2000年01月17日:ペトロニウスに乾杯! 2000年01月18日:あらすじ考 2000年01月19日:続・あらすじ考 2000年01月20日:ウィルス騒ぎ 2000年01月21日:バービーちゃんの流れで 2000年01月22日:少し、幸せになる 2000年01月23日:CDプレーヤー、逝去目次へ戻る 先週へ 次週へ
阿諛(あゆ)追従。こびへつらい。誰が考えても、あまりカッコイイ行動ではない。もちろん、社会生活を送っていく上で、これが必要とされる局面はあるのであるが、大多数の人は、出来ればこんなことはしたくない、と考えているのではあるまいか。私もそうだ。
しかし、文学作品などで、実に「“カッコイイ”阿諛追従」を読んでしまうと、話は別だ。俺も、こんなことが出来るようになってみたい! と、盛り上がってしまう。
「“カッコイイ”阿諛追従」とは、ほとんど語義矛盾ではないか、と、思われそうだ。忘れがたい実例を示そう。Henryk Sienkiewicz の小説、「クォ ヴァディス」である。
これは、ネロの時代の物語。暴君ネロの側近のひとりで洒落者の貴族、「サテュリコン」の作者として伝えられているペトロニウスは、「趣味の審判者」と呼ばれ、ネロに一目置かれていた..というより、ほとんど恐れられていた。ネロ自身は、身の程知らずの芸術家気取りで、詩は作る、踊りは踊る、戦車競技にも出る。そしてそのいずれの分野においても、ローマ帝国最大の巨匠を自認していたのであり、それを「保証」していたのが、「趣味の審判者」ペトロニウスだったのだ。少なくとも芸術の分野では、皇帝はペトロニウスの意に従って行動し、詩作等に励んでいたのである。
もちろん、ネロは、それほどの才能の持ち主ではなかった。ペトロニウスに踊らされている「裸の王様」だったのだ。そういうペトロニウスであればこそ、もちろん、政敵はいくらでもいた。(嫉みを買わない方が、どうかしている。)そしてまた、そんなことを気にかけるペトロニウスでも無かったのである。(昼は寝て、夜は宮廷で贅沢な快楽生活を送っていた、この通人は、一度として民衆の機嫌を取ったことはなかったにも関わらず、その人気は絶大で、民衆の寵児でもあった。全く、飛んでもない儲け役である。)
以下、少し長くなるが、ペトロニウス対ネロの白眉のシーンを、岩波文庫版(河野与一訳)の「中」巻の第18章から、引用しよう。(ここで、ヴィニキウスはペトロニウスの友人、ティゲリヌスはペトロニウスとネロの寵を争っていた政敵である。)
この人物の驚くべき巧妙さは、その勢力があらゆる他のものより続くという人々の確信を強めた。人々は皇帝がこの人なしにやって行けるとは既に考えなくなっていた。この人がいて初めて皇帝は詩や音楽や競馬の話ができ、この人の眼附を窺いながら、自分の作ったものが本当に完全かどうか決定することができたのである。ところがペトロニウスはいつもの投げやりから、自分の地位を何とも思っていないようであった。いつものように怠惰で無精で辛辣で懐疑的にしていた。とかく人々の受ける印象では、人々も自分自身も皇帝も全世界も莫迦にしている人間のようであった。時々は皇帝に面と向って非難を敢てしたが、人々の目に行き過ぎると思われたり、手もなく自分自身の破滅を醸していると思われた時にも、突然その非難を一転する手腕があったので、それが自分自身の利益に変り、居合わせる人々を驚嘆させて、ペトロニウスが勝利を以て切抜けないような場面はないとまで確信させた。一度などは、ヴィニキウスがローマから戻ってかれこれ一週間程経ってから、皇帝は少数の集まりで自作のトロヤの詩を朗読し、それが終って讃嘆の叫びが鎮まってから、皇帝に眼で訊かれたペトロニウスはこう云った。
「価値のない詩です。火に燻べる他ありません。」
居合わせた人々はぞっとして心臓の鼓動も止まった。ネロは子供の時から一度として誰の口からもこういう判断を聞いたことはなかったからである。ただティゲリヌスの顔だけは喜びに輝いた。ヴィニキウスが立ちどころに青くなって、一度も酔ったことのないペトロニウスがこの時は酔ったのだなと考えた。
しかしネロは甘たるい声で、しかもそこに深く傷つけられた自惚を響かせながら、こう訊いた。
「この何処がよくないと思うのか。」
するとペトロニウスは攻撃を始めた。
「この人たちをお信じになってはいけません。」と手で周りの人々を指しながら云った。「みんな何もわからないのですから。この詩の中で何処がよくないとお訊きになるのですか。本当の意見をもう一度申し上げましょう。ヴェルギリウスにならいいでしょう。オヴィディウスにならいいでしょう。ホメロスにさえいいでしょう。しかし陛下にはいけません。陛下はこんな物をお書きになってはなりません。お書きになっている火災は燃え方が不足です。陛下の火では十分に焼けません。ルカヌスの諛いなどお聴きになってはいけません。この人がこれと同じ位の詩を作れば私は天才だと認めますが、陛下にはそう申上げられません。何故だか御存じですか。陛下はこの人々よりも崇高だからです。陛下ほど神々から物を授かった方にはこれ以上の物を期待することができる筈です。それだのに陛下は怠けておいでになります。食後にはあまり御勉強になるよりもお休みになる方がよろしゅうございましょう。陛下には今まで世界が聞いたこともない作品がおできになります。それだからこそ私は、御前でこう申上げます。もっといい物をお書き下さい。」
そう話ながら知らず知らず嘲弄すると同時に咎め立てするような調子になったが、皇帝の眼は満足のためもやもやして、こう云った。
「神々は私に僅かの才能しか授けなかったが、その他にもっと大きなものを、即ち、唯一人面と向って本当の事を言ってくれる誠実な鑑識家である友人を授けた。」
そう云ってから、皇帝はその脂ぎった、赤い毛の生えた手をデルフォイから掠奪して来た黄金の燭台の方に伸ばして詩を焼こうとした。
しかしペトロニウスは、焔がパピュロスにつかないうちに、それを取り上げた。
「いけませんいけません。」と云った。「こういう風に価値のない詩でさえ人類のものです。それは私にお預け下さい。」
くぅぅぅぅ〜〜〜〜〜ッ!! カックイッ!!
かっこ良すぎるぞ、ペトロニウス!! 私も、こんな奸臣になりたかったっ!![;^.^]
阿諛追従も、ここまでくれば、完璧。堂々たる「弁論術」というより、もはや「芸術」の高みにまで達していると言えよう。
目次へ戻る以前も話題にしたことがあったと思う。年に一度くらい、ネットニュースにも投稿されているような気がするのだが、「多くの本を、いちいち全部読んでいられないので、とにかく、粗筋だけ押さえておきたい。それに役立つ便利な本はありませんか」、というリクエスト。
あらすじだけ読んでも、本の内容が血肉になるものではないし、こういうリクエストに対しては、どうしても批判的になってしまう(というより、からかいたくなってしまう)のだが..たまには、建設的に(前向きに)このリクエストについて、考察してみよう。
まず、「あらすじ集」は、確かに役に立つことがあるのだ。実際、私も何冊か持っているし、しばしば有効に活用している。(例えば、自由国民社の「総解説シリーズ」など。)そして、その「役に立ち方」は、当の書籍を未読の場合と既読の場合で、いささか異なる。
いずれの場合でも、リファレンスとしては、確かに使える。「登場人物の名前」から「書名」を検索することができれば、さらに便利なのだが、まぁ、登場人物名のインデックスなど、大概の「あらすじ本」にはついていないので、この用途には使いにくい。それはともかく、どんな内容なのか、「ざっと」知ることが出来るのは、確かである。そして、当の書籍が「未読」である場合、これ以外の使い道は、まず無い。
当の書籍が既読である場合は、前記に加えて、なんといっても、「記憶の呼び起こしのキー」として有用なのである。短編ならば、「本物」を斜め読み(走り読み)する方が早いが、大長編ともなると、話は別だ。ゲーテの「ファウスト」のアブリッジ版は、実は便利に使わせてもらっている。この類では、他に「水滸伝」や、(多少ニュアンスは異なるが)シェイクスピアのアブリッジなども。ファンには怒られるかも知れないが、「横山光輝版 三国志」も、この用途に使えるのである。(「三国志演義」を読む方が早い、という判断も、ありうる。[;^J^])
いずれにせよ、未読の書籍の「あらすじ」だけよんでも、それは「キーワードの確認」を越えるものではなく、「読書体験」の代替にはならない、ということは、何度でも念を押しておく。
目次へ戻る昨日の続きである。
「あらすじだけ読んで、それで本物を読むことに替えられないだろうか?」という“邪念”は、実は面白い。そういうテーマの作品を、いくつも引っ張って来てくれたからである。
すぐに思い出すのが、高橋葉介の「夢幻紳士 怪奇編」の一エピソード、「老夫婦」である。ここでは、主人公=夢幻魔実也が、死に瀕した若い女性に催眠術をかけ、彼女のこれからの一生の(偽りの)記憶を、植え付けようとする。
無茶である。僅か(高々)数時間で、数十年分の記憶を注入しよう、というのである。情報量が圧倒的に不足する。「あなたは結婚した」「あなたには子どもが出来た」くらいの“解像度”でしか、(未来の)記憶の操作が出来ないのである。その夫がどんな仕事をしているのか、洋服の趣味は、口癖は。子どもの声は、顔は、身長は。それらの細部の情報を(夢幻魔実也から)与えられずに、大雑把な「あらすじ」だけ与えられた女性が、頭の中に組み立てた「未来の人生」。それは、どのような様相をしているのか? そもそも、無事に組み立てられたのか?
鈴木光司の「らせん」。ネタバレにならない程度に書くが、ある「手記」を読んだ人々が、ひとりの例外も無く、その「手記」には「書かれていない」情報を、受け取るのである。(具体的には、「井戸の縁が欠けている」..これは、映画版の設定だったかな?)なぜ、このようなことが可能なのか? 作品中では、「あまりにも迫真的な手記だったから」と説明されているが、それにしても、「無」から「有」が生ずるわけが無いのだ。
乱歩の「パノラマ島綺譚」には、非常に面白い一節がある。その「人工楽園」である「パノラマ」は、もちろん「贋物」なのであるが、その「偽りの自然」は、実に「非現実的に」「整然としている」のである。現実の「芝生」や「土手」は、枯れ葉やゴミや雑草等々で、実に複雑な様相を呈しているものなのであるが、「パノラマ島」の「土手」は、ほとんど緑の絨毯なのである。
この、「パノラマ島」の「単純さ」を、私は実感として理解できる。私は、「夢をコントロールする」ことが(体調次第では)できるのだが、その時の「夢」は、まさにこのような、「細部の複雑さが欠けた、ミクロな視点では単調な」ものにならざるを得ないからである。
つまり、こういうことだ。「自分で、自由に夢の世界(光景)を組み立てる(想像する)」、ということは、その「世界」全体に対して、責任を持たなければならない、つまり、「想像」を「維持」しなければならない、ということなのである。うっかり、複雑な世界を想像してしまうと、それを維持しきれずに、破綻してしまう。だから、例えば、「西にまっすぐ向かう道。左手に林。右手には草原」、と、「想像」した場合、その「道」も「林」も「草原」も、極めて単調な、「茶色一色」「緑一色」なものにせざるを得ないのである。(この状況で、「女をひとり」、(自明な目的で)想像したのはいいが、その女の「細部」を想像するのを失念していたために、恐ろしいものが出現してしまい、驚愕のあまり飛び起きてしまった、という経験は、以前、書いたような気がする。)つまり、乱歩の「パノラマ島」の光景の「単調な細部」に、私は、「恐るべき夢のリアリティ」を読みとってしまうのだ。
情報量が桁外れに少ない「あらすじ」(または「単調な細部」)から、「全体」(または「本物」)を「想像」(または「導出」)することは、情報理論的には、もちろん不可能である。可能なのは、「全体」(または「本物」)とは「無関係」に、「想像力」を「暴走」させることである。このことの「うまい実例」を、ついさっきまで思いついていたのだが、忘れてしまった。その「実例」自体が、(そういう実例があればいいな、という)「想像の産物」だったのかも知れないが。
目次へ戻る出社してみたら、社内メールでウィルス情報。今月18日発売の「キーボードマガジン」(リットーミュージック)の付録CDに、ウィルスが入り込んでいたらしい。これをMacに入れると、最悪の場合、ハードディスクの内容が消える。(Winには感染しないタイプ。)
幸いにも、うちの部署に「キーボードマガジン」が(書店 → 総務経由で)届いたのは、この情報を受信してからであったので、問題のCDは関門である私のところで、取り上げることができたのだが..
..これを、どうしたものか。[;^J^]
「常日頃から、ウィルス対策をしておくよう指示しているし、ちゃんと対策されているMacなら、こんな(旧式の)ウィルスにやられるはずが無いのだから、ここはひとつ、業務上の指示をきちんと実行しているか否かのチェックのために、全てのMacに、このCDを入れて回ろうではないか」、という、私の建設的な提案は、受け入れられなかったし..
目次へ戻るハーピーちゃん、て思いついたけど、駄目かな。
目次へ戻るわけあって、一週間以上前に破損・廃棄したまま、購入する暇がなかったコタツ布団を買って、人心地つく。エアコンはあるので、このかん、凍えていたというわけではないのだが、エアコンとコタツでは、本質的に次元が異なるのである。エアコンは、室温を適正に保つという「必要を充たす」だけだ。対してコタツは、人を「幸せにする」のである。コタツを知らない国民は不幸である。
買い物に出たついでに、書店へ。研究社の新英和・和英中辞典のCD−ROMと、知恵蔵のCD−ROMを買う。英和辞典のCD−ROMとしては、「リーダーズ+プラス」を持っているのだが、いくら和訳からの逆検索が出来るとはいえ、英和辞典は和英辞典の代用としては、ほぼ使い物にならないのであった。「英和」のパートが冗長なので、「和英」単独、というのがあれば、その方が嬉しかったのだが、まぁいいや。「和英辞典」については、「必要を充たす」だけで十分。幸せにならなくてもいい [;^J^]。両方とも携帯するために携速でHDに放り込む。この環境自体は、もちろん幸せである。
また来たぞ、この類のメール。
未来に備えて世界に通じる上級学位をとろう 皆様の経歴・実績を評価し単位換算します 〜学士・修士・博士・名誉博士〜 米国の通信制大学では通学の義務なく、仕事そのものが単位とし て認定されます。論文のみの卒業も可能です。これを機に米国の 通信教育で短期間かつ格安の費用で学位(学士・修士・博士等)を とりましょう。より上級の知識なり資格なりを手にする事により その後の人生の展開が大きくかわると思います。(以下略)
..という訳で、米国の名の通っていない大学で取得された学位には、要注意。怪しげな本の著者略歴をスキャンすると、面白いよ。(暇で退屈で、他にやることがないのなら。)
目次へ戻るいくら、「リンクリストをメンテする気力を失いつつある」とはいえ、整備不良が目に余るので、一念発起して、直しにかかる。わはは、死にリンクで死屍累々 [;^.^]。
なんたることぞ、CDプレーヤー(パイオニアPD−M6)が動かなくなってしもた。まぁ、1986年頃に購入したものなので、文句は言わない。よくまぁ、今まで動いてきたもんだ。今さら修理に出すつもりはない。部品が無いに決まっている。見積もりを取るだけ、無駄だ。
当面は、LD/CDコンパチプレーヤー(パイオニアCLD−7)でCDは聴けるが..これでも(CDは)かかりにくい。そもそもこれでCDを聴いた実績がほとんど無いので、機械の側で、CDに慣れていないと思う。大体、PD−M6と同じ世代の機械だ。CDプレーヤーが壊れた、ということは、これも壊れる頃合いなのだ。
しかし困ったな。何を買えばいいんだ。CD没、LD多分間もなく没、で、いい加減DVDに手を出さなきゃならん潮時だ。ということは、つまり、CDとLDとDVDの再生系を、同時に入手しなければならない、ということだ。
ちょっと調べたら、こういう機種(上記3メディアのコンパチ機)は存在する。しかし高い。LDはまだ壊れていないんだから、CDとDVDのコンパチ機でいいか。
というか、目の前にあるパナソニックのDVD−RAMドライブのマニュアルを調べたら、こいつはCDもDVDも再生できるので(DVDの場合は、MPEG2デコーダーが必要だが)、頭数だけ考えれば、実は何も買わなくてもいいということになるが、こいつのオーディオ系がマトモなわけが無い。DVD再生にしても、二次キャッシュがなく、メインメモリ64Mマックスのリブ100で、まともにこなせるとは思えない。いずれにせよ、専用ドライブが必要なのだ。
それにしても、DVD族のメディアの多様性は、既に暴力の高みに達している。何がなんだか、さっぱりわからん。酷い時代になったもんだ..
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Jan 26 2000
Copyright (C) 2000 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]