*2002年04月15日:昼夜逆転失敗
*2002年04月16日:住めば都
*2002年04月17日:「原典版」考 その一
*2002年04月18日:「原典版」考 その二
*2002年04月19日:寂しい宇宙、寂しい島
*2002年04月20日:エントロピーの法則 その一
*2002年04月21日:エントロピーの法則 その二
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*2002年04月15日:昼夜逆転失敗


 午前4時前にタクシーで帰宅。今日は代休取得済みなので、せっかくだから [;^J^] 昼夜逆転しておくことにする。学生時代には、空が白みはじめてから寝るのは、珍しくもないことだった。ちょっとノスタルジアしてみたいというわけ..

 ..で、6時を回って、チュンチュンと鳥の声が聞こえきてから布団にもぐり込み..10時過ぎに起床。

 こんなに早く起きてしまっては、昼夜逆転にならないのだが..よく考えてみたら(学生時代はともかく)今の私は、連続4時間以上眠ることができない(普通は2時過ぎに就眠して6時過ぎに起きている)体質なので、昼夜逆転というのは至難の技なのであった。残念無念。

 午後いっぱい、読書など。

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*2002年04月16日:住めば都


 エッシャーの絵が好きである。それも、後期の(誰もが知っている)幾何学的なトリッキーな作品よりも、初期の“普通の”風景画、なんの仕掛けもない山岳都市の風景画などが。

 それらの小都市の(しばしば迷宮を想わせる)“構造”自体が、私を魅了するのだ。本当に、何時間見ていても見飽きることがない..(しかし近年は、一枚の絵に何時間も“入り込む”ような、そんな贅沢な時間の使い方は、到底できなくなってしまった。他にやりたいこと、やらなければならないことが、山積しているからだ。本当に残念でならない..)

 実は私の住まうアパートの近くも、(上記の意味で)ちょっとエッシャーしている。とはいえ無論、迷宮などではない。ただ、妙な高低差があり、狭い住宅街の中の道の走り方が、意表をついている。突然(脈絡もなく)小公園が現れる。道がいきなり階段になる..

 このエリアの北側は、小さな湖へ流れ込む小さな川を有する平地(というか幅の広い谷底)であり、私が住んでいる一角は、この平地に小高くせり出している、ちょっとした台地の上にある。高低差の一番きついところにある道は、運動不足の脚にはかなり苦しい急勾配であり、自動車は通行止めである。難攻不落、守りは堅い。世が世ならば [;^J^]、ここを要塞化できるはずである。

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*2002年04月17日:「原典版」考 その一


 数年前に話題にしたかも知れないが..クラシック音楽の世界では、「原典版」ばやりである。作曲者が作成した、一番最初の楽譜を探し出してきて、それを演奏するのである。のちに何度も書き直され修正された版よりも、一番最初の版の方を有り難がるのである。

 冷静に考えてみて欲しい。これがいかに異常なことであるか。(時には生涯かけて)作品を練り上げ磨き上げ続けた作曲者にたいして、いかに失礼なことであるか。「作曲者の初心の若々しさ」を尊ぶ向きもあるが、逆に言えば「まだきちんと仕上がっていない、荒削りな作品」なのである。こんなものを演奏されて喜ぶ作曲者がいるであろうか? 著作者人格権はどうなっているのだ?(いや確かに、とっくの昔に期限切れですけどね..)

 無論、例外的な事態はあるであろう。作曲者が(自身の意志というよりは)外的な条件に妥協して改訂した場合など。しかしそれとて(例えば、他人の意見を参考にしたからといって)一概に「改悪」とは呼べないはずだ。少なくとも「考えた末」の変更である限り。

 音楽に限った話ではない。例えば漫画。

 「原典版」と「改訂版」の差が著しい例として、手塚治虫が挙げられる。作品リストを作製する過程において、手塚治虫の漫画作品の初出誌版の大部分を閲覧している私だから言えることなのであるが、「ほとんどの場合、初出誌版が一番出来が悪い」のである。のちに描き直して単行本(全集等)に収録されたものの方が、遙かに出来がよい。

 典型的な例が、「鉄腕アトム」である。これは初出誌版(「少年」誌連載)と(各種)単行本版の差が著しい作品なのであるが、連載時のバージョンは、かなりギクシャクしているのである。話の流れがスムースでない。時には矛盾している。ストーリー展開上の重大な判断ミスがある、などなど。これらが、単行本では修正されているのである。

 当然、単行本版が優れている。未来に残すべき「鉄腕アトム」は「単行本版(全集版)」であって、断じて「オリジナルバージョン」ではない。(研究用・資料用として「オリジナルバージョン」を残すべきことは、もとより言うまでもない。後世の人々の観賞に適するのはいずれか、という問題である。)にも関わらず、例えば唐沢俊一は、「初出誌版の方が(断然)優れている(ので、どんどん復刻すべきである)」と断言しているのだが、一体、どこに目をつけているのだろうか?

 補足しておくと、作品(物語)としての「初出誌版」と「改訂版」の優劣ではなく、「改訂版の“描線”が気に入らない」、という視点(問題提起)はありうる。夏目房之介が繰り返し主張していることであるが、手塚治虫の描線は、1950年代から60年代前半にかけての「植物的なエネルギー」を、1970年代以降失ってゆき、直線志向の、すっきりした(コクの無い)線に変化してゆく。恐らくは時代の変化に追随した結果であるし、また、効率を重視した結果でもあろう。しかしだからこそ、(時代の変化をフォローしているが故に)未来に向かって通用するのは「改訂版(の描線)」であるとも言えるのだ。

 さらに、作曲者の例で述べたような「例外的な事態」は、ここでも起きているであろう。例えば、単行本収録時にページ数の関係で縮めた(または延ばした)、あるいは版型が変わったのでコマやページの構成を変えた、などなどの、“やむを得ず”施された無理な変更である。これらは「改悪」であることも、しばしばあろう。しかしこの場合でも、やはり全てが「改悪」であるとは言えない。(こういう“逆境”を逆手にとって作品に生かせるからこそ、手塚治虫は超一流であるとも言えるのだ。)例えば、大幅に短縮せざるを得なくなってエピソードをいくつも刈り込んだ結果、物語の見通しがかえって良くなった例は、いくつもある。

 唐沢俊一は、自分の原稿のオリジナルバージョンを発掘されたいのだろうか? 単行本に収録する時に、手を入れないのだろうか? 少なくとも、誤字脱字の訂正くらいはするだろうに。

 例えば、私の文章。「「2001年宇宙の旅」の真相」にしても「「ゴジラ」の秘密」にしても、最初にネットニュースに発表したバージョンと、現在ウェブページで公開しているバージョンは、異なるのである。これらのオリジナルバージョンを、後世の倉田わたる研究家 [;^J^] に発掘されるのは、非常に不本意である。(ネットニュースに流してしまった以上、世界のどこかでCD−ROMに焼かれているのは、避けられないことではありますがね。)自信を持って人さまに提供できるのは、常に「最新版(最終版)」のみ。それは、手塚治虫だろうがベルリオーズだろうが倉田わたるだろうが、少しも変わるところは無いのである。

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*2002年04月18日:「原典版」考 その二


 昨日の続き。

 そもそも、「原典版」が問題になるのは、どういう世界か。昨日は、まずクラシック音楽の例を挙げたが、実はクラシック音楽の“ごく一部”という方が正しい。クラシックファンであればすぐに思いつく例が「ブルックナーの交響曲」であるが、一般に、どのような作曲家のどのような作品であっても、楽譜は一意に確定していない。(つまり、何種類もある。)普通は、いく種類もある楽譜のうち、もっとも流布している版か、もっとも権威がある版(作曲者が信頼していた出版社から出版されている楽譜、または、後世の研究者が調査し修正した楽譜)を使って演奏(レコーディング)するのであるが..事態はそれほど単純でもない。作曲されて以来、演奏されるたびに(その時々の歌手やオーケストラの条件に合わせて)楽譜が修正されるオペラなどは、どの楽譜をもって「正式版」と言えるのか、そもそも定義のしようが無い。また、(権威ある出版社から)出版されている場合でも、作曲者がそこに書き込み(修正)を施すことは珍しくもない。そしてまた、その書き込みが一種類しか無いのならまだしも..

 しかし普通は、こういう事情をたいして問題にはしないのである。(「大人の態度」と、言って言えなくはない。)昨今、やたらと「**版」が喧伝される傾向にあるのは、(無理矢理な)話題づくりという側面も、確実にある。

 音楽界以外に目を転じよう。文学界。ここにも当然、さまざまな「版」があるのである。極端な例をひとりだけ挙げると、久生十蘭。彼の作品は、初出誌と単行本で(全面的に書き替えられた結果)全く様相が異なることすらある。しかし私は、「久生十蘭の「**誌」版」という言い方を聞いたことが無い。(知らないだけかも知れませんが。)小栗虫太郎の版問題も深刻であるが、しかしやはり一般読者のあいだでは、さほど問題にもされていないようである。別に久生や小栗らに限った話ではない。著作者が手元の「手沢本」(あるいは初出誌)に朱を入れまくるのは普通のことであるが、それを単行本の出版時に反映させるか否か。原理的には、新しい版が起こされるたびに、内容は異なっている可能性がある。にも関わらず(繰り返すが)「**版」という呼び方は、珍しいと思う。問題視するのは研究者だけであって、一般の読書人は、こんなことには興味を持っていないのだ。

 同様のことは、恐らく美術作品についても言えると思うが、いったん発表された美術作品に手を入れることがどのくらい頻繁に行われているのかを知らないので、ここでは無理せず、口をつぐんでおく。

 映画作品についても同様である。映画については、初公開後に実にしばしば頻繁に、「完全版」「オリジナル版」「ディレクターズカット」などなどが発表され続けることは知っているが、もともと怠惰な映画ファンである私は、それらの異版を滅多に見比べたりしないので、「最終版(あるいはオリジナル版)が一番いい」などという結論を、一般論としては到底言えないのである。(ほとんど唯一、いくつもの版を観、手元にそれらのソフトを確保しているのは「ブレードランナー」であり、これについては、どの版が一番いいか、という話をすることは出来るが、それを一般論に拡張することは、とても出来ない。)

 漫画については、(昨夜は手塚治虫の例を出したが)「初出誌版」との違いが問題になることが非常に多いように思うが、どうであろうか? やはり問題視しているのは、一部のマニア(オタク)だけなのであろうか..?

 ..とまぁ、昨夜も今夜も全然まとまらないが、取りあえず議論の材料の提示のみ。

 (なお、昨夜は、「一般に、オリジナル版よりも最終版の方が優れている」という結論に引っ張ったが、公平のために、反例も挙げておこう。「デビルマン」(永井豪)である。取りあえず、講談社から出ている文庫版が「最終版」と見なせるが、この作品については明らかに、これに先行する「講談社コミックス版」の方が優れている。本来のオリジナル版である初出誌版は、未読であるが。)

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*2002年04月19日:寂しい宇宙、寂しい島


 またかと思われるでしょうが、「ジュラシックパーク」からネタを振ります。[;^J^]

 昨年公開された「ジュラシックパーク III」(2001)(以下、JP3)は、確かに素晴らしい映画であった。しかしそれでもやはり、初代の「ジュラシックパーク」(1993)(以下、JP)には、遠くおよばないのである。それは何故か。

 技術的には、遙かに卓越しているのだが..やはり、「このアイデアを最初に実現した」作品には、かなわないのであろうか。その側面は確実にあろう。しかし、それだけではない。分析してみるに..JPの脚本は、非常に「出来が悪い」のである。そしてそこに、「マジック」が隠れているように思われてならない。

 JPでもっとも不自然なのは、「あの島の滞在人数が少なすぎる」ことである。思い出して欲しい。結構な規模の施設(研究所とテーマパーク)の建設が、半ば終わっているにも関わらず、「台風が接近している」という理由で、要員がほぼ全員、島から退去してしまうのである。あの規模の設備を維持するためには、最低でも数百人は必要であろうに..しかもことも有ろうに、大事な(パイロット)ツアー客が、まだ帰ってきていないというのに、僅か数名の管理職を残して、全員が島からいなくなってしまう。(そもそも、台風が近づいているのならば、船なり飛行機なりで島を離脱するより、島に滞在している方が安全である、という点については、突っ込まないでおく。話が発散するから。[;^J^])もちろん、主人公たちだけを、あの「恐怖の島」に置き去りにするための便法なのだが..

 この違和感! この非現実性! この“人工的な”小宇宙! そしてこれこそが、JPの“幻想美”の源泉だと思うのだ。

 続編、「ロストワールド/ジュラシックパーク」(1997)からは、この感覚が早くも失われている。あの島に滞在するのは、ハンターたち数十名プラス主人公グループ数名であるが、この人数は完全に“正確”であり“現実的”である。“少なすぎる”ことは、絶対にない。(そもそも「無人島」に「探検(狩猟)」に行くのであるから。)JP3も、事情は同じ。そこには(少なくとも“滞在人数”に関しては)なんの違和感もない。違和感に起因する、夢のような(悪夢のような)ムードも無い。

 「ファンタジー映画の設定は、非現実的である方が(非現実的でありさえすれば)良い」、などという、単純な話でも無い。JPの“異常に”滞在人数の少ない「恐竜島」の魅力は..その、奇妙な“寂しさ”にある。

 どう考えても、あの設定のあの島に、あの人数ということはあり得ないのだ。そこに“寂寥感”が生まれる。

 私は、それに魅了されるのだ..それは恐らく、私の「ノスタルジア回路」を励起しているのだ..(「宇宙の狭さ」のノスタルジアについては、さらに丁寧に論じたいので、日を改めよう。)

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*2002年04月20日:エントロピーの法則 その一


 休日出勤の途上の事件。

 走行中、ふと気が付いて、自家用車(マーチ)の運転席から右側を見た..そこには不思議な“もの”がいた。回転する丸い物体。奇妙なことに、マーチと完全に併走している。つまり、相対速度が一致している。そしてそれは徐々にマーチから離れて、反対車線を越え、反対車線の向こう側のガードレールも越えて、道と並行して走っている、幅も深さもかなりある川の中へ、(そしてその先でこの川が道路の下にもぐり込んでいる暗渠の中へ)飛び込んでいった..

 ..あれは一体、なんだったのだろう?

 すぐに思い出したのは「すねこすり」であるが..しかしこれは、旅人の足元にまとわりつく(からみつく)妖怪であるはず。車と併走する、という例は(あるのかも知れないが)記憶に無い..

 ..嫌なことを思い出した。何故、これに“気が付いた”のかと言うと..小さな“音”が聞こえたからなのであった。コンッ、という、金属的な音..それともうひとつ。マーチのホイールのキャップは、填め込んでいるだけであって、一度でもタイヤ交換をしたりすると、緩んで抜けやすくなるのであった..

 ..まさか、今のは..?

 不安に苛まれながら車を走らせ、15分後に会社に着いた私は、右後輪を哀しく確認したのであった..(どこぞの道端に落としたのであれば拾いにいくのだが、上述のとおり、極めてアクセスしにくい場所に転がり込んで行ったのである..)

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*2002年04月21日:エントロピーの法則 その二


 今日も休日出勤。昨日と異なり、日中はネタになる事件なし。帰宅して、晩になってから飲み食いに出ていった先でも、ネタは無し。

 深夜に帰宅して、ビデオを観ていたら..壊れた [/_;]。音声は生きているが、突然、画像が映らなくなった。まいったなぁ..

 まぁ、大昔に買った(再生専用の)安物である。多分、修理をしても割に合わない。それに実は(多分)明日、ヤフオクで落札した某ビデオが届く。検品と返事(礼状)書きは、即日済ませたい。つまり、のんびり(数週間かけて)修理している暇など、無いのである..

 ..買うか。明日、ジョーシンだ。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Apr 24 2002 
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