新・ベルリオーズ入門講座 第3講

死者のための大ミサ曲(レクイエム) (1837)



“一つの作品を残すだけで、私の全作品が破棄させられるとするならば、私は《死者のためのミサ曲》を残してもらうように慈悲を請うだろう”

(ベルリオーズ)


 この作品は、元来は1837年7月25日のモルティエ元帥の追悼式のために、ベルリオーズの支持者である内務大臣・ド・ガスパラン伯の依頼で着手されたのであるが、それが3月末の事だったのである。残された期間は、僅か4カ月! それでもベルリオーズは、いったんはやりとげた。もう無茶苦茶な突貫工事であるが、それにしては信じがたい程の完成度である。実際には破棄した旧作からの引用も多いとはいえ、後から後から溢れ出てくる楽想を書き留める暇がなく、即席の速記法を考案したという。しかもこの間、生活基盤であった批評の仕事も続けていたのであるから、もう、乗りまくっている人間には手が付けられないとしか言い様が無い。

 しかし、この初演は内務省からキャンセルされた。この時期にド・ガスパラン伯が退陣したことも有り、政治的な陰謀があったとベルリオーズは記しているが、要するに間に合いそうもなかったから、というのが真相であろう。しかしこのため、既に数回に渡って行っていた合唱練習などのため、ベルリオーズは、数千フランの借金を作ってしまっていた。これは政府が支払うべきものであるとして、彼は精力的に戦った。結局アレクサンドル・デュマに働きかけ、彼が秘書をしていたオルレアン公から、陸軍大臣ベルナールの支持を得ることに成功し、同年12月5日、パリの廃兵院で挙行されたダムレモン将軍の追悼式で初演された。



 この「死者のための大ミサ曲(以下、レクイエムと呼ぶ)」は、敬謙な信仰心を持たない、劇音楽作曲家による作品であり、レクイエム固有文は自由に換骨奪胎され、「最後の審判」を中心とする「ドラマ」として再構成されている。(故に、この作品が“実用”に供される例はまれである。)


第1曲レクイエム − キリエ
第2曲ディエス・イレ − トゥーバ・ミルム
第3曲クィド・スム・ミセル
第4曲レクス・トレメンデ
第5曲クェレンス・メ
第6曲ラクリモサ
第7曲ドミネ・イエズ
第8曲ホスティアス
第9曲サンクトゥス
第10曲アニュス・デイ

 第1曲「レクイエム − キリエ」は、定石通りの開始と言える。半音階的な下降音型が目立つレクイエムと、合唱がほとんど旋律的な動きをしない、半ば呪術的ですらあるキリエ。静寂に始まり、僅かばかりの高潮ののち、静寂に帰る楽章。

 第2曲「ディエス・イレ − トゥーバ・ミルム」が、最初のクライマックスである。まず前半のディエス・イレは、AA’A”という構成なのだが、次第に速度も音楽も切迫感を増していく。各部は、弦楽器の恐ろしく不吉なクレッシェンドの上昇音型で接続される。そして、3度めのもっとも不吉な上昇音型が上り詰めたとき、突如、全金管楽器の和音が鳴り響き、トゥーバ・ミルムに突入する! ..やがて、会場の四隅に設置されたブラスセクションが順次重なり合い、音量を増して行き、ついに8対のティンパニの最強奏のトレモロが轟き渡る!
 確かにこれは凄まじく効果的である。最後の審判の天変地異の恐怖を表現するための「物量作戦」として、これ以上シンプルで、これ以上効果的な手法はちょっと考えられない。ベルリオーズ以前にこれをやった人はいなかったし、以後もいない。出来る訳がないのである。晴れの舞台で、彼がパテントを取ってしまったのだから。

 打楽器群の地響きの上に繰り広げられるこの壮麗なファンファーレは、ひとしきり続いたあと、いったん静まる。そして今一度、シンバル群の最強奏の轟音を加えて(!)繰り返され、最後はディミヌエンドして終る。

 “バビロニア的壮大さ”を求めたベルリオーズの面目躍如、と言ったところだ。しかし率直に言って、ひたすら「やかましい」だけで、音楽的には空虚な面もあることは否めない。従って、この壮大にして空虚な楽章がベルリオーズのレクイエムの本質であり、音楽的な中心であるとするならば、(そして極めてしばしばそう見なされているのだが)この作品全体の価値は、かなり低く見積もらざるを得ないであろう。しかし、ここは全10楽章中の「第2楽章」なのである。いやしくも劇音楽のプロたるものが、開始早々、全曲のクライマックスを設定するであろうか? この楽章の真の意味を捉えるためには、全曲の設計を把握する必要がある。先を急ごう。

 第3曲「クィド・スム・ミセル」は、トゥーバ・ミルムの余韻である。低音弦楽器とバスーン、コーラングレが、最後の審判の恐怖を思い起こして(未来の追憶と言うべきか)、震えおののく。極めて短い、囁くような楽章。

 第4曲「レクス・トレメンデ」は、ベートーヴェン的な無骨さを持つ、全曲中でも最も(普通の意味で)力強く、輝かしい音楽である。再び全管弦楽が動員される。(個人的には、最も好きな楽章である。なんというか、聴いていて勇気が湧くというか、力がみなぎってくるのである。)

 第5曲「クェレンス・メ」は、無伴奏合唱による、静かな音楽である。(管弦楽の巨大な響きによる楽章と、簡素な響きの楽章を交互に配置する、というパターンが見えてきたろうか。)

 第6曲「ラクリモサ」は、会場の四隅のブラスバンドを含めた全管弦楽団が動員される、第2曲以来、3回目の(そして最後の)楽章である。第2曲と同様に「最後の審判」の恐るべき情景を描く楽章であるが、音楽的な充実度は比較にならないほど大きい。この、まさに宇宙を震憾させる、恐怖と歓喜と絶望と恍惚に満ち溢れた、凶々しくも陶酔的、美しくも爆発的な音楽こそ、レクイエムの真の中心楽章なのであった!

 形式的には、単純なABA’B’A”であり、9/8拍子が全体を支配している。主部たるAも中間部たるBも、旋律の美しさが際立っているが、特にAは、その引きつった様な独特のリズム(6拍目にアクセントがあり、5/8+1/8+3/8と見なし得る)の躍動(私見では、これはウェーベルンに先駆ける「音色旋律」である)の上に、限り無い悲哀と寂寥感を湛えた素晴らしく広大な旋律が、まず男声合唱によって歌われる。(ほとんどメロディーらしいメロディーも、リズムらしいリズムも無いトゥーバ・ミルムと、著しい対照をなしている。)

(強拍を●、中強拍を◎、弱拍を○で示す。階名の上の矢印は、その音符が、前の音符より高いか低いかを示す。)

La--------crymo--sadi--esi----------
ファ
lla-------,Quare----sur--getex--------fa
ファ
vil----la---,

 最初のAは、通常編成で奏される。Bを挟んでA’が帰ってきたときには、四隅のブラスバンドが、裏拍に不気味なアクセントをつける(が、まだ全能力は解放されない)。再び穏やかなB’。しかしその終り頃から戦慄に満ちた盛り上がりを見せ、遂に全管弦楽の咆哮と共に、A”が再現する! まさに偉大なる瞬間だ! ここにはなんのはったりも、こけ脅かしもない。巨大な物理的音響が、そのまま巨大な表現力に転化している。大管弦楽の操縦法にかけては天才だったベルリオーズにしても、希有の成果である。これに匹敵する「(内容を伴った)巨大さ」としては、「テ・デウム」の、驚くべき最終楽章があるのみである..そしてこの楽章も、トゥーバ・ミルム同様、ディミヌエンドして終る。

 第7曲「ドミネ・イエズ」で、管弦楽は通常編成に戻る。これは実に不思議な魅力に満ち溢れた音楽である。合唱は僅か二度音程を上下するだけであるが、背景の管弦楽は色彩豊かに、旋法的な歌で彩ってゆく。この「ロマンティック・バロック」とも呼ぶべき感覚は、のちに「キリストの幼時」という大傑作に結実することとなる。

 第8曲「ホスティアス」を特徴付けるのは、 神秘的な楽器法である。弱音で奏される、トロンボーン(8管、しかも正面の舞台からは遠く離れたバンダから)の低音と、フルート(3管)との和音。そしてその対話。

 第9曲「サンクトゥス」は、神々しいまでの美しさを持つ音楽である。「サンクトゥス」(テノールソロ(テノール10人のコーロでも良いが、これが採用された盤は、一枚しか知らない)とソプラノ合唱の対話)と「ホザンナ・イン・エクセルシス」(フーガ)が、ABA’B’と繰り返されるのだが、全曲を通じて高音の持続音が、天上的な雰囲気を作りだす。A、A’におけるテノールソロの美しさ! A’では、3対のシンバルの最弱音が、天使の奏楽を表現する。

 第10曲「アニュス・デイ」は、型通りの終曲。第1曲と第8曲のモチーフを中心に、これまでのドラマを回想する。第8曲で聴かれた神秘的な空間感覚が蘇る。そして8対のティンパニと、会場四隅のバンダのトロンボーンのpppの和音に包まれて、静かに全曲を閉じる。

 さて、それでは全曲の「劇的構成」について分析してみよう。実際にストーリーを持つ訳ではないが、劇音楽作曲家ならではの感覚が、この作品の構成から見て取れる。それは、「コントラスト」と「ダイナミック・レンジ」である。

 同じ性格の楽章が続く例は全く無いし、そもそも似たような性格の楽章がひとつとして存在しないのである。(前2講で力説した、「オペラティック」な「多様性」を想起せよ。)量的には、ごくわずかな楽器だけによる楽章(第3曲)、ア・カペラの楽章(第5曲)から、フル・オーケストラが駆動される楽章(第2、4、6曲)までの、様々なパターン。また、テノール独唱が登場するのは第9曲だけであるし、第8曲では不思議な楽器法が聞かれる。第7曲では雄弁なオーケストラと、動きを見せない合唱が対比される。

 全10曲の表現のダイナミックスの変化を、簡略化して図示してみよう。


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02010010805100503040150

 第2曲では、なによりも巨大な音響が必要であった。いわば、鉄鎚の一撃である。これが、この後に続く楽章群の流れのダイナミズムを生み、かつ、全10曲のダイナミックレンジの上限を規定する。これがあってこそ、静謐な楽章が生きるのである。この様な一撃は、ある意味では、音楽的に単純であるほど効果的といえる。つまり、「大音量であること以外の意味を持たない」ことの強みである。

 トゥーバ・ミルムを導く、第2曲前半のディエス・イレの、これもまた単純であるがそれだけに効果的な劇的構成(長大なアッチェランドと見なし得る)も、見逃せない。(興味深いのは、3回繰り返される間の低音のリズムパターンの変化の様子が、「幻想交響曲」の「怒りの日の場」と非常に良く似ていることである。彼はパロディを先に書いていたのであった。)暗欝な第1曲を受け、不吉に始まり、不安と恐怖をかきたてたあげく、大音響が爆発する! 第3曲はそれを追憶する呟き。これが輝かしい第4曲へのブリッジとなり、第3曲よりさらに静かな、管弦楽が完全に沈黙する第5曲へ。そして最後の大音響楽章である第6曲! 実に筋の通った、鮮やかなプランである。(第7曲以降は、若干の起伏を含んだ、長大なディミヌエンドと見てよい。)まさに、劇音楽の天才の手になる作品と言える。

 この第2のクライマックスは、何故存在するのであろうか? 私は、ここにベルリオーズのバランス感覚(というか、誇り)を見るのだ。トゥーバ・ミルムでは、管弦楽(というより、ブラスとパーカッション)は、実に単純な役割しか持たされていない。つまり、大音響を作り出す、ただそれだけである。(それが必要だった理由は上述したし、それ故に空虚に聴こえることも既に述べた。)ラクリモサは、その補償なのではなかろうか。同じ戦力(もとい、 編成 [;^J^])で、かつその編成の本質(大音響を発し得ること)を生かして、その本質のみから、これほどまでに高密度な音楽をも作り得るのだ、というベルリオーズの矜持を、ここに私は聴く。



 1837年12月5日の初演の前日の総練習には、パリ中の芸術家が、そして当日には、王族、貴賓、政府関係者、各国の大使と記者が列席した。

 圧倒的な大成功であった。これまでも「幻想交響曲」や「イタリアのハロルド」などで、若い世代を中心に広範な支持を集めていた、34歳の“風雲児”ベルリオーズは、これにより、全欧州にその名を轟かせたと言ってよい。(これは、パリ(フランス)に於ける成功とは、必ずしも結び付かないことは、のちに述べる。)


*データ

作曲年代
1837年
初  演
1837年12月5日:パリ
編  成
フルート4、オーボエ2、コーラングレ2、クラリネット4、バスーン8、ホルン12、ティンパニ8対(奏者10名)、大太鼓2、タムタム4、シンバル10対、ヴァイオリン50、ヴィオラ20、チェロ20、コントラバス18、
北側バンダ:コルネット4、トロンボーン4、チューバ2、
東側バンダ:トランペット4、トロンボーン4、
西側バンダ:トランペット4、トロンボーン4、
南側バンダ:トランペット4、トロンボーン4、オフィクレド4、
ソプラノとアルト80、テノール60、バス80、テノール独唱。
構  成
全10楽章。詳細は略。本文参照のこと。
所要時間
約90分

*推薦CD/LD

* コリン・デイヴィス/ロンドン交響楽団/他
 (日本フォノグラム フィリップス PHCP9169〜70)
 録音は古いが(69年)、演奏内容は最もすぐれている。ヒスノイズのレベルは僅かに高いが、オーディオマニア以外には関係の無い話である。ミュンシュに代表される、50〜60年代の「狂熱のベルリオーズ」の時代の空気を、今に伝える傑作録音。「テ・デウム」を併録。
* バーンスタイン/フランス国立管弦楽団&フランス国立放送管絃楽団/他
 (ソニークラシカル SRCR8985〜6)
 この演奏の覇気は只事ではない。クェレンス・メとラクリモサをアタッカでつないでいる例を、他には知らない。75年の録音。これは、LD「レナード・バーンスタインの偉大なる遺産」(東芝EMIEMIクラシックス TOLW3678〜82)にも収録されている。
* インバル/フランクフルト放送交響楽団/他
 (日本コロンビア デンオン COCO75761〜2)
* ショウ/アトランタ交響楽団/他
 (日本フォノグラム テラーク 30CD80109〜10)
* レヴァイン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/他
 (ポリドール ドイツ・グラモフォン POCG1569〜70)
 いずれも現代を代表する優秀録音。この作品の重要な要素である、オーディオ的な迫力を享受したければ、どれを購入しても間違いはない。が、些細な不満はある。インバル盤は、ほとんど完璧であるが、この演奏は何故か私のタイミングと合わないというか、「ためが足りないのではないか?」と思われる瞬間が多い。ショウ盤は、(レーベルから予想される様に)音響の喜びという意味では最高であるが、やや、見通しが良すぎる。これはレヴァイン盤についても言えることであり、ベルリンフィルの合奏力の凄味と音響効果の素晴らしさについては言うことは全くないが、あまりにも“輝かし過ぎる”様に思う。この作品の内包するドラマは、もっと暗鬱なものではなかろうか。とはいえ、以上3点、留保付きとはいえ、全て推薦盤である。
* コリン・デイヴィス/バイエルン放送交響楽団/他
 (パイオニアLDC パイオニア PILC1165)(LD)
 残念ながら、積極的には薦められない。演奏面ではこれと言った問題はないのだから、映像文献としての価値から薦められそうなものであるが、バンダの編成とその配置の妥協がはっきり見えてしまうのが困るのである。この曲においては、この種の妥協は多くのCDや実演でも行われていることなのであるが、特にCDでは録音の魔術と想像力で補えるところが、 映像ソフトでははっきり見えてしまい、 興をそぐ。これは上記バーンスタインのLDにも見られる問題点である。
 ミュンシュ盤、ベルティーニ盤、シェルヘン盤、バレンボイム盤などなど、語るべき多くの外盤については、まさに紙幅(行数)が尽きた。


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 5 1998 
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