*2000年04月10日:人間ドック/灯台もと暗し
*2000年04月11日:「ひじりれい」じゃないっ
*2000年04月12日:石原発言について
*2000年04月13日:樹木について
*2000年04月14日:三流エロ劇画の世界
*2000年04月15日:道に迷う
*2000年04月16日:再び道に迷う
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*2000年04月10日:人間ドック/灯台もと暗し


 人間ドック。ほぼ前年並みの結果であり、有意に悪化した数字はひとつだけ。γGTPである。正常値(標準値)のレンジを逸脱したのも、これだけだ。

 悪化したといっても、実は一昨年の数字に戻ったのであって、そもそも昨年の数字が理不尽に良すぎたのだから、これは悪化とは言わない(..それは違うぞ [;^J^])。全く何一つ節制しなかったのに、劇的に良い数字が出た昨年は、医師に、「一年間でこれだけ改善できたのは、立派なことですよ」、と、大いに誉められて、まことに居心地の悪い罪悪感を感じていたものだが..それからも解放されて、晴れやかな気分である(..それも違う [;^.^])。

 エコー検査の担当者は、若くて美人。大吉。いや全く、胸から腹まで暖かいローションを塗って、のしかかってグリグリして下さるのが、お爺さんだった日には..

 15時前に病院を退出。その少し前に、(昨日、定休日でもないのに閉店していた)I市の某古書店に、今日は開店しているかどうか、確認の電話を入れる。「ええ..一応、開いています」。“一応”に一抹の不安を感じつつ [;^J^] 病院から車を飛ばして1時間..

 ..なんとまぁ。

 町中の小さな古書店なのだが、引き戸を開けて、いきなり目に飛び込んできたのが、早川書房の「世界SF全集」の全巻揃いである。さらに、SFマガジンのバックナンバー。奇想天外のバックナンバー。銀背。サンリオSF文庫。元々社。久保書店のQ−Tブックス。ハードカバーの多くは、海外SFノベルズを中心とする早川書房。無論、ハヤカワSF文庫の“青背”や創元推理文庫(創元SF文庫)もあるのだが、SFの文庫本のメインは、サンリオ(と、銀背)なのである。このバランス感覚。

 漫画の在庫の主力は、サンコミ、サンワイド、虫コミ。そして圧倒的に、(講談社の全集を中心として)手塚治虫である。これはもう、完全にバランスを逸しているとしか言い様のない量なのである。また、数十万クラスの、いわゆるプレミア物(今風に言うと“お宝”)も色々あるが、それのほとんどが手塚治虫か横山光輝(と、水木しげるが少々)である。あと、ソフビなどの玩具系。

 銀背が一律1000円は、やや高いと思う。しかし、サンリオも一律1000円なのは、確実に廉いと思う。上述のお宝類を別にすると、決して高い店ではない。1971年の少年チャンピオンの、探求号がたまたま見つかったのだが、これは300円だった。

 残念ながら、ここにも聖レイは無かったが、今日のところは、その少年チャンピオンと銀背4冊。久保書店のヴァン・ヴォークトを1冊。もう少し丁寧にスキャンしたいので、出直す予定。

 「静岡県に、こんなにマニアックな店があるとは思いませんでしたよ」、と、若主人に話しかけたら、SFのコレクションも手塚治虫のコレクションも、個人的な趣味で買い集めてきたものだとのこと。さもありなん。全体のバランスが、どう見ても「在庫」ではなく「蔵書」なのである。しかしもちろん、商売にも熱心で、昨今の狂乱相場(というか相場の乱高下)で、仕事がやりにくくってしょうがない、という話など、思わず話し込んでしまった。私としては珍しいことである。常連になってもいいかな。なにしろ、自宅から車で、僅か16.5Kmなのである。灯台もと暗し。

 (不安要素もある。「..一応、開いています」の理由なのだが、腰を壊してしまい、入院するかも知れないとのこと。昨日も病院に行っていたのであった。まぁ、店をたたんでしまうことは無いと思うけど。)

 この店は、電話帳で見つけたのである。ここに重大な教訓がある。別に古本屋に限ったことではない。ガイドブックの類や、インターネットだけに頼っていては駄目。基本は電話帳。

 実際、私の近年の古書購入方法と言えば、自動的に(定期的に)送られてくる古書店の目録からの発注、インターネットでの検索(と探求書登録)、たまの上京時の(定番の)主要古書店めぐり、ぐらいに限られていたのである。確かにこれらは有用で強力なツールであり、特に「目録買い」と「インターネット」は、自宅にいながらにして収集できるという、便利この上無いものなのであるが..例え地方都市であっても、基本は“足”だ。

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*2000年04月11日:「ひじりれい」じゃないっ


 「スーパー源氏」で、聖レイの「肉色ゲーム」を発見、即発注。足も足だが、やはり、インターネットは便利である。[;^J^]

 今さらながら、念を押し忘れていたのに気が付いた。「ひじりれい」または「ひぢりれい」または「聖麗」というエロ漫画家がいるようだが、(多分、この“3人”は同一人物だと思うのだが、)“彼ら”は「聖レイ」とは別人なので、お間違えなきよう。「ひじりれい」(“じ”ではなく“ぢ”だったかも知れないが)の単行本の表紙を見たことがあるのだが、(ファンの方には申し訳ないが、)これは全く、金輪際、私の趣味では無いっ

 「聖レイ」は知らないが「ひじりれい」なら知っている、という人が、私が探求しているのは「ひじりれい」だと早合点して、「へぇぇ..こういうのが、倉田わたるの好みなわけね..ふぅぅううぅぅぅん..」..という可能性に思い至って、狼狽してしまったのだった。

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*2000年04月12日:石原発言について


 石原都知事、ついに本領発揮。

 テレビで(自衛隊に“檄”を飛ばしているところを)ちょっと見ただけだが、「三国人」という言葉の問題などは、全く本質的では無い(相対的に言えば、どうでもいい)ことなのではないか?

 大災害に乗ずる(かも知れない)勢力に対して、治安出動をせよ、とは。関東大震災におけるパニックを再現せよ、とでも言いたいのか。大体、警察(機動隊)の立場はどうなる。

 ところが、今日の時点では、この「発言の本質」は、マスコミには、二の次三の次とみなされている由。「三国人」という、強烈な(しかし、若い世代のほとんどには馴染みの無い)言葉「自体」が、噛みつかれている。

 思うつぼだね。これは、カモフラージュだ。

 「三国人」という「言葉」に噛みつけば噛みつくほど、自衛隊を(ほとんど超法規的に動けと)煽った、という事実が、霞んでしまうのだ。

 既に、韓国系の団体や、人権関係の団体などから、案の定、(「三国人」に)強烈な反発が出ているようだが、上述のとおり、石原都知事のプラン通りなのだ。仮に(考えにくいことだが)都知事がそこまで考えていなかったとしても、結果的には、「三国人」という言葉に重点的に反応した人々は、石原都知事の思惑通りに踊らされたことになるのである。

 私が石原都知事か、または彼のブレーンの立場なら、絶対にそうするが、「言葉狩り」方面に煽ることが出来れば、ことの本質が、ますます見えなくなる。

 「差別用語」を「狩る」ことにのみ汲々としてきた、日本社会とマスコミが、それを逆手に取られているのである。ことの良し悪しや評価はさておき、さすがは(元)作家である。今後の展開が(良かれ悪しかれ)楽しみだ。

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*2000年04月13日:樹木について


 「東京理科大学(理工学部)」を出たことについては、格別の感慨は抱いていない。いい大学だったとは思うが、それ以上の想いはない。

 しかし、「神奈川県立 希望ヶ丘高等学校」の卒業生であることは、私の人生の誇りである。1977年3月に卒業したので、今の状況は知らないが、23年前の希望ヶ丘高校は、まさに、誇るべき学校であった。

 日本一、素晴らしい高等学校であった、と信じている。

 伝統校である。何しろ前身が「神奈川県立 第一中学校」なのだ。(だから、「神中」とも「神高」とも呼び習わされていた。)また、いわゆる進学校でもある。進学校としての“ランク”は、神奈川県下でも5指に入っていた(上から3番目位か?)と思う。

 しかし、ちょっと考えてみて欲しい。前身が「神奈川県立 第一中学校」なのに、今は上から3番目なのである。伝統から考えれば、当然、県下のトップであるべきはずなのに、後輩高校に“抜かれている”のである。そう、いわゆる進学校としての“格”、判りやすく言えば“東大合格率”は、緩やかな長期低落傾向にあったのだ。

 当たり前である。なにしろ、この高校では、「受験教育らしい受験教育を、いっさい、しなかった!」のであるから。

 県下で5指に入る進学校であるから、各中学校からは、成績のいい生徒が集まる。入学できるのは、中学校の各クラスの、トップか、2番目位までだった。とはいえ、ガリ勉タイプばかりではなく、(と言うか逆に、ガリ勉タイプはほとんどおらず、)それなりに不良っぽい連中も入ってくるのが、意外でもあり、面白くもあったが..不良といっても、成績は(中学校のクラスでは)ほぼ一番の連中であるから、どこか“お坊ちゃん”というか、“すさんだ”雰囲気が全くなかった。判りやすく言えば、「不良の風上にも置けない奴ら」と言ったところか。[^.^]

 無論、「校内暴力」などは、皆無であった。「校内暴力」という概念は、(用語は違ったと思うが、)無論、知っていたよ。なにしろ僕らは、「愛と誠」や「男組」を、リアルタイムで読んでいたんだからね。(つくづく、濃い世代だぜ。[;^.^])

 そういう、「出来の良い生徒」を集めた希望ヶ丘高校の校風は、ひとことで言えば、「自由」であった。「自学自習」が、モットーだったのである。

 典型的な事例で示そう。「試験」が、3年間で「9回」しか行われなかったのである。「中間試験」が無かったのだ。各学期の期末試験だけ。(3年間で「8回」だったかも知れない。3年生の三学期の期末試験が行われたかどうか、どうしても思い出せないのだ。)

 「なんと羨ましい。全然、勉強する必要が無いではないか」、と思うかね? 事実はむしろ、逆なのだ。中間試験が無いと、非常にきついのである。試験の出題範囲が、べらぼうに広くなるのだ。一年間に3回しか試験が無いと。

 つまり、“勉強に専念したい”生徒に取っては、中間試験どころか、例え毎週でも、小刻みに試験を積み重ねてくれる方が、有り難いのである。しかし、「“勉強に専念したい”生徒ばかりではない」。これが、希望ヶ丘高校の思想だったのである。「“勉強に専念したいわけではない”生徒が、課外活動などに十分な時間を割けるよう」、試験の回数を、極限まで減らしたのだ。「“勉強に専念したい”生徒は、自分の責任でペースを配分して勉強してくれ」。これが、「自学自習」の意味である。(「塾で補っている」連中は、いなかったと思う..というか、我々の世代の「出来の良い生徒」は、塾に通うことを、恥としていたところがある。仮に通っていたとしても、それを隠していたはずだ。(だから、私が知らないだけなのかも知れない。))

 補足しておくが、3年生になっても、いわゆる「模擬試験」の類は、行われなかった。(予備校の模擬試験のために、会場を貸すことは、あった。)一学期と二学期(と三学期)の期末試験だけ。

 ..“東大合格率”が、伸びるわけ無いわな。[;^J^]

 唯一、受験を意識した施策と言えば..3年生になると、「文化系志望」クラスと「理科系志望」クラスに分けられたことである..こんなことは、普通の高校(進学校)の常識だろうが、逆に言うと、「3年生までは、志望別のクラス分けは、なされなかった」のである。

 つまり、「文化系志望」だろうが「理科系志望」だろうが、「現国」「古文」「漢文」「英作文」「英語読解」「数学I」「数学IIB」「物理I」「化学I」「生物I」「地学I」「地理A」「地理B」「日本史」「世界史」「音楽」「美術」「体育」は、共通科目として、全員が履修したのである。(「技術/家庭」系の科目もあったかな。あと、なにか「現代社会」だか「哲学/思想」だか、とにかくそういう内容の科目があったはずである。まだ何か忘れてる気がするし、科目名には多少の記憶違いがあると思うが、なにしろ四半世紀前のことなので、勘弁していただきたい。)

 これは、最高に素晴らしい教育方針だったと信じている。受験に全く関係の無い科目が、誰にとっても半数以上になるはずだが、それこそが、少年・少女の人生の肥やしになるのである。

 (もうひとつ、受験を意識した施策があったのを思い出した。3年生の秋までは、体育の授業で(男子の場合)ラグビーなどの、荒っぽいものをやっていたのだが、冬になると、「指を怪我すると受験に差し支える」という理由で、体育の授業内容は(もちろん男女合同で)「社交ダンス」に切り替えられたのであった。う〜ん、受験教育。[^.^])

 この希望ヶ丘高校で、私は3年間、吹奏楽部に所属していた。典型的な「文化系」クラブであるが、世の「吹奏楽部」には(ほとんど語義矛盾だが)体育会系というか、とにかくスパルタ的特訓を行うところが珍しくなかった(今でも珍しくもあるまい)中で、まぁ、牧歌的というか、音楽することを楽しんでいたクラブであった。その分、まじめさに欠けたり、緩んでいたりする部分もあったが、早朝からの朝練や合宿も含めて、そこで「生活している」時間は、確かに長かった。

 この学校の環境を説明し忘れていたが、「丘」の字からも明かなように、大した高さではないが「丘」の上にあり、回りは林で囲まれていた。「林」といっても、深く、幅があり、どのくらい深い(幅がある)かというと、山岳部が、トレーニングとして、この林の中を、20〜30Kgの荷物を担いで、(クロスカントリーと言うか)トレッキングしていた位である。(校庭も広かった。球技大会の折りには、確か、ソフトボールの試合が、一度に4つ出来たはずである。サッカーにせよ、ソフトボールにせよ、「光」と「音」の伝達速度の違いを、体感できる環境だった。)

 吹奏楽部の部室は、「部室長屋」から外れて、この「林」の中にあった。(騒音公害の発生源だから、遠くに追いやられていた、という面はあろう。)そしてそこは、治外法権の無法地帯であった。[;^.^]

 今でも、ほとんど信じられないのは..秋ともなると、林の中で落ち葉に埋まっているというのに、平気で焚き火をしていたことである。この焚き火で作った「焼きリンゴ」の美味しさは忘れられないが、しかし、火災の危険は、確実にあったのだ。吹奏楽部の顧問は何をしていたのかっ(..つまり、生徒にまかせっきりで、ほとんど監督していなかったのである。)

 また、毎日、日が落ちて夜になるまで練習していたわけだが、(朝は何時から、夜は何時まで練習していたのか、どうしても思い出せない、)体育会系とは異なり、体力を消尽する活動でもなかったので、夜の練習が終わってからは、「部活動の課外活動」としか言い様がないのだが、一部の男子の間では、「ソフトボール」の練習が盛んであった。部費で購入したはずが無いのに、何故か、ボールもバットもグローブも、一式揃っていたのである。(こ、光画部..[;^.^])私も毎日、素振り100本は、欠かさなかった。

 無論、(広い)校庭では他の体育会系のクラブが活動しているので、我々は、吹奏楽部の部室のすぐ近くにあるバレーボールのコート(2面か3面の広さがあったはず)で、ソフトボールの試合もどきをしていた。(なぜか、このコートは空いていることが多かった。)ネットは張ったままである。だから、送球はネットの上か下を通す必要があったし、打球は、敢えてネットにぶつけて守備を攪乱するなどの技が駆使された。

 バレーシューズなど、履いているわけが無い。また、雨上がりだろうが、それどころか多少の雨が降っていようが、ソフトボールをやめるほどの根性無しでは無いので、半ばぬかるみと化しているコートでも、平気で試合(もどき)をした。結果、もちろん、コートズタズタ、バレー部カンカンの、悪逆非道。(こ、光画部..[;^.^])

 この部室の北側の裏は、私の好みのスポットで、鬱蒼とした樹木に囲まれた、ごく小規模な“窪地”になっていた。その中心部には、名も知らぬ、高さ7〜8メートルほどの木があった。ここの薄暗さは、この樹木の枝と葉によるところも、大きかった。ここで私は、毎日、夏は蚊に悩まされながら、トロンボーンの練習をしていた。

 直径10メートルほどのエリアであろうか。そこには、多くの虫たちがいた。中には、ほんの幼生時代を過ごすだけで、やがて外の世界の飛び立ってゆくのであろう虫たちもいたが、しかし一生、この、薄暗い、直径10メートルほどの世界から出て行かないのであろう、小さな小さな虫たちもいた。

 その、小さな小さな虫たちにとっては、ここが「全世界」なのだ。

 ここより外には、「世界」は無いのだ。

 この窪地の外縁が、「世界の涯」なのだ。

 その、いと小さき彼らにとって、この、高さ7〜8メートルの樹木は、何か。

 それは、もちろん、「世界樹」なのであった。

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*2000年04月14日:三流エロ劇画の世界


 聖レイの「肉色ゲーム」が届く。これで10冊。あと(少なくとも)15冊。

 2週間前、「数コマどころか数ページに渡って、別の作品の原稿が、そっくりそのまま挿入されて、セリフだけ変更されていたりする」と指摘したが、(こういうことが可能なのも、キャラクターの“互換性”が非常に高いからなのであるが、)今回、もっと凄いのを見つけたぞ。「作品まるごと再利用」である。

 「肉色ゲーム」(JOY COMICS、サン出版、80/01/03)に収録されている(さすがにタイトルを書き写すのも恥ずかしいので伏せるが [;^.^])「Y」という作品と、「オレンジGal通信」(JOY COMICS、サン出版、84/05/03)に収録されている「A」という作品は、タイトルが違うだけの同一作品である。強いて言えば、「Y」は、途中で写植が連続してふきだし3つ分(編集ミスで)欠落しており、4年後に単行本に収録された「A」では、これが直されている。もう一箇所、「Y」では写真(または写真を掲載した印刷物からの切り抜き)を貼り込んだと思しきコマ(夜の道路)が、「A」では手描きになっている。いずれも初出誌不明だが、恐らく、「A」を描いている時間が無かったので、旧作「Y」のタイトルと写植の欠落等を直して、編集者に渡したのであろう。(貼り込みのコマを描き直した理由は不明だが、推測するに、剥がれ落ちて(紛失して)しまったのではあるまいか。)

 (書誌的に細かいことを言うと、JOY COMICS には初版再版などの記載が無いので、この出版年月日が、初版の日付かどうかは判らない。が、ここでは略すが、いくつかの周辺状況から、恐らく初版の日付であろう、と、推測できる。)

 まぁ、手塚治虫の初期作品でも、別の雑誌等に再録される時に(本体には手を入れずに)タイトルだけ変更する、ということはあったと思う。(“思う”というのは、確信が持てないからである。私の手塚治虫(及び吾妻ひでお)調査は、基本的に“初出”誌調査であり、再録は追跡していないのである。)他の漫画家でも、同様の事例はあるだろう。しかしその場合、それらを「別の作品」として単行本に収録することは、まず無いと思う。これが別の出版社の単行本ならば、手違いとか勘違いとか政治的な理由とかも考えられないではないが、今回のケースでは、どちらもサン出版の JOY COMICS なのである。全く、この雑でいい加減な仕事ぶりが、なんとも嬉しいではないか。[^J^]

 しかし、本能的に“照合”してしまうとは..ビブリオグラファの呪われた血である。業病なのである。(ここで念のために宣言しておくが、私は「聖レイの作品リスト」を編集・発表するつもりは、無いからねっ。)

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*2000年04月15日:道に迷う


 来週後半、浜名湖畔の「カリアック」という施設で、一泊二日の研修を受ける。大体、年に一度ほど、ここでなんらかの研修を受けているのだが、(丁度、自宅の近所のバス停からバスの便があるので、)これまでは、いつもバスで出向いていたが、行きはともかく、二日めの退去時に何かと不便なので、今年は自家用車で行くことにした。で、バスなら(確か)1時間以上かかるが、車ならどの位かかるか、あらかじめ時間を計っておこう、と、(当日の集合時刻である)朝8:45に余裕を持って着くであろうと推測される時刻に、自宅を車で発ったのだが..

 ..道に迷ってしまった。[;^.^]

 思いっきり言い訳をするが、年に一度は行くと言っても、バスでうたた寝しながらだったから、道を覚えているわけでは無かった、と言うことと、もうひとつ、「カリアック」のホームページからダウンロードした地図が、間違っていた(というか、古い)のであった。目印のはずのガソリンスタンドが、既に存在しない。信号機の名前が、違っている..

 ということで、まぁ最終的には「カリアック」に辿り着けたのだが、時間の測定は失敗してしまったので、明日、リトライする。ま、道は判ったのだから、問題無く測定できるだろう..

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*2000年04月16日:再び道に迷う


 ..ま、またしても、時間の測定に失敗してしまった [;^.^]。

 昨日、道は覚えたので、今日は「カリアック」まで、楽勝でアプローチ出来たのである..が、最後の最後で気が緩んだか、気が付いた時には「カリアック」の門の前を、遙かに通り過ぎてしまっていたのだった [;^.^]。何分前に通り過ぎたのか、判らん [;^.^]。

 再度アプローチしようと、元の道に回り込んだ..はずだったが..これが、「良く似た別の道」であった。オッケー、良くあることだ。そこで、Uターンして引き返した..はずだったが..先ほど、いつのまにか(気が付かないうちに)合流していたらしい道の方に、入り込んでしまった。良くあることだ..

 ..これを、2回やった。

 いつしか私は、見知らぬ、気持ちの良い有料道路を走っていた。思わず、パワーウィンドウを全開にして、春の快晴の日の風を浴び、胸一杯に吸い込む..

 ..コンテクストを見失うなよ、葉桜並木を堪能している場合じゃないだろっ! [;^O^]

 それやこれやで、迷い始めてから1時間ほどで「カリアック」に辿り着いたが、もういい、時間測定は、やめっ!

 いったん帰宅してから、アンプを車に積んで、ジョーシンへ。修理出しである。しばらく前から、右チャンネルの音量が非常に小さくなってしまっていたのだった。無音になるわけではないので、バランスを調整すれば、普通に聴くことはできるのだが、本来あるべきではない状態になっていることには違いないので、とっくの昔に保証期間は終わっているが、これは修理するべきだ。

 問題は、15年前に買ったアンプだということだが..サンスイのロングセラー機だし、そんなにややこしい専用部品を使っているとも思えないので、恐らく、修理可能だろう。いくらかかるかなぁ。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Apr 19 2000 
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