1997年08月04日:流星王子/W3(ワンダースリー)/奇妙な大旅行/どうなるくん/人間昆虫記、等調査。ゴキブリくん、発見! 1997年08月05日:スコール 1997年08月06日:「ナウい」 1997年08月07日:マックについて 1997年08月08日:新製品リリース祝い 1997年08月09日:不愉快な男女 1997年08月10日:「ヨーロッパ拷問展」「自動演奏楽器展」目次へ戻る 先週へ 次週へ
祭りは終わった。同宿のA氏がまだ寝ている7時半頃にホテルを発ち、まず東京駅へ。銀の鈴待合所のコインロッカーに、シンセとその他の荷物を放り込み、必要最小限の資料類のみに手荷物を減らして、国会図書館へ。到着は8時45分頃で、開館は9時半なのだが、平日の通勤ラッシュのピークに巻き込まれたくなかったので、敢えて早目に移動したのである。
まず、細かい穴埋めというかダメ出しというか、前回までの調査で「無い」という結果が出ていた初出誌群が、本当に無いのか、あるいは「無い」というのは担当者の勘違い、あるいは私の請求ミスで、実は存在するのか、の確認作業。
やはり、「中学二年コース」は、60/05 から 66/03 の長期に渡って欠落。「中学一年コース」も、61/04 から 66/04 まで欠落。つまり、「夜明け城」と「アリと巨人」の調査は、暗礁に乗り上げてしまったわけだ。
吾妻ひでお関連調査では、「月刊プレイコミック」が、そもそも目録に無い。これも昔から判っていたことではあるが、少々考えにくい事態ではある。別の名前で目録に掲載されていないか、次回に再調査をかける。(しかし「プレイコミック」本誌が、70/09 から 80/07 まで、実に10年近くも欠落していることを考えると、見込みは薄いかも知れない..)「冒険王」の調査の穴となっていた、72 年の後半を請求してみるが、やはりボロボロの欠落状態。「ナマズン」はいまだに発見出来ず。
朗報がひとつ。吾妻ひでおの「ゴキブリくん」を、ついに発見した!
収録単行本には、少年チャンピオン 76/09/13 と記載されているが、この号には掲載されておらず、私のリストに先行する作品リストにも初出号が記載されていないので、初出情報が空白のまま、何年間もペンディングとされていた作品なのである。
真の初出誌は..少年チャンピオン 76/09/20、なんと、誤った初出誌情報の、すぐ隣の号である。何故、これを今まで見つけられなかったのか? 私は確か、76/09/13 に掲載されていないことが判明した時点で、逆上して [;^J^] この年の「少年チャンピオン」に絨毯爆撃をかけて、総チェックしたはずなのに..
その「絨毯爆撃」が、盲点を作り出していたのであった。つまり、この作品は“目次に掲載されていなかった”のである!
「絨毯爆撃」をかける、ということは、即ち(限られた時間内に)膨大な冊数をこなす、ということであり、事実上目次のチェックしか出来ていなかったのだ。そうでなくとも、僅か5頁の短編である。パラパラめくった位では見落とすに決まっている。目次が頼りにならないという前提に立つならば、文字どおり、すみからすみまで読む必要があるのであった。
今回、これを発見できたのは、この号に“確かに”掲載されている、という情報があったからである。職場の後輩が、3件茶屋の2階のマンガ屋のホームページで発見して、報せてくれたのであった。私は慌てた。このページは(もちろん)ブックマークしていたのに、結果的にアンテナが錆付いていて、機能していなかったことになるのだから。
とにかくこれで、「吾妻ひでお 著作リスト」が、また一歩、完璧に近づいたわけだ。
手塚治虫に戻って、「流星王子」「W3(ワンダースリー)」をチェック完。新聞閲覧室では、全集未収録の連載を2編、「奇妙な大旅行」と「どうなるくん」を片づける。これで、新聞閲覧室での調査は、初出紙が蔵書されていないもの、初出紙が切り取りの被害に会っていて読めないものの他は、極めて僅かな落ち穂拾いを残すのみで、事実上、終了である。(“極めて僅かな落ち穂拾い”とは、例えばその新聞の1960年度(月日不明)のどこかに、(恐らく)1コマ漫画が掲載されている、という類であり、つまり、んなもん探していられるか〜![;^O^]状態。)
閉館後、現代マンガ図書館で「人間昆虫記」の初出誌(プレイコミック)を、チェック出来るだけチェックする。この期間のプレイコミックは、国会図書館には皆無。現代マンガ図書館でもボロボロに欠落しているが、「人間昆虫記」の連載期間の半分位は、辛うじてカバーしている。
東京駅に戻り、コインロッカーから重い荷物を取り出して、ひかりで浜松へ。それにしてもこの3日間、雨が降らなくて、本当に助かった。よほど日頃の行いが良かったのだろう。(思い当たる節はないが。[;^J^])
目次へ戻るさて、今日から日常業務に戻らねば..しかし、体が言うことをきかない。疲労がたまっている。朝いちの定時に出社できないことはないが..気力がいまいち。会社に電話して、午前半休にしてしまう。
半日寝続け、昼前に家を出て会社に車を走らせて15分ほど過ぎた頃、道の200メートルほど前方が、見えなくなっている。そこからいきなり深い霧につつまれているようで、道も街並みも、白濁した壁で断ち切られている。「物体O」というか「首都消失」というか..などと余裕をかまして小松左京していたら、その“白い壁”に走り込む直前になって、いきなり水の塊がフロントガラスを叩き始め..
..スコールに突入したのであった。
全ての車が、20キロ位の徐行に移るか、あるいは止まっている。ワイパーは全く無効で、“降る”というよりは、上空から“流れ落ち続ける”瀧の真下で、視界は高々5メートル。
もちろん、こんな極端な豪雨が(時間的にも地域的にも)広がりを持つわけはなく、10分ほどもノロノロ運転をしているうちに突破したのだが、しかし、よほど日頃の行いが悪かったのだろう。(思い当たる節が多すぎて、どれにバチが当たったのか、判らない。[;^J^])
目次へ戻る先日のFCLA夏オフ用に「1812年」のキャノン砲をシンセで作る際に、参考にしたのが、デュトワ/モントリオールSO盤である。(結果として似ても似つかぬ音になったが、それはともかく。)
1985年の録音だから、発売されたのは10年位前だったと思うが、これが実は“色物”。終盤になって「バンダ」(別働隊のブラスバンド)が登場して重ねられ、大いに華やかに祝祭的に盛り上がる曲なのだが、このパートをシンセサイザーで代用しているのである。それも先日の夏オフで試みたように、パイプオルガン風重厚サウンドにするのなら解るのだが、か細くキラキラした音(恐らく、DX−7だと思われる)を、右に左にパンしながら..
全く無意味なのである。一体何をしたいのか? 指揮者のデュトワもプロデューサーも、なんのためにシンセサイザーを使うのか、自分たちでも理解できていないことは明白。単に目新しいものを使ってみましたー、なのであろう。ポップス担当のプロデューサーに一言相談すれば、こんなぶざまな結果にはならなかったであろうに..
そしてまたライナーノートが..今、手元にないので正確な引用は出来ないのだが、ニュアンスとしては、「ここで現代的なシンセサイザーを使用しているとは、指揮者のデュトワ、なかなかナウい人である」。
な、ナウい..[;^.^]
繰り返すが、このCDが発売されたのは、確か1986〜7年なのである。ナウいが死語になったのは、その10年以上前だったと記憶する。全く背伸びをするものではなく、知らないもの(楽器や言葉)を、知っているフリをして使うものではない。音楽家も文筆家も。
目次へ戻るマイクロソフトがアップルに資本参加する、というニュースを、会社で、インターネット新聞の「MacWire」や「PCWeek」で読んでから帰宅してみたら..朝日新聞の一面トップの大見出しが「マック、白旗」である。違うでしょ。
ま、一般人に対して事態を解りやすく噛み砕いて一言で表現すれば、そうなるか..そういう側面もあるし。
もっともシニカルな表現を(両社に対して)すれば、「これ以上アップルのシェアが低下すれば、一番困るのは、独禁法発動の脅威にさらされているマイクロソフト。しかしアップルを放置しておいても、自滅する方向にしか事態は推移しない。そこで現状のシェアを維持させるべく、大金を投じて管理に乗り出さざるを得なくなった」ということになろうか。別に役員を送り込んだ訳じゃないけど(確か)、大株主の意向に逆らうわけには行かないでしょ、資本主義社会では。
一番、ピンと来ていないのは、(私を含めて)日本人であろう。日本では、マックの売れ行きが急伸しているからである。ま、アメリカと日本でしか売れていない、と言われればそれまでだが..(さらに、アメリカではシェア5%を割り込んでいるらしいし..)街中での(あるいは周囲での)人気の高さと「経営危機」とが、どうも感覚的に結びつかないのである。安定した品質の物を量産できないのだろうか?(そうらしいが。)モノが良くて会社が傾く..歴代の経営陣が、いかに無能だったかの証明である。スティーブ・ジョブスは、そんなに有能なのかね?(ビル・ゲイツは、彼の経営能力を信用していないように見えるが。)
私は、(会社で使ったことは、あるが)一度もマックのオーナーになったことがない。
今更、良い面悪い面を書くつもりもないが(ただし、あのインターフェースは、実に使いにくい、とだけは書かせていただく。Win95は、あそこまで堕落する寸前で、踏みとどまった、という印象が、はっきりとある)..何よりも“嫌”だったのは..「マック・コミュニティー」の存在であった。あの、連帯感と仲間意識。DOSやPCやWindowsには、そんなものはない。「連帯感など生まれようもない程度の代物だからさ」と、言わば言え。クールに、道具として、お仕事として、距離をおいてパソコンと相対しようとする時、「連帯感」には、それを阻害するところがある。マックが(初期の一時期を除いて)企業に入りそこなった“情緒的な”原因が、そこにあると思う。導入担当者も、人間だからだ。なにやら“ウェットな”ものと、付き合いたくない、と感じるのは、それなりに自然なことだからだ。
目次へ戻る今夜は、職場の宴会である。とある新製品を(まずまず無事に)市場に送り出し、反応は上々。その打ち上げである。こういう酒は、本当に美味い。(無論、大変なのはこれからであって、ユーザーに迷惑をかけないよう、安定した品質のものを、安定供給できなければならない。昨日の日記ではないが、これがメーカーの使命であり、もっとも難しいことでもある。)
目次へ戻る行き付けの居酒屋で食事と酒をしていたら、むかいの席の(男はイモだが、女性は半裸に近い薄着美人の)学生のカップルが、AからBへとハッスルすること。[;^J^] 私の顔をチロチロと伺いながらプレイしているところを見ると、どうも観客を得て刺激されているらしい。
という訳で、こちらも“ショー”を楽しませていただいたのだが..しかし、面白かったのは最初の30分位のもので、次第に気分が悪くなってきた。女性は完全に酔い潰れ(男に酔い潰されて)、椅子に座っていることも出来ず、床にずり落ちるようになってしまう。こういうのは、見ていて不愉快である。明らかに自分の酒量を把握できていない女性に“トロピカルカクテルのイッキ飲み”をさせるとは、何事だ。さらに、姿勢を保つことも出来ない状態の女性の体をいじくり回すに至っては..
酔って色気を発散している女性を観るのは、正しく、人生の楽しみの最大のもののひとつであるが、酔って正体を無くしている女性を観るのは、楽しくもなんともない。
それにそもそも、このように乱れるべき店でもない。ここは昼間はファミリー系の食事の店であり、この時間帯には、まだ家族連れが大勢いるのだ。彼女の嬌態(狂態)を正視するためには、女性の人格を無視して“オブジェ(玩具)”として割り切る必要がある。そういう場も確かにあるし、利用することが無いとは言わない。しかしそれは、ここではない。
小1時間ほどしてから、足腰も立たないほどフラフラしている女性を引きずって、男は出ていったが..彼の車の助手席を汚してしまうことは確実。それより何より、事故らなければいいのだが..
目次へ戻る今日から17日まで、帰省である。8時6分のひかりに乗れば十分なので、7時20分頃に家を出る。この時点では、まだ雲が広がっており、思いがけず涼しい風が吹き渡っていて、実に快適。何しろ(例によって)休み中に実家を根城にして国会図書館に通う予定であり、資料の手塚治虫全集本などの書籍をしこたま抱えているので、そうでなくても汗をかきやすいのだ。
駅で、女子中学生とすれ違ったら、白粉の匂いならぬバニラの香り。某探偵小説を想起したことである。[^J^]
9時半過ぎに東京着。もはやカンカン照りである。[;_ _] まず、お茶の水は明治大学刑事博物館に向かい、「ヨーロッパ拷問展」。想像していたほど“エグイ”ものではなかったが、(血糊はきれいに洗い落とされているしさ [;^J^])これらが“実用”に供されてきたのかと思うと、感慨もまた、ひとしおである。これといった道具を必要としない「水責め」が、もっとも残酷な拷問のひとつである、というのは、興味深い逆説。
ちょっと神保町の街並みを散策するが、もちろんほとんどの店は閉まっている。そこでさっさと六本木に移動。麻布美術工芸館で「オーケストリオンとその仲間たち よみがえる自動演奏楽器の音」。
「ヨーロッパ拷問展」とのセット企画である。人類史の闇と光というわけだ。それほど大規模な展示ではないが、1時間ごとに5〜6機種をデモ演奏してくれるのが嬉しい。
やはり圧巻は、自動ヴァイオリンである。これにはアメリカ製とドイツ製と2タイプ展示されており(歴史的にも、この2種類しか作られなかったらしい)、アメリカ製の方は、まずは予想のつく(というか、これしかないだろうと思っていた)動作原理、すなわち、回転するセルロイドの円盤を弦に当てる方式で、いわゆる「ギズモトロン」の同類である。
ドイツ製のものは、自動ピアノの上にヴァイオリンが3台、棹を下にして立てられているのだが..動き始めたのを観て仰天。
スイッチが入ると同時に、その(上面を外側に向けて)並べられたヴァイオリンの外側に、かぶさるように設置された円環が、回転し始める。その内側には、大量の馬の毛が編み込まれている。そして、各ヴァイオリンは、1台が1本の弦を担当していて、その弦を鳴らす段になると、回転する円形の“弓”に“倒れ込む”のである!
この、エアーで制御されている動きは、実に精密なもので、「ウィリアム・テル序曲」を、見事に弾き切っていた。よくもまぁ、こんなものを作ったもんだ。これは確かにひとつの芸術品である。
もう寄り道をする元気が無い。体力の低下を愁えつつ、ヘトヘトになって、実家にたどり着く。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Aug 15 1997
Copyright (C) 1997 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]