「ゴジラ」の秘密を解明したので発表する。この映画(昭和29年版)を観ていない非国民にはスポイラーとなるので、読むことを禁止する。また、この映画の印象を大事にしたいナイーブな諸君には、読まないことを勧告する。
この偉大な映画が、日本映画史上初の怪獣映画であると同時に日本怪獣映画史上の最高傑作であることは、周知の事実である。処女作が最高傑作、と言うのはジャンルを問わずしばしば見られる現象であるが、特に探偵小説界にこの例が多い。(←自分で言うのもなんだが、以下の考察への伏線である。)
また、言うまでも無くゴジラは水爆のメタファーであり、東京大空襲の悪夢の追体験でもある。これほど志の高い、敢えて言えば高貴な怪獣映画、SF映画は、これより後にも先にも例が無い。SF映画史上の最高傑作と言えば、間違い無く「2001年」だろうが、これですらゴジラと比較すると、論理と思弁の遊びでしかない、とも言えるのである。(無論、同列に比較すべき筋合いの物ではない。)
単純に、大破壊映画、特撮映画としての側面にのみ注目してみても、素晴らしい成果をあげている。今の技術から見ると、いかにも稚拙なセット、玩具の様な大道具小道具であるが、それが、画質の古さ、東京市街の古さと絶妙にマッチして、セピア色の魅力を醸し出している。最後の瞬間まで実況中継を続けるアナウンサーの感動的な死のシーンは、余りにも有名である。
しかし、以上に述べたこの作品の表層的な特質は、全てカモフラージュに過ぎない。この映画は、本質的には心理的犯罪映画であり、ふたりの男女による恐るべき殺人を描いた物なのである。
主役は3人。古生物学の権威の山根博士の娘である、山根恵美子。彼女のかつての許嫁、芹沢博士。彼は戦争で片目を失い、身を引いた形であるが、恵美子に対する愛情は変わらない。そして現在の恋人、南海サルベージの尾形所長。この設定から、芹沢博士が邪魔者であることは自明である。
恵美子と尾形が、調査団の一行として大戸島に向かうのを、芹沢博士が見送った後、尾形は恵美子に「最後のお別れに来たつもりかも知れない」と言う。これが伏線である。死ぬのは彼らではなく、芹沢なのである。この台詞を言う時の尾形の表情に注目すれば、彼がこの時点で、既に忌まわしい陰謀を企んでいたことが判るだろう。「まぁ、どうして?」と答える恵美子の表情にも不自然な演技が感じられ、彼が何をやろうとしているのか、彼女が何をなすべきなのか、薄々感付いている模様である。何しろ、父が父であるから、頭の悪かろう訳が無い。
島でゴジラに遭遇し、東京に帰って報告。フリゲート艦による爆雷攻撃を伝えるテレビを見て不機嫌になって自室に引き篭った山根博士を見て、尾形は「先生は動物学者だから、ゴジラを殺したくないんだ」と意味有りげな表情で言う。計画は決まった。ゴジラを目撃した尾形には、自衛隊如きにはゴジラを殺せない事が判っている。ゴジラを殺せるのは、芹沢だけである。理由は後で述べるが、芹沢の発明したオキシジェン・デストロイヤーの秘密をこの時点で知っていたと断定して良い。そして、芹沢の良心と正義感を熟知している卑劣漢尾形にとって、この恐るべき兵器を使用せしめれば、芹沢はいたたまれずに自殺するであろうことは自明である。
この後の恵美子と尾形の会話で、恵美子と芹沢の過去の婚約(か、それに準ずる約束)が障害となっていることが明らかになる。消すしかない。大体、たかが片目を失った位で五体満足な芹沢を袖にしようと言うのである。最初から愛していなかったことは明らかである。この後、恵美子は新聞記者の萩原を連れて芹沢科学研究所を訪れる。萩原が体よく追い払われてしまった後で、恵美子が、今、何を研究しているのか無邪気さを装って尋ねる。彼女の悪心を見抜けない善人芹沢が、真剣な顔で絶対に秘密を守れと言うと、わざとらしく緊張してみせる。そしてオキシジェン・デストロイヤーの実験を見せるのであるが、実は芹沢は知らなかったことであるが、彼女はとっくにこの恐るべき研究を知っていたのである。実際に魚が白骨死体になるのを見て悲鳴をあげたのが、その証拠である。大体この種の映画では、ヒロインは悲鳴をあげまくるものと決まっているのに、この映画では、恵美子が悲鳴をあげるのは、ゴジラを初めて見た時と、この時と、たった2回だけなのである。(ま、ちょっとした驚きの悲鳴はもう1〜2回あるが。)つまりその位、気丈な女として描かれている訳だ。この後のゴジラの襲来による大災害にも、眉ひとつ動かさず、涙ひとつ流さない冷血女が、たかが魚の死に悲鳴をあげる。演技である。芹沢の留守に研究室に侵入していたのである。当然、この重大な秘密は、恋人(と言うより愛人と言うべき)尾形に話している。先に、尾形は既にオキシジェン・デストロイヤーの事を知っている筈だと述べた根拠がこれである。
オキシジェン・デストロイヤーが実用の域に達している事を確認し、しかも後でわかる事であるが、これを使えば自分も死ぬ、と言う芹沢の言質を取った恵美子は、帰宅すると早速尾形にその事を伝えようとしたのだが、新吉少年も一緒にいたので、その件は切り出せなかった。この直後にゴジラが来襲し、一瞬ふたりきりになった時、恵美子は尾形に、芹沢に婚約解消の件を切り出せなかったと言い、尾形は何故か嬉しそうに恵美子の肩を掴む。全く意味不明である。つまり、これは暗号だと言う事だ。尾形は、オキシジェン・デストロイヤーを利用して芹沢を自殺に追いやる事が出来る(従って自分達は一切罪に問われない)と言う手応えを掴んだのである。
ゴジラの最初の上陸で、その威力を見たふたりは、内心ほくそえんだに違い無い。到底、自衛隊にかなう相手では無いことが、明らかになったからである。この後改めて、山根博士にふたりの結婚を承認してくれるよう、申し入れる事を確認しあった悪人ふたりは、ゴジラを殺す事に反対で不機嫌な山根博士の帰宅を迎える。尾形はゴジラを殺す事を主張する。当然である。芹沢にゴジラを殺させなければ、芹沢を自殺に追いやる事が出来ない。山根博士は怒り、尾形は結婚話を持ち出せない。博士が自室に引き篭ったあと恵美子は泣くが、全くこの女は、わが身の不幸にしか涙を流さないのである。
この後のふたりの行動は、到底許せる物ではない。つまり、「何もしなかった」のである。早い時点で芹沢を動かせば、あるいは、芹沢が最終兵器を持っている事を当局に告げれば、東京が壊滅する前にゴジラを倒せた筈である。しかしあくまでも芹沢殺しに対して道義的責任を負いたくない彼らは、芹沢が自発的にオキシジェン・デストロイヤーを使うのを待つ事にした。つまり、東京を火の海に沈め、芹沢にそれを見せる事である。つまり、彼らはこの後の大災害(数万乃至数十万人の死)に対して、本当は責任を負っているにも関わらず、その事は誰にも知られず、しかも法的にも責任は問えないのである。卑劣と言うもおぞましい、史上最悪の犯罪である。
この後、恵美子は尾形にわざとらしくオキシジェン・デストロイヤーの秘密を告げる。十分な大災害を引き起こせた以上、後は芹沢を追い詰める事が出来る。しかも、この大災害の本当の原因は自分達にあるのに、良心を持ち過ぎている芹沢に(オキシジェン・デストロイヤーの使用が遅れたために東京が壊滅してしまったと言う)道義的責任を感じさせる事が出来る。なんという卑怯者たち!
この後の3人の会談が、全編のクライマックスである。ゴジラを殺すためにオキシジェン・デストロイヤーを使え、と迫るふたりは、芹沢に「死ね」と言っているのである。恐るべき心理的闘争。ついにオキシジェン・デストロイヤーの使用(と自殺)を決意する芹沢。恵美子の会心の嘘泣き。
最後の感動的な海中のシーンに先立つ船上のシーンで、芹沢が「俺が潜る」と言った時、尾形と恵美子は勝利を確信した筈である。ゴジラを倒した芹沢は、自ら命綱を切る。「幸福に暮らせ」と言う芹沢の言葉を聞いたふたりは、少しは良心の仮借を感じたであろうか。いや、芹沢ひとりを殺すために東京を壊滅させた悪逆非道のふたりである。内心、せせら笑っていたに違いない。
つまり、「ゴジラ」は、実は「芹沢博士殺人事件」なのであった。怪獣の出現という僥倖を利用して、良心を持ち過ぎている天才科学者に禁断の兵器を使わせ、もって自殺せしむる。同時に、怪獣も始末する。完全犯罪である。
動物トリックの例は枚挙に暇が無いが、怪獣トリックというのは、クトゥルー神話の類を別にすれば、極めて珍しいのではないだろうか? さらに、倒叙、心理的殺人、可能性の殺人。これほど凝った、錯綜した構造はまれに見るものである。
また、心理的に追い詰められた芹沢博士は、オキシジェン・デストロイヤーの秘密を破棄してしまうが(これは、犯人達の構想の一環だったのでやむを得ないことだったとは言え、ほぞを噛む思いであったろう)、その他の発明の数々が残された、主を失った研究室を、この極悪非道のふたりが占拠したことはまず間違い無く、この点からも彼らが某国の間諜だったのではないか、と想像を巡らすと、その作品世界の壮大さに舌を巻かざるを得ない。
さらに、山根博士の「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない..」という、これもまた余りにも有名な台詞によってオープンエンディングの構成としている点など、まさに完璧。この目眩めく多層構造と雄大な構想は、後続作品群の遠く及ぶ所では無い。
以上
附記
しかし何故、この映画は「芹沢博士殺人事件」という本質をカモフラージュしているのであろうか? 素直に心理的ミステリー映画として構成しても、水準以上の傑作になったであろうに、わざわざ(確か世界でも初の)「ぬいぐるみ怪獣映画」というジャンルを発明してまで。これは、ひとつの死体を隠すために戦争を起こして死体の山を築くどころではなく、日本の、いや世界の文化を変えてまで、カモフラージュしているのである。この映画が作られた事自体、何かミステリーじみて来るではないか。現実の事件、訴えたいが公には出来ない事件が、この映画の背後に隠されているのではないだろうか。
私がこの映画の「芹沢博士殺人事件」という本質に気付いたきっかけは、「ゴルゴ13シリーズ」の最高傑作のひとつと目される「芹沢家殺人事件」の題名である。さいとう氏は、何故、芹沢という名字を選んだのであろうか? ゴジラの監督、脚本家たちと、昭和29年以前に何か関係があったのであろうか? ゴジラとゴルゴ。戦後日本大衆文化を代表する、2大Gである。関連を見出すなと言う方が無理だ。あるいは、さいとう氏は「芹沢家殺人事件」を書くために、ただそれだけのために「ゴルゴ13」という作品を書き始めたのではないだろうか。そして「芹沢家殺人事件」をカモフラージュするために、あの膨大な作品群を今なお書き続けているのではないだろうか。ゴジラの後続作品群も、初代「ゴジラ」のカモフラージュのために作られたのかも知れない。だとすれば、いずれも、カモフラージュのために書かれた(作られた)作品の多くが凡作であり、カモフラージュすべき肝心の「ゴジラ」「芹沢家殺人事件」を却って引き立てているのは皮肉と言う他はないが。
もしや「ゴジラ」の背後には、「芹沢家殺人事件」の様な血生臭い実話があったのではないだろうか..(ちなみに、「ゴジラ」の事件が勃発するのは、8月13日である。さらに、「813」という推理小説を御存じの方は、ここまで解明してきた「芹沢博士殺人事件」と、この推理小説との、犯人の「質」に関する、ある種の類似点(未読の方のために、これ以上は申し上げられないが)に気付かれたであろう。8月13日という日付自体が、この映画の本質が「ある意味で『813』に似ている」ミステリ=犯罪映画であるという、シグナルであったのである。)
しかし、私は彼らの経歴を調べることはせずに、調査と考察をここで打ち切った。世の中には、知るべきではないとされている事もあるのだ。今はただ、真相に気が付いてこの手記を発表した私自身と、これを読んでしまった諸君に累が及ばぬよう祈るばかりである..
Last Updated: Jun 16 2022
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