*2004年09月06日:「こうもり」
*2004年09月07日:悪夢たち
*2004年09月08日:「念力家族」
*2004年09月09日:「ケルベロス第五の首」
*2004年09月10日:身を守れよ [;^J^]
*2004年09月11日:書棚入れ替え前半戦/「アイ,ロボット」
*2004年09月12日:プレゼン研修第一日
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*2004年09月06日:「こうもり」


 早朝(というか深夜、0時から2時くらいまで)、先日購入した「こうもり」(J.シュトラウス II世)のDVDを観る。ベーム/ウィーン・フィル盤(1972、UNITEL DLVC−1127)である。

 わたくし的には「こうもり」のデフォルトは、カルロス・クライバー/バイエルン国立管弦楽団のLD(1986、DG W00Z24011〜2)なのであるが、実はこの両者、演出はともにオットー・シェンクであり、細部にわたって(個々のギャグに到るまで)実に良く似ている。14年の時を距てて、全く同じ演出で再演されたものだと考えて良い。ただし歌手陣はほぼ総替えで、主人公のアイゼンシュタインのみ、同じである。エーベルハルト・ヴェヒターであるが、まぁなんとも、ベーム盤では若いこと。[;^J^](というか、クライバー盤では、ちょっと「プレイボーイ」気取りは辛いかな..という程度にお歳を召しているのであるが。)

 では、非常に近い条件(演出)のもとに、この両者を比較するとどうか。音楽的には、極力ヒイキ目にならないように努力しても、やはりクライバー盤が上だと思う。ベーム盤も、それは確かに立派な演奏なのだが、クライバー盤の躍動感に比べるとどうしても聴き劣りする。クライバー盤は(ベーム盤と異なり)ライヴ、というアドバンテージもあろう。ノリが違うのである。ベーム盤は、曲と曲のあいだにほんの少し余計な間が開くことがあり、そこで流れが途切れるのも、客席からの反応の有無と無関係ではあるまい。もっとも両者の落差が大きいのが、第2幕の「バレエ音楽」で、クライバー盤もベーム盤も、同じく「雷鳴と電光」を採用しており、バレエの演出の基本コンセプトも同じなのであるが..クライバー盤のバレエ(ダンス)の、目を奪う、まさに爆発的な活力に比べると、ベーム盤のバレエ(ダンス)の、なんとつまらないこと..流れが見えない。もたもたしている..(これは演奏や踊りの問題というよりは、カメラワークの責任が大きいような気がするが。)

 歌手陣/演技陣の実力は、総体的にみて拮抗していると思うが、上述したように、この両ソフトの実力差は明らか。どちらか一方を買いたい(あるいは、とりあえず「こうもり」を買いたい)という人がいれば、迷う余地無く、クライバー盤(もちろん、DVD化されている)である。

 では、このベーム盤には、(クライバー盤に比べて相対的に)値打ちがないのか。

 ...フフ

 ...フフフフフ...[;^.^]

 実は、ここまで述べてきた全てのディスアドバンテージを一気に帳消し(無効化)する、一撃必殺のボスキャラが、ベーム盤には存在するのである。

 それは、プリンス・オルロフスキーを演ずる、ヴォルフガング・ヴィントガッセンである。

 とにかくこれまで、クライバー盤の(ブリジット・ファスベンダーが演ずる)宝塚系の妖艶なオルロフスキーを見慣れていただけに、この巨躯肥満の怪物怪人が登場した時のインパクトは、並大抵ではなかった。もう、どっひゃーーっ!\[;^O^]/である。[;^.^][;^.^][;^.^]

 その演技も歌唱も、論評不要。観るべし、観るべし、観るべし!! ..かくして私はまたひとつ、人生の「幸せ」を増やしてしまったのであった。[^.^][^.^][^.^]

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*2004年09月07日:悪夢たち


 時々、人を殺す夢を見る。

 多くの場合、悪意も“活力”も伴わない。つまり、積極的に殺意をもって殺すのではない。大概、しょうもないことで追い詰められて、殺さなくてもいいのに殺してしまうのである。そして、ばれたらどうしようばれたらどうしよう、と、ビクビクしながら、(早晩ばれるに決まっているのに)何食わぬ顔をして生活したり人と会ったり、オフに出たりしている(または、逃亡している)夢なのである。

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*2004年09月08日:「念力家族」


 ようやく、届いた。歌集である。「念力家族」(笹公人、宝珍)である。直ちに読む。

 ああ、良いなぁ..前評判や一部の抜粋から、まず間違いあるまいと、実家の連中にプレゼントするために「2冊」注文しておいたのは、正解だった。(母は短歌を嗜むのだが、どのように反応するであろうか。[;^J^])


「注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく」

「地球儀でサッカーしている俺たちに天変地異のニュース飛び込む」

「神木に登りし兄を見つめいる村人たちの農具光れり」


 ..などが印象的だが、わたくし的ベストワンは、


「組体操のピラミッドの上に立ちたれば太陽神を拝む弟」


 ..なのであった。

 夜、友人が来て書棚を2本、持っていく。現行の(奥行きが無い)書棚5本を、(奥行きがある)書棚4本と入れ替えるプロジェクトがスタートしているのである。今週末に2本来るが、なにせ狭いアパート故、書棚及びそのコンテンツである書籍群のバッファがほとんど無く、数段階に分けて入れ替えなければならないのである。

 残り3本の(奥行きが無い)書棚も、持っていってもらう予定である。さもなくば廃棄するところだったので、有効活用してもらえるのは、本当にありがたい。(リサイクルショップに引き取ってもらう、という選択肢もあったのだが、マーチには積めないので取りに来てもらわないといけないし、上物でも無いからたいした値段はつかないだろうし、とかとかで、全然その気になれていなかったのであった。)

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*2004年09月09日:「ケルベロス第五の首」


 10日ほど前に読んでいたのだが、日記に書くのを忘れていた。「ケルベロス第五の首」(Gene Wolfe、1972、柳下毅一郎訳、国書刊行会)である。

 ..う、うぅぅう〜〜んんん..[;_ _][;_ _][;_ _][;^J^]

 正直、さほど面白くは無かったのである。なんと言っても、「SF的な高揚感」が乏しい。(「SF的な高揚感」とはなんぞや、というメタな論議はさておくとして、)これに反対する人はあまりいないと思う。では、「SF的な高揚感」が乏しい(あるいは「無い」)SFは、ダメなSFなのか? もちろん、そうとは言いきれない。私自身、「リスの檻」はあまり感心しないが、「宇宙の熱死」は好きであるし、バラードの初期の短編集は、他のどの作家の短編集よりも、懐かしく想っているし..

 「ケルベロス第五の首」とくれば“超絶技巧”らしい。この視点から、極めて高く評価されている作品であるらしい。「語り」の技巧の極致らしい。その片鱗は、私にも伺えた。早い話が、これは少なくとも●●トリックだ。それに●●●●パターンが絡む..

 しかしこれは、普通のSFファンや普通のミステリファンが普通に読んでいれば気が付くはずのことであり、「超絶技巧」の一環ではあるまい。とすると、これらにしか気が付かない私は、この作品の真価を理解し得ていないということになる。それは事実なのであろう。仕方がない。

 しかしなぁ..これに恐らく何重にも組み込まれているのであろう「トリック」が読み解けたとしても、表層的には、「こういう話」なのである。読み解けたからといって、新たな幸せが生まれるのだろうか? 喩えて言えば、現代音楽の、トータル・セリエリズムの、難解極まりない作曲技法が聴き取れたとしても、耳に入る音響には変わりはないわけで、新たな幸せが聴衆に訪れるとは(あまり)思えないのだが..もちろん、「裏の(隠された)意味」がダブルイメージで見えてくる、という喜びはわかる。(本書にせよ、例として挙げた一部の現代音楽にせよ。)しかし、「裏側」にどれほどの技巧が畳み込まれていようとも、サーフェスが退屈では意味が無い..とまでは言いたくないが..

 まぁ、SF的な幻想美も(単なる装飾レベルだとしても)あることはあるので、再読する可能性はありますが。

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*2004年09月10日:身を守れよ [;^J^]


 最近は地震が多いのだが、何日前だか忘れたが夜中に揺れた時には、飛び起きてまずしたことは、すぐ近くに(一時的に)積み上げてある本の山を、(崩れて傷まないように)押さえたことなのであった。[;^J^]

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*2004年09月11日:書棚入れ替え前半戦/「アイ,ロボット」


 10時過ぎに書棚が2本、届いた。「午前中」との約束どおりで、感心した。(当たり前のことなのではあるが、この手の約束は、平然と破られることが珍しくないのでね。)早速、床に積み上げてあった本の詰め込み作業。

 この過程で、従来の書棚(5本)に潰されていた窓に、ほとんど15年振り?にアクセスした。雨戸をロックした状態で内側から書棚で潰していたのだが..ギョッとした。雨戸とガラス窓のあいだに、藁クズのようなものが詰まっている!

 ..何かが巣を作っていた(作っている)のである。そりゃまぁ、これだけ長期間、閉じたまま放置していたのだから、この程度のことはありうるよな..とは思ったが、今ここに生き物だとか死に物だとかがいたら、イヤである。雨戸を開けようにも、雨戸のロックを完全に覆う形で「巣」が作られているので、「何もいませんように..」、と、祈りながら、ガラス窓を開け、藁クズ(巣)を割り箸でどかし、とにもかくにもロックを外した。そして外側に回って、外から雨戸を開け、巣を掻きだした。

 幸いにも、生き物も死骸も無かったが..中味の無い、小さな卵(が割れたもの)がいくつか。内側を見ると、まだ濡れている。つい最近まで、使われていたのか。何がいたんだろう? ..[;_ _][;_ _][;_ _][;^.^]

 それはともかく、部屋の中は大体片づいたので、吉野家で昼食。コマツヤでさらに2本、書棚を追加発注する。届くのは来週末。残りの(奥行きの無い)3本をこれに入れ替えたら、模様替え終了である。

 夕方になってから、バスで出動。TOHOシネマズで「アイ,ロボット」を観る。

 まずまず、という印象。若干の難点をあげると、ロジックが十分には緻密で無い。ロボットたちが、「3原則を守るために」(要は、人間を守るために)人間に危害を加えるのだが、この「矛盾」が解決されているようには見えない。SFミステリとして、ストーリーは良くできていると思うが、結局、この危険極まりない新型ロボット(NS−5)たちを待ち受ける運命がわからない。

 メインフレーム・コンピュータ(V.I.K.I.)を見ていて、なぜか、とり・みきの「DAI−HONYA」を思い出してしまった [;^J^]。それと、無意味なシャワーシーン(磨りガラス)があるんですが、どういうことですか。それだけなんですか? えぇっ!? [;^.^]凸

 ま、一見の価値はありますよ。

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*2004年09月12日:プレゼン研修第一日


 久々に、カリアック(浜名湖岸の、人里離れた田舎にある施設)で研修である。偶然ではあるが、この施設は「浜名湖花博」会場のすぐ近くであって、花博ツアー客のホテル機能も引き受けているらしい。日曜日の朝だけに、ロビーはその類の客で混み合っていた。

 さて研修は、もちろん「花博」とはなんの関係もなく、プレゼンテーションの技術を磨くためのものである。ビデオで己の姿を見て、なるほどいかにも「偉そう」なプレゼン姿であることよなぁ [;^.^] と、再認識した。研修は今日と明日の2日だけなので、そんなに簡単に結果が出せるわけが無いのだが、ま、ゲットできるだけのものは、持ち帰らないとね。

 この研修は「挙手型」という奴で、「業務命令」ではない。つまり「業務」の一環ではないわけで、今日は休日なのだが、休日出勤扱いにはならない。明日は月曜日だが、有給休暇を取得しなければならない。もちろん、私個人の意志で参加しているのだから、そんなことは全然構わないが、その関係からか?カリアックに「宿泊」できないのは、残念である。東京等の遠隔地から参加している社員は、もちろん宿泊できるのだが、ジモティーは「通い」である。つまり、今夜の晩飯も出ないのだ。くーーーっ、残念。カリアックでの(宿泊)研修の恒例であるところの、晩飯後のラウンジでの酒盛りで、タダ酒を浴びるほど飲めるかと思っていたのに〜〜。[/_;][/_;][/_;][;^.^]

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Sep 17 2004 
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