1997年06月23日:多分、全集の誤植だが.. 1997年06月24日:なんだ、同い年だったのか 1997年06月25日:黄金時代 1997年06月26日:レンズマン 1997年06月27日:多勢に無勢 1997年06月28日:体面の罠 1997年06月29日:サカキバラ事件目次へ戻る 先週へ 次週へ
やられた。
「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」の、「手塚治虫エッセイ集 5」のデータを入力していて、従来資料との異同を発見してしまった。
観客がいっぱい(絵と文)::4:スクリーン:60/08 ヌーヴェル・ヴァーグ演出の極意(絵と文)::11:スクリーン:60/06
である。これまで調べたどの資料にも、この両者の初出号は逆に記載されている。現物を当たるしかない。特急の大仕事で爆忙状態なのだが、それも今月一杯で終わる。来週(来月)早々にでも代休を取って、国会図書館だな。(この程度の誤植を放置しておいても、多分、未来永劫、誰ひとり困らないのだが、もちろん、リスト作り(インデックス作り)というのは、それですむものではないのだ。)
他にも「銀座百点」という初出誌名があるが、これは「銀座百店」じゃなかったかなぁ。これなら地元の図書館で調べられる。今週末だ。
目次へ戻る新聞を読んでいて、小室哲哉が38歳だということを知った。同い年ではないか。もっと若いのかと思っていた。
要は“中年の星”だったのね。
あまり興味のわかない男だったが、急に親しみを感じ始めてしまった。現金なものである。
目次へ戻る先週、「住めば都、生まれれば黄金時代」という小文で、誰にとっても自分が生まれ育った時代こそが、黄金時代であることを、また、「“12歳”」という小文で、中でも、人生における最も多感な時期である「12歳」という季節における(知的)体験が、一生を支配することを、述べた。
では、私の「12歳」は、どういう時代であったか。
それは、1970年である。
幸か不幸か、1970年という年に、12歳であったということ。これが、私の人生(観)に、決定的な影響を及ぼしたのだ。
それは、1960年代の最後の年である。狂熱の60年代の。
良いことも悪いことも、共に極端な形で実現した時代。ベトナム戦争と安保闘争の時代。ビートルズとポップアートの時代。交通戦争と公害地獄の時代。鉄腕アトムとウルトラQの時代。人類を消滅させる第三次世界大戦のイメージに、確固たるリアリティがあった時代。そして、加山雄三と長島茂雄の時代! この狂乱の10年間を締めくくったのが、1969年の月面着陸、そして1970年の、日本万国博覧会だったのである。
私には、戦後(日本)史のはっきりとしたイメージがある。それは、1970年を分水嶺とする、極めて明確な上昇ベクトルと下降ベクトルだ。ありとあらゆる悪事と災厄に見舞われながらも、それらを圧倒する、いやむしろ“包含する”活力とエネルギーで、超論理的な盛り上がりで駆け上がり続け、1970年の(日本にとっては)世紀の大イベント、まさにバラ色の未来のイメージの集大成とも言うべき、壮大な祭りで頂点に達し、そして、一気に“ツキ”を落としてしまった、ふたつのベクトル。
1970年代は、少なくとも(日本を含む)西側先進国に取って、悪夢のような時代、いや、実はそれよりももっと始末におえない“白茶けてゆく”時代だった。夢から醒めたのだ。オイルショック。当時の西側世界の住人は誰ひとり、アラブ諸国が結託して石油の値段を10倍に吊り上げることなど、想像もしていなかったのだ。いま振り返って見ると、このこと自体、むしろ驚嘆に値する。当時の“西側”の人間に取って、イスラム世界の“自己主張”など、想像を絶する現象であったのである。彼らは西側先進国のための「石油の蛇口」でしかなかったのだ。
無論、歴史認識は一様ではなく、国が変われば時間の流れも変わる。何よりも、同じ時代に同じ日本に生を受けていながら、上述の私の歴史認識(時代認識)を全く受け入れない人は、大勢いる。
しかし、それでもなお、私は確信している。「日本万国博覧会」(この呼称自体、当時の日本が、その意識において“後進国”だった証拠である。各国持ち回りで開催されていた“万博”には、都市名が冠されるのが通例なのだ。ニューヨーク博しかり、モントリオール博しかり。つまり“万博”は、本来は都市レベルのお祭りなのである。その“都市祭り”に、日本は国家レベルで取り組んだのだ。近年、この“万博”のことを、のちの「筑波万博」と区別するためだろうか、「大阪万博」と呼ぶ人が多いが、当時は、そんな呼び方をする人は、ひとりもいなかった。これは、米ソに次ぐ、世界第3位のGNP大国である日本の、“国力”と“科学技術力”を世界に誇示する、堂々たる「日本万国博覧会」だったのである)こそ、戦後日本史上の最大の事件であったと。そして、その年に「12歳」となった私は、鉄腕アトムが「科学の子」であるように、「万博の子」なのだ。あの万博の、人類の未来に無限の信頼を(能天気にも)置いている、バラ色の未来観が、染み付いているのである。
目次へ戻る昨日の続きである。
その“黄金の12歳”の季節に、世紀の祭典「日本万国博覧会」を見物すべく、一家をあげて、大阪の親戚の家に泊り込んでいたのだが、道中の無聊を慰めるために持参していったのが、創元推理文庫の「第二段階レンズマン」(E.E.スミス)である。この、超名作シリーズ(レンズマン・シリーズ)も、昨今では(いや、実は遥か昔から)、その内容と文章の文学的平易さから、「12歳の子どもでなければ読めたもんじゃない」と叩かれており、私としては大いに反発するところであるが、ま、それはともかく、この時は確かに12歳(正確には、11歳と11ヶ月)だったわけだ。
「レンズマン」の粗筋を、ここでくだくだしく述べることはしない。代わりに、遠藤英幸氏が、1994年に fj.rec.sf に投稿した記事(<ENDO-H.94Jul8162723@coco.cs.uec.ac.jp>)から引用しよう。このシリーズの魅力を見事に表現している、名文である。
原作のあの、時間と空間と次元を越えた壮大なイメージ。すさまじいパワーの ぶつかり合い。知力の限りを尽くした心理戦。謎また謎。 生きたまま切り刻まれてしまう主人公。デルゴン貴族に出会うと理性がぶっと ぶヴェランシア人。味方ながら不気味な無敵のレンズマン。 難攻不落のシールドを一発でぶちぬく第一次ビーム。一撃で蒸発する大艦隊、 驚異の惑星爆弾。爆発する太陽。
このシリーズの“面白い”特徴として、「ロボットとコンピューターが、ほとんど全く登場しない」ことがあげられる。無論、古い作品(単行本が出版されたのは1950年代前半だが、雑誌に連載されたのは1930〜40年代)であるから、無理も無いと言えなくはないが。
以下、記憶だけで書くので、多少の間違いは大目に見ていただくとして。
ロボットが登場しないばかりか、「遠隔操縦」という概念も希薄である。例えば、超超超強力なビームを撃つとき、そのエネルギーを完全には遮断出来ないものだから、砲手が犠牲になるのである。こんなのは、ロボットを登場させるまでもなく、船橋の管制室からリモコンで発射すればすむ話である。いや実際、シリーズ正編の最終エピソード「レンズの子どもたち」の終わり近くの、ボスコーン(ボスコニア)との最終決戦に至って、ようやく「ロボットが乗り込んでいる戦闘機」が、(僅か数行ではあるが)ちらりと登場する。(最前線で破壊された、それらの戦闘機は、いずれもロボットによって操縦されていたので、味方には人的被害はほとんどなかった、という文脈である。ロボットには人権などないのだ。[;^J^])
コンピューターも登場しない。いや、もしかすると“計算機”は登場したかも知れない。しかしそうだとしても、それは単なる「高速計算機」に過ぎなかったはずだ。(だから、記憶に残っていないのだ。)レーダーの捉えた映像の分析とか、敵艦隊の進路予測とか、そういう“近代的”な仕事は、一切しない。それらは全て、レンズマンの“意志力”と“認識力”と“思考力”の仕事なのである。(考えてみれば、凄い世界だ。)ましてや“人工知能”など、全く登場しない。
確か「レンズの子どもたち」の一場面だったと思うが、記憶に焼き付いているシーケンスがある。
ボスコーンの大艦隊が(確か、超空間チューブを通って)突如出現した! 出現位置を、あらかじめ(非常に粗い精度で)予測して待ち構えていた銀河パトロール隊! ボスコーン艦隊の出現位置を測定し確定した観測官は「立ち上がって」一連の数字(すなわち座標)を叫ぶ! 壁の書棚から、その座標に対応したバインダーが直ちに取り出され、手早くルーズリーフが配布されると、各担当者は、受け持ちの艦隊に(そのペーパーに記されている)待機座標を指示すべく、通信席に走る!
..敵が取りうる全てのアクション(この場合は、戦場となる星系内での、出現しうる全ての座標)に対応する指令書の束をあらかじめ作っておき、現場で(そのうちの、実際に起こった事態に対応する一冊を)セレクトして、配布する。恐らく、第一次あるいは第二次世界大戦での戦闘司令室では、このようにして作戦が遂行されて行ったのであろう。
目次へ戻るどこかのニュースグループ、会議室、掲示板、あるいはメーリングリストで、今夜もバトルが繰り広げられている。
大勢力が二手に分かれて戦う、ということも無くは無いが、多くの場合、孤立無援のひとり(あるいは、彼(彼女)を支援する、ごく少数)対、圧倒的多数、という構図になる。
つまりは「多勢に無勢」の形になるのだが..
「多勢に無勢」という言葉は、“量的に圧倒されている”から不利である、と解されやすいが、それは違う。“多様な敵”とは戦いきれない、ということを述べているのである。
同じ主張をしている論敵が、例え百人いても恐くない。ひとり倒せば、残り99人もまとめて片付く。そうではなく、微妙に(あるいは全く)異なる論点から立ち向かってくる敵は、例えふたりでも、容易なことでは倒せない。なぜならば、そのふたりに対しては、微妙に(あるいは全く)異なるロジックとストーリーを個別に組み立てて、個別に戦いわけなければならないからだ。労力が倍になる。そのふたりの論敵が、自分と同じ知力を持っている場合、戦う前から負けが決まったも同然である。直ちに撤退。それしかない。この状態で戦ってもいいのは、そのふたりの知力の合計が、自分のそれを下回る場合だけである。
たったふたりを相手にすることですら、これほど難しいのだ。これが5人、10人となれば、まず確率的にも、勝ち目がある状態は、考えにくい。そうでなくても、多数を相手に戦う状態に自分をおいてしまう人間は、(その限りにおいては)あまり知的に高度ではないと言える。
以上から、「多勢に無勢」状態の論戦の成り行きは、火を見るよりも明らかである。最小限の流血で食い止めて撤退することも知らない、愚かで孤立している論客は、半死半生になるまで叩きのめされるのである。観ていて気持ちのいいものでもないが、自業自得だ。やむを得ない。
目次へ戻る昨日の続き。どうして「多勢に無勢」のような、一方的な状況になってしまうのか。原因は、それこそ無数にあるだろうが、典型的な理由のひとつとして、「不利を悟った者が、体面を守らんがための弄術を駆使し始める」ことがあげられる。
これは必ず、とまでは言わないが、バトル3件中1件位の割合で、発生する現象である。
そして、これをし始めると、必ず孤立する。それ(体面を守るための詭弁)は不誠実なことであり、心情的に応援していた者たちが離れて行くからである。
そして不思議なことに、当人は、この弄術を巧妙に(誰にもそれと判らぬように)駆使していると、思い込んでいるのだ。当人を除く全ての人間には、その詐術はみえみえだと言うのに。
目次へ戻る少年の首を切って弄び、マスコミを通じて世間に自己顕示をし続けた「サカキバラ事件」の容疑者が、ついに逮捕された。中3の少年である。
このあとの展開は、火を見るよりも明らかである。少年の部屋からホラービデオが発見される。かつての宮崎事件の再現である。そして無意味な自主規制が始まるのだ。なんの関係もないと言うのに。
図書館で、手塚治虫関係の初出誌調査。「銀座百点」という雑誌は実在する。これの編集元が、銀座百店会なのであった。記憶の混同の誘発を目的としているとしか思えないネーミングである。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Jul 8 1997
Copyright (C) 1997 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]