2001年12月17日:「SFファンタジア」 2001年12月18日:午前半休 2001年12月19日:「新版 貧困旅行記」 2001年12月20日:「Fantastic Dozen」 2001年12月21日:ウィルスなんかこわくない 2001年12月22日:お気楽クリオラ/真夜中のミステリ 2001年12月23日:あとは働くだけ目次へ戻る 先週へ 次週へ
30年ほど昔に学研から出ていた、「SFファンタジア」という、ムックというかイラストブックのシリーズがある。「地上編」「時空編」「異世界編」「幻想編」「風刺編」「マンガ編」「アート編」の、全7巻。
このシリーズの存在は、それこそ大昔から知っていたのだが、なんとなく古書店でも手が伸びていなかった。確か今年に入ってから、例によって手塚治虫のテキストの初出文献のひとつであるという理由から、シリーズ中でもやや異色な「マンガ編」のみ入手していたものの、他の巻も積極的に蒐集しようとまでは考えていなかったのだが..
先日、地元の古書店「時代舎」で、残り6巻中5巻を各400円で見つけてしまったのである。これは相場よりもかなり廉いはず。早速購入して目を通し、これはやはり常備しておく値打ちがあるわい、と、最後の1巻もネットで探し出して入手したのであった。
要するに「SFの入門書(というか啓蒙書)」であり、若い世代(ティーンエイジャー)をメインターゲットに据えているのだが、大人が読んでも少しもおかしくない。シリーズの特徴としては、SFのほぼ全ジャンルにわたる目配りの確かさと、圧倒的なビジュアルインパクトであり、内外の素晴らしい図版が満載されている。そもそも、福島正実(若い読者は知らないだろうが、日本SF界を“作った”偉人)が暖めていたプランを、彼の没後に小松左京、石川喬司らが受け継いで監修し、「マンガ編」では松本零士、「アート編」では野田昌宏が編集顧問についているのだから、内容に間違いのあろうはずがない。
「時空編」における「幻想絵画座談会」、「幻想編」における「ハドンの肖像」(山尾悠子の、確か単行本未収録の短編)、「風刺編」における小松左京のユートピア論などが、シリーズを通じての目玉と言えるであろうか。
目次へ戻るM病院で経過をチェック、予後良好。内服薬と外用薬を各3週間分。
目次へ戻る一週間前に読んだ本の話題で恐縮であるが、ネタが無いんだから仕方が無い。なにしろ近年まれにみる忙しさで、特に今週に入ってからは、毎日、仕事以外のことがほとんど出来ないのである。一体、私が何をしたと? [;^J^]
それはともかく、「新版 貧困旅行記」(つげ義春、新潮文庫)である。先週、有楽街のヴィレッジ・ヴァンガードで購入して、早速読み終えていたのであった。
いいなぁ、こういう旅。この行き当たりばったりさ、いい加減さ。私の「北海道無軌道紀行 '95」も、その点に限って言えば、さほどひけはとっていないと思うのだが..北海道まで飛行機を使ってしまった時点で、負けである。しかも現地では時間を節約するためにタクシーを多用していたのだから、話にならない。
つげ義春は、近場を回っているのである。視線を低くすれば、地元(足元)に、いくらでも観るべきもの・行くべきところがあるのである。
白眉の一文を引いておこう。「こんな絶望的な場所があるのを発見したのは、なんだか救われるような気がした」(187頁)。
目次へ戻る荒俣宏編著の「Fantastic Dozen」というシリーズを読んでいる。これは10年ほど前にリブロポートから出版されていたもので、全12巻。まだ9巻しか揃っていないのだが、「水中の驚異」「神聖自然学」「民族博覧会」「地球の驚異」「悪夢の猿たち」「熱帯幻想」「昆虫の劇場」「極楽の魚たち」「解剖の美学」、と並ぶタイトルを眺めるだけで、嬉しくなってしまう。
人類が作り出してきた傑作「図像」(典型的には、17世紀から19世紀にかけてのさまざまな図鑑や挿絵本等)をテーマ別に分類しているのだが、極めて貴重な稀覯本の、ほとんど全図版の復刻など、決して広く浅くではない、ポイントを突いた編集が見事である。
先日の日記に書いた「SFファンタジア」どうよう、やはりこのシリーズも、以前からその存在を認識していながらも、何故か購入していなかったのである。1冊2000円という価格には問題無いはず。12冊揃えるためには2万4千円..と考えて、腰が引けていたのだろうか? ちょっと理由の見当がつかない。
それはそれとして、実はこの「Fantastic Dozen」の内容の一部は、別の形で読むことができる。小学館文庫の「アラマタ図像館」という全6冊のシリーズに、「Fantastic Dozen」の「水中の驚異」「怪物誌」「解剖の美学」「昆虫の劇場」「エジプト大遺跡」が、それぞれ「海底」「怪物」「解剖」「花蝶」「エジプト」というタイトルで、再編集・再録されているのである。(私は数年前に、先にこれらを読んでいた。)「Fantastic Dozen」にアクセス出来ない人は、この「アラマタ図像館」を手に取ってみられることをお薦めする。やはり大図版の魅力は大きいのだが..
シリーズ中の白眉は、「水中の驚異」(アラマタ図像館では「海底」)であろう。これを初めて目にした時には、本当に驚いた。イソギンチャクやクラゲの図像なのであるが..「本当に、これは地球の生物なのか?」「ここは地球か?」、と、真剣に疑ってしまうほどの形態なのである。凡庸なSFイラストの遠く及ばぬイメージ群。メディアを問わず、大概のSFイメージは、これらに負けている。
目次へ戻るとあるメーリングリストの新入会員の自己紹介。「PC歴は20年以上です」..という彼が使っているメーラは、Outlook Express で、そのメールは HTML メールなのであった。キャリアとスキルには、相関関係は無いんだよなぁ..どうせ彼の環境では、スクリプトの自動実行がオンになっているに決まっている。その方が「便利」だもんね。
しかし、スクリプトの自動実行って、本当に便利なのかね? ウィルス(ワーム)にさんざん狙い撃ちにされているのは言うまでも無いが、いわゆる「ウィルス」とは異なる次元でも、さんざん悪戯されると思うのだが、多くの人々は、困っていないのであろうか?
何年前のことか忘れたが、確か、まだ Netscape Navigator が存在しなかった頃、今では詳細を全く憶えていない、とある環境(ツール)で、会社で昼休みにネットニュースを読んでいたのである。alt.* では無かったはずだが、とにかく海外主体のニュースグループで、その時、その環境では、添付画像ファイルが自動的にオープンするようになっていた。(その当時のウィルスは、今とは比較にならないほど感染力も危険度も低かったのであり、それに対する備えも、当然ながら現在よりも遙かにのんびりしていた。)
..すると、とある記事を読んだ瞬間、画面の下半分に、女性の無毛の陰部のアップが現れたのである。さすがに驚いて、すぐに閉じたのだが..この「悪戯」の「破壊力」はかなりのものである、と、感心した。
自宅などでひとりで読んでいる場合は、まぁたいしたことはない。問題は、会社などで読んでいる場合で..たまたまその画像が開いた瞬間、彼の背後に上司や女性社員がいる可能性はあるのである。彼が受けるダメージは、(特に後者のケースでは)そんじょそこらのウィルスとは比較にならないほど、甚大なものであろう。
目次へ戻る今回のお気楽オフは、東京・千駄木のTスタジオで、バッハのクリスマスオラトリオである。実のところ、今回ばかりは、事前に全く準備できなかった。スコアは買ったものの、一度も読んでいないし、シンセについても、ハープシコードとポジティブオルガンの同時使用が可能であることを、昨夜チェックしただけである。(交換用のクリスマス・プレゼントは、購入しておきましたが。)
12時過ぎに着けば良いので、いつもより2時間遅らせて、9:06のこだまに乗る。浜松駅の新幹線の改札口が一部(エレベータ設置のため)工事中。
Tスタジオは狭くはないのだが、思ったよりも参加者が多く、鍵盤奏者ふたり(2台)の周辺に十分な空間を確保できず、ひとりは譜面台を使えずに(私が持参したのではない、もう1台の)シンセの上に直接パート譜を置いた。これが原因となって、序盤にトラブルを繰り返すことになった。つまり、操作子(スライダやスイッチ)に触ってしまい、設定(MIDI送信チャンネル)が変わって、音が鳴らなくなったのである。これは(私の)実に単純なミスであって、操作子に少々触っても安全な(設定が変わらない)状態にすることはたやすく、最終的にはそういう状態にしたのだが、何故か数十分のあいだ、その状態にすることに手こずったのである。手元が暗く、そのシンセの液晶画面が良く見えなかったとか、いろいろ理由はあるのだが、我ながら不可解と言えば不可解な手際の悪さではあった。これが最大の反省点。
もうひとつの反省点は、とにかく初見に等しいので、ほとんど全く歌えなかったことである。譜面を見ながら音程は(ほとんどの個所では)取れるのだが、歌詞を乗せるのが大変。
長大なクリスマス・オラトリオの通し演奏が終わってから、スタジオ内に(クリスマスイブということで?この日だけは特別に許可された)食事と酒を持ち込んで立食パーティ。プレゼント交換や(突発)演奏。それから、メサイア抜粋の演奏。
撤収してから、西日暮里駅前の店で、反省会。この店では私はもっぱらビールを飲んでいただけ。「ムーンライトながら」に間に合うよう、23時過ぎに辞去。東京駅でながらに乗り込み、うつらうつらしている間に到着。(いつものことだが、帰路のながらで読書出来たためしが無い。やはり疲れている時には、素直に寝るのが一番。)
深夜の閑散とした駅構内。気のせいか、タクシー乗り場までの距離が、いくらか長く感じたが、つまり普段と反対方向に歩いている(北口ではなく南口に向かっている)からであろう。(ホームからロビーに降りるとき、普段と反対方向のエスカレータに乗った(といっても既に止まっている時刻なのでその上を歩いて降りてきた)ので。)
タクシーに乗り込んで、運転手に「浜松北高のバス停へ」「ん?」「(タクシーの運転手のくせに判らんのかな)館山寺街道の浜松北高の方向へ」「..お客さん、ここは静岡だけど、わかってる?」「..!」
..さて、この事態の収拾自体は、簡単なものである。この時期の「ムーンライトながら」は、決して「浜松行きの最終夜行ではない」ことを、私は知っている。大体20分遅れで、臨時快速がついてきているはずだ。既に10メートルほど走ってしまっていたので、タクシー料金610円を払い、改札口に引き返して臨時快速の存在を確認し、浜松までの切符を1280円で購入し、それに乗って(20分遅れで)帰宅。この「事件」の結末自体は、全く散文的であると言って良い。「現象面」だけ見れば..
..しかし、「心理面」はそうはいかない。
よろしいか。10数年間浜松に暮らしている私が、「ここは浜松である」と信じて疑わなかった駅構内を通り抜けてタクシーに乗り、そこで初めて、「ここは静岡である」と知った時の驚愕を想像してみて欲しい。まさに“現実崩壊”である。
泥酔していたのなら、なんの問題も無い。酔っぱらいが自在にワープするのは当たり前の事象であって、そこにはなんの神秘も不思議も無い。(東京で意識を失ったのに気がついたら(ちゃんと)浜松の自宅にいるというのも同様。)しかし今夜の私は、全く酔っていなかったのである。あなたは疑っているかも知れないが、パーティと反省会の酒は、完全に抜けていた。私の頭脳は完全に明晰だったのだ。上述したように、いちいち合理的な判断を下しているのである。
例えば、駅のロビーの様子が異なることを、なぜ不思議に思わなかったのか。まず、深夜の(ひとけの無い)駅の構内は、基本的にどこも良く似ているのである。階段、エスカレータ、柱、改札口といった、駅の構成要素は、特に同じJRであればどこも似たようなものであり、駅が駅として合理的に出来ている限り、どこでもその配置(位置関係)は、それほど変わるものではない。また、特に駅の個性が出るのは構内の「売店」の類であるが、深夜にはそれらのシャッターは、全て閉まっているのである。
それに加えて、私は今朝、浜松駅の新幹線の改札口付近で工事が行われているのを目撃していた。当然、在来線側でも工事が行われていることは予想できたし、工事が行われている駅構内というのは、普段と様子が異なって見えても当然である。タクシー乗り場までの距離感覚の違いも同様である。
ホームの柱や掲示には「静岡駅」と明示されていたはずである。何故、私はそれを読まなかったのか? 「読むわけが無い」。ここが浜松駅であると「知っている」のに、わざわざ柱を確認する人がいるであろうか?
..このように、私は「確信をもって」、静岡駅を浜松駅として認識したのであった。もしもあなたがミステリファンなら、このシチュエーション(あるいは心理的トリック)を援用している作品のタイトルを、スラスラと並べることが出来るはずだ。そのリストには、傑作・名作が綺羅星の如く並ぶであろう。(飛んでもないネタバレリストになるので、わざわざ私宛にメールしてくれなくてもよろしい [;^J^]。)私が直ちに連想したのは(書名は伏せるが)とある「列車消失トリック」で、読んだ当時は、これほどの大トリックが現実に成立するだろうか、と、いささか懐疑的だったのであるが、「確実に成立する」ことを、今夜、身をもって確信出来たのであった。
タクシー代+追加の電車代で、1890円。ちょうど映画1本分だが、これほどのセンス・オブ・ワンダーを味わわせてくれる映画は、滅多にあるものではない。
目次へ戻るさて、今年の遊びは昨日で終わりである。(厳密には、年末には帰省するのであって、その帰路に伊勢丹大古本市に寄るのであるが、これは別勘定とする。)仕事、仕事。
午前中はクリーニングや郵便局など、野暮用を片付けて、午後から出社。やはり休日は邪魔が入らず、作業が捗る..
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Dec 26 2001
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