2001年10月22日:リブ100ヒヤヒヤ 2001年10月23日:吾妻 WANTED 2001年10月24日:アベルはカインを殺す 2001年10月25日:「碁娘伝」 2001年10月26日:音楽とSF 2001年10月27日:秋祭り 2001年10月28日:「死都ブリュージュ」と「死の都」目次へ戻る 先週へ 次週へ
例によって、いったん帰宅してからバスで天狗へ。カウンターでリブ100を取りだして電源を入れたら..
..「壊れたTV」シミュレータというか..[/_;]..画面が上へ上へと流れている。どうにも止まらない。リブートしても、バッテリーパックを外して電源を入れなおしても、強制 SCANDISK をスタートさせても..まぁどうみても、ソフト的な原因ではなく、ハードだよなぁ..確かに今日の昼間、ちょっと普段握らない方向で、液晶パネルを掴んだが..しかし、そのあとずっと、こんな症状は出ず、まったく正常だったのだが..
これは、コネクタの接触不良のように見える。恐らく、昼間に加えた僅かに無理めの荷重が、今ごろになって効いてきたのであろう。分解してコネクタを挿し直せば、直りそうな気がする..
..ので、慌てて帰ることはせず、十分に飲み食いしてから帰宅。いささかなりとも重い気持ちで電源を入れ直してみたら..
..症状が消えている [;^J^]..一番、始末に困るパターンなんだよなぁ。今さら分解して裏目に出ても業腹だし..ま、見なかったことにするか [;^J^]。
目次へ戻る出社前に浜松西郵便局に寄り、昨夜不在通知を受け取っていた「月刊プレイコミック 1980/02 号」をゲット。吾妻物件である。
吾妻リストの完成度も、じわじわと高まりつつある。まだ要調査案件が84件残っているが、手塚治虫の要調査案件よりは、一桁以上少ない。
そろそろ、日記でウォンテッドしてもいい時期であろう。以下の雑誌をお持ちの方(または所在をご存知の方)は、一報して下さると幸いです。
テレビマガジン(1972年度) テレビランド(1973/06) 月刊プレイコミック(1979/07) 月刊少年チャンピオン(1977/09,10,11) 「ナマズン」の初出誌(「冒険王」と推測しているが、未発見)
他にもいろいろ(合計84件)あるのだが、以上が、特に切実な案件なのである。
目次へ戻る「変な憶え方をしてしまった」ために、エライ目にあった(あい続けている)という人は、少なくあるまい。私にも憶えがある。二例あげよう。
まず、「エベレスト」。いまでは普通、チベット語名で「チョモランマ」と呼ばれている山だが、私の学生時代には「エベレスト」と呼ばれていた。これの憶え方である。
「エレベーターはエレベートの比較級なので徐々に上昇し、最上級が一番高いところになるから、ここがエレベスト..じゃなくって、エベレスト」..こともあろうに、中学時代の(確か)社会科の先生が、このくだらない憶え方を教えてくれやがったのである [;^J^]。以来半生にわたって、「..じゃなくって、エベレスト」、と、頭の中でやらかしているのである。「エベレスト」と書いたり言ったりするたびに [;^J^]。大体、なんなんだよ、その「..じゃなくって、」は!! [;^O^]
もう一例。「アベルはカインを殺す」。
聖書をご存知の方なら、これは“逆”であることがお判りであろう。「カインがアベルを殺した」のである。では、「アベルはカインを殺す」とは、何か?
モーリス・ルブランの著作であり、数ある「アルセーヌ・ルパン」シリーズの中でも最高傑作のひとつである「棺桶島」。これはまさにゴシックロマン(あるいは「疑似ゴシックロマン」)の香り高い、恐怖の名作であった。
ヒロインは「棺桶島」で、全く孤立無援の状態で、次から次へと恐ろしい目に合わされ続ける。「棺桶島」から船で脱出を試みた島民たちは、追跡するモーターボートから掃射されるマシンガンで皆殺しにされ、4人の謎の老婆たちは十字架にかけられて殺され、ヒロインのふたりの息子たちは仮面を被せられて、ヒロインの目の前で決闘(殺し合い)を強いられ..そしてこれらの恐ろしい(おぞましい)事件は全て、とある「予言詩」の中に、あらかじめ歌い込まれていたのである..ヒロインのふたりの息子の「殺し合い」のシーンに相当する、その予言詩の一節が、「アベルはカインを殺す」。つまり、「兄(アベル)が弟(カイン)を殺すであろう」、と、予言されていたのであった!(無論、「恐るべき予言詩」としては、「聖書の記述とは“逆”である」ことに意味があることは、言うまでもあるまい。)
これが、私に刷り込まれてしまったのだった。「アベルとカイン」と来れば、「アベルはカインを殺す」..「..じゃなくって、本当は、カインがアベルを殺したんだってば!」..
..半生にわたって、これを繰り返し続けているのである [;_ _]..そして恐らく、死ぬまでずっと [;_ _][;^.^]..
目次へ戻る「碁娘伝」(諸星大二郎、希望コミックス、潮出版社)を、購入、一読、傑作、必読!
..ま、この作者にも中国物にも興味が無いとおっしゃるのならば、無理には薦めませんが、これはなかなか良いですよ。(全て、初出誌(あるいは別の単行本)で既読であったが。)一体全体、どうして、碁の定石や打ち方に合わせてチャンバラしなくちゃならないんだ、とか、理屈をいいだしたらキリがありませんが、そんなことは気にしないのが吉。気楽に行こうぜ、気楽に。
目次へ戻るSFマガジンの今月号の特集は、「音楽SFへの招待」である。なかなか興味深いテーマであるので、この特集のコンテンツは(例によって小説以外は [;^J^])エッセイや対談に至るまで、ひととおり目を通した。
ひとりぐらいはいるだろうと思ったら、やっぱりいたいた。巽孝之が「プログレSF史序説」というエッセイを寄せており、主としてイエスとELPを中心に、プログレとSFの浅からぬ関係を論じているのであるが..とても面白いのであるが..
..ま、負け組の連帯!? [;^.^] ..などと一瞬でも発想し、慌てて“それ”を頭の中から振り払ったというのは、ここだけの話だ [;_ _]。内緒だよ [;^J^]。
目次へ戻る朝早くからバスで駅前に出て、浜松クリニックで治療と薬。(たいした病気ではないのです。)銀行でいくらか現金を下ろしてから、バスで細江工場へ直行。ここから研究所まで、ほぼ15分間隔でシャトルバスが運行しているので、これで研究所に向かう。
今日は研究所で、私の勤務先の「秋祭り」が開催されているのであった。シャトルバスの運行も、今日だけのことである。(研究所の駐車スペースにキャパが無く、他に代替となる公共交通手段も無いので、細江工場の駐車場を秋祭り参加者の駐車場として利用するために、こういう運用になったのであった。)私が細江工場まで(自家用車ではなく)バスで向かったのは、もちろん、秋祭り会場で、目一杯ビールを飲むためである。
盛況である。「プラグド」「アンプラグド」「グルーブ」の3ステージでなかば並行して進む演奏が中心で、「プラグド」は、ホールにおけるロック等のバンド演奏。「アンプラグド」は、エントランスにおけるアカペラやアコースティック・ジャズ。「グルーブ」は、やや狭い目の部屋でクラブ・ミュージック(という言い方でいいのかな?)。やや年配の方がこの部屋をちらりと覗いて、「ディスコみたい..」と呟いて去っていったが、もちろん、「ディスコ」では無いのです [;^J^]。
屋外では、無論、屋台(模擬店ではなく、プロを呼んでいる)が並び、食事とか射的ゲームとか。ビール以外は全て無料というのがポイント高い。中に入れる大きなビニール怪獣もあり、中で子どもたちが転がりまくっているのを、指をくわえて覗いていたら..「君は入らんのか」、と、いつの間にか隣りにいた元会長が、ニコニコと。騙されてはいけない。彼はビデオを構えている [;^J^]。
他にもいろいろ出し物というかコーナーがあったのだが、特に面白かったのが、「自作ハード&ソフトコーナー」で、10数件出品されていた。相当気合いの入った本格的なものから(良い意味で)肩の力が抜けているホビー的なものまで、バラエティ豊かに出品されていたのだが、ハードにせよソフトにせよ、その人の(日常業務における)「得意技」を生かしたものが多く、いわば「展示品」から「人間」が透けて見えるのが、なんとも愉快であった。
「プラグド」ステージのバンド演奏をふたつほど残している時刻だったが、少し早めに引き上げることにし、シャトルバスで細江工場へ。工場前のバス停から駅まで、70分もかかった。さすがに週末はいささか込む。
「天狗」と「銀座ライオン」で飲んでから、バスで帰宅。終日、バス移動の一日であった。
目次へ戻る3週間前に渋谷のタワーレコードで買ってきた、歌劇「死の都」(コルンゴルト作曲、ラインスドルフ指揮、ミュンヘン放送管弦楽団他、BMG BVCC-37095/96)を、ようやく聴く。
初めて聴く音楽である..どころか、初めて聴く作曲家であり、10月8日の日記には「コンゴルド」と書かれていた可能性を無しとはしないが、既に書き直して粉飾済みなので、あなたがそれを確認することは出来ない。(各地のキャッシュをクリアしたいものであることよなぁ。)
もちろん、ローデンバックの「死都ブリュージュ」に基づく作品であり、大いに楽しみにしていたのだが..私が期待していたのとは違うベクトルの作品であった。
それは、この歌劇が原作とは異なる「夢オチ」を導入し、物語中で起きた事件(悲劇)を悪夢の中の出来事として封じ、目覚めた主人公は前向きに生きて行く、という、ポジティブなハッピーエンドになっていることを指しているのではない。確かにこれも大変更ではあるが、それより何より..
..私は、「死都ブリュージュ」の「ストーリー」を、おぼろげにしか憶えていない。それは必ずしも歳のせいではなく、この「小説」においては、亡き妻を偲ぶ男が、生前の彼女と瓜二つの女に出会い..という「ストーリー」は脇役でしかないのであって、「死都」の圧倒的なイメージが全てを覆っている。「死都」を描くための道具として、「ストーリー」が奉仕しているのである。
この音楽は、「死都」を描いていない。作曲者は、明らかに「人間」を描こうとしている。それは必ずしも間違っていないし、さもなくば、この感動的な結末はなかった。一聴をお薦めできる名曲である。しかしやはり、わたくし的には残念だったかな..
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Oct 31 2001
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