*2009年06月08日:胃カメラ2009
*2009年06月09日:「ゴシック名訳集成 吸血妖鬼譚」
*2009年06月10日:おバカにも三分の理
*2009年06月11日:遥けき想い
*2009年06月12日:足湯をしながら
*2009年06月13日:「日本美術の歴史」
*2009年06月14日:「千の脚を持つ男」
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*2009年06月08日:胃カメラ2009


 有休取得。先日の人間ドックでのエコー検査で、十二指腸に桜の花弁のような影が見えたので、胃カメラを飲むことになったのであった [;_ _][;^.^] ..というわけで、朝っぱらから聖隷三方原病院へ。

 検査結果は、問題なし。十二指腸は綺麗なもの。食道と胃のつなぎめに「軽度裂孔ヘルニア」は見つかったが、薬を処方するほどではないとのことであった。(これは昔も指摘されたことがあるのだが、胃酸の食道への逆流の原因となり、胸焼けをもたらすのである。)なにはともあれ、これで、心おきなく暴飲暴食を再開できるというわけだ(← 違うよ。[;^.^])

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*2009年06月09日:「ゴシック名訳集成 吸血妖鬼譚」


 「ゴシック名訳集成 吸血妖鬼譚」(学研M文庫、伝奇ノ匣、東雅夫編)を遅ればせながら購入し、一読した。(昨秋に刊行されていたのを、見落としていたのである。)「クリスタベル姫」(コールリッジ、大和資雄訳)、「新造物者」(シェリー)(もちろん「フランケンシュタイン」の翻訳である)、「クラリモンド」(ゴーチエ、芥川龍之介訳)、「モダン吸血鬼」(W・L・アルデン、横溝正史訳)などが、感銘深い。「吸血鬼」(ルルー、池田眞訳)は、吸血鬼+人造人間(機械人形+生体脳)+脳移植で、終盤には大ドタバタという、サービス満点の怪作で、これは楽しい拾いものであった。[^.^]

 エッセイも数編、収録されているのだが、平井呈一の「嗜屍と永生」が流石に面白い。18世紀に繁栄したゴシック小説には吸血鬼をテーマにしたものがひとつもないこと。ゴシック小説の立地条件が、お手本のドイツ・ロマン派の恐怖小説の枠の中で、もっぱら古城や僧院という貴族的密室内の恐怖と陰謀を追うことに終始し、読者も有閑階級だったため、吸血鬼のような血なまぐさい残忍な恐怖は、はいる余地がなかったということ。ゴシック小説から半世紀たって吸血鬼小説によって、恐怖小説は貴族から庶民のものになったということ(535頁)。ストーカーの『ドラキュラ』には密閉された貴族的な恐怖は全くなく、恐怖はこの名作によって貴族から庶民の手に渡されたということ(538頁)。

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*2009年06月10日:おバカにも三分の理


 ヘキサゴンのオバカどもを見ていると、「無知」にもいくつかのパターンがあることがわかる。典型的なのは「階層構造を理解していない」というか「レベルの違いを認識していない」ことである。たとえば、「アフリカ」とか「ヨーロッパ」という国があると思っていたりする類である。これは理由が推測できなくもない。それは、「アメリカ」の存在である。この、世界一メジャーな国名は、大陸名でもあり、地方名でもあるのだ。日常的にこれに接しているオバカどもは、「国/地方/大陸」という階層構造が理解できなくなっている(というか、このような階層の異なる概念が存在することを知らない)のではないだろうか。[;^.^]

 今週の3時間スペシャルでは、新顔の辻希美が、レギュラーのオバカどもも顔負けの飛ばしっぷりを見せていたのだが [;_ _][;^J^]、新幹線の駅名を順に挙げていくクイズで、「九州」と答えていた [;^.^]。上の例と同じタイプの間違え方ではあるが、「だって、きゅうしゅう行きに乗ったことが..」、とか言い訳していた。なるほど、誤解の理由は、微妙に違うわけだ [;^J^]。「東京行き」の終点の「駅」は「東京駅」なのだし、「新大阪行き」の終点の「駅」は「新大阪駅」なのだから、これはこれで筋の通った推論のような気もするが。[;^.^]

 辻希美は、オーストラリアの南にある島を答える問題でも、「ニューヨーク!」と叫んだりしていたが [;^J^]、以前、「ネプリーグ」でも、ドナウ川の北にある国名を答える問題で、「ニューヨーク!」とやらかしていた [^.^]。こうなると、そもそも、都市名/国名/地方(地域)名/大陸名などの概念が根本的に無く、「地名」は全てフラットであって、カタカナの「地名」であれば「ここ(日本)以外の、どこか別の場所」、あるいは、「旅行のデスティネーション」という認識の仕方しか出来ないのではないだろうか [;^.^]。たとえて言えば、ニューヨーク、グアム、アフリカ、オーストラリア、ディズニーランドは、全て同格なのではないだろうか。[;^.^][;^.^]

 さらに言えば、「バカ世界地図」とか「バカ日本地図」とかが(そこそこ)話題になったりしているが、彼女には、そもそも「地図が無い」のではないだろうか。[;^.^][;^.^][;^.^]

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*2009年06月11日:遥けき想い


 40年以上も昔の想い出話である [;^J^]。今でもケロッグのコーンフレークは売られているが、当時、ケロッグ(やシスコーン)には、素敵なオマケが付いていた。小さなプラスチック製の、今でいう食玩のようなものである。(もちろん、現在の食玩とは比較にならないほど素朴なものであったが。)さすがに記憶が定かでないが、1年程度?でシリーズが切り替わっており、なかでも私は、アラビアンナイトシリーズというか、ペルシアの隊商のシリーズが好きであった。駱駝に乗った役人?や、徒歩の商人?や、そしてもちろん、豪華な天蓋の下で駱駝の背に優雅に座ったお姫様..これらの小さな人形を、床やテーブルの上に並べては、月の砂漠を旅する夢想に浸って、飽くことがなかった。(ちなみに、「月の砂漠」とは、月面上の砂漠のことではなく、月光の下の砂漠のことだから、間違えて憶えていた大きなお友達は、この機会に直しておくように。[^.^])

 それより時期的にはあとになると思うのだが、西部劇の幌馬車旅行にも憧れていた時代があった。(とにかく、砂漠とか荒野とかを移動したかったらしい。[;^J^])この頃にはいくらか知恵がついており、どうやって「冷水(やアイスクリーム)」を冷たいまま運搬するのか、頭を悩ませたものである。さすがに冷蔵庫は運べない、ということは理解できていたようだ。ペルシアの隊商の頃は、そんなことは、夢にも思わなかったのである..というか、多分、飲み食いのことを考えていなかった。幼いものだから、夢想に具体性が無かったのである。幌馬車旅行の夢には、具体性が伴っていたわけだ。

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*2009年06月12日:足湯をしながら


 (今朝アップしたばかりの)先週の日記で、手塚治虫の座談会、

アトム? あれは、ぼくのね、先代が描いたんだヨ(座談会)(かんべむさし、新井素子氏):?:いんなあとりっぷ:74/12

 ..が、国会図書館で探しても見当たらない、とぼやいたところ、とある読者の方から早速情報をいただけた。(ありがとうございます。[_ _][^J^])どうやら図録のリストには、初出年月が10年、ずれて記載されていたようである [;^J^]。来月早々に上京する機会があるので、改めて国会図書館で確認することにしよう。

 今夜は久しぶりに、外で、飲み。湯風景しおりの近くの店なので湯風景しおりで待ち合わせるのだが、いつもは車で向かうところ、もちろん帰りにはハンドルを握れないし、代行を使うのも業腹な距離(約4キロ)でもあるし、初めてのことではあるが歩くことにした。

 18:35に自宅を出て歩き始めたのだが..19:10に着いてしまった。35分かよ [;^J^]。時速6キロ以上? 途中に、やや長い下り坂があるとはいえ、そんなに速歩きだったかなぁ。Kさんと落ち合い、しばらく風呂を楽しんでから、Nという店へ徒歩で移動。(Kさんは自転車。)自宅寄りに5分ほどの距離。

 自然食系の飲み屋である。(最初に、サプリが5〜6錠、出てくる。[;^J^])面白いのは、カウンターで足湯をしながら飲み食いできることで、そもそも足湯自体、初体験であったのだが [;^J^]、下に砂利が敷かれおり、足裏の刺激も心地よく、これはなかなかクセになる。酒も料理も、なかなかのもの。

 0:50に、お先に退出して、自宅へ徒歩で帰る..行きのペースなら30分で帰れるはずだったのだが、見事に50分かかってしまった [;_ _][;^J^]。途中の(やや長い)上り坂は、理由にならない。もちろん、必ずしも真っ直ぐに歩いておらず、民家の塀や電柱にぶつかりながら歩いていたからである。[;_ _][;_ _][;_ _][;^.^]

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*2009年06月13日:「日本美術の歴史」


 「日本美術の歴史」(辻惟雄、東京大学出版会、2005)が、読みさしのまま枕頭に積まれたままだったので、片付けた。まえがきによれば、「かざり」「あそび」「アニミズム」をキーとして、日本美術史を読み解くという試みである(が、実際には「あそび」「アニミズム」に対する言及はそれほど多くはなく、「かざり」からの視点が主である)。これに加えて、「縄文の系譜」もまた、キーワードである。以下、ポストイットした個所から抜粋して抜き書きしておく。

 「仏教美術とは、一言でいって「荘厳」の芸術である」(39頁)

 「個性的で奔放な院の行状が象徴するように、院政時代の文化は(中略)変化に富んだ様相を示している。第一に、『方丈記』に要約されているような、末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に(中略)遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、“美形”を追求した時代であった。仏の相好には美形が求められ、検非違使の資格にも美形が求められた。美麗の反対が“疎荒”である。第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とはうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ/稀に見る多産で創造性に富んだ文化と美術」(141頁)

 「「信貴山縁起絵巻」と「伴大納言絵巻」に共通する、絵巻を繰る動作に合わせて場面の転換や人物の動作がダイナミックに進行する手法には、現代のアニメに通じる要素のあることが指摘されている」(153頁)

 「肖像画は、平安時代にはあまりつくられなかった。聖人や高僧以外の俗人の肖像画はない。これについては、肖像画や肖像彫刻が呪詛の対象となるのを恐れたためだとする説がある」(199頁)

 「中国の文人画観が階層意識と密着していたのに対し、日本では文人画をむしろ純粋な理念としてとらえ、身分の枠から放たれた自由な世界をそこに夢見ていた。(中略)武士と庶民とが一体となってつくり上げたのが日本の南画といえなくもない」(311頁)

 333頁では、北斎と広重の違いを、奇想に満ちた「動」の世界と叙情性豊かな「わび・さび」の世界、「縄文的」なるものと「弥生的」なるものの対比として捉え、整理している。これはこれで大変解りやすい。

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*2009年06月14日:「千の脚を持つ男」


 「千の脚を持つ男」(中村融編、創元推理文庫、2007)もまた、久しく枕頭に積まれたままだったので、片付けた。“怪物ホラー傑作選”だが、コンセプトは「ウルトラQ」であるようだ。[^J^]

 特選が、田園地帯での怪異(死体(骸骨)に腐葉土が貼り付いて怪物化する [^.^])を描く「それ」(スタージョン)と、動物や人間への殺意を持つ、血に飢えた怪物自動車を素晴らしい迫力で描く「スカーレット・レイディ」(ロバーツ)。後者は明らかに「怪奇大作戦」の「果てしなき暴走」を想起させる。

 「獲物を求めて」(R・チェットウィンド=ヘイズ)は、影のような吸血鬼ならぬ吸精鬼を扱い、「お人好し」(ジョン・ウィンダム)は、アラクネ(ギリシア神話に登場する、慢心からアテーナーに挑んで女神の怒りを買い、蜘蛛に姿を変えられたという機織りの名手)が主役。「沼の怪」(ジョゼフ・ペイン・ブレナン)は、正統派のスライム系(アメーバ系)人喰いモンスター。「妖虫」(デヴィッド・H・ケラー)は、「霧笛」(ブラッドベリ)に先行する“虫”バージョンだが、読後感が全然違う [;^.^]。「アウター砂州に打ちあげられたもの」(P・スカイラー・ミラー)では、巨大な海底人の死体が打ち上げられる..と書くと、「溺れた巨人」(バラード)を想起する人も多々いらっしゃるでしょうが、もちろん違う。「海底原人ラゴン」である。[^.^]

 表題作の「千の脚を持つ男」(フランク・ベルナップ・ロング)は、マッドサイエンティストものなのだが..まず、タイトルがダメでしょう。[;^J^](原題も "The Man with a Thousand Legs" なのだから、どうしようもない。[;^J^])しかも呆れたことに、内容は、もっとダメなのである [;^.^]。これは、クセになりますよ。[;^O^](こういうものを金を払って読んでいる自分に、粋(いき)を感じるのも、もちろん、アリだ。[;^.^])

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jun 18 2009
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