*2010年12月06日:「霧越邸殺人事件」
*2010年12月07日:デューラーの「黙示録」
*2010年12月08日:あかつき、金星軌道投入失敗
*2010年12月09日:「天国にそっくりな星」「サハラ砂漠の秘密」
*2010年12月10日:温泉巡りもいいかもね [^J^]
*2010年12月11日:湯風景しおり、改装
*2010年12月12日:「ヤノマミ」「魔人ドラキュラ」
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*2010年12月06日:「霧越邸殺人事件」


 積読の山から「霧越邸殺人事件」(綾辻行人、新潮文庫)を片付けた。(なんでもあるでしょ、私の部屋の積読山脈には ← ほとんど自虐 [;^.^])著者の最高傑作クラスの幻想ミステリだとのことで、期待していたのだが..

 ..ちょっと、微妙な評価をせざるを得ない。[_ _](以下、できるだけネタバレにならないように書くつもりだが、この作品について、いっさいの予備知識を得たくないと思う人は、翌日の日記までスキップして欲しい。



 まず、本書を読む前に、「幻想ミステリ」と聞いて私が想起したのは、「火刑法廷」(ディクスン・カー)と「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎)である。まぁ、さすがに後者の系譜ではないだろうとは思ったが [;^J^]、前者のフレーバーというかなんというか(「火刑法廷」のネタバレになるので、これ以上書けない [;_ _])はあるのではないか、と、想像したのだが..そういう作品では無かったのである。

 もちろん、確かに「幻想的」ではあるのだ。少なくとも、この屋敷では、合理的に解釈するよりは超常現象として解釈するほうが無理がない現象が発生する。そしてそれは最後まで説明されない。しかし、この「幻想性」が、ミステリとしての物語の進行に有機的に絡んできているかというと、結構微妙なのである。(犯人が、これに「触発された」と思しき形跡はあるが。)また、いったん幻想性を離れて、ミステリとしてだけ評価してみると、この犯人の「動機」は少しも珍しくない(マイナスポイントでこそないが、ポジティブな評価には結びつかない)し、なによりも、「ある登場人物」の役割が、あまりにもつまらない(肩透かしである)という点で、高く評価する気にはなれない。

 じゃぁ、凡作か、というと、そうではないのだ。超常現象の件を別としても、この「屋敷」自体とそれを取り巻く(それこそ、幻想的な)ムードは、素晴らしい。この屋敷に(永住とは言わないが)住みたくなったのは、偽りのないところである。この雰囲気に包まれてこそ、この(いまいち凡庸な [_ _])ミステリの筋立てが、生きてくる。つまるところ、「幻想ミステリ」というより「幻想的なムードのミステリ」としては高く評価できるのであり、これが「幻想文学」の範疇に入らない、などと、狭量な主張をするつもりはない。

 以下、蛇足だが..自分の評価(読後感)が、どうも世評とずれているのではないかと自信がなくなって [;^J^]、ネット上で感想文を軽く検索してみたところ、まぁ、評価はひとそれぞれだとして、主役級のある登場人物の語る(主として美術作品や文学作品についての)「薀蓄(の量)」に辟易している人が多いのに驚いた。たいした量じゃないぜ?「霧越邸の幻想的なムード」を成立させるためには、その中に陳列されている数多くの芸術作品についての薀蓄がどうしても必要になるのだが、それは必要最低限に留められている、という印象である。むしろ、ここをもっと書き込むべきだと思ったほどなのだが..この人たちは、京極夏彦を読んだことが無いのだろうか?(あるいは、「海底二万海里」を?[^.^])

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*2010年12月07日:デューラーの「黙示録」


 先週末に東京で、「黙示録 − デューラー/ルドン」展を観てきたのだが、そこで、この展覧会の図録と、「黙示録と幻想 終末の心象風景」展(2000年、町田市立国際版画美術館)の図録、計2冊を買ってきたのだが、これは正解だった。この2冊を読み込むことによって、デューラーの「黙示録」について、かなり理解を深めることができた。

 特に前者はポストイットだらけになってしまったのだが、煩わしくない程度に引用してみよう。

「ドイツの画家たちは、ヤン・ファン・アイクによって新しい色彩概念、すなわち、光の機能を持った色彩が発見された、その瞬間から、絶対的な価値を持つメタリックな金は画家に使用可能な色の範囲から追放されたということをよく理解しなかった。金は光を反射する、つまり、光を生み出すので、絵画に表わされた光(照明光)とぶつかり合うという矛盾を抱えていたのである」(24頁)

「デューラーの黙示録版画では、テキストと挿絵は徹底的に分離され、巨大な紙葉の表面が木版画で覆われた。テキストは裏面に印刷された。こうして彼は、全く新しい種類のピクチャー・ブックを創造したのである。絵による物語であって、そのテキストを後から、または、先に読むわけである」(28頁)

「人物像と同じ、著しい現実性をデューラーは、あらゆる種類の怪物たちにも与えたのである。怪物たち、超自然的動物たちは、デューラーのファンタジーが生み出したものであるが、動物学的に納得の行く諸部分から構成されている」(29頁)

「こうして、驚くべき即物的リアリズムで表現された個々の要素が我々を超感性的な領域へといざなう、新しいタイプの絵画イリュージョンが創造されたのである」(31頁)

「デューラーは、4人の騎士を、恐怖に陥れるファランクスとして、一塊に表わした最初の画家である」(31頁)

「そこにおいて極めて重要な役割を果たしたのが木版画の線であった。このデューラー特有の「線描」があって初めて、《黙示録》が持つ超現実的な世界を極めて即物的な方法で描写するという、それまで誰も試みることがなかったデューラーの画期的な意図が表現可能になったのである」(48頁)

「そしてこの「空間嫌忌 horry vacui」の造形原理で画面を充溢するモティーフを互いに固く結びつけているのが、デューラーの「線」である。(中略)つまりこのデューラーの絶え間なく揺れ動く線は人物の衣や雲といった本来異素材の輪郭に等しく用いられることで、これらを完全に同質のものへと還元する作用がある。ところが銅版画の線ではそのような効果は出ない。(中略)銅版画では異なる素材へと各々はっきりと描き分けられ、その輪郭線は互いに混じり合うことはない」(50頁)

 ..など、など。しかし私がもっとも驚いたのは、「デューラーは、場面の展開が単調にならないように全体に緩急のリズムをつけている」と指摘している、52頁の註13である。ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲(レクイエム)」の構造と、極めて良く似ているのだ。(お暇なら、12年前に私が書いた、この曲の解説を読んでみるのも、悪い考えではない。[;^J^])また、構成だけでなく、デューラーは黙示録のテキストを逐次的に絵解きせずに取捨選択し合成している点も、ベルリオーズがレクイエム固有文をそのまま音楽化せずに取捨選択し順番の入れ替えさえ行なっていることを、想起させる。

 ベルリオーズは、デューラーの「黙示録」を見たことがあるのだろうか? まず間違いなく、あるだろう。しかし、いま私が思い出せる限りでは、回想録その他のベルリオーズ自身の文章に、デューラーに言及した箇所は無かったと思う。つまり、直接の証拠が無い以上、ベルリオーズのレクイエム(の構造)がデューラーの「黙示録」にインスパイアされていると主張するのは、無理とは言わぬまでも、限りなく妄想に近いことは否めない..

 ..が、妄想のどこが悪い [^.^]。売り物の文章ならばいざ知らず、廃墟通信のような無償の文章においては、妄想の飛翔も、ありだろう。(どこからどこまでが妄想なのか、明示さえしておけば。)

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*2010年12月08日:あかつき、金星軌道投入失敗


 ..これを、「まぁ、仕方が無い」と、片付けてはいけないのだ。6年後にリトライのチャンスがあるとはいえ、徹底的に原因を究明して再発防止策を講じておかないと、6年後にも(今度こそ、取り返しのつかない)失敗をしてしまうことになる。あとが無いのだ。

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*2010年12月09日:「天国にそっくりな星」「サハラ砂漠の秘密」


 積読の山から「天国にそっくりな星」(神林長平、1993、光文社文庫)「サハラ砂漠の秘密」(Jules Verne、1919、創元推理文庫)を片付けた。(なんでもあるでしょ、私の部屋の積読山脈には ← ほとんど自虐 [;^.^])(← すみません、月曜日の日記のコピペです。[;_ _][;^J^])

 「天国にそっくりな星」− 軽く読み流せるものを適当に探していたところ、表紙の雰囲気と内容紹介から、私立探偵もののパロディらしく思えて選んだのだが、はい、もちろん、そこは神林長平ですから [;^J^] 中盤で化けの皮が剥がれて [;^.^]、ディスカッション小説と相成りました [;_ _][;^J^]。もちろん、そのディスカッションが面白いんですけどね。

 この「星」の「真相」については、ネタバレを避けて一応伏せてはおくが、大概のSFファンには早くから見当がつく類のものであり、その意味では意外性は無い。むしろこの作品の独自性は、主人公が徹底的に前向きで楽観的で「救い難い」点である。最後までブレず、安心して読める。良くも悪くも読者にストレスを与えない作品である。読んでも損はしないよ。

 「サハラ砂漠の秘密」− ヴェルヌの作品を網羅的に読んでいないので、こういう読み残しがポツポツある。最晩年の作品であり、科学(の悪用)について、はっきりとネガティブである。

 暗黒大陸アフリカの奥地に建造された秘密要塞都市ブラックランドは、悪人の、悪人による、悪人のための都市。これを建造した天才科学者は、自らの発明品が何に使われるのか全く頓着せず知りもしない。この都市に辿りつくまでの探検行にページがたっぷり割かれており、バランスが良い。

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*2010年12月10日:温泉巡りもいいかもね [^J^]


 録画しっぱなしだった、先週の「クエスタ」(NHK)を観た。温泉特集である。

 私にはもともと温泉めぐりの趣味は無かったのだが、近年は(温泉ではないが)湯風景しおりでの日光浴にはまっていることもあり、なんとはなしに、温泉旅行をしてもいいかな、と思い始めている。その意味でも、大いに参考になった..

 ..と、言いたいところだが [;^J^]、さまざまな意味で「極端」な温泉が次々に紹介され、到底、普通の意味での「温泉案内番組」たりえていないのだが、とはいえやはり、大いに参考になった。どうせ温泉めぐりをするのなら、同案多数的な平凡な温泉よりは、こういう(話のネタになるような [;^.^])極端な温泉のほうがいい。(そういう性格なんですよ、ご想像どおり。[;^J^])

 なんといっても魅了されたのが、北海道の十勝川温泉のとあるホテルの、「気球温泉/空飛ぶ露天風呂」である! 霧に包まれた早朝の十勝平野の、幻想的で広大な風景を、上空300メートルから見晴るかす熱気球のゴンドラに、湯船が設置されているのである! これは乗りたい! 高所恐怖症であるにも関わらず..というよりむしろ、高所恐怖症であればこそ!(← 感動のあまり、混乱しております。[;^.^])お値段は5万円だが、これは少しも高くない。北海道までの往復旅費と滞在費を含めると10万越えるだろうが、それだけの価値がある。

 もうひとつ。交通手段がなく、片道8時間歩かないと辿り着けない、富山の黒部の山奥深くの仙人温泉 [;^J^]。要するに秘境でしょ。そんな素敵な場所に行かなくてどうするのさ! [^.^]

 ..もちろん、不安が一杯である。片道8時間ということは、朝の6時に出発して、休まず歩いて、14時着。1時間、温泉にはいって疲れを癒したとして、15時に現地を出発し、帰り着くのが(休まず歩いて)23時。そもそも車でアプローチできないということは、山道で、街灯などろくに設置されていないと予想される。そんな道を、深夜歩けるのか? [;^.^][;^.^][;^.^] 当然(簡易)宿泊施設があるのであろう。そこに泊まって、翌日、日中に(8時間歩いて)帰れるのであろう..(ほんとに行きたいのか? この温泉に。[;^.^][;^.^][;^.^])

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*2010年12月11日:湯風景しおり、改装


 朝いちで、りそな銀行へ。本来の用件とは別に、積立式定期預金の通帳記帳が1年近く滞っていたので、記帳機械で記帳したら..なんと、繰り越し、繰り越しで、通帳を3冊も作られてしまった。ひとつには、この通帳の中で、積立式定期預金用のページが少なく、全体の半分も使い切らないうちに繰り越されてしまうことと、詳述しないが、毎月毎月、10件近く印字されるからである。ページの消費速度が速すぎるのだ。まぁ、案件が多い分には仕方がないのだが、そのうち多くは(記帳書式を工夫すれば)2件を1件にまとめられそうな案件であり、どうにもこうにも「もったいない」としか思えないなぁ。

 引き続き西郵便局へ。いったん帰宅してからクリーニング出し。久しぶりに湯風景しおりへ。

 しばらく前から改装していた「膳処花の木」がリニューアルオープンしたので、その視察を兼ねてである。なるほど、確かに広くなった。机席が増えたなぁ..要望が多かったのだろうか。

 風邪が治りきっていないので、昼前に帰宅。(風邪をひいていようがいまいが、日光浴など問題外な季節に突入しつつあります。[_ _][;^.^])あとは暖かくして読書など。

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*2010年12月12日:「ヤノマミ」「魔人ドラキュラ」


 快晴だが、買い物にも出ずに、蟄居 [_ _]。とにかく今日中に風邪を治す、は無理としても、咳を押さえ込んでしまいたいというわけで。

 昨日は読書だったので、今日はDVD消化。

 「ヤノマミ」(NHKエンタープライズ、COBB-5730)を買ったのは数ヶ月前だったと思うが、例によって埋もれていた。アマゾンの熱帯雨林地帯に1万年前から居住している原住民の生活のドキュメンタリーである。10年に及ぶ交渉の末、ようやく、150日間の取材(滞在)が認められたもの。

 “森で産まれ、森を食べ、森に食べられる。彼らは、ただそれだけの存在として、森の中に在った”..という視点で、ヤノマミ族を捉えた記録である。さまざまな意味で感銘を受けたが、この番組だけでヤノマミ族の全貌を知り得たと考えることは、もちろん、禁物である。

 「魔人ドラキュラ」(UNIVERSAL、UJSD-22238)..おっかしーな、なんでこんなのが積読ならぬ積視聴の山の中にあるんだろう。「魔人ドラキュラ」のDVDは、大昔に購入して何度も観たはずなのに..と、調べてみたら、買い直した(買い足した)ソフトでした。いったい、なんの付加価値があって?..と、パッケージを見てみたら、「フィリップ・グラスによるサントラ(演奏:クロノス・カルテット)」だってさ [;^J^]。そかそか、そういうことか。

 ..というわけで、内容を熟知している映画を、もう一度観ることになったという次第。(音楽は − 量的に多すぎるような気はするが − なかなか良ござんした。)

 この映画に対する私の評価は、多少屈折している。好きな作品ではあるのだが、物語としての出来が良いとは思えないのである。特に気になるのが、ドラキュラ城に呼び出された不動産業者であり、ドラキュラの最初の犠牲者であるレンフィールドの役割が、よくわからない点である。ドラキュラの僕(しもべ)であることは確かなのだが、その行動基準というか目的が、ブレまくっている(としか思えない)のである。ほかにも、最初に殺されたルーシーを誰かが悲しんでいるシーンが無いとか [;^J^]、不備を数え上げればきりがない。

 にも関わらず、これらの(非常の多くの)欠点を、ベラ・ルゴシの圧倒的な存在感が、全てチャラにしてしまっている、というわけだ [^.^]。彼が、ミナ、ルーシー、ハーカーらに会う最初のシーンでの、心に染み入る名台詞を引用しておこう。「本当に死ねるのなら、死は喜ばしいことですよ(To die, be really dead, that must be glorious.)」

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Dec 16 2010
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