2015年01月05日:靴下を履くとき.. 2015年01月06日:泥縄としか..[;^.^] 2015年01月07日:パトカーが後ろに居る..[;^.^] 2015年01月08日:「ポム・プリゾニエール」 2015年01月09日:「復活」 2015年01月10日:家事と来客 2015年01月11日:VirtualBox & Win95 格闘開始 [;^J^]目次へ戻る 先週へ 次週へ
..立って履くことにこだわっている。つまり、片足立ちの「一本足打法」ならぬ「一本足履法」である。これができなくなったら(つまり、履いているあいだに「一本足」を維持しきれず堪(こら)えきれず、よろけて、上げていた方の足をついてしまったら)、体力が衰えてきたことになる、と、昔、聞いたことがあるからである。バランス感覚のバロメーターというわけだ。
正直、失敗する(一本足では履ききれない)日も、ある。しかしおおむね、成功する日が多い。なんとかこの体力(バランス感覚)を、維持したいものである。なにしろ、私の人生の目標は、「寝たきりにならないこと」なのであるからね..[;^J^]
楽天オークションで、とある物件を落札。ヤフオクには慣れているが、楽天オークションは初めてなので、プロトコルの違いにいささか戸惑った。
目次へ戻る忙しくてネタが無いので、適当に思いだしたことを適当につづる。例によって。(← 倒置法。(← 例によって。(← やめろ。[;^.^])))
以前にも書いたかも知れないが、小松左京の「見知らぬ明日」という作品について、記憶だけで [;^J^] 書く。
ちょっと脱線するが、この「記憶だけで書く」というのは、実は大事なことなのである。脳を活性化するからである。電卓(古語)を使い始めたヒトは、計算(暗算)能力を衰えさせた。仮名漢字変換を発達させたヒトは、漢字を書けなくなる一方である。これらは(IT)技術が人間の能力を劣化させた例であるが、別にハイテクの責任ではない。そもそも、「辞書・事典類をこまめに使うこと自体が」、脳を劣化させるというのである。ある意味、衝撃的な事実であるが、もちろん、未知の事実や語彙を調べることは問題ではない(というか、使わなければ仕方が無い)。日常的な語彙・知っているはずの事柄(ことがら)は、「辞書・事典を使わずに、間違えることを恐れずに、記憶だけで書け」、ということだ。さもなくば、脳を鍛えることができない。無論、「間違えても構わない(被害が小さい、あるいは、フォローできる)場では」、である。仕事では間違えるわけにはいかないので、いちいち調べるべきだと思うが、ここは、たかがウェブ日記。間違えたところで、私が恥をかくだけだしね。[^J^]
閑話休題 [;^J^]。以上の 言い訳 理論的裏づけにより、今回も、書架をあたったりぐぐったりうぃきったりせずに書くわけであるが(もちろん、真の理由は、調べるのが面倒だからであるが、いちいち本当のことを書く必要はないし)..確か、これは中断作品。正体不明の宇宙人(というかUFO)が、まずはアジアの奥地から侵攻を開始する侵略戦争で、徐々に日本にも迫ってくる。やがて日本も戦場になるであろう..というあたりで終わっていたのではないかと記憶するが..登場人物のひとりである女性の行動(厳密に言うと、行動する前の「発想」)が非常に印象的で、今でも鮮明に憶えている。
なにしろ、状況が状況であるから、狭い日本国内でどこに逃げても無駄としか思えないのだが..とにかく避難騒ぎで物情騒然としている世相の中で、彼女は、まず、教習所に行こう、と考えるのである。なぜなら、免許をもっていないからである。免許が取れたら、中古車を買って、それで逃げよう..
..どこをどう突っ込んだらいいのか [;^J^] ..確か彼女は子どもづれだったと記憶するし、子どもづれで公共交通機関を使っての避難行は困難を極めるだろうが、しかし、この(事態への対処の)スピード感..免許を取るのに何週間かかるのか。そして免許が取れた頃に中古車販売という商売が機能しているのか。道路は通れる状況なのか。暴徒に襲われたとき、女手ひとつで自動車(と子ども)を守りきれるのか..とにかく、読んでいて茫然とした記憶は、はっきりと、ある。
さらに連想。泥縄で車を買うといえば、「サイコ」である。前半のミスリーディングパートで、後ろめたいヒロインは、なんとなく彼女を疑って後を付けてくるパトカーを振り切る(足どりを消す)ために、道中、見かけた自動車屋で、大慌てで(ろくに商談も吟味もせずに)車を買って走り去るのだが..あまりにも挙動不審で、かえって目立って疑惑を深めてしまうのである..
..もちろん、今夜は、オチはないのです。[_ _][;^.^]
目次へ戻る..仮に何も身に覚えはないとしても、ほとんどの人が、軽くびびるはずだ [;^J^]。パトカーがすぐ後ろに居ると。[;^.^]
例えば、会社からの帰路。信号が変わる間際のT字路の「横棒」を左から右へ突っ切った。すぐに信号が変わり、T字路の「縦棒」から右折してきたパトカーが、私の後にぴたりと付いた..
..問題ないはずだ。私は何も違反してはいない。しかし、さっきの「突っ切り」のタイミングは、やや遅かったような気がする。黄色で突っ込んだかもしれない..信号無視という自覚はないが、グレーゾーンかも知れない。そこを突っ込まれるのだろうか..この道は狭いが、道幅が広くなったところで止められて 難癖をつけられる 取り調べを受けるのだろうか..と、ドキドキしながら車を走らせ、数百メートル先で右折したところ、後続のパトカーはそのまま直進していった..まったく、私の無駄な思い過ごしだったようである..
..などという恐怖感、覚えがあるでしょう?(言うまでもないことだが、以上、あくまでも例え話である。あくまでも例え話なのである。[;^J^])
さて [;^.^]、パトカーにつけられるといえば、「サイコ」である。(またかよ。[;_ _](← ネタが無いんだよ。[;_ _][;^.^]))前半のミスリーディングパートでヒロインの挙動を訝(いぶか)しんで、どこまでもついてくるパトカー。この警官は、彼女が(横領を働いた)犯罪者であるということは知らないのだが、完全に怪しんでいるのである。後半の(ここで書くのも野暮なので書かないが)メインとなるストーリーとはなんの関係もないのだが、「サイコ」という映画の生命は、この「前半」の緊張感にあると思っている。
楽天オークションで落札したブツが届いた。使い物になるといいのだが..
目次へ戻る午前半休取得済み。8:00頃に車で出て、浜松医科大学医学部附属病院の耳鼻科へ。予約は9:00だが、その少し前にM先生に診てもらえた。(といっても、診察はせずに相談だけだが。)右耳はけっして完治していない。ボコボコと鼓膜が動く感じこそなくなってはいるが、要するに程度問題であって、それよりも手前の、低音(あるいは低周波)の「フクフク感」「ゴロゴロ感」は、確実にある。日によっては(あるいは時間帯によっては)、目立つ。ただしそれは、「音楽の種類によっては、目立たない」。たとえばももクロの曲でそれを感じたことは、一度もない。「(活発な低音で)マスクされてしまう」からである。
手術をすれば、この症状は、ほぼ確実に消えるし、手術自体は低侵襲性である。この病院のM先生も、セカンドオピニオンを下さった、慶應義塾大学病院のO先生も、それは明言されている。(逆に、1年前に診ていただいた神尾記念病院のT先生は、手術に対してネガティブであった。)じゃあ(多数決というわけではないが)手術をすればいいじゃないか、と、思われるかも知れないが、まだそこまでは踏み切れないのである。いくら低侵襲性とはいえ、筋肉を切るという「非可逆性」も気になるし、それより何より、M先生をはじめ、これまで恐らく10人以上の先生に診ていただいているが、「誰ひとりとして、この症状を観測していない」のである。観測できないのだ。測定しようとしても、その時には症状が出ないから。M先生が手術自体の安全性は保証しつつも、今ひとつ手術に対して乗り気でないのは、それが(唯一の)原因である。私も、こういう状況では手術をして欲しくない。もしも、また(なんらかの理由で)症状が悪化し、それに耐えられなくなったら、その時は、症状を観測できようができまいが、手術をお願いするかも知れません..と、M先生にはお伝えした。
午前半休取得ずみなのだが、今日は病院が大変すいていたこともあって、10時前には出社可能になってしまった。これでは丸損 [;^.^] である。そこで、皮膚科のI医院にも寄って診察を受け、追加の薬をもらった。(明日か明後日、残業ぶっちしてI医院に行くつもりだったので、ちょうど良かった。)まだ時間が余っているので、書店に立ち寄ったあと、1時間ぐらい読書で時間をつぶせる喫茶店が..あってしかるべきなのだが、これが浜松の不可解な特徴のひとつなのだが、喫茶店が極めて少ないのである [;^J^]。もちろん、あることはあるのだが、随分遠くまで車を走らせることになる。それでは移動時間がもったいない。結局、OAナガシマに寄って、UPSの交換済みバッテリーをリサイクルに引き取ってもらって、少し早め(11:30頃)に出社した。退社したのは、20:30頃だったかな。(「退社」に、「その日の勤めを終えて会社から退出すること」と「会社を辞めること」の両義があるのは、日本語の不可解な点のひとつである [;^J^]。なぜ、別の言葉を作らなかったんだろう?)
「ポム・プリゾニエール」(鶴田謙二、白泉社)読了。これは..鶴田謙二ファンであっても、さらに読者を選びそうだな [;^J^] ..誰にでも無条件に薦められるマンガではない。作者の言葉を引いておこう。
「廃墟」「猫」「裸」の三題噺が5年かかって一冊の本になりました。三題のうちどれか一つでよかったんじゃないのかと言われればそれはそうだし、少なからず自分でも誰得?と思わないでもない一冊です。(中略)描いた本人以外にこれを楽しめる人がいるのでしょうか。(後略)
「俺得だよ!」だって、「廃墟」「猫」「裸」だぜ!?(..だから、そんな目で私を見るなと言ってるだろうが。[;^J^])
目次へ戻る(今夜の日記は、マーラーの「交響曲 第2番“復活”」を知っている人限定である。知らない人は読むなとは言わないが、「(この日記の)どこが面白いんだかわからん」とかゆわれても、私は対応しない。[;^J^])
先週、キリスト教の「復活」の教義について、いささか不謹慎なことを(もちろんシャレで [;_ _][;^J^])書いたのだが、世の中には「毒皿」という言葉もあるので [;^.^]、長年暖めていたプラン(というかヴィジョン)を公開してしまおう。
先週(1月3日)の日記で、「(キリストが)「復活」しちゃぁいかんよ、しらけるよ」、と書いたのだが、それに対して某SNSで、「じゃあ、マーラーの2番の立場が..」というコメントを(これももちろん、シャレで)いただいた。ここでたちまち、私が30年以上も暖めていながら、この数年間は完全に忘れていたビジュアルプランが、甦ったという次第である。私には実現(映像化)できそうもないので、ここに(いかにも私に相応しく)「文章で」公開するから、誰か映像化して欲しい。
好悪はあるだろうが、マーラーの「2番」といえば、まず間違いなく、全クラシック音楽のなかで、「もっとも壮大で、もっとも格好いい」音楽のひとつである。特にその「復活主題」の壮麗さたるや、比類がない! そして、この「格好良さ」は「漫画的な格好良さ」でもある。言うまでもないが、私が「漫画的」という場合、それは誉め言葉である。(例えば、私はベルリオーズの「幻想交響曲」を、「「音楽漫画」の最高傑作」だと思っている。)そこで、以下のような「ビジュアルプラン(というか「幻視」)」が現出するわけだ。
30年ほど前、私は(ロックの)ミュージック・ビデオを、結構観ていた。そしてもちろんクラシック音楽ファンだったので、クラシック音楽の「ミュージック・ビデオ化」を、いろいろ夢想していたのである。「クラシック音楽の「ミュージック・ビデオ」」として恐らく最も有名なのは、ディズニーの「ファンタジア」であろうが、私自身、非常に好きな作品ではあるが、「いかにもディズニー的な緩(ぬる)さ、あきたらなさ」も確実にあるわけで、要するに、もっと先鋭的な、要するに「尖った」映像を夢想していたのであるが..(それを「作れる」とは、当時、まったく考えていなかった。現在と異なり、当時のアマチュアには、そんなツールも環境もなかったのである。)言うは易く、行うは難し。なんと、「作れない」どころか、「具体的に夢想することすらできない」のである。ついさっき「ファンタジア」を軽くディスったが [;^J^]、あれでも、よくぞあれだけの映像を考えついたわけで、さすがに私ごときとは才能の桁が違う人々の手になる作品ではあったわけだ。要するに、ほとんどの「クラシック音楽」は、曲自体が「音楽として(あるいは音響として)完成度が高すぎて」、「映像のつけいる余地がない」のである。
ただし、「音楽漫画」なら、話は別だ。たとえば、「幻想交響曲」からは、実にさまざまなビジュアルイメージが喚起される。ところが今度は、「私が、この作品を好きすぎて [;^J^]」、どのイメージもこのイメージも、「(我ながら)没!」、なのである。[;^.^]
そこで、マーラーの「復活」の出番となる。実に(私にとっては)ビジュアル化しやすい作品であり、しかも十分にカッコイイ作品でありながら、「幻想交響曲ほど、好きなわけではない [;^J^]」。つまり、私自身の脳内から出現したビジュアルイメージに対して(それはマーラー(あるいはベルリオーズ)の天才に比べれば、屁みたいなものであろうが)、私自身が「没」を出さないでいられるのである [;^J^]。前口上が長くなったが..全5楽章、80分もの大作である。私が脳内で明確にビジュアライズした(というか「幻視した」)のは、最終楽章(の、厳密に言えば後半のみ)である。それをご紹介しよう。
この作品は、明確なストーリーを持っているわけではない。はっきりしているのは、「第1楽章が、葬送音楽であること」と、「第5楽章(最終楽章)が、復活の音楽であること」である。第5楽章を聴けば、多くの人は「ヨハネ黙示録」を想起するだろうが、歌詞(言い忘れていたが、第5楽章の後半は、合唱付きである)が「黙示録」から引用されているわけではない。(詳細は省くが、とある詩人の作品に作曲者が加筆したものである。)ここで、解釈の幅が生じるわけである。「黙示録的な、全ての死者の復活」なのか、「死後三日目のキリストの復活」なのか、「第1楽章で葬られた一個人の復活」なのか。(ほかにも考え方はあろうし、そもそも「何かの復活を意味しているのではない」という考え方もある。今日びはこういう「純音楽的」な「「意味」を与えない(考えない)」演奏解釈が主流だろうが、私はそういうのは好きではない。[;^J^])ここで私は、「第1楽章で葬られた一個人の復活」を、採ったのである。
舞台は、(例えばアルプスの)山頂が良い。風景は雄大である。そこに墓がある。第1楽章で埋葬された人の。第5楽章は30分以上もかかる壮大な音楽であるが、その前半につけられる映像は、抽象的であることが望ましい。あるいは単なる風景(空とか雲とか)の映像でもよい。そこにドラマ性があるべきではない。(音楽自体は、第5楽章の前半から飛ばしに飛ばしてドラマチックであるが、映像的には後半に勝負をかけるので、対比のためにも、「前半の映像」は「押さえておく」必要があるのである。)
前半が終わり、ティンパニの静かなトレモロから、後半が始まる..舞台裏の金管楽器群のファンファーレ(これが、黙示録を連想させるのだ)と、前景の鳥の鳴き声が呼び交わす..ここで、山頂の墓を映す..音楽はこのあとすぐに、静かな、敬虔な無伴奏合唱となり、やがてオーケストラが徐々に加わり、壮大な上にも壮大、壮麗な上にも壮麗に盛り上がって(いわば長大なクレッシェンドの末に)終わるのだが、この後半(20分弱)は、映像的には、「ただひとつのモチーフ」のみを見せる。それは、「墓場からの死者の復活」である。「ただし、腐肉のままの!」
いつしか、墓を覆っていた土は取り払われている..棺の蓋が(自ずから)開く..腐肉と化した死骸が横たわっている..彼の上半身がゆっくりと、ゆっくりと(10分以上かけて)起きあがる..「彼」はゆっくりと両手を前にさしだし、そして、掌(てのひら)を(眼球の無い)目で見つめる..(自分に何が起こったのか理解したのだろうか?)..そして起きあがった上体は、ゆっくりと前にくずおれていく..まるで(腐った)両手で(腐った)顔を覆うように..もしも「彼」に「感情」があるのなら、あたかも絶望に打ちひしがれたかのごとく..なぜなら自分は「永遠の呪い」を受けたことを理解してしまったのだから..なぜなら自分は「復活」してしまったのだから..「腐肉のまま」..
..この映像を、あの、壮大極まりない音楽につけたいのである! 誰か実現してくれ!(あなたはあるいは「アウトサイダー」(ラヴクラフト)を想起したかもしれないが、私がこの小説を読んだのは、この映像(ヴィジョン)が「降りてきて」から10年以上も後のことである。)
目次へ戻る快晴。久々にフトンを干し、9:20に車で出て、まず図書館。クリーニング出し。その足で湯風景しおりに向かい、10:15から13:40まで。もちろん日光浴など論外だが [;^J^]、たとえ寒くても、野天風呂は快適である。[^J^]
14:00に帰宅し、フトンを取り込み、これまた久々に掃除。書籍山脈の谷底にはハタキが届かないので、上空からブロワーで強風(突風)を叩きつけてやったら、舞い上がった埃で、視界が煙(けぶ)った。[;^.^]
18:00に来客。(だから掃除したのである。[;^J^])30分ほどで帰られ、その後、クリーニングを受け取りに。(..なんか、まったくドラマ性の無い1日だったが、日記なんだから、こういう日があってもいいだろう。[;^J^])
目次へ戻る快晴。にも関わらず午前中は雨戸も閉めて引きこもり、延々と録画の始末に追われる。[;_ _][;^.^]
デジカメで撮った写真の整理をしてから、ついに長年の懸案であった、「Windows 95 の仮想マシン化」に着手した。
もう子細は省きに省くしかないのだが [;^J^]、私はモノ書き環境としては、いまだに「Libretto 100」を使っている。OSは Windows 95 である。(もちろん、ネット接続はしていない。)このOS上に常駐させた Vz Editor(1.57a)こそが、私にとっては最高の執筆環境だからである。また、吾妻ひでおと手塚治虫の作品リストをメンテし続けているが、これらのメンテに必要な(複雑極まりない)バッチスクリプト群から呼び出されている「UNIX ライクツール群」も、このOSでしか動かない。(Win98SE、Me ぐらいまでは動くかも知れないが、そんな中途半端な環境移行をしても仕方がない。)そこで、Libretto 100 というハードウェアを、何度も買い直し、時には譲っていただき、10数年も使い続けてきたわけであるが..(内蔵HDDの複製も、もちろん複数、保存してあるのだが..)さすがに、使えたとしても、あと10年であろう。(案外、20年ぐらいは、いけそうな気もするが。[;^.^])この環境を「永続的に」使うためには、仮想マシン化して塩漬けにするしかないのである。
選択肢はいくつもあるのだが、最初に却下したのは、「Windows 8.1 の上に、Windows 95 ライクな command.com を乗せる「シェル」」である。一見、動きそうだし、楽でもあるのだが、コアは Windows 8.1 なので、仮に取りあえず動いたとしても、どこかで必ず躓く。最初から手を出さない方が無難である。
というわけで、Oracle VM VirtualBox を(フリーで公開されているので)ダウンロードしてインストール。ここまでは、問題なし。さて、この上に作った仮想マシンに、Windows 95 をインストールしなくてはならないのだが..
..手元の Windows 95 インストールメディアは、フロッピーディスク(42枚組)なのである [;^J^]。まず、USB FDD の認識自体に手間取ったが(厳密に言うと、認識自体は簡単で、問題を起こしたのは「フロッピーディスクの入れ替え」を検出できないこと。まぁ、これもぐぐって解決したが [;^J^])、そこはクリア。
なんとか、Windows 95 のインストーラーから、FDISK、FORMAT と自動的に実行し、順調に進むのだが..セットアップ方法(「標準」「コンパクト」「最小」「カスタム」)を選んで、いざ、インストールの本番、と、エンターしたところで、FD(4枚目)を認識できなくなってしまう。(ちなみに、ここまで1時間かかる。)メディアのせいかなぁ、ドライブのせいかなぁ..
まぁ、特に焦る理由もないので、パラメータや組み合わせを換えつつ、数ヶ月計画で、トライすればいいんだけどね [;^J^]。でも、CD-ROM 版が入手できれば、その方が簡単だろうなぁ..(ヤフオクその他を捜しても、少なくとも捜したタイミングのときには、適当な出物がなかったのだ。6万円とか、とんでもない値段がついてるのはあったけど(しかも FD版。[;^.^]))
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