2006年09月18日:「メイド刑事」 2006年09月19日:「覚醒者」 2006年09月20日:「神鳥 −イビス」 2006年09月21日:手塚治虫の新発見作品 2006年09月22日:「日本沈没」 2006年09月23日:「骰子の7の目」 2006年09月24日:「サイバラ茸」目次へ戻る 先週へ 次週へ
未明のうちからどうもうるさいと思っていたら、7:30に起きた時点で、台風で大雨 [;^J^]。東側のガラス窓に叩きつける叩きつける [;^.^]。今日は映画にでも行こうかと思っていたのだが、これはありえないよね〜、と、ふて寝しなおしたら、なんだか徐々に静かになり、8:00過ぎに起き直したら既に小降りである。結局(晴れはしなかったものの)薄日が射す、それなりの穏やかな天気になった。
午後から街中へ。書店など。昼は天下一品のラーメン。今日のところは映画はパス。
一体全体、どうしてこんな本を買って(積んで)いるんだ、という例が多数あるのだが、本日その中から片付けたのは、「メイド刑事」(早見裕司、GA文庫) [;^.^]。設定としては、「スケバン刑事」の「スケバン」を「メイド」に置き換えたものと考えていただければ結構である。[;_ _][;^J^]
私はラノベ(ライトノベルの略称である。ひとつ知識が増えましたか)方面には疎いのだが、「少女戦闘刑事もの」の「小説」は、これまで存在しなかったのだという。ほんとかよ。だとすれば確かに盲点だったといえるし、決して「色物」「一発もの」に終わっていない、正統派のストーリー展開である。作者はあとがきで、「「萌え」ではなくて「燃え」なんだーっ!」と力説しているが、それは認めてあげられると思う。わざわざ買って読むほどの本かと問われると答えに窮するが、暇つぶし時間つぶしとしては、悪かないよ。
(備考:私はメイド喫茶に行ったことは(まだ)ありません。)
目次へ戻るこれは去年出た書き下ろしだったかな。「覚醒者」(友成純一、光文社文庫)- 九州と南洋を舞台とするクトゥルー復活譚である。
クトゥルーものについては、始祖ラヴクラフトの小説にはひととおり目を通しているものの、彼のフォロワーの作品はそれほど読んではいない。だから一般論を言える立場ではないのだが..私が読んだ限りにおいては、同案多数のワンパターンの作品が多いのである。ゴールは決まっていて「邪神の復活」だ。だからそこに至るまでの経過が勝負なのだが、そこで工夫し切れていないのである。こういうのは4〜5作読んだら飽きる。(もちろん、それ以外のパターンもあるのだが。)
「覚醒者」は、作者のホームポジションである九州と南洋、という地に足がついた設定により、なんとか一連のダルい駄作群の範疇からは抜け出しているようである。「読んでも損はしない」という以上の価値があるかどうかは、なんとも言えないが。
ちなみに、ホームレスの群れが(原因も目的も不明なまま)集結してゆくシーンがあるのだが、これは明らかに夢野久作の「骸骨の黒穂」の同様のシーンを想起させる。(「乞食の赤潮」と表現されている。そう言えば、夢野久作も九州系だ。)ただ、「骸骨の黒穂」では何の説明も解決も無いのだが、「覚醒者」では彼らが(案の定)クトゥルー召喚の呪文を唱えたりするわけである。(この呪文を暗唱できるあなたはダメ人間。[;^J^])私の場合、ここでちょっと鼻白んでしまう。なんとも安易な筋立てだと思うのだ。
アル中(及びヤク中)の幻覚シーンが効果的に織り込まれている。作者名から想像されるようなスプラッタシーンはない。(それを期待していたあなたはダメ人間。[;^.^])。「デビルマンはクトゥルーを知る以前の作品」、という、永井豪のあとがきに情報量がある。
目次へ戻る「神鳥 −イビス」(篠田節子、集英社文庫)- いまは亡き友人に譲られていた本。こういうのを何年も寝かしていてはいけないね。反省。
素晴らしい傑作である! ある女流画家が残した、朱鷺(トキ)を題材とする「幻想絵画」。一見、穏やかな画面なのだが、観るものを奇妙に落ち着かない気分にさせる、その謎の真相を追う。
一応、超自然現象が起こるので、ファンタジーのカテゴリーに入るかと思うのだが、それは“単なる”タイムスリップであり、きょうび、この程度(の日常茶飯事)ではファンタジーとは呼ばれないかも知れない [;^J^]。それよりも、題材の勝利である。これは私もずっと以前から思っていたことなのであるが..「朱鷺って、美しいか!?」..私は、恐い。飛んでいる姿を遠くから写した写真などは、美しいと思わないでもないが、アップになると、もういけない。あの顔、あの頭部!(ここで、唐沢なをきの「けだもの会社(カンパニー)」を想起したあなたはダメ人(← それはもうええっちゅうに。[;^.^]))こんなに恐ろしい姿をした生き物は、殺戮され尽くしても仕方がないと思う。(← をぃ。[;^.^])
特に後半、相当血なまぐさいシーンが続く物語なのであるが、主役コンビ(というか、ヒロインの相棒のバイオレンス作家)の軽妙なキャラが救いとなっている。また、型にはまった評論しかできず人間性にも問題があるものの、抜群の知識と情報力(取材力)を持つ美術評論家が、脇役として実に効果的に配されている。彼の存在が物語にスピード感を与えており、結果として、内容をいささかも減じることなく、コンパクトなサイズに収まっている。お薦め。
目次へ戻る先週からヤフオクに出品されていた、手塚治虫の“新発見”の作品が掲載されている古雑誌。私も一応入札はしていたのだが、全く手も足も出ず、17万1千円で落札されていきました。[;_ _]
「こどもの丘」(汪洋書房)という雑誌の、1947/11・12 月号である。「カキノユクエ」という2ページの作品が掲載されている。占領期マイクロフィルム資料「プランゲ文庫雑誌コレクション」から最近になって存在が確認された雑誌だとのこと。まぁ、データと証拠写真(該当ページと雑誌の表紙)のjpgファイルは入手できたのだから、良しとしよう。(ちなみに、この雑誌は、国会図書館には収蔵されていない。その他の図書館にはまだ当たっていないが、望み薄と言わざるを得ない。)
目次へ戻る先週の休日出勤の振替休日である。午前中から街中に出かけ、谷島屋書店、りそな銀行、昼食はべんがら横丁でラーメン。ザザシティのトーホーシネマで「日本沈没」の21:10からの回のチケットを購入し、いったん帰宅する。
トーホーシネマのチケットはインターネットでも買えるのだが、この場合は、ごく大雑把な座席指定しかできない。席の場所をきめ細かく注文したい場合は、やはり窓口に出向く必要があるのである。ちなみに「日本沈没」は、浜松のトーホーシネマでは今日が最終日。21:10というのは、文字どおり最終回なのである。夏休み前から観に行こう観に行こうと思いつつも何故か気が乗らず、「来週末に」「来週末に」と延々と先送りし続けたあげく、ついに後が無いところまで追い詰められてしまったという次第なのであった。[;_ _][;^.^]
読書や録画整理などうだうだしてから20:15に発ち、徒歩40分でトーホーシネマへ。終演は23:40..これ、結構いい映画じゃないかい? 私は気に入ったぞ。
驚くのは、冒頭、いきなり静岡で大地震がおきていて、小野寺がその現場に投げ出されていることである。私はまたてっきり、日本沈没のプロセスがかなり進んだ段階のカットバックからスタートしたのかと思った。(もちろん、そうではない。この映画では時系列は一度も乱れない。)そしてその直後の会議のシーンでは、アメリカ人の学者によって日本が沈没することが宣告される。このテンポの早さ。しかしこれはある意味当然で、監督もパンフで指摘していることであるが、観客にとって、この映画の中で日本が沈没することは最初からわかりきっているので、それが明らかになる経過を引っ張っても仕方がないのである。時間が無駄なのである。この判断は正しい。
小松左京MLなどでは好意的な意見と批判的な意見が相半ばしていたのだが、批判的な人々は、結局、「小松左京が小説に書こうとして書ききれなかった遠大なテーマが、全く描かれていない」ことが気に入らないようである。その気持ちはわかるが、これは飛んでもない(しかも多少とも筋違いの)「高望み」というものである。よく考えてみて欲しい。「小松左京が小説に書こうとして書ききれなかった遠大なテーマを、映画では描け」と言っているのである。「原作小説を忠実に再現せよ」という(良くある、無茶な)要求よりも、遙かに高水準の要求なのである。それは無理だ。
無理であるだけではなく、そのような要求に従う義理は、映画人には一切ないこともまた、当然であろう。小説と映画は違うのである。小説が得意としているが映画は苦手としていること、逆に、小説では表現しにくいが映画では表現しやすいことが厳然として存在するのであり、それらをわきまえ、それぞれの得意技を引き出すことがクリエイターの仕事なのである。
たとえば、この映画で一番問題になるであろう、「日本が沈没しない!」というラスト。小松左京のプランを至上とする立場からすれば、これだけでアウトである。「国家と国土を失った日本人の運命を描く」という本来のプランが、根底から成立しなくなる。しかし、映画としては、これは「あり」だと思う。海底に引きずり込まれていく日本列島を、海底のプレートを切断することによって沈没から救う、という筋書き(シーン)は、映画としては「効果的」だからだ。これは、「ジュラシックパーク」(1作目)のラストシーン、当初のシナリオではヴェロキラプトルだけが暴れ回るはずだったシーンに、スピルバーグが、「ここは一発、ティラノを再登場させて、ヴェロキラプトルと戦わせようぜ!」と思いついて、そのシーンをCGで追加したのと同じレベルの判断だと思う。軽薄と言えば軽薄だが、映画はそれでいいのだ。(この程度の爆発でプレートを切断できるのかとか、仮に出来たとしても地質学的時間がうんぬんかんぬんそんなに早く結果がでるわけがないとかいうのは、ご愛嬌。日本を沈没させるためにそもそもかなりの無茶な設定をしているのだから、この程度の追加案件には目をつぶらないと。[^J^])
小野寺を演ずる草なぎ剛、阿部玲子を演ずる柴咲コウ、田所を演ずる豊川悦司、危機管理担当大臣を演ずる大地真央、内閣総理大臣を演ずる石坂浩二らは、ベストキャストと言って良い。既に全国的に公開は終了していると思うが、DVDを買う値打ちはあると思う。
ちなみに、これは「パニック映画」であろうか。私は、違うと思う。なぜなら「パニック」シーンが無いからである。人々が津波から逃げるシーン、崩れ落ちる山塊から逃げるシーンはある。しかし、人々が理性を失って「パニック状態に陥る」シーンがない。映画の後半で支配的になるのは、自衛隊に守られた、整然とした避難行のシーンである。
ぶっちゃけた話、「暴力シーン」が無いのだ。これがハリウッド映画なら、略奪・暴行・集団レイプは、外せないはずだ。もちろん、ある程度秩序を失うシーンはあるのだが..飛行機に乗せてくれっ!と、群衆が飛行場の網の外側に「殺到」するシーン。しかし「殺到」といっても、「子供がいるんだから、そんなに押さないでくださいよっ! 押さないでくださいったらっ!」..という程度 [;^J^]。ハリウッドなら圧死で血みどろである。もう一個所。スーパーに日用品の買いだめに殺到するのだが、レジの長蛇の列に痺れをきらした人々が、レジを通らずにどんどん外に出ていく..これが(全編中、唯一の)「略奪」シーン [;^J^]。これがハリウッドなら(以下略)。
しかしわれわれ日本人には、全然不自然には見えないのである。実際に日本の沈没が始まったら、もう少し困った状況になるとは思うが、「しかしまぁ、大体こんなもんだろう」と思える。その意味ではなかなかリアルな描写である。しかし(海外にも売るつもりだと思うが)世界で通用するかね。この「群衆のおとなしさ」は、「世界水準」ではないと思う [;^J^]。特にアメリカ人には理解できないであろう。「リアリティが無さ過ぎる」としか見えないであろう。[;^.^]
有楽街の「いろり」で秋刀魚の塩焼きを食ってから、タクシーで帰宅。
目次へ戻る昨日、書き忘れていたこと。連雀町の谷島屋書店で久々に美術書コーナーに立ち寄り、棚を眺めていたら、河出書房新社の「骰子の7の目」シリーズが新刊で並んでいるのである。目を疑うとはこのことだ。だってこれ、30年以上前のシリーズなのである。
これは伝説的なシリーズ(叢書)と言ってよい。シュルレアリスムの画家の画集。並んでいたのは「3.ポール・デルヴォー」「4.マン・レイ」「5.エルンスト」。帯によると、あと「1.マグリット」「2.ベルメール」「6.ゾンネンシュターン」の、全6巻。旧シリーズは全12巻であり、そこから半数セレクトして新装版としたらしい。新装版といってもあとがきが1ページ追加されただけだが、「マン・レイ」の巻には、かなりの追加ページがある。購入するかどうかは、ゆっくり考えよう。
目次へ戻る昼は伝丸で黒味噌ラーメン(2回目)。なんか、もう飽きてきたかも。[;^.^]
久しぶりに富塚町のブックオフへ。西原理恵子を2冊購入(「サイバラ茸」の1巻目と2巻目)。
さて、ここで問題である。私はもちろん西原理恵子という漫画家を知っているし、その作品は、喫茶店などに置かれている単行本や雑誌でしばしばお目にかかっている。しかしこれまで自宅にはただの1冊も、彼女の著作はなかったのである。(しいて言えば、「渋松対談」「40過ぎてからのロック」(いずれも、松村雄策+渋谷陽一、ロッキング・オン)に「それはちょっといやだ」が収録されているが。)
それがなぜ問題になるのかと言うと..私・倉田わたるには、これまで単行本を1冊も持っていなかった漫画家の著作を買って、それが気に入ってしまった場合、その漫画家の「全ての」著作を、親の敵を討つ勢いで(あるいはあたかも燎原の炎のごとく)買い尽くしてしまう、という習性があるからなのである [;^J^]。このパターンにはまって、どれほど多くの金と時間と空間を失ってきたか、涙無しに語ることはできない。どうか、それほど気に入りませんように..[;_ _][;^.^]
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