもが、それぞれの部屋で得手勝手に暮らしている。毎晩、広間では、阿片窟さながらの怠惰な宴?(怠惰で静的な酒池肉林)が催される。色情狂の(共有されている)女が、毎晩毎晩部屋を渡り歩いては男たちとやり狂っている。そして(私が自分を投射しているところの)明智小五郎の部屋は、書籍に埋もれた書斎である..つまり、「楽園の要件(酒と女と本)」を全て満たしているのだ [;^J^]。いいなぁ、私もああいうところで暮らしたいなぁ..
閑話休題。[;^.^]
この映画の前日に観た、「押繪と旅する男」(江戸川乱歩原作、川島透監督作品)についても、同様に、当時fjに投稿した私の記事を(ほぼそのまま)流用しよう。
う〜〜〜〜〜ん、気に入らん [;_ _]。諸悪の根源は、長過ぎること。この原作の“サイズ”は、3〜40分だと思う。これを倍の80分に希釈したせいで、妙なことになってしまった。
“押繪の中に失踪した兄”の弟が、数十年後の“現代”から事件を追想するというプランは、間違っていない(というか、“押繪を紛失してしまった”ことを除けば、原作どおりである)。しかし、この余りにも頻繁なカットバックと、過去と現代のしつこ過ぎる混交は、もはや乱歩の世界ではない。過去の自分と現代の自分が、二度も三度も顔を合わせてはいけない。“夢のまた夢、そのまた夢”パターンだが、これは、一見“それらしい”脚本の、一番安易なパターンなのである(と、私は思う)。
(これをやると、「ドグラ・マグラ」のへたくそなパロディにしか見えないのだ。そもそも「ドグラ・マグラ」にしたところが、怪我の巧妙みたいなもので、あの作品における“夢のまた夢、そのまた夢”(?)が、驚異的な効果を発揮しているのは、実は、その悪夢を構成する各モジュールが、異様に“長い”からであり、読者が、そもそも階層構造をひとつ潜っていたことをとっくに忘れた頃になって、いきなり戻る(か、さらに潜る)から、びっくりしてしまうのである。決して、悪夢の多重構造それ自体は、巧妙には構築されていない。いわんや、それの安易なエピゴーネンにおいておや。)
たしかに、「十二階」が健在だった頃の浅草の風俗は面白い。しかし、それを観たいのならば、別に乱歩である必要はないのだ。“乱歩の作品世界の時代”をじっくり撮れば乱歩の世界になる、と考えたのだとしたら、なめるんじゃないっと言いたい。美しいシーンは、確かにいくつかあるにはあったが..ついでに、決して少なくはない“演出上の疑問点”からひとつだけ挙げておくと、兄を双眼鏡の逆から覗くシーン。確かにこれによって、押繪の中に入ってしまうのであるから、思わず力を入れてしまった気持ちは判る。しかし、弟にとって、この行為は完全にナンセンスなものなのであるから、(兄の鬼気迫る雰囲気に呑まれたとしても)あそこまで思い入れるのは、おかしい。あらかじめ、兄の“(絵の中への)失踪”を覚悟していたかのごとくである。
それと、これはまぁどうでもいいが、その弟(ローティーン)に義姉が手をつけたらあかん。[;^J^] 近親相姦すれば乱歩になるってもんでもないぞぃ。
これはやはり、余計な仕掛けを外して35分にまとめ、ポーの作品による「世にも怪奇な物語」のひそみに習って、あと2本追加してオムニバスにすべきではなかったか。乱歩の幻想短編の傑作は、枚挙にいとまが無いのだから。
..とまぁ、文句たらたらではありましたが、シネマアルゴ新宿で17:40から観て、はねたのが19:00。で、地上に昇ってみると、そこいらを曖昧宿のねーちゃんたち(違ったかもしんない [;^J^])がうろついてるし、浮浪者のおっさんは行き倒れているしで、勢い余って、ガーンズバック連続体(一部にのみ自明)してしまったのであった。
上記2本とも、ソフトは持っていない。さっき検索したら、「屋根裏の散歩者」はVHSとLDが出ているが、多分廃盤だろう。いまからLDというのもアレだが、中古盤なら悪くない..というか、何故か(少し汚れた)中古盤で買いたいソフトなのである。新本ではなく古本。この美学は解っていただけると思う。(解りたくもないわいっ、という人も(いくらか)いるでしょうがね。[;^J^])探してみようかな。「押繪と旅する男」は..まぁ、いいや。
目次へ戻る昨日に続いて、1994年に観た乱歩映画の追憶。同様に、この年にfjに投稿した記事を流用する。
「RAMPO」である。
これは確か、「奥山和由製作、黛りんたろう監督」で製作・公開されたのち、奥山プロデューサーが出来が気に入らず、自身で監督しなおして再度公開された、という因縁の2作である。当時はこのあたりの事情を、「なんだかな..」と思ったものであるが..ま、それはそれとして、結果的には「奥山和由監督版」「黛りんたろう監督版」の順に、両方を観た。その鑑賞記である。まず、「奥山版」。
いささか安っぽい雰囲気もありますが、乱歩には良く似合っている(けなし言葉ではない)。おどろおどろにしあげると、横溝正史になってしまう。乱歩はもっと洗練された、都会的な、漫画チックな世界です。そこを良く押えていた。
なんともおかしかったのが、あのパーティーシーンで、「日本の誇るセレブラティ」を一堂に集めた、という趣向。もう俗物臭ふんぷんで、「俗物図鑑」の筒井康隆がいないのが残念なほど [;^J^]。池田理世子とか山東昭子とか坂村健とか..大体「名士」と言えばいいところを「セレブラティ」と言うあたりが俗物だっつうの [;^J^]。無論、映画の趣旨としては、大正解。
エッチが足りなかったのが、不満と言えば不満。
次に、「黛版」を観た上での両版の比較。
ようやく「RAMPO」の黛りんたろう版を観てきましたので、奥山版との比較をします。
判定:どっちもどっち [;^J^] だが、減点法で裁定すれば、黛版の勝ち。
黛版は、説明的で整理不足。奥山氏が作り直したくなったのは、理解できる。奥山版は説明的な台詞をかなり刈り込んでいるので、その意味ではすっきりしているし、ある種の「幻想漫画様式」に則っているとも言える。例えば、乱歩から明智へ変身するタクシーのシーケンスだが、黛版では、これが最悪に近い出来で、運転手に大騒ぎの説明をさせており、雰囲気もぶち壊している。奥山版では、不要な説明を省いて、耽美的にまとめている。
ただし、整理をし過ぎて、「魅力的な無駄」をも洗い落としてしまった感がある。どのシーンがそうだ、とは言いにくいのであるが、黛版の、なんとも形容のしがたい「冗長さ」には、ストーリーよりも雰囲気が重要である、このような映画にとっては、それなりの価値がある。また、「謎の女」の演技も、黛版の方が良い。
そして、奥山版の致命的な大欠陥であるところの、終盤の、くど過ぎるカットバック大会が、黛版にはない。これが判定の決め手となった。
なお、いずれの版も、技術的には稚拙である。特に、「背景画」との合成は、ほとんど、「これは絵でございますと言いたいのだろうか?」と疑ったほど、リアリティがない。この「欠点」は、黛版の方が、合成シーンが多いだけに目立つ。が、それなりの味もあるとは言える。つまり、乱歩世界の、非現実的、劇場的、漫画的な触感を伝えているからである。
..いまにして想い返すと..(これまた、手元にソフトが無く、手がかりになるのはパンフレットだけなのだが..)どっちがどっちだったか、良く想い出せないのである [;^J^]。上述したとおり、まさに「どっちもどっち」だったと言うか。いずれも、なんとも論理的な整合性が薄弱な夢のようなムードの作品で、それが美点でも欠点でもあった。これまた、場末のソフト屋の投げ売りの箱の中に見かけたら、買ってもいいかもね。
目次へ戻るひさしい以前から更地になっていて「売り土地」の看板が4つも立っていた「養老の瀧」の跡地から、「売り土地」の看板が撤去された。ほうほう、売れたのか。それはめでたい..と、帰宅時にマーチの運転席から眺めていたのだが、代わりに立てられた小さな看板に目を留めると..「テナント募集」..
..ちょっと待て。[;^J^]
テナントっつーのは、ビルが立ってから、ビルのオーナーが募集するもんじゃないのか? [;^J^] それとも、空き地で何かやれとでも? 青空市場とか? いや、それはそれで好きだけどさ。[;^J^]
目次へ戻る昨夜じゅうには(例によって)日記を書き上げられず、仕方が無いので(例によって)朝4:30に目覚ましをセットして、早朝更新を目指したのだが..(最近は、ほとんど毎週、このパターンである..)起きられなかった [;_ _]。取りあえず出社前に、「今週の更新は、一日スライドします m[_ _]m」、とだけ書きこんでおく。
この話は、まだ書いていなかったと思うのだが..「現在進行形の雑誌」のコレクターは、その雑誌が廃刊になるのを楽しみに待っているという。
理由は明快。「コンプリートになる」からである。この気持ち、私はひっじょーに、良くわかる [;^J^]。(あなたはどうですか?)
..という目で書棚を眺めてみると..今のところ全号揃っていて、廃刊になっても特に困らなくて、かつ、全号手元に置いておく値打ちはあるかな、という雑誌は..「SFマガジン」が廃刊になると流石に困るし..「SF Japan」も一応続いて欲しいし..「コミック伝説マガジン」だな、まずは。「怪」も、そろそろいいや [;^J^]。君ら、早めに潰れてね。[^.^]
深夜、なんとか(一日遅れで)更新。
目次へ戻る帰宅したら、浜松クリニックからハガキが届いている。なんのこっちゃと文面を見たら..なんと、この3月21日に院長が事故死したとのこと。吃驚。当分閉院するが、再開の折りには連絡する、とのことだが..事実上個人経営で、医師も院長ひとりしかいなかったはず。こういう場合、どうやって再開するのだろうか? 医師の互助会(みたいなもの)から、医師が斡旋されて派遣されてくるとか?(事情は全然知りませんが。)営業が再開されるまでは、看護婦さんたちも仕事が無くなるわけだよなぁ..少なくとも3人、とても可愛い人がいるのだが..いや、可愛くなければ失業しても構わないと言ってるわけではないぞ、邪推するなよ。[;^J^]
雨足がきついので、街中に飲みにでかけるのは諦めて、自宅で飲みつつ読書などしていたら..21時頃、突然の水音。部屋の中である。な、何がこぼれたんだ..!?
吃驚仰天! 雨漏りである! 東側の窓の上の壁と天井の隙間から、いく筋か水が細く流れている。それが窓の上の桟にたまり、表面張力の限界を突破して、ツトトトトトトトトトトトトトトト..と、流れ落ちてきたのだ。
問題は、そのすぐ脇に本棚が設置されていることである。桟の上に溜まる水は、問題ない。落下する水滴も、悪さはしない。それが下の桟(あるいは床)にはじけて周囲に飛び散る、これがまずい! 直ちに貴重な書籍を避難させると同時に、桟の上から窓にかけて雑巾とタオルとガムテープとホッチキスと針金を使って、流水を窓ガラスへ逃がす仕掛けを設置した。(ガラス窓の内側に流れ落ちた水は、窓を僅かに開けておくことによって、外部に流れ出して行く。)やれやれ..(こうしている間にも、壁と天井の隙間から流れ落ちる水の筋は、2本から5本に増えた..)真夜中をだいぶ回って雨足が弱まると同時に、流れ落ちる水量も細り、事なきを得たのであるが..
..しかし参ったな。このアパートに越してきてから16年になるが、こんなことは初めてだ..てゆーか、築16年なら雨漏りのひとつもしても、不思議はないってか? [;^J^] 自宅にいて対処できたのも、幸運だった。普段ならこのくらいの雨でもめげずに街中に出てしまうんだが、今日は何故か気が乗らなかったのだ。数時間も水滴がはじけ続けていれば、命の次に大切な書籍に、かなりの被害が出ていただろう..(想像するだに恐怖である。)早速、明日にでも大家さんに連絡しなくては。
目次へ戻る大家さんに、雨漏りの修繕の件を電話連絡で依頼する。
中村うさぎの「ショッピングの女王」(文春文庫)などを読む。こんなのを読んでいる暇があるくらいなら..というのは禁句である。[;^J^]
しかしやはり、私には根本的に理解しがたいところがある。「ブランド信仰」である。私は、そういうものを欲しいと思ったことが、ただの一度も無いからである。(10万円近かったと記憶する「ヴェネチアン・グラス」のワイングラスを購入したことはあるが、それは、それが「ヴェネチアン・グラス」だったからではなく、純粋に、非常に美しかったからである。)
まぁ、周囲がみなブランド品で固めている集団(とか社会とか)に入れば、または、ブランド品を身にまとっている(仮想)ライバルが目の前に現れたら、「見栄」から「ブランド品」を買わぬ訳にはいかない、というのは理解できる。ということは、私がそういう世界から身を遠ざけているのも一因か..
..全然、OKな状況ではないか [;^J^]。一体、どこに不都合があるというのだろう?(あ、もしかして「リブ100」がブランド品だというなら、申し訳有りません、私、行く先々で「ブランド品」をこれ見よがしに使いこなして、顰蹙買ってます。[^.^])
目次へ戻るずーっと昔から気になっていたことであるが..居酒屋の類では、団体客(2人以上)は、料理やつまみを食べ残すよねぇ..本当に、もったいなくて仕方がない。食べたくても食べられない人が、地球上には何億人もいるというのに..
面白いことに、ひとりで飲みに来ている人は、あまり食べ残さない。2人以上になると、残すのだ。他人のことは言えない。私も、ひとりで飲み食いしている場合は綺麗に全部平らげてしまうが、たまに2人以上になると、帰り際には随分と食べ残していることがある(..というか、食べ残すことの方が多い)。
理由は、ふたつ考えられる。まず、発注時の見積もりがいい加減なのだ。複数人が(相手が食べるであろう量を適当に推測しつつ)別々に発注するので、トータルで必要量を越えてしまう、つまり食べきれないほどの量を発注してしまうのだ。次に、食べるペースが遅すぎる。団体客(2人以上)は会話に忙しくて、食べる方がお留守になりがちなのである。そして一般に料理というものは、(サラダや刺身の類を除けば)冷めると不味いものが多いのだ。
教訓は、ふたつの方向から考えられる。
まず、客の視点に立とう。「必要以上に発注する」「発注したものを駄目にしてしまう」というのは、完全な無駄である。金をダブつかせている人や企業ならいざ知らず、普通はこんなことをしている余裕は無いはずである。「複数の部署が(他部署の動きに気を配らずに)個別に発注していることはないか」「購入するタイミングが早すぎて、買ったもの腐らせてしまう(陳腐化して使えなくなってしまう)ことはないか」、など。
次に、店の視点に立とう。まぁ、客に食事を残されて嬉しい店は無いと思うが..しかし、(客が本来、必要としている以上に)たくさん売れれば嬉しいというのも、否定できないところではあろう。であれば、上記を逆手に取れば「客が本来、必要としている以上に」売れるのである。例えば..「客の窓口を分散させ、(連絡が疎な)複数の窓口に売りつける」「客が本来必要としているタイミングよりも、早く売りつける(と、結局、もう一度買いに来る)」..まぁ、禁じ手だろうなぁ [;^J^]。その顧客と長くつき合いたいのなら、こういうことをしてはいけません。
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