9.蜃気楼

 翌7月23日、7:00、起床。8:35、昨日の食堂で朝食。ピーマン、トマト等の順列組合わせの料理の他に、旨い肉マン、オカユ。特に美味しかったのが、豆腐のチーズ風ウニ風味?であり、こう説明するとゲテモノじみているが、味の薄いオカユや肉マンの皮と組合わせて食べると、実にいける。今夜もテント泊まりなので、肉マンを弁当代りに、いくつか包んでいく。

 9:30、出発。前を行く馬車のリアに「安全第二」とペンキで書かれており、受けまくる。日本の距離トラの「積載量 積めるだけ」の同類である。商売人のセンスに国境は無い。[^J^]

 早くもチータイの街並みを外れ、草原の中、徐々に増えてきた羊やラクダの放牧を眺めつつ、10:57、検問所に到着。ここを抜ければ、写真撮影が再開できる。兵士さんたち(まず間違いなく、全員25歳以下)、司令官クラス(まず間違いなく、全員30台)と記念写真を撮る(但し、李先生のカメラのみ、使用を認められる)。

Picture (fig.13) Picture (fig.14)狼が食い残したらしい山羊の頭の干物

Picture (fig.15)カメラのビギナーが必ず撮るコンポジション [;^.^] Picture (fig.16)(ロサス海岸を舞台とする)ダリの絵画の真似 [;^.^](おわかりでしょうが、雲がポイント)

 さて、12:05、将軍廟地帯の入り口にあたる廃屋に着き、ここで休憩したあと、再出発してバスの中でうつらうつらしていたら、12:58、突然バスが止まる。なんだなんだと周囲を見回したら、うわっ!こっこれは凄い!

 湖である! いや、違う、蜃気楼だ! 進行方向を除く、右方、左方、後方に、幻の湖が出現した! 全員、バスから飛び降りて、写真を撮りまくる。高倍率の双眼鏡を借りて地平線付近を観察してみて、驚いた。なんと、岸に爽やかに打ち寄せる波、風にそよぐ水草、涼しげな影を水辺に落とす木々まで見えるのである。(無論、ここは砂漠のど真ん中であり、地平線の彼方にも、そんな物は無い。光の悪魔の、悪意ある悪戯である。)背筋も凍るリアリティ。「止まって見る蜃気楼は、(高速に)移動しながら見る蜃気楼ほどには不気味ではない」などと言うたわごとは、即刻撤回する。

Picture (fig.17)湖と、小島と木々と、向こう岸とその先の丘が見えるが、これらはすべて、実在しない。地平線の上に浮かぶ幻影なのである。 Picture (fig.18)同じく、蜃気楼

 もしも、渇きに苦しむ旅人の前に、これほど大規模な幻が現われたら、彼はどうするであろうか。私は、初めて、蜃気楼(ファタ・モルガナ)の比喩の意味が、本当に理解できた。彼は、確実に、その幻の水に向かって歩む、いや、走るだろう。例えそれが幻覚に過ぎないと判っていても。

 そしてもちろん、死ぬのだ。




10.シリコンの森

 13:40、珪化木地帯に到着。実はここに至るまで、2回、道標をチェックしている。それは地面に(道からはかなり外れて)置かれている、単なる石なのであるが、それに、どの方向に化石があるか、“暗号で”記されているのだ。理由は自明であろう。盗掘対策である。と言う訳で、この珪化木地帯の正確な位置の明記は、控えさせていただく(などと格好の良いことを言っているが、天下御免の方向音痴である私には、既に、西も東も不明なのであった [;^J^] )。ついでに、暗号を辿って“埋まっている”化石にアプローチする、という行為で、あっさりと“宝島”モードに切り替わってしまった私は、徹底的に盛り上がりまくった。いい歳をして子供心を豊富に残していたことを、この時ほど嬉しく思ったことはない。スティーブンスンの「宝島」を読まずに大人になってしまった人には、お悔やみ申し上げる。また、今小さな子供がいる人、これから子供を作る予定の人は、この小説を、必ず子供に読ませること。これは命令である。

 珪化木とは、その名の通り、木の化石である。その成分が、漢字の通り“珪素”化しているのかどうかは知らないが、美しいイメージなので、直訳して“シリコンの森”と呼ぶことにする。無論、無事に立っている訳ではない。多くは倒れて輪切り状になっており、または、切り株だけが残っている。直径1m以上のものがざらにあり、この広漠たる砂漠が、かつては30m以上の高さの森林に覆われていたことが判る。

Picture (fig.19) Picture (fig.20) Picture (fig.21)接写してみたら、ちょっと古代遺跡風

 ここで2時間、休憩を兼ねた撮影タイムを取る。書き忘れていたが、中国人スタッフは、休憩となると、すぐにスイカとハミ瓜を切る。それも多めに切るのである。で、これ以上食べられませんよぅという日本人に、残すともったいないから、と、無理矢理食べさせるのである。[;^J^] 金子氏はペロペロといくらでも食べてしまうが、食の細い私は、参った。




11.化石

 15:45、将軍廟のCCDP(Canada China Dinosaur Project、86年から90年まで、カナダと中国で発掘作業を行ない、驚異的な成果をあげた)の発掘現場の跡地に向かって出発。16:20、現場まで2Km地点まで車でアプローチするが、これ以上は、ランクルならともかく、マイクロバスでは無理である。今は乾季なのであるが、雨季には、砂漠ならではの無茶な雨の降り方をし、その「洪水」が、この、幅数Kmの「水路」の砂岩を削り、そこらじゅうに30cm以上の段差を刻むのである。従って、走れる「道」は、毎年、来るたびに異なっており、地図など役に立たない。30分かけて、最後の2Kmを歩いて横断する。(このシチュエーションがまた、昔テレビの深夜映画で観た、「ソロモン王の洞窟」(勿論、ハガード原作)の序盤のとあるシーンに、そっくりであることを思い出して、盛り上がりまくる。… 笑いたければ素直に笑えってば、そこのあなた。[;^J^])

Picture (fig.22)この荒れ地を越えた先が目的地

 16:45、第一現場着。ここは、モノロフォサウルスが発見された跡地である。将軍廟の奇岩に圧倒され、しばし、化石のことを忘れて写真を撮りまくる。いたる所に“顔”のごときものが見え、“人面疽の塊”という印象を受ける。ヒンズー教の寺院の建築や装飾のルーツの様な気もする。

Picture (fig.23) Picture (fig.24) Picture (fig.25)

 この現場には、化石の破片がゴロゴロ転がっていた。気分は“おコツ拾い”である。金子氏直伝の化石判別法を試してみる。(なめるのである。化石には、神経や血管の跡など、非常に細かい孔が開いているので、なめると舌が吸い付く感触があるのである。)

 17:05、第一現場を引き上げ、18:05、第二現場着。(やはり車からは15分ほど歩く。)ここは、スーパーマメンチサウルスの頭蓋骨が出た地点であり、ダイナマイトで岩を吹き飛ばした跡が生々しい。

 ここで、非常に大きな肋骨の断面を発見する。肋骨は中空になっているのであるが、直径10cmほどの“パイプ”が、計4本。恐らく竜脚類のもの。これをキーにして探索を開始する。

 化石の探し方にはいくつものセオリーがあるのだが、判りやすいのは次の三つである。


「破片を見つけたら、上を探せ」

(例えば崖の上、あるいは(古代の)河上、両方を含む)

「集積を見つけたら、下を探せ」

(それより上には無い。重要なパーツが下に落ちているかも知れない)

「発見された地層を平行に探せ」

(その時代に、同時に別の個体が死んでいる可能性が高い)


 三番めの「平行に探せ」と言うのは、野を越え山越え谷越えて、その地層が続く限り、どこまでも探しに行く、という、半端ではないものである。いきなりそこまではしないが、とにかく、小さな尾根を越えて崖の反対側に回り込み、肋骨の出た地層を平行に辿って行き、表面に化石の破片が飛び出していないか、なめるようにスキャンしては、ここぞと思うポイントを指で掘り返す。素人の勘がそうそう当たる訳もないのだが、1時間もしないうちに、破片と言うには、やや大きい化石を掘り当てた。自分の指で土の下から発掘したのは、初めての経験である。

 19:15、第二現場を引き上げ、10分後にランクルで第三現場に到着。ここがまさに、宝の山であった。

 まずMさんが、古代の川の河口付近?と思われる地点に、かなりまとまった小型恐竜の化石が露出しているのを発見した。牙さえ見つかれば大発見であると、李先生。(恐竜の種・属を同定するには、牙と頭蓋骨が、最も有力な証拠となるのである。)

Picture (fig.26)

 次にYさんが、やはり別の河口地形?の跡に、点々と破片が落ちているのを発見。「破片を見つけたら、上を探せ」のセオリーに従って、李先生を先頭にして、河の跡を(次第に足早になりながら)遡って破片群を追跡して行くと、李先生が思わず嘆声をあげたほど良くまとまった小型恐竜の化石! 李先生は、これで今回のツアーの元が取れたと言わんばかりの笑顔である。

Picture (fig.27)

 そしてこれは李先生が所在を把握していた(恐らく)竜脚類の肋骨。李先生が学者仲間にありかを教えられていたものであるが、恐らくは盗掘者が掘り出しかけたが、(あまりの大きさに)手におえずに放り出した化石であろうとのことである。

Picture (fig.28)

 比較的小さな谷をはさんで、T氏が崖の中腹に張り付いて、我々を呼んでいる。何を見つけたのかといぶかりながら、その崖の上と下から、少々苦労しながらアプローチすると、おお、これは、かなり大型の竜脚類の、多分大腿骨であり、これが崖の面に対してほぼ垂直にささっている。土(岩)が比較的柔らかいとは言うものの、これを掘り出すのは難しい。

 これに刺激されて、この地層を水平に辿った私は、数メートルも進まないうちに、やはり崖の面に対して垂直にささっている、竜脚類の脚の骨の化石(但し、骨折していた)を発見した。これも、掘り出すのは無理。

 大収穫に気を良くして20:20に現場を引き上げ、20:25にテント設営地に到着してカップ麺とテント設営作業、21:35に酒盛り開始である。私は水割りを2杯飲んだだけで、22:00には就寝したのであるが、それまでに金子氏から、興味深い話を聞かせていただく。

 それは前述したオルシェフスキー氏がとなえ始めた、恐竜と鳥類の進化に関する、全く新しい仮説である。3年一昔と言われるほど仮説の変転が激しい業界(もとい、学界)であるが、少なくとも近年では、恐竜が鳥類の祖先であるとの学説が、支配的だったはずである。今回紹介していただいたオルシェフスキー説は全く逆で、鳥類が恐竜に進化したのだと言う。詳しい論旨は省略するが、鳥の形質を残した恐竜の化石が、いくつも発見されているのである。従来の、鳥の先祖は恐竜である、という説を取るとすると、その恐竜は、祖先の恐竜が鳥に進化したあと、その鳥から再び恐竜に進化し直したということになる。これは、古生物学の理論上、まず認められない、荒唐無稽な議論である。そういう奇説を取るよりも、先に鳥がいて、それから鳥の形質を失いつつ、恐竜に進化した、と考える方が自然だと言うのである。恐竜が鳥に進化した証拠とされている、有名な始祖鳥にしても、実は、「恐竜から始祖鳥へのミッシングリングが発見されていない」のである。つまり、始祖鳥が恐竜から進化したという証拠は無いのだ。逆に、鳥類が恐竜へと進化した過程で出現した生物なのかも知れないのである。(全ての恐竜が鳥から進化したのだ、と言う主張ではない由。少なくとも獣脚類(ティラノザウルス・レックス等)の祖先は鳥だと言う。)酒を飲みながらの伝聞情報では、この程度しかお伝えできない。いずれ別途紹介する機会もあろう。(既にとある科学雑誌に紹介記事が載っているそうだが、誌名を失念した。金子氏は、この説にかなり乗っているので、ごく近い将来、何かに紹介記事を書いて下さるだろう。)

付記:

 当然ながら、化石は、持ち帰って来ていない。

 発掘といっても、現実には、学者(李先生)立ち会いの元、化石のありかを捜し出した、に留まっている。大きな化石の一部を発見したのは確かだが、それが1日や2日で掘り出せるわけはないし、可能でも、李先生が許可するはずが無い。少なくとも今後の学術調査を妨げることはないと断言できる。

 小さな化石の破片をたくさん動かしたのは事実である。(並べて写真を取ったりとか。)しかしこれらは、なんら学術的な価値はない破片であることを、李先生に確認してから移動している。地上に綺麗に並んでいた化石については、手を触れてもいない。




12.天池へ

 翌7月24日、4:50、起床。私は年寄りなので、朝が非常に早いのである。(投げたらいかん。[;^J^])夜明けの光景のインターバル撮影をセットして、一旦寝直す。7:55にテントの撤収開始。今日はウルムチ近郊の「天池」への移動日としてリザーブされていたのだが、昨日の第三現場があまりにも美味しかったので、午前中、そこをさらに探索することになった。8:30にランクルで出発、10分後に現場着。

Picture (fig.29)

 うまい話は続かないのがセオリー。今日はスカである。2時間近く歩き回っても、破片も見つからない。こんなもんだろ、と、引き上げにかかったら、時間ギリギリになって、李先生が、河口だったと思しきポイントから、大きめの破片をざくざく掘り出した。頭蓋骨の一部で湾曲が明確に判るもの、血管の束の跡が残っているものなど、実に興味深い、バラエティに富んだ化石群である。

 11:15、将軍廟地帯の現場から引き上げる。今回のツアーでの化石発掘体験は、以上で全てである。思ったよりも時間が短く、多少とも物足りなかった面は有ったが、それはそれとして、実にエキサイティングで感動的な体験でもあった。「次はアメリカの発掘現場のボランティアをするといいですよ」と、金子氏に誘惑される。[;^J^]

 12:37、昨日の検問所に着く。実は砂漠で過ごしたここまでの3日間は、日中はそれほど気温は上がらず、夜もさほどは気温が下がらず、湿度はもちろん低い、と、まことに快適だったのであるが、観光モードに移行した本日の日中からは、非常に暑くなった。ラッキーであった。これが逆であったら、砂漠で熱射病で倒れていたかもしれない。暑くなったとは言っても、乾燥している分、日本にいるよりも遥かに快適ではあったのだが。

 13:55、チータイの街に帰り、昨日とは違う清真食堂で食事。特に記憶もメモも無い。それほど旨くはなかった様だ。15:55、天池に向かって出発、19:35着。(この間、ほとんど眠っていたので、書くことが無い。[;^J^] 強いて言えば、乾燥地帯の中の小さな食堂街の看板が、申し合わせたように「活鶏鮮魚」であり、実に納得がいかなかった [;^J^] こと位であろうか。)

Picture (fig.30) Picture (fig.31)異様に奥行きが無い、平面的な写真。これはスキャンの失敗ではなく、事実、このように撮れているのである。色彩のせい? 空気のせい?

Picture (fig.32) Picture (fig.33)下手でもいいから、せめて水平に撮ろうよ。[;^.^]

 天池は、ボゴダ山脈の主峰ボゴダ山の中腹、海抜1980mにある、砂漠地帯の中とは信じられぬ、豊かな森に囲まれた風光明媚な小さな湖である。気候はほとんど肌寒い。この地区の重要な観光スポットのひとつで、観光を生業とするカザフ族、その他の少数民族(見分けられない)が、大勢いる。とにかく車で山道を登っていくに連れて、馬に乗ったカザフ族の人達が、どんどん増えるのである。また、山羊、羊、牛が放飼いにされている。登り詰めた地点が、天池湖畔の、ちょっとしたペンション街(高々10戸で、食堂と土産物屋が数軒ずつ)で、そこにある観光用のパオに、今夜は泊まるのである。

Picture (fig.34) Picture (fig.35)

 ここでいよいよ、中国のトイレに関する一考察を書かねばならない。[;^J^] と言うのも、このあと帰国に至るまで、かなり真剣にトイレとの付き合い方を研究する必要に迫られたからである。つまり、腹を壊したのである。[;^J^] 元々腹は丈夫な方ではなく、ちょっと冷やすと下痢を繰り返す体質なのではあるが、それ故、旅行中は腹を冷やさぬよう極度に気を使っていたので、これが原因とは考えられぬ。とにかく、帰国後も数日間は治らず、この日から実に10日間に渡って、ちょっと記憶に無いほど酷い下痢に襲われたのであるから。連日の美食(しかも、普段食べ付けない素材)が怪しい。また、腹を壊すことを恐れる余り、普段は飲まないタイプの整腸剤を、ほとんど毎食後に飲み続けたのが、裏目に出た可能性もある。

 腹が鳴り始めたのが、自由行動時間中の20:40。さてトイレを探してみたら、なんと、このごく狭いペンション街に、4つもあったのである。ひとつは、入り口が煉瓦で塞がれていた。(が、強烈に臭っていたので、“ブツ”は残されたままの様だ。どうするつもりなのであろうか?)もうひとつは、鍵が掛けられていた。三つ目は鍵はかかっていなかったが、その状態は“論外”であった。私の筆力と神経では、これ以上具体的な描写は致しかねる。[;^J^] 何よりも驚くべきことには、このトイレが“論外”の状態になってからも、なおもしばらく使われ続けた(あるいは今なお使われ続けている)形跡が … いやいや、この話は止めよう。早く忘れたい。[;^O^] そして4つ目が、まずまともに使えるトイレであった。集中水洗方式とでも呼ぶべきものであり、個室群をつらぬいて、溝が掘って有り、そこにするのである。で、ときどき、その溝に水を流して、一気にクリアする。問題はトイレットペーパーが無かったことで、すぐそこのマイクロバスの中の、私のバッグの中にはティッシュペーパーが一箱あるのであるが、鍵が掛かっている。[;_;] 運転手が見つからない。[;_;] トイレットペーパーに準ずる物、あるいはその他のトイレを探して、虚しく歩き回っていたら、突然背後から、

 「アナタ、ニホンノヒトデスカー?」




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