*1997年08月18日:エヴァ批判を嗤う
*1997年08月19日:「カルミナ・ブラーナ」
*1997年08月20日:部署の引越し:第一日
*1997年08月21日:部署の引越し:第二日
*1997年08月22日:無為な三連休:第一日
*1997年08月23日:無為な三連休:第二日
*1997年08月24日:高橋葉介 著作リスト
*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*1997年08月18日:エヴァ批判を嗤う


 いや、全ての批判を嗤っているわけではない。(大体、エヴァ(「新世紀エヴァンゲリオン」)に関する全ての議論のうち、私は恐らく、コンマ1%も読んでいないはずだ。)可笑しくって可笑しくって仕方が無いのは、ある種の(しかし典型的な)批判で、すなわち「内容が無い」「思想が無い」という類である。

 ばっかじゃなかろか。

 エヴァの、最高に“クール”で、(社会問題になるほどヒットした作品としては)“新しい”ポイントが、まさにその「(思想)内容の空疎さ」なのである。ここが、「ヤマト」や「ガンダム」と、決定的に異なっている。

 エヴァには、メッセージが無いのだ。

 もちろん、製作者(監督)は、何がしかのメッセージを(作品の外で)語っている。しかしそれは、製作者による、ひとつの“解釈”でしかない。また、特に作品の後半には(過剰なほどに)ある種のメッセージが氾濫しているが、しかしそれも、作品世界のコントロールに失敗した監督による、作品世界への余計な介入に過ぎない。あれは、エヴァの本質では、ないのだ。

 エヴァの本質は、その「内容空疎なカッコ良さ」にある。

 それこそが、すぐれて現代的なポイントなのだ。

 大体、「天使の名を持つ“使徒”が襲ってくる」という基本設定だけで、このことは明らかである。国民の大多数が、キリスト教に対して、ごくごく浅い理解しか持っておらず(あるいは、全く知らず)、「天使」と「使徒」の区別も怪しいであろう現代日本を市場とするアニメ作品における、この設定。これにはもう「“異教的/異郷的”カッコ良さ」以外の狙いを、見出し難い。そしてその“使徒”たちの、あの形態のバラエティ。(私は、製作者たちがシュルレアリスムの絵画作品に取材したであろうことを、半ば確信している。)これはもはや、“使徒”とも“天使”とも無関係としか、言いようが無い。つまり、見た目のカッコ良さ。それだけなのである。

 ましてや、死海文書やらアダムやらリリスやら人類補完計画やらのモチーフ群に、思想的実体が、裏付けがあるであろうか? 無い。全く無い。一切、無いのだ。

 スタイルだけなのだ。

 そしてこれこそが、エヴァのこんにち的な新しさであり、「ヤマト」や「ガンダム」などのメッセージ指向の作品群を決定的に過去に追いやる、新世代の傑作であるゆえんなのである。(無論、メッセージの無い、カッコだけの作品は、これまでにも無数に作られてきたことであろう。ただ、エヴァほどの社会現象を引き起こした作品は、無かったということだ。念のため。)

 そうは言っても、エヴァからは、無数のメッセージを読み取ることが出来る。しかしそれは、実はエヴァの属性ではない。そのメッセージを読み取った人が、自ら(自分が読み取りたいと願って)照射したメッセージなのである。その意味で、エヴァは鏡なのだとも言える。(監督自ら、これをやってしまい、作品に介入したものだから、事態がややこしくなっているだけだ。)

 だから、エヴァの“内容の無さ”を糾弾する人は、実は旧来の観念に囚われているに過ぎない。地球の重力に縛り付けられている旧世代なのである。(正確な言い回しは、古すぎて忘れた。[;^J^])

*目次へ戻る


*1997年08月19日:「カルミナ・ブラーナ」


 お気楽オフの次の課題は、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。これは今世紀の作品なのだが、とてもそうとは信じられないほど、親しみやすいメロディーとリズムに満ち溢れている。それもそのはず、その(各国語が混在している)歌詞は中世にまで溯り、しかも聖書や神話・伝説に由来する由緒正しいものではなく、大雑把に言って、居酒屋の壁に落書きされたものの寄せ集めなのである。作者(たち)は、もちろん不詳。どうせロクな輩ではなく、生臭坊主やら不良学生やら兵士やら乞食やら、まぁそこらへんであろう。従って、その歌詞はひとことで言って、極めて猥雑。しばしば思い切って猥褻(らしい。そういう一番読みたいところに限って原文はラテン語であり、CDの歌詞対訳では公序良俗に反しない程度に手加減して訳されてしまっているのに、原文を読めないのだ [/_;])。

 そして、メロディーもリズムも親しみやすいと書いたが、上記の事情から明らかなように、庶民的なエネルギーが充溢しており、特にリズムの独特な執拗な感覚は、こんにちのロック世代、ダンス世代にもアピールするはずである。そのイントロとエンディングの「運命の女神よ!」という、はじけ飛ぶようなリズムに乗って歌われるエネルギッシュな音楽は、あなたも必ず、どこかで聴いているはずだ。これは是非ともCDショップで探し出して聴いてみていただきたい。これはクラシックの「声楽」コーナーに置かれている。(店員に聞く方が早いかも知れないが。)

 さて、これをお気楽オフでやるのだが、問題は、物凄く大量の打楽器が必要であるということ。

 もちろん、さまざまな打楽器を個人所有している人が参加する見込みであるし、もともと、少々編成が揃わなくとも、平気で(他の楽器で代用して)演奏してしまう“お気楽さ”が、お気楽オフの真骨頂ではある。しかし、正規の編成(楽器)で演奏できるに越したことは、もちろんないわけで、特にこの曲では、打楽器群の役割が極めて大きい。

 そこで、シンセの出番となるわけだ。特にチェレスタ、グロッケン、シロフォン、鐘、チューブラー・ベル等は、なかなか本物を調達(レンタル)するのが骨であり(費用がかかり)、ここらあたりを重点的にフォローすることになる。

 本会は10月18日なのだが、明日、第1回の練習会がある。従来、練習会にシンセを持っていったことはないが(持っていくとしても本番だけ)、今回に限っては、練習会からシンセを持ち込んで、いろいろ実験してみたい。というのは、同時に複数の楽器の代用をしなくてはならない箇所が、非常に多いからである。鍵盤を分割して、同時に複数の楽器の音を出すのは造作も無いことだが、問題は奏者。5オクターブの鍵盤をふたりで弾くのは、楽ではない(と予想される)。ひとりで弾く方がいいかも知れない。逆に、実はふたりでも問題ないかも知れない。そもそもひとりで複数の楽器の音符を同時に弾けるか、弾けないか。当然、曲の中の箇所によって異なる。それやこれやで、実際に試してみないとわからないことが、山ほどあるのである。(どういう譜面(パート譜)を用意できるかにも、おおいに関係する。)

 さらに事態をややこしくしているのが、恐らく、打楽器群以外の楽器の代役もしなくてはならないだろう、ということである。諸般の事情から、本会では、特に弦楽器の参加者が少なくなると予想されている。となると、低音弦楽器(チェロ、コントラバス)のパートも、弾かなくてはならないのではあるまいか?

 さらにさらに事態をややこしくしているのが、練習会と本会では、不足しているパートが異なっていることである。例えば本会では、まず確実にティンパニは用意できる。しかし練習会では、まず確実にティンパニは無い。ということは、本会ではティンパニの代役は不要だが、練習会ではティンパニの音を出すことが期待されている、ということだ。(なんらかの楽器で、ティンパニのパートを弾かないと、音楽的に成立し難い曲なのだ。)

 それやこれやで、シンセの果たすべき役割の組み合わせが、ほとんど発散しているのである。そうでなくとも、全25曲からなる作品であるが、各曲で使用される打楽器の組み合わせが異なるので、平たく言って、25通りのセッティングをしなくてはならないのだ。これに上述のバラエティを掛け算すると、数百のセッティングが必要になる。これはもちろん、現実の準備期間からは不可能なことであって、なんらかの手抜きが必要になる。その手の抜き方を考えるのに、また時間がかかる。[;^J^]

 結局は、(本会、あるいは練習会での)突発的な相談に応じる必要があるのだが、一度にひとつの楽器の代役しかしないのであれば、それほど面倒なことはないのであるが、同時に複数の楽器の代役をしながら、突発事態に応ずるのは、数分以内では不可能なことが多い。そういう事態を想定した仕込みを、あらかじめしておかなくてはならないのだ。

 ..という仕込みの、あまりのややこしさに音を上げていたのだが、実のところ、明日、休暇を取って練習会に行くのは、恐らく不可能。というのも、社内で、部署の引越しがあるからである。知らん顔して休んでしまってもいいのだが、私に属する荷物は極めて多く、また重く、休んだ日には、新しい部屋に運ぶくらいなら、と、思い切り良く捨てられてしまうかも知れないのだ。[;^J^]

*目次へ戻る


*1997年08月20日:部署の引越し:第一日


 という訳で、引越しである。

 死んだ。[;^J^]

 腰は壊さなかったが、足がもうガクガクである。夕方には階段を這い登るのが、やっとこさ。[;^J^] 衰えたなぁ。運動不足は昨日今日(昨年今年)に始まったことではなく、ずっと昔からそうなのだが、去年、いや、今年の春先までは、こんなに疲れやすくはなかったぞぉ。例えば2月にはフランクフルトに出張し、連日、馬鹿っぴろいメッセ会場を、重い資料を両手にぶら下げて、朝から晩まで歩きづめに歩いたのだが、今日の運動量は、その時と比べて、決して多くは無い。そしてフランクフルトでは、こんなに疲れなかった。

 曲がり角を曲がってしまったのかなぁ。あとは落ちるだけか。

 晩飯は久々に、ビヤホールAで。さすがにビールが、んまい!

*目次へ戻る


*1997年08月21日:部署の引越し:第二日


 引越し2日目。

 死んだ。[;^J^]

 いくら引越しだからといって、2日も3日も仕事の手を止めるわけにはいかないので、午後には、新しい部屋で段ボールの山に囲まれた状態で、とにもかくにも業務を再開する。必要な資料は、その都度、(まだ書棚に展開されていない)段ボールの底から引っ張りだしながら、である。

 ..これは、極めてまずい状況である。というのは、この未整理の混沌とした状況でも、なんとか仕事が再開できてしまったからである。しかも、「引越し人足」モードから、「端末前の椅子に身を沈めて仕事」モードに、移行してしまった。

 もう、腰があがらない。[;^J^] いーじゃん、これ以上片づけなくてもなんとかなるんだから。[;^J^]

*目次へ戻る


*1997年08月22日:無為な三連休:第一日


 というわけで、脚がだるくて起きられない。[;^J^] 部署内では長老格の年寄りなのだから、という説得力のある理由で、堂々と休む。[;^J^]

 金曜日である。ふと思い立って、思いっきり無為な三連休にすることにする。時間貧乏性な日々を送っているが故の反動である。

 ドロドロと眠り続け、昼前に起きて、トマトソーメンを食べて、ビールを飲んで、またドロドロと昼寝をする。夕方に起きて、ありあわせのものを食べて、ジャックダニエルのジンジャーエール割りを飲んで、またドロドロと眠る。今日一日で、軽い本なら2冊は読めたのに、などということは考えない。あと2日。

*目次へ戻る


*1997年08月23日:無為な三連休:第二日


 昨夜はあまりにも早くフトンに入った(というより、朝から片づけていないフトンの上に、横たわりなおした)ので、もちろん、早朝どころか深夜に目覚めてしまう。その度に、なんらかのアルコールを摂取して、ドロドロと眠り直す。心地よいほどの時間の無駄使いである。

 ..で、3連休の2日目の今日も、昨日と同じことをしていたわけなのである。あと1日。

*目次へ戻る


*1997年08月24日:高橋葉介 著作リスト


 9時過ぎに起きて、眠い目をこすりながらメールをチェックしてみたら、高橋葉介メーリングリストに、作品リストの第0版が流れていた。

 あっそぅ、と、欠伸をかまして、冷房を入れなおしてドロドロと眠り直して、次に起きたのが昼過ぎ。さきほどのメール、すなわち、まだまるで未完成の、穴もバグも多いリストを読み直してみて..

 ..業病が。[;^J^]

 手元にある限りの、高橋葉介の単行本と初出誌を積み上げ、夕方までかかってリストをチェックし、差分をメーリングリストに流す。同じことをしている人は、私だけでは無いはずだ。

 そしてこれが、リスト作りの骨法なのである。完成度の高いものを、いきなり発表したいと考えるのは、確かに人情。しかしそれでは(原理的に)いつまでたっても発表できない。

 そうではなく、まだまだ完成度の低い(しかし、フォーマットは確立している(これが重要!))段階で、公開してしまう。すると、今日の午後に私がやったように、正誤表、差分ファイル、追加リストが、そこらじゅうから(対応している暇がないほど)殺到するのである。私が編集・管理している「吾妻ひでお 著作リスト」の基礎も、こうして作られたのである。

 ということで、3日目は、有意義な(とは思わない人も多かろうが)時間を過ごしてしまった。3日連続の無駄使いというのは、やはり至難のわざなのであった。

*目次へ戻る *先週へ *次週へ


*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Aug 26 1997 
Copyright (C) 1997 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]