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以前も似たようなことを書いたと思うが、過去を捨てる勇気を持つことこそ、成功の要諦である。この(異常に)テンポの速い現代ビジネス社会では、いちいちやり直している暇など(普通は)なく、だからこそ、「やり直す」という決断が出来る企業(人)が勝つ。これは鮮やかな逆説である。これに関して、四つの例をあげよう。
まず、東芝である。東芝は、J31アーキテクチャを完全に捨てた。そして、ノートパソコンで世界を制覇した。
大体、いまどきのパソコンユーザーが「J31アーキテクチャ」を知っているだろうか? そこまで完全に、過去と決別したのである。
AT互換のハードウェアに漢字ROMを搭載したJ31アーキテクチャは、DOS/V以前の時代において、世界標準のPC/ATのソフトと日本語を同居させる、それなりに優れた解であった。いや、DOS/V時代になってからも、漢字フォントをDISKからRAMに展開するDOS/Vは、その処理速度においてJ31(及び、同様に漢字ROMを使う98)方式にかなわず、J31は一方の雄として君臨し続けていたのである。
とりわけ感心したのは、最上位機種から最下位機種まで、200万円以上もする戦艦のようなハイエンドの重厚長大ラップトップから、(当時としては)超小型超軽量のダイナブックJ3100SSまで、全て同じアーキテクチャで並べてみせたことである。この存在感は、ただ事ではなかった。
ある時期のビジネスソフト、あるいはフリーソフトやシェアウェアは、98、DOS/V、J31、そしてFMRを、対応機種としてスペック表に並べたものだ。
しかし時代は移る。ハードウェアの高速化に伴って、DOS/V機の表示速度のディスアドバンテージは、速やかに解消されていった。そして結局、漢字ROMを積んだJ31は、海外では、無用の部品を抱えた無意味にコストの高いPCに過ぎない。また、日本仕様のドメスティックなソフトのタイトル数の競争で、98に勝てるわけもない。
かくしてJ31の影は、市場で急速に薄れてゆき..そして、東芝はJ31を“捨てた”のである。
決して少なくない(いや、恐らくは“膨大”と呼べたであろう)J31対応のソフト/ハード資産を“捨てた”のだ。そして、一介のDOS/Vメーカーとして、一から出直した。J31時代に培ってきた、ハードウェアの設計/製造技術だけを頼りに、新規に巻き直し..
..そして、勝った。
自分が持っているアドバンテージ(過去のJ31資産)を捨てて、ライバルメーカーたちと同じフィールドで、しかも、一周も二周も周回遅れの状況から走り出す、というのは、大変な勇気が必要だったに違いない。しかしその決断がなければ、こんにちの東芝は、なかったのだ。
第二の例は、NECである。普通は、「過去を捨てない」「過去の資産にしがみついている」企業として、認識されていると思う。しかし(逆説的だが)この企業もまた、“過去の捨て方”について、実に鮮やかな例を見せてくれたのだ。
すなわち、N88BASIC−ROMを、ついにメインボードから外したのである。去年の秋になって!
ほとんどの98ユーザーは、この時期まで(DISK−BASICではなく)ROM−BASICが載っていたとは、想像もしていなかった(ROM−BASICの存在すら忘れていた)のではないか。
昔からのユーザーの要求に応えるために、10年以上も前に進化が止まっていたであろうBASICを、コスト高に耐えて搭載し続け、そしてついにその負担に耐え切れず、これを捨てた。これはこれで、NECにしか演じられない、見事な“芸”である。私はこのニュースに接した時、皮肉でもなんでもなく、「千両役者だなぁ」と感嘆した。
第三の例。これは「過去を捨てる」例ではない。「掌を返したように方針を変えて見せた」例である。(本質的には同じだが。)そう、マイクロソフトである。
そもそもこの会社は、インターネットに懐疑的だったはずだ。自前のMSN(マイクロソフト・ネットワーク)が、インターネットを凌駕できると、本気で考えていたと思えるフシすらある。
その後の成り行きは、ご存知の通り。インターネットの大津波に抗し得ず、と(正しく)見て取るや、実に鮮やかなステップを踏んでみせたのだ。すなわち、社内に向けてビル・ゲーツの発した「100日指令」である。インターネット戦略を(ほとんど0から始めて)100日で組み立てよ、という大号令である。
かくして、現在のマイクロソフト王朝が、あるのだ。
最後に、最もぶざまな、第四の例。マイクロソフトとくればアップルである。(こう言ってもらえるうちが、華なのだが。)
この会社はもう、過去を捨てるも何も。捨てたんだかしがみついているんだか、さっぱり判らない。ラプソディーに社運をかけたのかと思ったら、MacOS8の、自分たちでも驚くほどの売れ行きに気をよくして、マックの王道はMacOSにあり、と、叫んでいる。
いまだにインターネット戦略が見えないし、恐らく、そんなものは存在しない。マイクロソフトの鮮やかな“ダンス”と、比較するも愚か。ぶざまにドタドタと踊るどころか、最初から最後まで壁にしがみついて、ゲームに参加する意志もない。
..マイクロソフトに話を戻す。この会社の、ほとんど無節操とも軽薄とも思える行動様式を、批判(揶揄)する人は大勢いるが、マイクロソフトがMSNに、あと1年しがみついていたら、どうなっていたか。実際、会社として、生きるか死ぬかの選択だったのである。(もちろん、MSNを捨てたわけではない。重心を大幅に移した、ということである。念の為。)
それだけの決断をして、その勝負に(賭けに)勝ち抜いてきた企業が、王位に就く。それがビジネス社会の“正義”なのだ。マイクロソフトの行動様式(掌を返すような方針変更の連続)を揶揄するなどは論外で、この限りにおいては、まさに「正義はマイクロソフトにある」のである。
それとは対照的に、数年間(現代社会においては、致命的とも言うべき長期間)にわたって、何も決断しなかったアップルは、ビジネス社会の正義の名のもとに断罪された、としか、表現のしようがないのだ。
(つけ加えておくと、私はどちらかと言えば、マイクロソフトが嫌いである。しかし、巷で呟かれている、不当な(ほとんど不正な)批判は看過し得ないので、言うべきことは言ったまでのこと。)
目次へ戻る例えば、インターネット・エクスプローラー。これには深刻なセキュリティホールがある、と、「公的でない」メディア、例えば個人のホームページやパソコン通信の掲示板やメーリングリストやニュースグループ等などで指摘されているが、「公的な」メディア、例えば雑誌や新聞には、とんとそういう情報が載らない。
常識的に考えれば、前者が正しい。
セキュリティホールについてのマイクロソフトの公的見解は、それが存在することは認めた上で、しかし、現実には被害が明らかになっていないので、問題(事件)は、幸いにも起っていないのだろう、ということらしい。
詭弁である。
まともなクラッカーが、痕跡を残すわけが無いだろう。騒ぎが起きていないということは、逆説的に言えば、事件が既に起こって、進行中であることの証拠なのだ。
ただ、やっかいなことは..いまや、マイクロソフトがくしゃみをすれば世界が風邪をひく、どころか、マイクロソフトが困惑すれば(出荷スケジュールを遅らせれば)、世界が(少なくともコンピューター業界が)パニックに陥るのである。
目次へ戻る終業後に、10軒以上の書店を、車で走り回った。
菅野美穂の写真集を買うためである。
あなたが信用するかしないかはともかく、私が観るためではない。(事実上)知人に頼まれたからである。
数日前から、ニフティのとあるフォーラムのとある会議室で、この写真集が話題になっていたのだが、私は菅野美穂というタレント(女優?歌手?)を、全然知らなかった。だから斜めに読み飛ばしていたのだが、その問題の写真集(ほとんど即日予約完売で、入手困難らしい)の表紙を、浜松市内の(複数の)書店で見た記憶があった。それでそのように(「東京のことは知らないが、浜松にはまだあるよん」と)会議室に書き込んだら、さる人から、今度見つけたら、是非確保してくれ、俺が引き取る、と、頼まれてしまったのである。
それで今日、探してみたら..どこにもない。
大体、最初に訪れた書店の店頭に、わざわざ「完売しました」「入荷未定」「増刷未定」と張り紙されていたのを見た時点で、これ以上探すだけ無駄だ、ということは明らかであったのだが。(普通の客の行動様式を考えてみれば良い。こんな張り紙がしてあれば、元来それほど欲しくはなかったのだとしても、“出来れば”入手したくなり、別の本屋をあさりに出かけるであろうものじゃないか。)一軒で売り切れたら、全部の店で全滅なのである。
15店以上探し回った最後の店で(言うまでもないことだが、大型店と共に、小さな店もスキャンした。小さな店では回転率が悪いので、こういう品が手に入り易いことが少なくない)、「墓場の鬼太郎」の貸本復刻版をみつけてしまったので、菅野美穂の代わりにそれを買って帰ったことである。
ま、出版社というのは、売らなければ全然儲けにならないのだから、すぐに増刷されるであろう。(早くも出回っているであろうと確信している)プレミア品に手を出す必要は、全くない。特にこういう若いスターは、旬の時期が短い。人気が凋落してから増刷しても、なんの意味もないのである。
目次へ戻る週に一度ほど歯医者に通い、歯周炎の治療をしている。要は歯石取りと歯磨き指導なのだが、この「指導」が、医者と看護婦(技工士?)とで矛盾していて、結構悩む。「前回、先生に、その手法は必要ないと言われたんですけどぉ」とか言いたくないのだ。ま、よくある話ではあるが。
親知らずが4本ある。下の2本は、レントゲン写真を見ると、完全に横向きに埋まっていて、歯としての仕事は一切せず、隣の大臼歯を横から圧迫しているだけである。上の2本は、全くあさっての方を向いて生えかかっている。なんにせよ、この(上の)2本は、歯としては全く役に立たない。噛み合わさるべき下の歯が、ないからである。虫歯になるしか、することがないのだ。
(下のはともかく、上の)親知らずは抜いた方がいいのだが、と、医者に水を向けられるが、心の準備が出来ていないので、言葉を濁す。
それはそれとして、今日の歯石取りは、右上奥の歯茎に麻酔注射をして、奥歯からバリベリボリバリッ! これこれでは爽快である。
目次へ戻る新聞を頭から信用したり、敬意を払ったりしている人は、いるとしても少数派だろう。
新聞の信用が失墜するきっかけ、というのは、いろいろある。朝日新聞を例に取れば、誰もが思い出すのが、「珊瑚礁損傷でっち上げヤラセ記事」事件ではないだろうか。しかし、私がこの新聞を軽蔑、というと言い過ぎだな、“軽く見る”ようになったのは、これより遥かに地味な、事件でもなんでもない、一片の論評(エッセイ)からである。10年位昔の、「天声人語」だったと思う。
民間企業の経費節減努力について(確か)トヨタの事例を取り上げて述べていた。トヨタの社内便の封筒は、なんと!外部からトヨタに送られてくる郵便物の封筒を再利用しているのである! そしてその封筒に貼り付けられる、行き先表の欄が一杯になったら、またその上から行き先表を貼り、封筒がボロボロになるまで使いまわすというから、凄まじい!
..と、天声人語に書かれていたのである。
開いた口がふさがらない、とは、このことである。こんなの、常識ではないか。普通の私企業なら、どこでもやっているであろうことではないか。
この程度の経費節減努力すら、朝日新聞社はやっていなかった、ということだ。やはり大新聞社は殿様商売をしているのであって、民間企業の身を切るような現実など、所詮は理解できず、それにまつわる取材記事が、どこかピントが外れているのは、結局ここら辺に起因するのであるな、と、言わば“見切ってしまった”というわけだ。
(ここで特に朝日新聞を取り上げたのは、私が昔から読んでおり、今なお(もう止めようと思いながらも、惰性で)購読している新聞だからであって、他意は無い。読売でも毎日でもその他の新聞でも、本質的には同じことであろう。)
(一応追記しておくと、この「封筒の再利用」自体には、さほどの経費節減効果はないと思う。これはむしろ、経費節減に向けての士気を高める、心理的な効果の方が大きい。)
目次へ戻る同じ部署の同僚たちと、御前崎でバーベキュー。ちょうど、浜松と静岡の中間くらいか。後輩の車に同乗させてもらう。
基本的には晴天だが、そこそこ薄雲も広がっており、日に焼け過ぎず、よいあんばいである。思ったよりも海水浴の親子連れが少ない。夏休み最後の土日は、遊んでいる場合ではないのだろう。家族サービスにせよ宿題のやっつけにせよ、親父は地獄である。良い風、良い波に恵まれた日であり、宿題の無い世代のサーファーたちは、大勢来ている。
今日の参加者は10人前後。肉、野菜、ヤキソバ、刺し身、そしてこれを忘れちゃいけない、サザエの壷焼き。
昔は、浜で捕まえた蛸を、消毒もせずにそのまま食ったこともあったのだが(「生き物を生きたまま喰らうことについて」)、それもO157が猖獗を極める以前の、古き良き時代のこと。このご時世にそんなことをして事故を起こした日には、どれほど軽蔑されることか。[;^J^] 食中毒よりも、そっちの方が恐ろしい。[;^.^]
波打ち際から程遠からぬところに陣取って、酒と料理をしていたのだが、日が傾いて次第に潮が寄せてきた。満潮になっても、ここが水没することはない、と私は主張したのだが、酔っ払いの戯言として相手にされず、撤退する。[;^J^]
目次へ戻る久々に中古LD屋で、ソフトを2枚買う。「ラドン」と「アッシャー家の惨劇」である。「ラドン」は、実は通して観たことがなかったのだ。(断片的に、いくつかのシーンを観ていただけ。)「アッシャー家の惨劇」(ロジャー・コーマン製作・監督の、1960作品)は、25年位昔にTVで観ていたはずだが、これまた断片的にしか憶えていなかった。
「ラドン」はさすがに素晴らしい。今の目から見ると、テンポの遅さとか不自然な展開とか色々あるのだが、時代(1956)を考えれば納得できる範囲である。
素晴らしいのは、その構成である。前半は、とにかく徹底的に「ラドン」が登場しない。炭坑の底で、巨大なヤゴ(トンボの幼虫)との戦いが、延々と繰り広げられるのである。そして後半、鮮やかな空中戦に切り替わる。
「ゴジラ」のような、重いテーマはない。「やはり核実験の影響ですか!?」という質問が、科学者(平田昭彦)に飛ぶのだが、彼は「いや、そうとは言い切れない」と答える。
つまり、純粋娯楽作品なのである。その意味では、のちの数多くの怪獣映画は、「ゴジラ」ではなく「ラドン」の系譜に連なっているのだ。超兵器が登場せず、自衛隊の火力と火山の噴火だけで退治してしまう、という、あっさりとした幕切れは、いっそ、すがすがしい。
「アッシャー家の惨劇」は、10代のみぎりに、おおなんたるB級品であることよ、と(半ば)呆れたと記憶しているが、久しぶりに観なおしてみたら、おおなんたるB級品であることよ。[;^J^] 主演のヴィンセント・プライスは、悪くないんだけどねぇ。
ダイアナ妃事故死のニュースが飛び込んできた。さすがに驚いた。
不謹慎と叱られるのを承知で書くが、結局、見事な「幕切れ」で「物語」を閉じて、死んだわけだ。彼女自身は、そんなことは望んでいなかったのだろうが。
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