*1999年06月07日:本は生きている その一
*1999年06月08日:本は生きている その二
*1999年06月09日:スキャナー不良再発/耳鼻咽喉科
*1999年06月10日:ある冒険
*1999年06月11日:クズ特許について
*1999年06月12日:休出/エアコン
*1999年06月13日:小さな図書館
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*1999年06月07日:本は生きている その一


 画集のスキャニングを続行する過程で、既に判っていたのであるが、目を背けていた問題に、ついに直面することになった。

 それは、「買い換え」の「道義的」是非についてである。

 そもそも私の、画集スキャニングプロジェクトは、画集(に限らず、多くの書籍)の「醜い変色」に対抗する手段であった。いったん変色したものを元に戻すことは出来ないとしても、少なくとも今の姿は、永久保存できる。

 しかし、既に極めて醜く変色した画集があったとして、古書店で、それよりも遙かに変色の度合いが少ない(同一の)画集を見つけた場合、どうすべきか。「より変色の少ない」画集を入手して、それをスキャニングすべきではないのか。

 迷う余地は無い。「論理的」には、全くそのとおりである。

 しかし、「情緒的」には、これは正しい「解」では無いのだ。

 これまで、私の精神生活の(あるいは「人生」の)一部を成してきた、その「醜く変色してしまった」画集の立場は、どうなる。

 「自分と同じ内容だが、自分とは異なる」存在(画集)に、置き換えてしまってもいいものだろうか? そんなことが許されるのだろうか? 新しい画集に置き換えられてしまった古い画集が、そんな仕打ちに耐えられるだろうか?

 「置き換えずに、両方手元に置いておけばいいではないか」というのは、事態を全く理解していない人の言である。それこそ、「古い(醜い)」方の画集には、いっそう耐え難い状況なのである。「より変色の少ない」画集も、いずれは醜く変色する運命だとしても、その不可逆的な過程は、自分が遙かに先行してしまっているのだ。まず間違いなく、「より変色の少ない」画集が、私の書棚に位置を占め、「より古い、変色の度合いの酷い」画集は、しまい込まれることになるであろう。

 彼(古い画集)は、そんな屈辱に、耐えられるだろうか?

 そして物置の中で、彼の変色の度合いは、さらにいっそう進むであろう。さながら、「ドリアン・グレイの画像」のごとく..

 しまい込まれなかったとしたら..もっといけない。その新しい(より美しい)画集と並べて置かれるなどという状況は..(書籍も自殺できるだろうか?)

 「手元に置いておくことを考えるからいけないのだ。その、変色の酷い方の画集は、手放したまえ。古いつきあいだとしても、君の物置の中で朽ち果てて行くよりは、新たな鑑賞者の書棚に収まる方が、幸せだろう..」..そのとおりだ。

 しかし、彼の変色は進みすぎている。これを引き取る古本屋はいないし、仮にいたとしても、買う人はいない。そんな惨めな立場に、彼を追いやるわけにはいかない。

 なにしろ、25年前に買った画集なのだ。ここ10年ほどはページを開くこともなかった(だから、これほど醜い姿に変わり果てていることに、迂闊にも気が付いていなかった)のは事実だが、しかし間違いなく、私の青春を分かち合った画集なのだ..(明日に続く)

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*1999年06月08日:本は生きている その二


 (承前)これは先日古書店で、既に所有している「オディロン・ルドン展」と「エルンスト展」の図録を、遙かに状態がいいから、と、(昨日の日記に書いた問題には気が付いていたのたが、それは承知の上で)購入して以来、解決せずに棚上げにしていた問題なのであるが..

 ..そうだ。

 ..それでいい。

 ..ようやく、気が付いた。

 書籍は、一冊一冊が、個別の人格(書格)を持っているのではない。少なくとも同時に刷られた、数百だか数千だか数万だかの書籍は、全部で一個の生命体なのである。

 そのうちの、ある「個体」は、周囲の条件によって老化(変色)が早く進み、ある「個体」は、周囲の条件によって老化(変色)の進みが遅い。

 そして、老化の進みの早い「個体」を所持していた人間(この場合は、私)が、それを破棄して、別の(老化の進みの遅い)「個体」に置き換える。これは、全体が一個の生命体である以上、単なる、「老廃した細胞の新陳代謝」に過ぎない。

 昨日までは、個々の書籍は、単体で個別の生命現象を成している、と、考えていたからこそ、私はパニックに陥っていた。しかしもう、大丈夫だ。

 引き取ってもらえる古書店を(虚しく)探し回ることもせずに、心穏やかに廃棄できる。お前の仲間が、分身が、やってきたのだ。安心して、塵に帰れ..

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*1999年06月09日:スキャナー不良再発/耳鼻咽喉科


 代休を取る。Nという店で遅いモーニングサービスを取りながら、先週の日記を書く。ついでに昼食も取る。(雰囲気のいい店に、朝っぱらから4時間も居座って、ときどき食事しながら読書&書き物というのは、これはこれで小さな極楽である。しかも平日。)

 午後3時近くに帰宅。再びスキャン猿状態に復帰するが..あらあらまあまああらあらまあまあ。またしても、ノイズである。

 しかし今度こそ埃か黴か、なんにせよ、部品不良ではあるまい。(CCDを交換して返されてきたのが、ほんの5日ほど前である。5日間で劣化も故障もするわけがない。昨夜までは、全くなんの問題も無かったのだ。)ま、この短期間で黴が生えるような部屋だとも思いたくないので、埃であれば良いとは思う。[;^J^]

 何はともあれ、再修理に送り返す..前に、T耳鼻咽喉科へ。(風邪を引くたびに行っている「T外科」ではない。)喉の右奥(舌の一番奥底の付け根の下側あたり)が、一週間ほど前から、チクチク痛んでいるからだ。直感的には「口内炎」と同種の痛みのようであり、えらく深い場所に出来たもんだ、と、思っていたのだが、チョコラBBを飲み続けても症状が緩和しないし、もしかして別の原因(病変)だったら嫌だな、と、考えたからである。

 結果として、口内炎でも、その他の病気でもなかった。リンパ組織が腫れているために痛んでいる、とのことで、要するに「風邪の症状」らしい。消炎剤をもらう。痛みには変わりはないが、原因が判るとほっとする。

 帰宅してから、車にスキャナーを積んで、ヤマト運輸の集配所へ。

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*1999年06月10日:ある冒険


 出勤時、片側二車線の道の追い越し車線側を走っていると、前方の、信号も交差点もない、おかしな場所で車が止まっている。

 そんな場所に車が止まっているとは予想していなかったので、ちょっと慌ててブレーキング。なんと..

 ..亀が道を横断しているのであった。[;^J^] 甲羅の長さは15cmから20cm位。前の車も私の車も止まったので、中央分離帯までは辿り着けるだろうが、反対側車線をわたり切れるであろうか..

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*1999年06月11日:クズ特許について


 別に「トンデモさん」に限ったことではないが、「特許取得数」を誇る人は、少なくない。そしてまた、「特許取得数」の多い人を尊敬する(まではいかなくとも、少なくとも「一目置く」)人は、極めて多い。

 この日記の読者にも、そういう人々(特に後者)は、少数派だとは思うが存在するであろう。彼らの蒙を啓いておく必要は、あると思う。(といっても、私は特許の専門家では無い。また、この制度は近年変革されたので、私の知識の一部は古くなっていると思う。だから、厳密な(法的な)表現は避けるが、だとしても、本質的なところは、外していないはずである。)

 まず、とある「技術」や「新製品」に、箔付けとして「特許出願中」と銘打たれることがしばしばあるが、この「特許出願中」は、何物をも保証しない。早い話が、誰でも、どんな「技術」でも、「特許出願」は出来るのである。「タイムマシン」あろうが「ワープ航法」であろうが。

 では、「タイムマシン」や「ワープ航法」が、特許を取れるか。即ち、出願の次の段階として審査請求をして、それをパスして登録されるか。

 登録される可能性は、低くない。

 細かい手続きや段取りは、それこそ制度の変革と共に変わるのであるが、本質的なことは、「特許審査官は専門知識の持ち主ではなく、その発明が特許に値するか否かを決める際に決定的な影響を与えるのは、その分野の“在野の”専門家の意見である」、ということなのである。

 「“在野の”専門家」というのは、多くの場合、「民間企業内の専門家」である。

 その企業にとって、「人畜無害」な特許であれば、「阻止(異議申し立て)」は、しないのである。

 なぜなら、「阻止(異議申し立て)」するには、費用がかかるからだ。

 例えば私の勤務先は「電子楽器の製造・販売業」であるが、ここの特許課が、誰かが「タイムマシン」の出願をしていることに気が付いても、無視するであろう。なぜなら「関係ない」からである。特許を取られたところで、「あ、そう」である。自動車メーカーであろうが、家電メーカーであろうが、同じ対応をするであろう。つまり、「タイムマシン」特許は、無事に登録される可能性が、極めて高い。

 もう少し現実的?な例として、例えば燃費が1/100の自動車エンジンの発明が、出願されたとしよう。自動車メーカーの特許課は、これの登録の阻止に動くだろうか?

 動かない、と思う。

 実現性の無い特許をいくら取られても、「関係ない」からだ。

 他の「トンデモ系」発明についても、同じことが言える。

 結局、人畜無害な、どうでもいい発明(あるいは、浮世離れした発明)ほど、特許を取りやすいのである。だから、特許を何千本も持っている、という人がいるとすれば、まずその数字だけから、それらの特許の品質を、ある程度推測できてしまうのだ。(本当に何千本も持っているのならば、であるが。)

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*1999年06月12日:休出/エアコン


 休日出勤をして、調べ物。(当初の予定とは全然違う調べ物をするハメになったが。[;^J^])

 業者が来て、エアコンのフィルタの掃除をしている。そんな予定が入っていたとは知らなかったが..それにしても、この部屋(の、私がいるあたり)のエアコンは、全然効かない。この時期ですら、効かないのだ。(熱源である)人間がほとんどおらずPCのほとんどに電源が入っていない、今日ですら、効かないのである。

 夏が来たら、どうすればいいのだ。

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*1999年06月13日:小さな図書館


 町なかの散歩(あるいはドライブ)のちょっとした楽しみとして、「小さな図書館」に入ってみる、ということがある。

 大型書店よりも蔵書は少ないが..カビ臭い古書店とも異なる、独特の時間が沈殿しているのである..

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jun 16 1999 
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