*2012年02月13日:カストラートのためのアリア集
*2012年02月14日:やばいかも..[;_ _]
*2012年02月15日:念のために..[;_ _]
*2012年02月16日:「SFが読みたい!2012年版」
*2012年02月17日:国会図書館/紀尾井ホール
*2012年02月18日:多摩図書館/大宅壮一文庫/現代マンガ図書館/松井冬子展
*2012年02月19日:Bunkamura/東京国立近代美術館/静岡市美術館
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*2012年02月13日:カストラートのためのアリア集


 夕方から雨との予報なので、やむを得ず自動車出勤。帰宅時には、首尾良く雨。[;^J^]

 神へのささげもの 〜カストラートのためのアリア集」(DECCA、UCCD-1251、Cecilia Bartoli、Giovanni Antonini、イル・ジャルディーノ・アルモニコ)を積聴の山から取り出し、一聴したのだが..

 ..すげえ [;^.^][;^.^][;^.^]

 「カストラート(ウィキペディア)」を「ボーイソプラノ」や「カウンターテナー」と(なんとなく)混同している人は多いのではないかと思うのだが、前記ウィキペディアの「ボーイ・ソプラノ等の違い」の項目を読んでいただければおわかりのとおり、カストラートは「去勢された男性歌手」であり、現在は存在しない。声変わりしない(従ってハイトーンを保った)まま、しかし体格は成人男性になるので男性的な力強さも併せ持つという、今となっては存在しない声質なのである。

 従って、カストラートのための声楽曲を、本来の「声」で聴くことは、もはやできない。代わりにカウンターテナーが歌うことが多いような気がするが、このディスクで歌っているバルトリは女声(ソプラノ)である。にも関わらず、非常に力強い響きで、部分的には確かに女声とも男声とも判然としない、強烈な世界を作りだしている。もしかすると実際のカストラートの声の響きに結構似ているのではないか、と、想像を逞しくすることができる。

 フランチェスコ・アラーイアの「私は落ちるだろう、まるで見るように」は、あまりの迫力と超絶技巧に、驚愕 [;*.*]。サンダーマシーンの響きが強烈な「誰が支配神なるジョーヴェを恐れていただろう」(レオナルド・ヴィンチ)や、管弦楽による水流の表現が見事な「気高い水は」(ニコーラ・ポルポラ)も、まことに印象的である。

 声楽に興味のある向きには、一聴をお薦めする(..2012/02/22 現在、前記アマゾンのリンクには「再入荷見込みが立っていないため、現在ご注文を承っておりません」、と、書かれてますが。[;_ _][;^.^])

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*2012年02月14日:やばいかも..[;_ _]


 今日も雨なので、自動車出勤である。比較的暖かい。

 「手塚治虫のすべて」の作品リストからの、「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」に収録されていなかった作品のピックアップ作業が、ようやく終了した。これから、ピックアップされた作品(漫画作品はほぼ無く、エッセイ、コメント、イラスト、カットなどだが)を2種類に分別する。ネット上で各地の図書館などを検索して、図書館で読めるもの(あるいは遠隔地の図書館からコピーを取り寄せられるもの)については、現物を閲覧してから、「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」(の「全集未収録作品リスト」)に追加する。極力、データを確定してから追加したいからである。逆に、データ未詳で、当分(あるいは将来にわたってずっと?)見つけられそうもない、たとえば、「もとめよ、さらば与えられん(エッセイだが、初出誌、初出年月日とも不詳)」などは、「?」つきで、さっさと記載してしまうのである。

 夕方、鼻のあたりが、少しボワンとする..指先が冷たく、掌で包むと、いい感じの浮遊感を楽しめて..まずい [;_ _]。今日はとにかく暖かくして、早寝だ。すぐに目が覚めるだろうが..

 夜、鼻が詰まり気味。なんとなくボワボワしてはいるのだが、測ったところ、熱は、無い..

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*2012年02月15日:念のために..[;_ _]


 自転車ではなく、自動車で出社はしたのだが、鼻の奥と喉がボワボワする。症状らしい症状は、鼻づまりとクシャミ少々、咳をときどき、程度なのだが、初動が遅れると無駄に長引く。10:40頃に退社して、主治医のO内科へ。(できれば午後半休にしたかったのだが、今日は午後休診なのである。)薬をもらって、午後は自宅に引きこもる。

 「手塚治虫のすべて」からのピックアップ作品リストに、収蔵図書館情報を書き込み終えた。引き続き、図書館歴訪プランの策定に取り掛かる。

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*2012年02月16日:「SFが読みたい!2012年版」


 症状が十分に軽快していない。念のため有休を取得して、静養する。

 「SFが読みたい!2012年版」を通読。面白いくだりがあったので、2箇所、引用する。

 まず、円城塔へのインタビュー(インタビュアーは、佐々木敦)、第19頁から。


 : いや、相変わらず音楽は聴かないんです。聴くと他のことができなくなっちゃうんですよね。
: そういう人はいますよね。
 : ええ。僕はどうしても視覚型の人間なんです。「見る・見えた・見せる」がすごく多い。視覚型の書き手と聴覚型の書き手がいるという話は一般的によくいわれているので、実際問題としては、あまりにも自分が視覚に寄りすぎていないだろうか、という不安から音楽的要素が導入されているのだと思います(笑)。
: ちょっと苦手意識を克服しようみたいな……(笑)。
 : 克服……のようなことをしようとはしていて。でも、実際はわからないんですよ、音楽。本当にわからない。わからないことは書けないので、書ける方法をなんとか探しているところです。
     (中略)
 : そうですね。美学は苦手なんです、いろんな人に怒られそうですけど。よく考えるのは、バッハの「小フーガ」を文章でやりたいとは思うのですが、はたしてどうやるのか、という疑問も同時に存在するわけで。
: むしろ円城さんは、バッハとかだったら、譜面を見てるだけのほうがいいんじゃない?
 : それも思ったんですが。僕はちょっと身を遠ざけてたんですけど、実際に「音楽の捧げもの」あたりを聴いてみたら、これはとてもダメだ! って思いましたね。無理だ、わからないと。というか、何がわからないのかもわからない。音楽に聴こえないんです。「小フーガ」だとかろうじて音楽に聴こえるんですけど、たとえば……なんとかのカノンとかは、まったく音楽には聴こえなくて。これは当時の人も困っただろう……なんて、むしろ同情するみたいなところまででてきてしまって。
: いわゆる『ゲーデル、エッシャー、バッハ』的なバッハばかりが伝わってきてしまう感じでしょうか。
 : そうですね。実際に聴くと、そもそも僕には音楽に聴こえません、という話になるので。そうすると音楽に対する美学が、音楽の時点で壊滅してますよね。もともと美学を受け取る器官がないんだと思います。
     (後略)

 非常に興味深い。バッハの対位法作品が「音楽に聴こえない」、というのは、「うっかり“建築”を聴いてしまう」という意味だとすると、いかにも円城塔“ならでは”のような気もするし、逆に、ある程度普遍的な(理知的な耳にはありがちな)傾向を指しているような気もする。

 次に、山岸真へのインタビュー。第37頁から。


: (サイバーパンクSFは面白いと思って追いかけていたが)運動としてのサイバーパンクには、かならずしも興味がなかった。
どういうことでしょう?
: サイバーパンク“運動”にはカウンターカルチャーの系譜や、ポップカルチャーの一環という面があったわけですが、自分はそういう素養も関心も欠いていたので。MTVは好きで見ていたし、サイバーパンク作家たちが必読書にあげている現代小説には面白いと思うものもあったけれど、サイバーパンクはかっこいいとかいう話になると、正直どうでもいいなあ、と。

 そーだ、そーだ! [;^.^][;^.^][;^.^] 私が、あの時代(実際には、完全なリアルタイムではなく、数年遅れで追いかけ始めたとき)、どうも「サイバーパンク」に乗りきれなかったのは、その違和感があったからなのだ。たとえば、「ミラーシェード」という、サイバーパンク・アンソロジーがあるのだが、この表紙、だっせー! ..と思わん? [;^.^] アンソロジーとしての内容はいいんだが、サイバーパンク作家が「ミラーシェード(ミラーグラス)をしていることが多い」という理由から、このタームで「運動」自体を括ってしまうという、センス [;^.^]。だせーよ、だせーんだよ! [;^.^] 制服じゃあるまいし、特定の(ぽっぷな)ファッションで固めてんじゃねーよ! [;^.^][;^.^][;^.^](実際には、ミラーグラスをかけていない作家も大勢いたようだが..当たり前ですが。[;^J^])

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*2012年02月17日:国会図書館/紀尾井ホール


 6:10に自宅を発ち、7:00浜松駅北口ロータリー発の高速バス(渋谷新宿ライナー浜松号)で上京。ほぼ定刻の10:53に、渋谷マークシティ着。

 11:25、国会図書館着。いまさら書くまでもないが、手塚治虫関連資料の初出誌閲覧調査である。最近、システムが更新され、基本的にはまぁまぁ使いやすくなっているのだが..反応が、以前のシステムよりも、明らかにトロい [;-_-]凸。サーバーを3倍速にすることを要求する。["^.^]凸

 成果としては、いささか混乱気味だった「はじめての一人旅」関連、

21世紀の青年へ「わたしの主人公たちの一人旅は……」(日本旅行広告)(イラストと文):1:毎日新聞夕刊:85/01/17
日本旅行広告「はじめての一人旅」(「はじめての一人旅」を考えるシンポジウム(イルカ、井上好子、三浦雄一郎、大宅映子)85/04/20):1:朝日新聞:85/05/15
はじめての一人旅(講演):6:日本旅行一人旅委員会:85/01

 ..を、整理できたこと。また、新聞広告関連の

アリオン 広告(コメント):1:毎日新聞:86/03/04
キャバレー 広告(コメント):1:毎日新聞:86/03/28
日本旅行広告「赤い風船」(コメント):1:朝日新聞:87/03/26
「子どものころの夢がだんだん現実になってくる。もう、宇宙だって自分のものにしようとしている!」富士電機 広告(コメントとイラスト):1:日本経済新聞:87/08/1

 ..などなど、多数。

 18:10に退出。ホテルニューオータニの向かいの紀尾井ホールへ徒歩で向かうが、いつの間にか、雨が降り始めてるし [;^.^]..道順は簡単だと思ったのだが、前回、ホテルニューオータニから国会図書館に歩いたときとは違う道を通ったためか、ちょっとわかりにくい個所があり、微妙に迷ったのだが、交番で訊いてすぐに解決。さらに念のために道行くご婦人にも尋ねたら、彼女の目的地も紀尾井ホールだったので、以降、同行しました。[;^J^]

 「デジタルピアノ New Style Concert 2012」である。奏者は、金子三勇士と山中千尋(トリオ)で、金子がクラシック(悲愴ソナタ(ベートーヴェン)、ハンガリー狂詩曲第2番(リスト)など)、山中がジャズ。演奏も音も、素晴らしかったと思う。(プライベートで聴きにいったのだが、業務に微妙に抵触するので、この程度の感想に留めさせていただく。[_ _])

 21:10頃、終演。22:50に、横浜・鶴ヶ峰の実家着。

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*2012年02月18日:多摩図書館/大宅壮一文庫/現代マンガ図書館/横浜美術館


 実家前のバス停から、7:11のバスで発つ。9:15、(開館15分前に)立川の多摩図書館着。いまさら書くまでもないが、手塚治虫関連資料の初出誌閲覧調査である。

「007」に愛をこめて… 「007」ベスト・3大会(アンケート):1:キネマ旬報:77/12/上旬
「未知との遭遇」マルチ分析 科学合理主義に毒された地球人に対する警告(エッセイ):1:スクリーン:78/05

 ..など。前者は、実は2度目のチェック。これまでリストに「76/12/上旬」と誤記していたのである [;*.*]。「現物に当たれず(他のリストなどの)二次情報から転記していたデータが、間違いだった」というケースは珍しくないが、一度は現物を確認していながらリストに誤記していたというケースは、今回が初めてではないだろうか。(偶然、気が付いたのである。)

 10:25に退出し、11:30、八幡山の大宅壮一文庫着。いまさら書くまでもないが、手塚治虫関連資料の初出誌閲覧調査である。

『E.T.』は、ヒューマニティーに富んだ愛のドラマだ…。(談話):1:オムニ No.8:82/12/01

 ..など。これは、従来資料((他のリストなどの)二次情報)では「82/11」とされており、見つけることが出来ていなかったのである。正しくは「82/12」でした。

 12:15に退出し、13:05、江戸川橋の麺珍亭着。現代マンガ図書館を訪れるときは、ここで油そばを食べるのがデフォなのである。(美味いよ。[^.^])13:35、現代マンガ図書館。いまさら書くまでもないが、手塚治虫関連資料の初出誌閲覧調査である。(← 3回繰り返すと、ギャグになる。[;^.^])

アニメにはアニメ独特の動きがあり、手作りだ!!(エッセイ):1:アニメージュ増刊ファンジン:80/04/30

 ..など。

 14:05に退出し、15:20、みなとみらいの横浜美術館着。「松井冬子展」である。最近、メディアで名前を聞くことが多いような気がするが、展覧会で作品を実見するのは初めてである。

 展覧会のサブタイトルは「世界中の子と友達になれる」という「牧歌的」なものであり、ポスターを(遠目に)見ると、森の中に可愛らしい少女がいるので、つい、油断してしまいそうになるが..近づいてよく見ると、その少女の足は血塗れなのである [;*.*] ..作者の言葉を引用しよう。

この絵の題名とした「世界中の子と友達になれる」という絶対的に実現不可能な狂気のイデアを私は幼児期に確信したことを記憶している。誇大妄想に等しい全能的思い込みではあるが、今でも私の心的窮状を鎮める呪文、琴線を震わす言葉としてあてはめた。

 ..という次第でしてね [;^J^]。見た目には「恐い」絵が多いのだが、根本的な部分ではポジティブというか「生命力への信頼」のようなものが感じられる作品が多いと思った。

 「短時間の強力な蘇生術を行うについてとくに必要とされるもの」−鼠の群れと植生のダブルイメージ。「世界中の子と友達になれる」(2004)−ポスターに使われている作品から2年後の、同じタイトルの別作品。表層的には、映画「ヴィレッジ」の森の雰囲気に似ている。「絶え間なく断片の衝突は失敗する」−死体を覆う植生。「供犠の暴力」−彼岸花と鶏の合体。

 「幽霊」の章では、直接的ないわゆる幽霊の姿よりも、頭髪のみのイメージなどの方に、ひんやりとした恐さがある。「試作」−植物妖怪というべきか。「思考螺旋」−縦長の画面の天井から重量感なく落ちてくる(降りてくる)黒髪の束..よく見えないが、天井に何かいるのか? [/_;] 「足の皮を引きずり歩く」−薄ぼんやりとした、髪の幽霊?

 「世界中の子と友達になれる」(2002)画像検索結果)−この展覧会のメインイメージである。藤の花の群れはメタモルフォーズして、雀蜂の群れに変貌する。画面の外を見る少女の視線。血まみれの足。空虚な揺り籠。狂気の直前の瞬間..「不幸な現存在の三つの形態」−私がもっとも気に入った作品である。バランス良く美しい小品。前景の植物。中景の解剖された兎(?)。遠景の川が流れ行く広大な荒野..「ややかるい圧痕は交錯して網状に走る」−植物と妊婦が交じり合う。「解剖 仔牛」−朦朧体の解剖図。「この疾患を治癒させるために破壊する」−水にアーチ状に映る魔的な桜。まるで、眼のような..

 「成灰の裂目」「浄相の持続」「應声は体を去らない」「転換を繋ぎ合わせる」「四肢の統一」の、九相図の連作の中では、死体が自ら誇らしげに子宮を開いてみせている「浄相の持続」(画像検索結果)が最も有名だと思うが、頭蓋骨と背骨(の上半分)だけが、朦朧たる暗い荒野に放置されている「四肢の統一」に、私は特に感じ入った。

 ..とはいえ、全体として、正直、私の好みの画風ではないので [;_ _] 図録は買いませんでした。(実際問題、展覧会を観るたびに毎回図録を買ってた日には、自宅のキャパが破滅してしまう(というか、既に破滅し終えている(← こじゃれた時制に注意。[;^.^]))

 この美術館は、シュルレアリスム系を中心に、常設展もなかなか素晴らしいのだ。久しぶりにざっと観てから、17:40に退出。18:40に実家に帰宅。

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*2012年02月19日:Bunkamura/東京国立近代美術館/静岡市美術館


 実家前のバス停から、8:16のバスで発つ。9:45、(開館15分前に)Bunkamuraザ・ミュージアム着。「フェルメールからのラブレター展」である。

 なんとも気に入ったのが、「眠る兵士とワインを飲む女」(ヘラルト・テル・ボルフ)(画像検索結果)である。どう見ても、酔い潰れて役に立たなくなった男を前にしてやけ酒を飲む女である [^.^]。いいねぇ [^.^]。「中庭にいる女と子供」(ビーテル・デ・ホーホ)、「室内の女と子供」(ビーテル・デ・ホーホ)、「老人が歌えば若者は笛を吹く」(ヤン・ステーン)も、なかなか良い。

 さて、主役はもちろん、フェルメールの3作品である。

 「手紙を書く女」画像検索結果)..別にほんとに、なんと言うこともない絵なんですけどね [;^J^]..ただ、この「なんと言うこともなさ」を実現するのは、容易なことではあるまい。薄目を開けて観てみると、「黄色」のマッスが、絶妙な量と角度で配置されていることがわかる。完璧な構図である。

 「手紙を読む青衣の女」画像検索結果)..こちらは、「青」。微妙に階調の異なる「青」が、寒色系の画面構成の中に、これまた完璧なバランスで置かれている。

 「手紙を書く女と召使い」画像検索結果)..前記の2作品は、それぞれ特定の色彩の印象が支配的だが、これは、どちらか言えば様々な色彩のハーモニー..とはいえ、突出している色はない。どの作品についても言えることだが、部屋に射し込んでくる外光の表現が、ほんとうに凄く、さりげない。前記2作よりも心理的なドラマを強く感じさせる作品で、主人が手紙を書き終えるのをうしろで待っている召使いは、明らかに、「もー、いーかげんにしろよ..」、という顔をしてるし [;^.^]、机の下に払い落とされた(あるいは投げ捨てられた)手紙(あるいは書き損じ)からは、手紙を書いている女性が、「いったんはブチ切れたが、今は辛うじて気を静めている」ことが、明瞭に読みとれる。[;^J^]

 他の作品にも、いくつか言及しておこう。「手紙を書く女」(フランス・ファン・ミーリス(I世)−衣装の質感! 彼女とリュートと犬で構成された小宇宙..ヘリット・ダウの「執筆を妨げられた学者」「羽根ペンを削る学者」は、面白い主題。「公証人と依頼人」(ヨープ・アドリアーンスゾーン・ベルクヘイデ)は、うしろの少年の表情が、いい感じ。[^.^]

 11:50に退出し、渋谷駅に戻る途上のパスタ屋で昼食。13:20に、竹橋の東京国立近代美術館着。「ジャクソン・ポロック展」である。

 「西へ」(幻想的夜景)、「四つの図柄のあるパネル」「無題 蛇の仮面のある構成」「誕生」「ポーリングのある構成 II」

 「ナンバー11、1949」画像検索結果)の配色のリズム! なにやら梵字みたいなものが見える。「無題」(1949頃)は、アルミ塗料の銀が印象的。

 本展覧会のメインアイテム、「インディアンレッドの地の壁画」画像検索結果)は、とにかく、線と色彩のリズムとバランスが絶妙である。何時間でも観ていられる。

 ちなみに、この作品については、価格のことをスルーするわけにもいかないので触れておくが..この作品を、「200億円という「価格」とセットで「しか」語れない」人々がいるが、なんと哀れなことだろう。

 200億だろうが200万だろうが、この作品の「面白さ」(あるいは主観によっては「つまらなさ/くだらなさ」)には、なんの変わりもないではないか。「自立している(自分で判断できる)」大多数の美術ファンは、この作品の価格のことなど、全く問題にしていない。している人もいるのだろうとは思うが、数パーセント以下だろう。

 もちろん、主催者が、話題づくり(客寄せ)のために「200億円」を喧伝するのは、全く当然かつ正当なことである。しかしそのパンフレットにおいてすら、「200億円もする“高価な(価値ある)”絵が来るから見においで!」などとは、ひとことも書かれていない。(もしもあなたがそう読み取ってしまったのであれば、残念な人だと思う。)むしろ逆に、「なぜ、200億などという“常軌を逸した”値段がつけられたのか、その背景を考えてみよう」..と、書かれているのである。

 「ナンバー7、1950」は、音楽的。「カットアウト」画像検索結果)は、切り抜き痕が、バンデル星人みたいで可愛い [^.^]。「黒と白の連続」は、反転した(白い)宇宙(黒い星雲)。「無題」(1950)はまるで、「書」のような。「無題」(1951頃)の、白っぽい画面に点在する生物的なコンポジション。

 ブラック・ポーリングでは、「ナンバー11、1951」が有名だが、私は、「黒、白、茶」のほうが、好き。「ナンバー7、1952」の、人の顔のような線は、やはり面白い。

 15:35に退出し、16:03東京駅発のひかりで静岡へ。17:15、静岡市美術館着。「竹久夢二と静岡ゆかりの美術」の後期展示である。(前期展示は既に観ている。)ちょうど、学芸員による説明ミニツアーがスタートしたばかりで、すぐに追いついて同行できた。ラッキー。

 入れ換えられた作品の多くは平野富山による彩色木彫である。「蘭陵王面」「聖徳太子二歳像」画像検索結果)、「翁舞」「鏡獅子」など。

 18:00に退出し、18:31のJRで19:44に浜松着。寄り道せずに、19:50に帰宅。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 23 2012
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