*2002年02月25日:机上デバッグ
*2002年02月26日:籠
*2002年02月27日:逃がした魚について
*2002年02月28日:アロマキャンドル
*2002年03月01日:謙虚か卑屈か
*2002年03月02日:ダリ美術館
*2002年03月03日:書痴の告白
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*2002年02月25日:机上デバッグ


 「机上デバッグ」は、もはや死語であろうか? 昨今の若いコンピューター技術者にとっては、あるいは既に意味不明な言葉であるのかも知れないが..私の学生時代(1970年代末から1980年代前半)には、特に学生たちにとって、切実にリアルな言葉であった。これがきっちり出来ない学生は、単位を取れないのである。

 「机上デバッグ」とは、プログラムをコンパイルする前に、まず、紙と鉛筆でデバッグする(あるいはコーディングする)ことである。現在のインタラクティブなプログラミング環境しか知らない人は、なぜこんな「手間な」ことをするのか理解できないかも知れないが、当時のプログラム開発環境は、「インタラクティブでは無かった」のだ。バッチ処理といって、電算機センターの受付にプログラム(普通はパンチカードの束)を提出すると、それをオペレーターが定時に受け取り、順次コンパイル&実行して、定時に出力結果(プリントアウトの束)を返却する。研究室の院生などは、一日に数回提出することが出来たが、学生演習は、一日に一度しか提出出来ない。正確には憶えていないが、朝9時に締め切って、17時に結果が出る、とか、そんな感じである。

 つまり、1日に1回しかコンパイル&実行出来ないのである。演習の提出期限は普通は1週間。つまり、トータルで6回しかコンパイル出来ない。

 つまらぬバグなど出している暇は無いのである。紙と鉛筆で極力完璧なシミュレーションを行って、「これで絶対とおる!」、という確信が得られぬうちは、恐くてプログラムをパンチなど出来ない。(それでも出てしまうのが「バグ」であるが。)

 実は、(ある程度)インタラクティブな環境は、当時から用意されていた。スクリーンエディタが使えて、コマンド一発で何度でもコンパイル出来る端末環境は。しかしこれは一年生には使わせてもらえなかった。「こんな“便利な”環境を最初から使わせると、実に“思考能力がゆるい”人材が育ってしまう。タイプミスをコンパイラにチェックさせるようになる。設計しなくなる」、という、教官たちの判断であった。(この話は、以前も書いたはずだ。)卓見だと思う。

 もちろん、あなたはこう言うであろう。「おっしゃることは判りますが、古すぎやしませんか。現代のインタラクティブなプログラミング環境の方が、遙かに生産性が高いでしょう。そもそもエコロジカルで地球に優しい現代のプログラマは、最初から最後まで紙なんか一枚も使いませんよ。昔の人ほどには“思考能力”は無いかも知れないし、設計もいい加減かも知れませんが、逆に言えば、そういう(ちょっと劣る)人材でも、それなりに高度なプログラムをそれなりに短い期間で作れる時代なんですよ。これこそ、計算機科学の進歩の証(あかし)ではありませんか」..全くもって、そのとおり。(特にそれが“作り捨て”のプログラムである場合には。)

 しかし..例えば私の指導教官は、(当時最新鋭の大容量20メガバイトの)ハードディスクが納品されてから、一週間もたたぬうちに、それにOSを(ゼロから設計して、FORTRANとアセンブラで書いて)載せてしまったのである。現在のように、最初から特定のOSに合わせてフォーマットされているわけではないし、そもそも標準的な「特定のOS」というものが存在しなかった時代である。そのハードディスクは、全く素(す)の状態で、「マニュアル」には、電気的特性、機械的特性しか書かれていなかったと記憶する。

 それに(小規模ながらも)OSを、サクッと載せてしまったのだ。研究と講義の合間に、片手間で。(彼は、夕方5時には必ず帰る人であった。)そう何度もOSを「コンパイル」する時間があったとは思えない。紙と鉛筆で、ほとんど完成させてしまったのである。(しかも彼は本職のプログラマでも何でもなく、プログラミングはいわば余技なのである。)

 こういう実例を目の当たりにしているからこそ、現在の至便な環境からスタートしている連中は、「基礎体力を身につけるチャンスを、あらかじめ奪われている」ように見えて、仕方がないのである。

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*2002年02月26日:籠


 昨日の想い出話に引っ張られた、yet another 想い出話。キーは、「パンチカードの束」である。

 学部4年生の(つまり就職活動の年度の)私は、某大企業の某大研究所の見学に行ったことがある。(就職活動の一環ではない。面倒なので事情説明は省く。)私が専攻していた「パターン認識」の研究の、「民間企業の現場における実態」を垣間見ることができた、まことに貴重な体験ではあった。

 その電算機室に設置されていたのが、ミニコンピューターだったか汎用大型機だったかは記憶にない。(若い読者のために注記しておくが、当時の「ミニコンピューター」は、大型冷蔵庫数台分のサイズがあったのだ。)バッチ処理だったことは確かである。私がその部屋の研究員にいろいろと質問している合間にも、別の部屋(研究室)から白衣の研究者がプログラム(「パンチカードの束」)を、「次、これ頼むわ!」、という感じで持ってきたからである。

 強烈に印象的だったのは、彼が「パンチカードの束」を、「スーパーマーケットの買い物籠」に入れて持ってきたことなのである!

 まだまだナイーブな美少年(美青年というにはおさな過ぎ)だった私にとって、「民間企業の研究所」というのは雲の上の世界であり、まったく独自のツール、独自の設備(、独自の制服、独自の防御システム、独自の戦闘員)から成っているものだと思い込んでいたのだが..こんなにも「日常的」な道具を「流用」していたのか!

 ..少し、大人になった日の、淡い想い出話である。

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*2002年02月27日:逃がした魚について


 あっちゃぁ..ヤフオクで昨日入札した物件が、「取り消し」の憂き目に会っている。出品者による取り下げではない、システム(運営側)による「削除」である。つまり、「出品してはならない商品」と認定されてしまったのだが..納得できないなぁ。

 確かに、アダルト系の書籍ではあるのだ。しかしアダルト物件など、書籍もビデオも山ほど出品されているではないか。どこが違うと言うのだ。表紙写真もタイトルも、全然過激ではないし..もしかすると、入札する時には気が付かなかったが、「アダルトカテゴリー」では無かったのだろうか? アダルトカテゴリーなら問題は無かったが、一般のカテゴリにアダルト物件が出品されてしまったので、おぃおぃ、と、削除されてしまったのだろうか?(今となっては確認できないが。)そうであれば、事態を認識した出品者によって、(今度は正しく)アダルトカテゴリーに出品していただけると思うのだが..

 「一体、どんなアダルト物件を買おうとしたんだよ、このスケベ!」、とおっしゃるか。胸を張って答えるぞ。「吾妻ひでおの未発見作品が載っている可能性がある書籍」だったのだ。「吾妻ひでおの未発見作品」を入手するためなら、私は法に(あまり)触れない限り、「どんなことでも」するぞ!

 成田亨の訃報。惜しい..

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*2002年02月28日:アロマキャンドル


 出勤時、コンビニに寄って「爽健美茶」のペットボトルを1本買っていくのが、(ほぼ)日課である。別に好物というわけではない。水がわりとして「無難な味」だからである。(ウーロン茶系は嫌いだし、緑茶系もいまいち。紅茶系・ジュース系は甘すぎる。)最近、その「爽健美茶」が、キャンペーン期間か何からしく、「アロマキャンドル」というものが付いている。要は香料入りミニ蝋燭である。香りは12種類ある..

 ..全く無意味に、(せっかくだからと)12種類集めにかかってしまう、これは“業”なのであろうか [;^J^]。うっかりだぶり買いしないように、チェックリストを胸にしのばせ..[;^.^]

 そしてまた、これがたいして「匂わない」のである。「チェリー」とか「オレンジ」とか「バニラ」とか、火を灯しても、それらしい匂いがほんの微かにしか漂ってこない..

 「本当に、匂うのかぁ..?」、と、鼻(というか顔)を近づけすぎ..前髪を焦がして、タンパク質の香り。[;^.^]

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*2002年03月01日:謙虚か卑屈か


 「SFがよみたい! 2002年版」(ハヤカワ書房)が、どこの書店でも見つけられないのである。浜松駅近辺では最大級の「谷島屋 連雀町店」でも、やはり見当たらないので、店員に訊いたら..新刊コーナーに平積みされていました。[;^J^]

 水玉蛍之丞のイラストの、このド派手な表紙が目に入らなかったということは..つまり私は、平積みコーナーなど全く眼中に無かった(棚差ししか見ていなかった)のであり..要するにSF者として、「負け犬根性」が骨の髄まで染みついてしまっていたのであった。(ほろりとさせる、いい話でしょ。[/_;][;^.^])

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*2002年03月02日:ダリ美術館


 あなたが古い秋葉者なら、あるいは、かつて「ミナミ電機」(だったと思う)の最上階(8F)に「ダリ美術館」があったことを、記憶されているであろうか。ここは本当に素晴らしかった。秋葉に行くたびに通っていた。

 収集品は、ダリの「宝飾」である。これが素晴らしいのだ。ダリ自身のさまざまな絵画をモチーフにして、黄金をベースにさまざまな宝石を散りばめて作られた、キンキラキンキンギンギラギンギンのオブジェ群! そしてこれらが置かれているロケーションが..世界最大級の電機街のど真ん中の、巨大電機店の、エスカレーターを最上階まで登ったところに、突然現れるのである。この美しくも俗悪な黄金の芸術品たちが!

 ダリのその他の名作絵画群はいざ知らず、少なくともこれら宝飾オブジェ群にとっては、これ以上素晴らしい居場所は無かった、と確信している。生前のダリも、非常に喜んでいたと聞いている。(さすがに彼は、おのれの創造物の本質をキッチリと認識していたのだ。)

 しかしいまや、秋葉にダリ美術館は無い。バブルの崩壊と運命を共にしたというわけでも無かろうが、都落ちして、鎌倉駅前に移転した..少なくとも6〜7年前には、そこにあった。今もあるかどうかは知らない。調べていない。再訪する気になれないからだ。6〜7年前に訪れた時、確かに同じ宝飾品たちが展示されているにも関わらず、「バブル時代の秋葉のキンキラキンのオーラ(あるいは“場”のエネルギー)」を浴びていないそれらは妙にうら寂しく、もの悲しく輝いていたからである..

 休日出勤のあと、先週に引き続き「赤ちゃん」へ。「赤ちゃん」からは徒歩で帰宅したのだが、近道をしようとして道に迷いかけ、あやうく遭難するところであった。[;^J^]

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*2002年03月03日:書痴の告白


 ひっさびさに、休日出勤せず。果てしなく(慢性的に)休日出勤が続く日々は、昨日で終わったのである。(その筈である。)無論、むこう数ヶ月間に、何度か(あるいは10回以上も?)休日出勤する可能性はあるが、それは「スポット」の仕事が溢れるからである。過去数ヶ月間の休日出勤作業は、「点」ではなく「線」(実感としては「面」)だったのだ。四次元化しなかったのが不幸中の幸い(意味不明)。

 さて、久々に午前中から自宅(アパート)にいるので、メンテ作業を行う。

 とにかく狭いのだ。書庫を一部屋確保できれば苦労は無いのだが、それが出来ないので本の置き場が無い。一部屋多いアパート(あるいは一軒家)をさほど変わらぬ家賃で借りることは不可能では無いはずだが、いまさらこれらを動かすことを考えるだけで萎えてしまう..引越業者にまかせればいいだろうって? 冗談じゃない! 他人に、私の書籍を触らせる(梱包させる)なんて!..

 ..閑話休題。[;^J^]

 そこで、書棚から(参照機会がめっきり減っている)「奇想天外」(奇想天外社版)と「SFアドベンチャー」を追い出して「ゆうぱっく」の段ボールに詰めて押し入れ送りとし、書棚をいくらか空けた。

 ここでわれながら問題だと思うのは、この種の作業に伴う「充実感」である。私の場合、どうかすると、「“書籍を読了するときの充実感”と“書籍を置く場所を作るときの充実感”に、質的にも量的にも差がない」のである。[;^J^]

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Mar 6 2002 
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