*1999年09月27日:「少年パンチ」をさらに発注
*1999年09月28日:逃げるな
*1999年09月29日:贋物について
*1999年09月30日:「昆虫物語」など
*1999年10月01日:臨界事故
*1999年10月02日:「お気楽オランダ人」リハ
*1999年10月03日:「お気楽オランダ人」本番
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*1999年09月27日:「少年パンチ」をさらに発注


 N書店の目録に、「少年パンチ」誌のうち、まだ所有していないものが2冊掲載されている。もちろん、発注する。当選する可能性は、かなり高い。過去、N書店では、こと「少年パンチ」誌の抽選に関する限り、全勝に近いのである。確認したわけではないが、無投票当選ではないか、と思われるフシもある。つまりこの店には、「少年パンチ」を売りに来る客はいるが、買いに来る客がいない(少ない)のである。この2冊を押さえられれば、余すところ1冊である(皮算用)。

 同じ目録に、1966年度の「少年」誌がたくさん掲載されているが、軒並み1万5千円前後である。高い。(「まんだらけ」でも似たようなもの。「3軒茶屋の2階のマンガ屋」なら、もっと高くなる。)私は、この年の「少年」誌の適正価格は、1万円弱だと思う。8000円なら、即、発注なのだが。

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*1999年09月28日:逃げるな


 “旧悪”は、なかなか忘れてもらえないものである。例えば、20年以上前の高校生時分に、酒の席でやらかした大失敗を、旧友(同窓生)たちは、しつっこく憶えているのである。(“高校生の酒宴”については、とうの昔に時効である(大威張りっ)。)

 なぜか。

 それは、彼らと私のその後のつきあいが、途絶えていた(または、数年に一度顔を合わせる程度の、ごく稀薄なものになっていた)からだ。そのため、彼らにとっては、その後の私の「20年間」という時間経過が、存在していない。彼らの記憶の中では、「酒の席で大失敗をやらかした私」が、「昨日の私」なのである。ショートカットしてしまっているのだ。私自身は、20年も前のことなど、とうの昔に忘れてしまっていたというのに。

 もう一例。(今のところ、まだ私には縁が無いが)「三段階増毛法」。これに気が付かないのは、毎日顔を合わせている同僚だけである。久しぶりに来訪した営業マンには、あっさりと「あっれー、急にふさふさしちゃいましたねっ」と、言われてしまったりする。(これを“旧悪”と呼ぶのは、酷すぎるか。[;^J^])

 時の流れは不連続であり、宇宙の(世界の)あちこちで、異なる速度で流れているのである。

 だから、あなたが何か悪事(失敗)をやらかしてしまったら..汚名をそそぎ、名誉を挽回したければ..その悪事(失敗)に立ち会い、目撃した当事者たち(例えば、宴会で同席していた友人たち)から、逃げてはいけない。縁を切ってはいけない。根気よく交際を続けなくてはならない。

 それによって、その後の(継続する)あなたの「印象」によって、「悪事(失敗)」の「記憶」は「上書き」されるであろう。

 もしも逃げたら..あなたの悪事(失敗)は、彼らの心の中で固定され、永遠化されるのである。

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*1999年09月29日:贋物について


 議論の最中に、突然“賢く”なる人がいる。(以下、ニフのFCLAでの事例である。)

 電子楽器の表現力は、生ピアノ等の自然楽器には遙かに及ばない、という(これ自体は、一定の条件下では“真”である)主張をしている人が、しかし実は電子楽器のことは全然知らない(少なくとも、1970年前後までの状況しか知らない)し、弾いたことは全く無く、聴いたこともほとんどない、ということが、(当人の「知っている」という主張とは裏腹に)明々白々なのである。

 なのに突然、「今のデジタルシンセは、どこかおかしいのではないでしょうか。昔のミニムーグやシステム700のようなアナログシンセの方が、遙かに自然だと思います」、と、言い出したりするのである。(彼の発言を順に読めば、)現代のデジタルシンセの事など、全く知らないのが明らかであるにも関わらず、突然、「知恵」と「知識」を獲得したわけだ。

 つまり、これは彼の言葉では“無い”のである。議論で追い込まれて、慌てて(FCLA等の)過去のログをあさり、適用できそうな(反撃として使えそうな)文章を切り出してきて、貼り込んでいるだけなのである。(シンセマニア以外には理解不能だろうから詳しくは説明しないが、)「ミニムーグやシステム700」という列挙の仕方が、既に不自然なのだ。参考文献からの引き写しである。

 こういうのを叩くのは、面白い。せいぜい遊ばせてもらおうかとも思ったが..やめた。この人の「切り貼り発言」の元ネタが、1年(2年?)以上前の、(確か)I氏の書き込みであることが、すぐに判ったからである。I氏の書き込み自体は、音楽家の目から見た、それなりに筋の通ったものであったので、議論する値打ちはあったのだが、気が乗らなかったので見送った、という経緯がある。それなのに、今になって、そのI氏の発言を(元の文脈も理解できずに)切り貼りしているだけの、無内容な発言に対して反応してしまっては、I氏に対して、失礼ではないか。

 教訓は、いくつもある。「元の文章がしっかりしていても、それを理解せずに換骨奪胎すると、無価値になる」。「借り物の知識は、見る人が見れば、一発でばれる」。

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*1999年09月30日:「昆虫物語」など


 「昆虫物語 ピースケの冒険」(田中圭一、ぶんか社)を買ってしまう [;^J^]。好きだったんだよぅ、少年サンデーに連載された、このお下劣漫画が [;^.^]。

 ディクスン・カー(及び、カーター・ディクソン)の書籍は、店頭で見かける度に買っている。(つまり、見かけないと買っていない。)..ので、全然揃っていない。歯抜け状態である。ここらで一発、大掃除しとくか、と、紀伊國屋のBOOK WEBから、まず、創元推理文庫とハヤカワミステリ文庫の未読分を、片っ端から発注する。(ポケミス等は、後回し。)恐らく、半数以上、版元品切れ(あるいは絶版)であろう。

 さらに、ロフティングの「ドリトル先生」シリーズ(岩波少年文庫)を、全部発注する。

 「ドリトル先生航海記」は、私の小学生時代の宝物のひとつだった。シリーズのその他の作品も、半数以上は、小学校の図書館で(「読書の時間」に)読んだはずである。が、全部は読んでいなかったと思う。また、「航海記」にしても、部分的にしか憶えていないのだ。そろそろ、懐旧の情を暖めてもいい頃だろう。

 僅かに憶えているのは..例えば、確か「ドリトル先生月へ行く」の、巨大な植物(花)が月まで届くだかして、これを伝って月に行く、という、幻想美である。この花は、酸素を豊富に産するので、宇宙空間でも呼吸が出来た..んじゃなかったかな? でも、酸素の取りすぎは毒なのであって、酸素を不用意に吸いすぎて、鼻血を出すシーンもあったと思うが..(以上全部、30年以上前の記憶なので、真に受けないこと。)このシリーズは、恐らく品切れでは無いと思う。納本される日が楽しみだ。

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*1999年10月01日:臨界事故


 「臨界事故」?

 例によって、ニュースのキャッチが遅い。これは昨日起こった事故だが、朝刊を読むまで知らなかった。

 まず、「驚きそこなった」ことを、告白しておく。キョトンとしてしまったのである。常識的に考えて、(それこそ、大地震や戦争などによって施設が破壊されでもしない限り)起こり得ない事故だからだ。放射性物質の流出事故とは、わけが違う。遮蔽の無いところで核反応が起こり、それが今なお続いている、というのである..今ひとつ、実感が伴わなかった(何かの間違いではないか?というリアクションをした)ことの言い訳は、ここまで。

 今日の時点では、原因が良く判らない。作業ミスらしいが、作業ミスで「臨界」を起こしうるのか? どういう管理をしているのか?

 K本店という店で、新歓を兼ねた上期の反省会。

 なかなかキャラの立った新人たちであり、先が楽しみであるが、その中のひとりに「(若くていいねぇ、というニュアンスで)君はまだ23歳だから..」、と、先輩社員の誰かがいいかけたら、見返す視線がキッと音を立てて、「22ですっ」[;^J^]。確かに、この年頃では1歳の違いは大きいんだよなぁ。(私ら位になると、プラスマイナス1歳位は、誤差範囲です。)

 私は、この店の駐車場まで、会社から車で直行したので、必然的に(二次会にも行かずに)代行運転で帰宅。こういうこと(会社から車で直行)をしてしまうと、二次会三次会に出るのがどうしても難しくなるが、仕方がない。どのみち今夜は、二次会に出ていられる状況ではない。明日は上京なのだ。

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*1999年10月02日:「お気楽オランダ人」リハ


 臨界事故は、「作業ミス」ではなく、確信犯の「マニュアル違反」らしい。

 問題は、マニュアル違反をしたこと自体よりも、マニュアル違反によって「臨界事故」を「起こし得た」ことにある。

 「形状制限」ではなく「質量制限」。つまり、事故を起こさないよう「取り説で」注意する、ということである。何考えてるんだ、一体。人間は、マニュアルどおりには操作しないものなんだよ。(現に、(ミスではなく、確信犯で)マニュアルに逆らったじゃないか。)そういう事態が発生しても、安全側に倒れるようにするのが、安全設計でしょ。この会社の(又は、この会社が雇った)システム設計屋は、全く何も仕事していなかったらしいな。

 数十年間かけて、我々の父祖と我々自身が営々と築き上げてきた「メイド・イン・ジャパン」への信頼感が、地に落ちてしまった。これに何より腹が立つ..

 ..気を取り直して。

 「お気楽オフ」である。

 冗談としか言い様の無い企画である。素人の集団が、こともあろうに「さまよえるオランダ人」(ヴァーグナー)の全曲演奏をしようというのであるから。「お気楽オフ」で、これまで取り上げてきた曲と言えば、

*バッハ:カンタータ70番&78番
*バッハ:ロ短調ミサ
*ブルックナー:テ・デウム
*ブラームス:ドイツ・レクイエム
*モーツァルト:ハ短調ミサ
*ヘンデル:メサイア(プラウト版)
*ヴェルディ:レクイエム
*オルフ:カルミナ・ブラーナ
*バッハ:マニフィカート
*ベートーヴェン:荘厳ミサ曲&合唱幻想曲
*モーツァルト:大ミサ&レクイエム

 ..[;^J^]

 このリストを見ると、大概なんでも出来そうな気がするが、それでもやはり、ヴァーグナーのオペラ全曲、というのは、難易度のグレードが違う。

 「お気楽オフ」は「夏オフ」と違って、練習会(譜読み会)をする。(出席は義務では無く、本会だけでも、あるいは練習会だけの出席でも、一向に構わない。)今回は、さすがにいつもより入念に、5回も開催された。(私は、全て欠席した。)本番の前日に「リハ」をやるのも、初めてである。

 で、今日がリハ、明日が本番、というわけ。私の担当は、シンセ(XP−50)によるウィンドマシン(嵐の擬音)と銅羅、それにハープである。風と銅羅は私が弾くが、ハープはKさんにお願いした。

 千代田線の千駄木で14時からであるから、朝いちで東京に着いても仕方が無い。午前中の時間が中途半端に余る。そこで、いつもより1時間遅いひかりで9時半頃に東京着。銀の鈴のコインロッカーにシンセと荷物を預けて、新宿伊勢丹へ。ダリ展である。

 フィゲラスのダリ美術館の収蔵品のみによる展示であり、ひと味違う作品が観られるのが、興味深い。特に、1980年以降の最晩年(死の直前)の作品群の、荒々しいタッチ。こんな作品群が存在するとは、知らなかった。ダリ美術館の紹介ビデオ(30分ほど)も、面白かった。一度は行かねば。(..あ、なんか今書いていて、突然、猛烈に、スペインに行きたくなってきたぞ。金も無いのに。[;^J^])

 東京駅に戻って、西日暮里経由で千駄木の(馴染みの)Tスタジオ。明日の本番とは違う会場であり、本格的なPAは無い。主催のMさんは、この日のために、わざわざスピーカーを買ってきて下さったのだが、(シンセ直結では全くレベルが合わず、かなり慌てたが、持参のミキサーをかませて、事なきを得た、)残念ながら、低音が出ない。ハープは十分に響かせることが出来るのだが、銅羅の重低音がどうにもならない。風(暴風)も苦しかったが、これはまぁ高域成分も多いし、低域が少々歪んでも、ある程度許容できる種類の音である。

 さて、この嵐の音であるが、XP−50には、出来合いの「風」の音のライブラリもあるのだが、結局、自分でゼロから作った。というのは、この出来合いの音は非常に良く出来ており、鍵盤を押すだけで、「劇伴」等に十分使える水準のサウンドが、簡単に出る。つまり、誰が弾いても簡単にいい音(いい効果)が出る。逆に言うと、「コントロール性が悪い」のだ。「コントロールする必要が無い」ように、仕上げられているのである。

 今回は、これでは困る。スコア(楽譜)には、ダイナミクスの変化(クレッシェンド、デクレッシェンド)が細かく書き込まれており、また、スコアでは指示されていないが、風のピッチ(音程)も(低く呻る「ゴーーッ」から、高くつんざく「ヒューーッ」まで)使い分けたい。

 もう一点、気を配ったのが、「音の消え際」である。自然音のシミュレーションと考えると、長い余韻で(うねりながら)消えて行く方がいい。ところがスコアでは、「短く急峻なクレッシェンドの直後に、パッと消える」音型が、繰り返されている。この「パッと消える」ところが問題である。直角に「スパンッ」と切ってしまっては、「風の音」にならない。やってみれば判るが、「シンセの音」以外の何物にもならないのである。とはいえ、長い余韻(リリースタイム)を持って消えて行く音の消え際を、ボリュームスライダー(またはフットペダル)で絞るのも、良い考えではない。これで自然な効果を得ようとすると、相当な熟練が要求される。

 そこで、風の音を2種類作った。数秒間かけて消えて行く(リリースタイムの長い)ものと、比較的すぐに(しかし、直角にではなく)消える(リリースタイムの短い)ものである。そして鍵域を半分にわけて、上2オクターブに消え際の長い音、下3オクターブに消え際の短い音を配置し、さらにピッチの高低を(それぞれ、2(または3)オクターブの鍵域内で)つけられるようにした。これに、ボリュームスライダーによる音量コントロールを組み合わせ、スコア(楽譜)に合わせて、最適な組み合わせで(和音を)演奏するのである。

 つまり、単に鍵盤を押すだけでは、どうにもカッコのつかない「暴風」になったわけだ。コントロール性の高い、練習が必要な「暴風」サウンドだ。(オートマ車ではなく、ミッション車。)はっきり言って、会心の「暴風」サウンドである。

 さらに、鍵盤の最低音域に、銅羅の音(強打用とピアニッシモ用、2種類)と、雷鳴を仕込む。銅羅は、以前から作り置きしてある、これも、XP−50の出来合いの銅羅サウンドライブラリを、徹底的にエディットして作り込んだもの。雷鳴も、出来合いのサウンドライブラリではなく、かつて作った「キャノン砲」の音を改造したもの。

 出来合いのサウンドライブラリが不出来だと言っているのでは無い。むしろ、私の作っている音は、「too much」なのである。早い話が、作りすぎ、凝りすぎだ。バンドの中で(あるいはDTM(Desk Top Music)のアンサンブルの中で)使えば、まず間違いなく、浮いてしまう。しかし、(FCLAの「夏オフ」や「お気楽オフ」で)私が相手にしているのは、「生楽器と生の歌唱」の集団なのである。乾坤一擲のサウンド(の質と量)で、ようやく対等に立てるかどうか..というのが、偽らざる実感なのである。

 そして、こういうシチュエーションで、徹底的な作り込みが出来るのが、XP−50をはじめとする、現代的なデジタルシンセサイザーなのだ。「ミニムーグやシステム700」の出る幕ではないのである。

 練習会に一度も出ていない私だが、この難曲が、過去5回の練習会で、かなり「音楽」になってきていることは、わかった。今日は十分な音量が出せなかったが、「暴風」の入れ方の勘所も掴めた。

 驚いたのは、この「嵐の音楽」(「水夫の合唱」)が終わった直後、完全に目が回っていたことである。吐き気はしなかったが、座っているのも難しい状態。わけがわからない。歌ったわけではない。激しい運動をしたわけでもない。夕べの酒は残っていないし、朝・昼しっかり食べている。どうして、眩暈がする?

 恐らく、音楽に「あてられた」のだ。この曲におけるヴァーグナーのウィンドマシンの書法は見事なもので、実際の「暴風」の呼吸に、極めて近いのである。それに「乗って」演奏したがために、知らず知らずのうちに、呼吸のリズムに「暴風」が「入ってしまった」のであろう。

 千駄木のTスタジオを使うときは、反省会(宴会)は、駅前の店(店名、失念)の2階、と決まっている。最近、(というか、「オランダ人」プロジェクトが始まって以来、)「お気楽オフ」の反省会の雰囲気が変わってきている、という噂は聞いていたが..

 ..なるほど。[;^J^]

 「宗教曲」と「オペラ」では、雰囲気(気分)が違って当たり前だ、という説もあるが、私に言わせれば、雰囲気を作るのは、参加者である。つまり、以前の参加者と最近の参加者の差分を取れば、犯人(複数)[^.^] の特定は出来るわけだ。(以上の報告中、公序良俗に反する部分は、カットした。)

 例によって、日暮里のトキワホテルへ。

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*1999年10月03日:「お気楽オランダ人」本番


 「裏マニュアル」ですか。既に、特に驚くことも憤ることもなくなっている。麻痺しやすくなっているんだろうなぁ。「ま、そんなもんでしょ」という、実に良くないリアクション。骨抜きにされているということか。

 「ま、そんなもんでしょ」と言えば、もちろん、政府の対応。全くなんの期待もされていない政府は、原理上、期待はずれの行動ができない。「阪神大震災」で、政府のやった(やらなかった)ことがどれだけあるか。今回も、外国からの援助申し出は「当然」断るだろうし..

 ..気を取り直して。

 本番は、13時から、東急大井町線等々力駅前のTアートスペースである。昨日同様、午前中の時間が中途半端に余る。

 そこで、池袋サンシャインシティの「たれぱんだや」へ。「めかたれぱんだ」が欲しかったのである..

 ..が、無い。おてたれぱんバージョンはあるが、私が欲しいのは、顔を開けると、ぷちたれが2匹入っている、「かたくてもたれている」めかたれぱんだである。この店、どうも、弁当箱とか衣類とか文房具とか食器とかだき枕とかペンダントとか食品とかアクセサリーとかの「実用品」が大部分で、上記めかたればんだのような、「なんの役にも立たないもの」が、ほとんど無い。これは、たれぱんだのコンセプト自体に反していると思うが、如何?

 せっかくここまで来たのだから、と、エレベーターに乗って、展望台へ。やはり高いところは、いい。東京タワーから観た時ほどではないが、東京の「狭さ」を、改めて実感する。

 渋谷、自由が丘経由で、少し早めに等々力へ。指揮者のKさんと、ベーカリーでお茶と食事。

 Tアートスタジオでは、本格的なPAを使える。(大型の)スピーカーを2台使えるので、「暴風」をステレオで鳴らすことも出来るのだが、セッティングの時間なども勘案して、今回は見送り、モノラルでやることにした。ステレオ版は、半端ではなく凄いのだが、いささか凄すぎて、オケと合唱が座礁する危険があるのである。

 をを、なんと心地よい低音と音量! 理性が吹っ飛ぶ吹っ飛ぶ [;^.^]。

 合唱の出番を中心に、要所要所の(最終)リハを行ってから、本番。

 なんと、止まらず。全3幕、見事に通った。それも単に「無理矢理通した」というものではなく、(それは確かに、あちこちミスはあったのだが、)ちゃんと、ヴァーグナーの音楽になっていた。これは凄い。(「暴風」も、思いっきり吹き荒れたし。[;^.^])

 自由が丘の王将で、反省会。実に楽しい反省会だったが..飲み過ぎた。不覚。気がついたら、ムーンライトながら車中である [;_ _]。自由が丘から大井町経由で、誰か(複数)が品川まで送ってきてくれたわけである。

 車中で目が醒めた時点では、静岡付近だったと思う。3時40分頃、浜松で無事に降りて、タクシーで帰宅。ニフにアクセスして、私を送り届けてくれた人たちの名前を確認し、とにかく無事に(浜松で乗り過ごさずに)帰宅できた旨、メッセージを書き込んでから、眠る。明日は、代休取得済みである。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Oct 8 1999 
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