1999年09月20日:データベースを持ち歩く 1999年09月21日:地図と旅 1999年09月22日:暗号の時代 1999年09月23日:類は友を呼ぶ 1999年09月24日:紙に書く 1999年09月25日:「マトリックス」に再挑戦 1999年09月26日:言葉について目次へ戻る 先週へ 次週へ
今となっては考えにくいことであるが、昔は、持ち歩く必要がある資料は、全て自分で手入力していたのである。例えば、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の基礎データ。
ウルトラQ 第1話 S41.01.02 ゴメスを倒せ! 古代怪獣ゴメス,原始怪鳥リトラ (中略) ウルトラセブン (中略) 第49話 S43.09.08 史上最大の侵略(後編) 幽霊怪人ゴース星人,双頭怪獣パンドン
(これは確か、朝日ソノラマのムックをベースとして書き起こしたデータである。)
また、ギリシア神話や西洋美術史の良くできた参考書があれば、キーワード群を抽出し、それぞれに解説の要約(短文)を付して、蓄えたりしていた。なんのことはない。学生時代に、手書きの情報カードに抜き書きしていたのと、同じことである。
膨大な量と質を誇る、市販のデータベース(例えば、ウルトラシリーズの基礎データについては、「全特撮」(スティングレイ))を自由に持ち歩ける現在となっては、もはや無意味な作業であるが..しかし、こういう「手打ち(手書き)した」情報は、わりと身に付いていることが多い(ような気がする)。単に、かけた手間暇が無駄だったとは思いたくないが故の、錯覚(幻想)であるのかも知れないが。
ちなみに、いま現在、私のリブ100に常駐しているCD−ROMのタイトルは、「世界大百科事典」「日本大百科全書」「広辞苑 第五版」「大辞泉」「リーダーズ+プラス」「エンサイクロペディア・オブ・手塚治虫」「吾妻ひでお CD−ROM ワールド」「全特撮」、である。少し足りない。あと少なくとも、「和英辞書」「シソーラス」「現代用語の基礎知識(のようなもの)」が、必要である。(前記のCD−ROM群で、ある程度代用出来ないことは無いのだが。)しかし換装した6.4Gは、ほぼ満杯状態。8Gが入手可能で、これはリブ100で動作実績(報告)がある。そしてまた、Winから使う限り、リブ100では8Gが上限らしい。BIOSが8Gまでしか対応していないのである。12Gをリブ100に入れて、Linuxで12G使用に成功した、という動作実績(報告)はあるのだが、私は、Win95から12G使いたいのだ..
8Gどまり、ということは、現在の状況+1.6Gということである。焼け石に水..
前記常駐CD−ROM群のうち、もっとも使用頻度が高いのが、「大辞泉」である。これは、PDSの「daijisen」コマンド、
C:\>daijisen 小学館大辞泉CD-ROM検索ユーティリティー Ver.1.0 (1998/07/20) Written by Junn Ohta (ohta@src.ricoh.co.jp), Public Domain.
によって、DOS窓のコマンドラインから使えるからである。例えば、
C:\>daijisen けんさく けん‐さく【建策】 [名]スル〔1〕計画を立てること。〔2〕「献策」に同じ。「あるいは堂上の 公卿に―しあるいは長州人士を説き」〈藤村・夜明け前〉 けん‐さく【研削】 [名]スル物の表面を砥石(といし)などでけずって滑らかにすること。「―し て仕上げる」 けん‐さく【検索】 [名]スル調べて探しだすこと。文献・カード・ファイルなどの中から必要な情 報を探すこと。「―の便を図る」「索引で関係事項を―する」 けん‐さく【献策】 [名]スル上位の者や公の機関に対して計画・案などを申し述べること。「地域 開発について知事に―する」 けん‐さく【×羂索】 《「羂」はわなの意で、もと、鳥獣をとらえるわなのこと》五色の糸をより合わ せ、一端に環、他端に独鈷杵(とつこしよ)の半形をつけた縄状のもの。衆生救 済の象徴とされ、不動明王・千手観音・不空羂索観音などがこれを持つ。
実際、私のリブ100での作業時間の大半は、DOS窓での文章書きなのである。「世界大百科事典」も「日本大百科全書」も、DOS窓のコマンドラインから直接検索できれば、遙かに使いやすくなるんだがねぇ。
目次へ戻る(自分では使っていないのだが、店頭で見る限り、)カーナビの進化はめざましい。地図も精密になる一方である。この便利さ、有用さを否定できる人はいないだろう。「カーナビ」ならぬ「人ナビ」も、既に実用化されている(はずである。メーカーも型番も忘れたが、発売された、という記事を読んだ記憶がある)。
その一方で。
私は、「古代」とまでは言わぬまでも、例えば江戸時代の絵地図のような、情報量が乏しく、距離の記述が大ざっぱな地図に、強い憧れを持っている。(その究極は、「宝の隠し場所」の地図、ということになるが。)
それは、想像力を要求されるからだ。ハイテクで装備した現代の旅人は、GPSから、自分の居場所の精確な緯度経度を取得し、それを精密な電子地図の上にリアルタイムでマッピング出来る。ここには、想像力の入り込む余地は無い。
絵地図の旅人は、この地図が何を意味しているのか、今、自分が歩いている山道の左手に見える山は、この地図の中に描き込まれている山のうちのどれを指しているのか、常に想像しなくてはならない。
それは、とても不安で頼りなく..そして、ぞくぞくするほど刺激的な旅なのである。
(なんのことはない、別に、タイムトリップするまでもなく、他人から手渡された(いい加減な)手書きの地図でも、十分、上記の興奮を味わえるのであるが。)
目次へ戻るデジカメを(今ごろになって [;^J^])使い始めてから痛感したのは、「フィルムを抜かれる!」、というシチュエーションが、アウトオブデイトになってきた、ということである。
少し前までの、例えばゴルゴ13タイプの作品では、日常茶飯事だった。(こんな目に遭うドジなスパイは(滅多に)おらず、普通は、罪も関係もない不注意な旅行者が、こういう被害に遭うのだが。)今では抜くべきフィルムが無い。無論、(現時点では、普通は、)スマートメディアなりコンパクトフラッシュなりが、フィルムの替わりに挿入されているので、それを「抜き取る」という描写はあり得るが、フィクションとしては、あまりに工夫が無さ過ぎる。ちょい(半年くらい)近未来シフトして、「撮影と同時に(内蔵の携帯またはPHSから衛星経由で)本国のサーバーに飛ばしている」、位は、当然であろう。
しかしこれでは、本国の情報局(だかなんだか)は、そのスパイを救出する必要が無くなってしまう。鉄砲玉でいいことになる。これではスパイがたまらない。当然の自衛策として、その撮影画像を暗号化するであろう。そしてそのパスワードは自分の頭の中だけにある..
..あなたは、絵空事と思って読んでいるだろうが、盗聴法案が成立した以上、これは明日の日常風景なのである。(どこがフィクションであるのか、指摘せよ。)
目次へ戻るここ数ヶ月、休日の度に電源工事をしているような気がするが、今日もである。午前中のみ、工事立ち会いのため、休日出勤。
午後からは、組合行事のバーベキュー大会。組合員は、(事実上)無料で飲み放題食い放題である。空模様が心配されたが、悪運強く、午前中までの雨は上がった。
Y君ら、オタクたちと、オタク話にふける。意外な人のオタク度の高さが露わになるが、これはオタクの本質のひとつ。能あるオタクは爪を隠すのである。
Y君とは、いつものT八に席に席を移して、飲み続け喋り続ける..
目次へ戻る昨夜は、いつの間にか帰宅していたが、それはさておき。[;^J^]
書店で、野口悠紀雄の「パソコン「超」仕事法」を、数分間、パラバラと立ち読みするが、わかりきったことしか書かれていないので、山に戻す。パソコンを全く知らない人にとっては、それなりの好著ではあるまいか。(斜め読みした範囲では)嘘は書かれていないし。
私にとっては得るところが全く無い書籍だが、一般の堅気の人は、こんなことも知らないのだな、という目安にはなる。「grepは魔法のツール」だとか。(「何を偉そうに!」、という非難は覚悟の上。分野が異なれば、同じことを私も言われ(てい)ることは、百も承知しているのだ。)
いいことも書かれている。例えば、「ワープロは考える道具であって、清書の道具ではない」。これは、ワープロやパソコンに慣れていない人のほとんど100%が、勘違いしていることである。
いや実際、この私にしたところが、未だに、「紙に」草稿(メモ)を書き始めて、すぐに「これでは埒があかん」と気がついて、端末に向き直る(またはリブを開く)ということが、しょっちゅうあるのだ。実際、アイデアスケッチの段階でこそ、とことん切り貼りできる、というPC(あるいはワープロ)の「機動的編集能力」が生きるのだ。(画面上で下書きが完成してしまえば、最後の「清書」こそ、「原稿用紙に毛筆」でも、構わないのである。)
そんなことは15年以上前から判りきっているのに、なんでまた、(お恥ずかしくも)「紙に」下書きを書き始める、という癖が抜けないのか。
それは、「下書き」くらいにしか使いようの無い「裏紙」が、膨大な量、手元にあるからである。これをなんとかしたいのだ。(99%の人が同意してくれると思うのだが、「裏紙」は、消費速度よりも増加速度の方が、遙かに速いのである。)これが学生時代であれば、「計算用紙」として消化できたのだが。
黄ばんだ(赤茶けた)筋金入りの裏紙も、数多くある。30年(もしかしたら40年)前のものである。亡父が使用していた、「200字詰め原稿用紙(未使用)」の束だ。(ご存じの方も多いと思うが、「400字詰め」よりも「200字詰め」の方が、機動力にまさり、実用的なのである。)
これがあと何百枚あるのか、数えたこともないが、「未使用(白紙)」のまま棄てることは、絶対に出来ない。それは森林資源に対する冒涜である。「原稿用紙」の「生命」に対する冒涜である。たとえ(本来の意味の「原稿」ではなく)下書きやメモの類に過ぎなかろうとも、とにかく、「字」で埋め尽くしてから、棄ててやりたい。さもなくば、彼らが「原稿用紙」として生まれてきた「意味」も「甲斐」も無いではないか..
だから、「サイバー」で「ハイテク」で「ワイアード」な私は、にも関わらず、今日も、思わず「紙」を使ってしまうのである。
目次へ戻る浜松クリニック(皮膚科)へ。半年ほど前から気になり始めた「額のプツプツ」について、相談にいったのだが..なんと、「ニキビ」。「この歳になって?!」、と、思わず医者を問い詰めてしまった [;^J^]。前から判っていたことだが、若すぎる。あるいはようやく、お肌の曲がり角、ということか。(どちらも違う。[;^.^])
街中まで出たついでに、「マトリックス」2回目。今度は素直に楽しめた。(以下、スポイラーにならないよう、注意して書く。)
「よくあるネタさ」、と、先週は書いたが、これは今でもそう思う。しかし、その“よくある”「栽培シーン」の、ビジュアルな気色悪さは、出色である。これでこの世界に、奥行きが出た。
世界観は浅いとは思うが、(しかし2時間強の映画では、これが限界か..)「肉体的格闘シーンによって“のみ”(あるいはそこに徹底的に注力して)、その世界観に厚味を与える」、というコンセプトの「軸」がぶれていない点を、評価する。
「格闘シーン」以外に見所がない、と言っているのではない。が、例えばこの都市風景。「ブレードランナー」と比較するまでもなく、徹底的に(相対的に)「手がかけられていない」。(ここは「平凡で当たり前の都市」でなければならないからだ、という理由もあろう。)
その、「見事で素晴らしい格闘シーン」だが、しかし難点もある。「技術(わざ)に溺れている」ショットがある。具体的には、序盤の、トリニティの360度回転シーンである。(360度回転シーンは、終盤に、もう一回ある。)
先週、初めてこれを観たときには、これのどこが凄いのか、判らなかった。観終わってしばらくしてから、なるほど、こんなショットは、普通の方法では撮影できないわな、と気がついて、少し感心した。
で、今日、2回目を観て..これはやはりイカンのではないか、と、再度考えを変えたという次第。早い話が、トリニティが(これは文句無しにカッコイイポーズで)空中で(ほとんど)静止してしまっているではないか。時間を止めて、360度回転しているのである。ここでアクションの流れも止まった。トリニティを動かしながら、360度回すべきだったのだ。(今の技術では不可能だったのだろうが。)このシーンは、アクション映画の「新基準」として、必ずや、後続映画群によって乗り越えられるであろう。(それは、この映画の「誉れ」でもある。)
バーチャル世界の描写として、一番凄いのは、(これはネットニュース等でも、多くの人が指摘していることだが、)群衆が「止まる」シーンである。それこそ、映画の創世紀から可能だったテクニックだし、実際、こういうシーケンスを、何度か観てきた記憶もあるのだが、こういう「シンプル」なアイデアは、「力強い」のだ。
細かいイチャモンも、つけておこうか。地面に引きずらんばかりのロングコートで、マシンガンぶっ放しながら飛んだり跳ねたりするんじゃないっ [;^.^] 脚にからまるってば。
「悪夢のような、未来のない、閉塞世界でしかない“現実”よりは、偽りの“夢”の方が幸せだ」、というテーゼは、文句無しに素晴らしい。私が彼の立場なら、多分同じことを考えた。(同じ行動を取るかどうかは、判らないが。)いずれにせよ、必見の映画である。
目次へ戻る(今回は、シンセ系の“専門用語”が頻出するが、いちいち解説しないので、あしからず。[_ _])
以前、ニフのFLCAの「お気楽オフ」で、シンセ(XP−50)で作るオルガンの音を調整していた時のこと。指揮者に「余韻が深すぎる」と指摘されて、それでは、と、エンベロープカーブの「リリースタイム」を、半分くらいに短くしたのである。するとその指揮者に、「響きの量を、瞬時に変えられるとは!」、と、感嘆されてしまった。こんな“簡単”なことで“感嘆”されてしまっては(ごめん [;^J^])ほとんどいたたまれない、というものである。
このとき、「響きの量」と表現されたことが、特に記憶に残った。普通、われわれプロのシンセ屋は、(シンセに馴染んでいれば、アマチュアでも同じだと思うが、)「リリースタイム」を「響きの量」とは呼ばない。われわれが(仮に)「響きの量」と呼ぶとすれば、それはまず間違いなく「リバーブタイム」か「リバーブレベル」のことである。「リリースタイム」というのは、単に、「“押鍵状態を解除した時”(鍵盤楽器で言えば、キーボードから指を上げた時)から、音が消えるまでの時間」に過ぎないのであって、「響き」とは関係無い。(これに対して「リバーブ」は、多くの場合、会場の余韻を(DSP等で)シミュレートしているので、これを「響き」と表現するのは、妥当である。)
にも関わらず、件の指揮者は「響きの量を変えた」と表現した。それは、動作原理はともかく、現実に「響きの量を変える」効果をもたらしていた(と、彼には聴こえていた)からである。
このことは、重要である。同じ物理現象であっても、それを表現する言葉によって、全く様相が異なってくるのだ。
「リリースタイム」と呼ぶ限り、それは単なる物理的な振幅量の変化に過ぎない。しかし「響きの量」と呼ぶとき、その振幅量の変化に「意味」が付加される。
「単なる振幅量の変化」として音を捉えることは、(少なくとも、「音作り屋」にとっては、)絶対に必要である。なぜなら、それはまさに正しく「現実に起こっている」ことであるから。しかし「響きの量の変化」として、(それを自分の「耳」と「感性」を通して)解釈することもまた、必要である。それは(少なくとも自分の耳に)「現実に聴こえている」ことなのであるから..
(このテーマは、「科学」対「トンデモ」にまで敷延しうるのだが、今夜のところは、ここまでにしといたるわ。)
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