1996年09月30日:「解説」の罠 1996年10月01日:あるマニュアルについて 1996年10月02日:あるディスクドライブについて 1996年10月03日:「無学者は論に負けず」 1996年10月04日:ラインの変貌 1996年10月05日:漫画のコマの順番について 1996年10月06日:焦土作戦目次へ戻る 先週へ 次週へ
「罠」というのも大袈裟だが..[;^J^] 私のホームページ下の各文章の末尾には、多くの場合「解説」へのリンクが張ってある。これこそまさに、私の試行錯誤と深謀遠慮の産物なのである。
私は、主要ページを、それぞれ個別にあちこちのサーチエンジンに登録しており、また、外部のあちこちのページから個別にリンクされている。「吾妻ひでお 著作リスト」はコミック系のページから、「新・ベルリオーズ入門講座」はクラシック音楽系のページから、などなど。自然、これらのページには、トップページ(鳥仮面の肖像写真が置かれている目次ページを、便宜上こう呼ぶことにする)をバイパスして横入りしてくる訳であり、放っておけば、そのまま出て行く。つまり、トップページのビジターにはなってもらえないし、その他の様々なページの存在に気付いてもらうこともできない。
では、どうするか。
最初にやったのが、フッタにトップページへのアンカーを埋めこむことである。こんなふうに。↓
-- 倉田わたる (KURATA Wataru) In NIFTY-Serve QFH01667 In ASAHI-Net QF3W-KRT Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]
これで解決、と思っていたら、大間違い。[;^J^] 誰も、こんなものはクリックしてくれない。[;^J^] 考えてみれば当たり前で、こんな無機的な(なんの説明もない)文字列をクリックしても、“何か面白いものに出会えそうな予感”は“全くしない”のである。読者は課金と時間を費やしているのだから、無駄である公算が高いアクセスはしないものだ。
そこで、次にやったのが、フッタに置いたトップページへのアンカーに「倉田わたるのミクロコスモスへの扉」という表題をつけたこと。これは明らかに効いた。ただの URL 文字列とは異なり、「そこにいけば、なんか面白いものが見られるかも」という期待感を、確かにかきたてた。アクセスログを解析してみると、かつて一度もアクセスしたことのない人が、なんらかの枝葉のページにいきなり入ってから、トップページへ抜ける、というパターンが増えた。この場合、ブラウザの「BWD」ボタンでは行けないわけで、つまり、この表題をクリックしたわけである。
倉田わたるのミクロコスモスへの扉これでもまだ、一部の枝葉のページへのアクセスの方が、トップページへのアクセスより多い。そこで、鳥仮面の写真を加工して、乱歩風というか正史風というか、いかにも妖しげなアイコンを作って、表題の隣に並べた。これはさらに効果的だった。「なんじゃこりゃ?」と、思わずクリックしてしまうらしい。(右図参照。ちなみにこれは、「鳥」と「爆発星雲」のダブルイメージのつもりである。すなわち「ミクロコスモス」と引っ掛けているわけだ。)
しかし、まだ物足りない。枝葉のページから入って来た読者が、その他のページを十分に読んでくれているという実感がない。トップページに来て欲しい、というのは、つまり目次を読んで、その他のページの存在に気がついて、そして、それらのページを読んで欲しいのである。トップページに来てもらうこと自体が目的ではない。
そこで、最終兵器として、全ページのフッタに「解説」というアンカーを設定した。そしてそこをクリックすると、全てのページの解説がまとめられている「解説」ページの該当箇所に飛ぶようにして、かつ、その「解説」ページから、それぞれのページへのリンクを張った。
「解説」というアンカーは、かなり珍しい方に属すると思う。「まるで本みたい」と思うのだろうか。「解説」ページのアクセス数は、トップページ以下の全てのページ中、実にベスト3に入るのである。そして、ここに来ると、今読んだばかりのページの解説はもとより、その他のページの解説も目に入る訳で、「へぇ、そんなのもあったんだぁ」と、そちらへのアンカーをクリックする..
各ページのフッタに、「その他のページ」へのリンクを列挙するというスタイルは非常に一般的であり、「その他のページ」の数がそれほど多くない場合には、直感的で良いと思うのだが、それが10以上にも増えた場合、目にうるさくなる。それに対して、「解説」の一言(一行)は邪魔にならず、何より、思わせぶりな“客引き”の文章を、自然に“読ませて”しまえる点で、極めて優れていると思う。現在のところ、これ以上のシステムは思い付かない。
参考までに、ここ数ヶ月のアクセス数のベスト5(「解説」を除く)を、上位からあげると、
“手塚治虫漫画全集”解説総目録(3位から5位までは、横一線と言ってよい。)
目次へ戻る往年の銘機、PC−8001。私はこれのオーナーだったことはないが、これ用の業務プログラム(“カセットテープをストレージとする”データベースシステム)を書いたことがあり、そのマニュアルとは、ちょいと付き合いがあった。
これは凄かった。[;^J^] まだパソコンがマイコンだった時代の、マニアのための、このマニュアルは、明らかに、プロのライターではなく開発現場のプログラマの手によるものであった。
何しろ、いきなり「(購入して開梱して)電源を入れたら、まずモニタに入ってメモリチェックをして下さい」である!
(当時の私は、まだマイコンに触ったことがなく、大学で電算機を習い始めたばかりで、主記憶という概念をかろうじて知ってはいたものの、それは計算機センターのガラス窓の向こう側にあるものであり、決してチップではなかったのである。そのギャップにも戸惑った。)
そして説明無しに、さくさくとコマンドレファランスに進んでしまう。これが先頭から順番に、
AUTO | 行番号を自動的に発生させます。 (これが私が最初に覚えたBASICの命令である。行番号って何? [;^J^]) | |
BEEP | ブザーを鳴らします。 (これは判る。しかし、先にもっと大事な命令を覚えるべきではないか?と、当時も思った。[;^J^]) | |
CLEAR | メモリを確保します。 (ここで、切れた。[;^J^] 説明しておくと、これはグラフィック命令ではない。主記憶上のどこまでをBASICの管理下に置くかという、ほとんど機械語との接点と言える“命令”なのである。) |
良くもまぁ、この順に読んで、BASICが理解出来たものである。この続きは覚えていないが、どうせ、CLOAD(カセットテープからプログラムをロードする)だったのだろう。
しかし、この飛んでもないマニュアルにも、美点はあった。“薄かった”のである。こんにちの、内容はこれより遥かにまともかも知れないが(実はそれも怪しいものだが)、片手では支えきれないほどの膨大なマニュアル群。“事実上、読めない”という意味では、全く同じである。
以下、余談。
実は、最初にちょっと触れた「データベースシステム」は、医療用のカルテの多重条件検索システムで、数千件のカードのランダムアクセスが必要。これを僅か10数キロのメインメモリとカセットテープというハードウェア上に実現したプログラムは、今でも自慢できるほど、快適な速度で動いた。データ構造とそれのテープ上での持ちかたの基本設計が、良く出来ていたからである。
そしてこれの下敷きとなったのが、このマニュアルにサンプルプログラムとして掲載されていた、僅か2ページの「住所録」プログラムなのである。まずこれを打ち込んで、これを改造するところから作りはじめた。最終的にはメニューの順番位しか残らず、データ構造も検索エンジンも、全く別物に変貌していったが、土台は、このチープなプログラムなのだ。
私は当時からこのことを興じて、これはまるで「ほとんど廃屋同然の、漁民の倉庫を譲り受け、それを宮殿にまで改装して行った、ポルト・リガトのサルバドール・ダリ邸のようだ」と思っていたことである。(またわけのわからんことを。[;^J^])
目次へ戻る私は、PC−8001、PC−8801のオーナーになったことはないが(最初に購入したパソコンは、のちのPC−9801Fである)、その周辺機器のオーナーには、なった。つまり、ディスクドライブだけ購入したのである。
確か、アイテムという会社のシングルドライブ(2D=両面倍密=320Kバイト)装置だったと記憶している。
当時はまだ、カセットテープが主流だった。同じ下宿に棲んでいた友人たちは、PCの本体を持っているが、ディスクドライブは持っていない。そこで私はディスクドライブ(と、大量のゲームをセーブしたディスク群)を抱えて、友人たちの部屋をめぐり歩いた、という訳だ。当時は本体もディスクドライブも非常に高価だったので、役割分担としては、理想的だったのである。
もうひとつ、読みがあった。それは、NECの“互換性戦略”は信頼できる、という賭けである。PC−8001/8801用の、このディスクドライブは、決して無駄にならないだろう..そう、ならなかった。それは98でも使えたのである。
NECは、98の時代になっても、(PC−9801用のN88−BASICとは別に、PC−8001用の)N−BASICを延々とサポートし続けた。そして驚くべし、ROM−BASICの搭載を止めたのは、つい先日のことである。
毀誉褒貶著しいメーカーでありパソコンファミリーであるが、ここまで筋を通し抜いたという点は、高く評価しなければならない。
目次へ戻る馬鹿を論破することは出来ない。理由は単純、馬鹿は「論破されている」ことを理解できないからである。
こうなると、「お前は既に論破されている」ことを説得するという、メタというか逆説的というかもう馬鹿馬鹿しくてやっていられない事態に陥ってしまう。人生の無駄使いとは、このことである。
これが、私が馬鹿と議論をしない理由である。結果、その局面だけを取り上げれば「敵前逃亡(しかも馬鹿から)」という、損な見られかたをすることにもなるが、それがどうした。卑怯と言われようが陰険と誹られようが、馬鹿と議論するよりは、ましである。
目次へ戻るかつて(10年位前?)ロボット化されたラインは日本の誇りだった。しかし今やそれは、業種によっては、足手まといになりつつある。
例えば、半導体チップやプリント基板自体の製造は、ロボット向きの工程だろう。しかしそれを組み合わせてコンピューターを作る..ここにロボットを投入したのは、勇み足だったようなのである。
東南アジアや合衆国の、最先端のPC工場では、ロボットではなく人間が組み立てている。それは、極めて頻繁なモデルチェンジや工程の改善に対応できるのは、人間の作業者だけだからだ。現在のロボットの適応能力は、それはそれは素晴らしいものらしいが、もとより人間にかなう訳がない。
(このことと多少関連するが、今では“各人が単純部分作業をするだけの”ライン、という方法論は、古くなりつつある。詳細は略。)
..という記事を雑誌で読んで感心した私は、ちょうど20年前に読んだ、堀晃の「最後の接触」という短篇を思い出した。ひとりの男をふたつのパーツに“分解”し、2機の探査ロケットに“組み込んで”宇宙へ送り出すのである。
脳髄が組み込まれた方については、詳述を要しまい。つまり意識を持った宇宙船の指令システムである。問題は、脳髄を除く神経網と筋肉が、機械の一部として“組み込まれた”宇宙船で..神経が刺激を(指令として)運び、筋肉がそれに反応する..「どうも不安定に思えるんだがね、こういう“有機物”を機械に組み込むのは..」「何をおっしゃる、それは偏見というものです、そもそも有機神経の反応性能は云々」というような会話が冒頭に置かれていたと思うが..
そう、つまり現代の製造業においても、“有機神経”と“筋肉繊維”を機械化ラインに組み込むほうが、完全機械化ラインよりもラインとしての性能は高いのだな、と..[;^J^]
目次へ戻る漫画を読めない人が、しばしばいる。内容が無いから読んでいられないとかではなくて、技術的に、読む方法が判らないらしい。つまり、コマを読む順番、及び、コマの中に配置されているフキダシ(の中の台詞)を読む順番が、判らないのだ。老人だけかと思ったらそんなことはなくて、若い女性からも、そういう話を聞かされたことがある。
まぁ人のことは言っていられない。30年近く前は、私もそうだった。
最近は気をつけて見ていないので判らないが、当時の漫画は、コマの隅に「番号」が書かれていた。だから、この順番に読めば良かったのである。(ノラクロ型の規則正しいコマ割りから、大胆で不規則なコマ割りへ変遷したことのなごりであろうか。つまり、当時の子供たちには「ガイド」が必要だったということになる。)
ところが私は、しばしばこの「番号」に気がつかなかった。そして、ものの見事に間違えた順番で読んでいたのである。(そしてまたそれはそれで、結構面白がって読んでいたのだからあきれる。[;^J^])で、数ヶ月たってから「番号」に気がつき、今度はその順番に読んでみると、なんと全然ストーリーや伏線の解決の仕方が違うではないか!(当たり前だ。[;^J^])この新鮮な喜び。一冊で二度美味しいとは、このことであった。
「しばしば気がつかなかった」と書いたことに注意。普通、この手の失敗は一度やれば二度とはしないものだが、どういう訳か、私は、何度も何度も順番を間違えて読んでいたのである。そして何度も何度も新鮮な発見と喜びを..[;^J^]
目次へ戻るネットワーク上では珍しくもないことだが、あるフォーラム、ある会議室、あるニュースグループ、ある掲示板システム、まぁ色々あるが、そういう“場”に、馬鹿が侵入することがある。“物理的に対面していない”というネットワークの特性故、こういう馬鹿は物量作戦を展開する暇を持ち合わせていれば、猛威を奮うことが可能である。
馬鹿を論破するのは不可能に近いことは、既に述べた。しかし対応策が無いことはないのだ。馬鹿といえども人間である以上、論争を続けているうちに、ふと、疲れる、とか、弱気になる、とか、正気を取り戻しかける [;^J^]、とか、そういう“魂の空白状態”ができる瞬間がある。そこを突くのである。(論争をする気力があれば、であるが。)無論、一撃で決めることは難しく、大概、一瞬の“気の迷い”から覚めて、再び元気な馬鹿に戻るのだが、先ほど意識下にくらった小さなダメージが、いずれ少しずつ効いて来る。人間であれば。
もうひとつ、「バルンガ作戦」とでも呼ぶべき戦略も取れる。
若い人は知らないだろうが、「バルンガ」とは、往年の名作特撮番組「ウルトラQ」の全エピソード中の、最高傑作のひとつである。宇宙から飛来した、エネルギーを食って巨大化してゆく風船怪獣バルンガ。このままでは地球上の全てのエネルギーが吸収され、人類文明は滅びてしまう。そこで、ロケットを打ち上げ、太陽の方向で大爆発させる。その巨大なエネルギーに吸い寄せられたバルンガは、進行方向にある超巨大なエネルギー源、太陽に気がついて、それを食うべく、太陽の方向へ(太陽エネルギーを吸収してどんどん巨大化しつつ)接近してゆく。やがてバルンガは太陽に食われるだろう..(このあとの締めくくりのナレーションによる「オチ」は、いまや伝説に近い。ここでは伏せておく。)
大概の馬鹿は、餌を求めてネットワーク上をうろうろしているだけである。そこでバルンガに対して仕掛けたように、ある方向に餌を投げてやる。するとその馬鹿は、餌を求めてそちらの方向へ進んでゆく..(こうなると、もはや人間扱いしておらんな。[;^J^])
馬鹿がひとりならば、上記のような作戦を取る余地もあるのだ。問題は、馬鹿が複数いる、あるいは、馬鹿が馬鹿であることに気付かずに馬鹿の周囲に集まってきた「お馬鹿さん」が大勢いる場合である。
先に述べた「正気に帰る瞬間を突く」作戦は、通用しない。何故ならひとりが正気に戻っても、他は正気ではないからである。正気に戻りかけたひとりを他がフォローして、正気から引き戻してしまう。「バルンガ作戦」も通用しない。各個体は餌に対する固有の嗜好を持っており、まとめて誘導することが困難だからだ。
つまり「群体」を構成してしまうのだ。群体の息の根を止めることは、絶望的に難しい。俗に「頭を潰す」と言うが、潰すべき頭が存在しないのである。
ある会議室や掲示板などの“場”に、こういう群体が入り込んで来たらどうするか。私は「焦土作戦」しかないと思う。
つまり、引き上げるべきものは引き上げ、惜しくもないものは残し、その“場”を群体に明け渡すのである。そして火を放つ。
食い荒らすべき餌を見失った群体は、やがて死滅するかあるいは分裂して拡散するだろう。そして大火災と大洪水で浄化された荒野から、新しい文明が始まるのである。
(B.G.M. by Richard Wagner「神々の黄昏」)
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Oct 12 1996
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